Archive for category テーマ

Date: 12月 7th, 2013
Cate: 書く

毎日書くということ(一年千本)

2008年9月から、このブログを書く始めた。

書き始める前は、一日三本書けば、一年は365日あるから千本以上書ける。
毎日三本は無理だとしても、一年あたり千本ずつ書いていくことは割と簡単じゃないか、
そんなふうに思っていた。

最初のころは三本以上書いている日もある。
これならば余裕で千本、と思っていたら、そうたやすいことではなかったことに気づく。
一本しか書けない日もあった。

一本しか書かなかったら、次の日は前の日、書けなかった二本を追加して五本書けばいい。
だけど、そんなふうにはなかなかいかない。
たいていは忙しかったりすれば、次の日も一本だったりする。
そうなるとその次の日に、七本書かなければならないことになる。
こうなってくると、一年千本は意外に大変だということに、やっと気づいた。

もう丸五年書いている。
いままで一年千本書いている年はない。

昨年12月11日に3000本目を書いている。
今年の12月10日までに4000本目を書ければ、
はじめて一年千本を書けたことになる。

この前の記事が4000本目である。
三日残して、やっと千本書けた。
五年目にして、である。

来年の12月6日に書く分が5000本目になるのかどうかは、いまのところなんともいえない。
でも、一年千本書くつもりである。

Date: 12月 7th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(JBL 2397+2441・その3)

私にとってのJBLといえば、1970年代までのJBLが、まず第一にくる。
パラゴンやハークネス、ハーツフィールドといったコンシューマー用のスピーカーシステム、
4300シリーズのスタジオモニター、
そして数々のユニット群、その中でも四桁ナンバーであらわされるプロフェッショナル用ユニット、
とにかく、JBLといえばこれらのことが、なんといってもJBLである。

このときまでが、JBLのピークのひとつだったように感じている。
だから、この時代のJBLと縁がなく人生をおくってきた私は、
少なくとも、現代のJBLとは縁があるかもしれないけれど、
私にとってのJBL、といえる時代のJBLとは縁がないものだ、と思うようになっていた。

それでもD130への想いは、
40をすぎたころから芽生えはじめ、「異相の木」として意識しはじめたことで、
D130だけは、いつかは自分のモノとしたい、そう思うようになっていた。

とはいえD130もとっくに製造中止になっているユニット。
未使用品が手に入る可能性はないわけでもないだろうが、
そういうものはいまどきではかなりの値がつく。

想いはつのっていっても、手にすることはたぶんないだろう、ともなかば諦めの気持もつのっていた。

そんなときに「Harkness」が私のところに来た。
D130が入っている、岩崎先生が鳴らされていたハークネスである。

今日、私のところに2397と2441が来たのは、
「Harkness」が呼んできたようにも感じている。
私のところに、JBLのモノが何ひとつなかったら、
今日、ここに2397と2441はやって来なかった気がする。

JBLがJBLを呼んだ。
こういう縁は、ほんとうに趣味の醍醐味のひとつであるはずだ。

Date: 12月 7th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(JBL 2397+2441・その2)

2397にコンプレッションドライバーを取り付けるには、
スロートアダプターが必要になる。
2397だけでなく、ラジアルホーンの2350、2355もスロートアダプターが必要である。

スロート径が2インチの2440、375であれば2328というスロートアダプター、
スロート径が1インチの2420、LE175、LE85を取り付けたいのであれば、
2328に2327というスロートアダプターを取り付けることになる。
スロートアダプターがコンプレッションドライバーとホーン間にふたつ入ることになる。

仮に2397を手に入れたとしても、
LE175を取り付けるには2328と2327を手に入れなければならない。
なんとなくではあるけれど、スロートアダプターの二段使用は積極的にやりたいと思わない。
2397ならば、やはり2インチ・スロート径の2440か375ということになる。

どちらもいまでは製造していない。
中古を探してくるしかない。
そんなこともあって、2397にはそれほどの強い思い入れはなかった。

なかった──けれど、縁というのは不思議なものだと、いまは思っている。

「Harkness」の上に2397がのっている。
まだコンプレッションドライバーは取り付けていないが、
コンプレッションドライバーもある。

2440ではなく2441がある。
スロートアダプター2328もある。
さらには2397に2440、375を二発取り付け可能にする2329もある。

2441は未使用品である。

これまでJBLのスピーカーとは、個人的には縁がなかった。
ステレオサウンドにいたころは、試聴室ではよくJBLのスピーカーシステムを鳴らすことはあったし、
周りにJBLのスピーカーを使っている人は多かった。
けれど、私自身は、イギリス系のスピーカーが好きなこともあって、
別に遠ざけてきたわけではないけれど、縁はなかった。

Date: 12月 7th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(JBL 2397+2441・その1)

ステレオサウンド 38号の84〜85ページの見開き、
岩崎先生のリスニングルームが載っている。
中央にパラゴンがある。
パラゴンの両翼にはアルテックの620Aが置かれている。
こう書けば、いちどでも、この写真を見ている人ならば、
ああ、あの写真(リスニングルーム)か、と思い出されることだろう。

この岩崎先生のリスニングルームの写真をよくみると、
ハークネスが写っているのがわかる。
パラゴンの両脇に、隠れるようにハークネスがいる。

このハークネスが、いまは私のところにある「Harkness」である。

岩崎先生のリスニングルームでは、ハークネスの上にJBLのホーン、2397が載っている。
ハークネスの上に2397。
様になるコンビだ、と思って写真を見ていた。

「Harkness」が来てから、いつかは2397を手に入れるときがきたらいいなぁ、
そんなことを夢想していた。

別にいま「Harkness」についている175DLHに不満があるわけではないし、
むしろ175DLHは、家庭で近距離で聴く場合において、
あれこれ文句をつけることはできるのはわかっていてもなお、良くできたホーンシステムである。

だから、どうしても2397が欲しい、というわけでもなかった。
それに2397を手に入れれば、コンプレッションドライバーも、ということになる。

Date: 12月 6th, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その14)

メリディアンのM20の音を聴くたびに、
そんなことは邪道であるとわかっていても、
トゥイーターがLS3/5Aについてるのと同じKEFのT27だったら……、と思ってもいた。

そうすればLS3/5Aの、神経質ともいえる魅力がM20に加わる。
トゥイーター単体としてみればM20についているトゥイーター(おそらくKEF製)のほうが優れている。
T27固有の、ときに神経質的に響く印象につながるキャラクターは、まず感じられない。
それだけクセの少ないトゥイーターといえるわけなのだが、
個人的に魅力的と感じるかどうかとなると、T27をとる。

T27にM20のトゥイーターを交換するぐらいなら、
LS3/5Aをマルチアンプ駆動したらどうか、といわれるかもしれない。
こうやって書いているから、こんなことを思いついたのだが、
当時はLS3/5Aをマルチアンプ駆動しよう、などとはまったく考えなかった。

M20のトゥイーターの交換は、けっこう真剣に考えていたのに、
LS3/5Aのマルチアンプ化はまったく考えなかったのは、
LS3/5Aが、そういうスピーカーシステムである、という認識が私の中には強くあったからなのかもしれない。

M20のようにメーカーが最初からマルチアンプ駆動しているものはすんなり受けとめても、
イギリスの、ことにBBCモニターの流れを汲むモノを自分で鳴らすとなると、
マルチアンプで鳴らそうなんてことは、考えもしなかった。

たとえばスペンドールのBCII。
これも好きなスピーカーであるし、BCIIを鳴らすシステムをあれこれ夢想していたこともある。
スペンドールのD40で鳴らしたら……、それから一度試したことのあるラックスのLX38との音、
そんなことを思い浮べながら、他のアンプ候補を思い浮べては、どんな音が鳴ってくれるのか想像はしていても、
マルチアンプで鳴らす想像は一度もしなかった。

Date: 12月 6th, 2013
Cate: 程々の音

程々の音(その1)

オーディオマニアだという自覚はある。
なにをもってオーディオマニアというのか、それについて考えていくと、
あれこれ書いていくことになりそうだから、そのへんはいっさい省いて、
オーディオマニアだということから話をしていく。

オーディオマニアだから、オーディオというメカニズムにも心惹かれてきた。
それもそうとうに強く、である。
中学生のときから読み始めたステレオサウンドを読みながら、
いつかはJBLの4343、マークレビンソンのLNP2とML2、
EMTのプレーヤーを自分のモノとしたい、と思うくらいに、
そういったオーディオ機器への憧れも強くあった。

だからといって、そういったオーディオ機器にばかり目がいっていたわけでもなく、
そういうオーディオの世界だけに憧れていて目指していたわけではない。

憧れ、という意味では、むしろ4343にマークレビンソンのアンプの組合せ、といった世界よりも、
対極に位置するようなオーディオの世界にこそ、憧れがあった。

私が最初に買ったステレオサウンドは41号。
これと同時に買ったのがステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
組合せの一冊であり、
単にオーディオ機器の組合せで終るのではなく、
コンポーネントを設置する部屋(リスニングルーム)についても、
最後のほうにカラーページを使って、いくつかの例が紹介されていた。

そこにタンノイのコーネッタがある部屋が載っていた。
ここでいうコーネッタとは、
ステレオサウンドによるコーナー型のフロントショートホーン付バスレフ・エンクロージュアのこと。
ユニットはタンノイの10インチ同軸型ユニットを用いる。

Date: 12月 6th, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その14)

スピーカーケーブルやラインケーブルを部屋の真ん中を這わせないようにする。
そうすればたいていの場合、ケーブルの長さは真ん中を這わせるよりも長くなる。
それだけでなく、ラインケーブル同士が交叉したり平行になったりする。
スピーカーケーブルとラインケーブルが平行になることはあまりないだろうが、交叉することはあるし、
さらに電源コードの近くをスピーカーケーブルを這わせることにもなる場合がある。

そうなればケーブル同士の干渉が起るし、それにより音質の劣化は生じる。
ならば部屋の真ん中をケーブルを這わせた方が音はいいのに、なぜ?
と思う人がいるだろうし、そういう人は部屋の真ん中を這わせている人ではないだろうか。

菅野先生は、部屋の真ん中をスピーカーケーブルが這っている人の音を、
悪い、とはいわれなかった、と記憶している。
「まともだったことはない」──、そういうふうにいわれた。

菅野先生はレコード演奏家論を提唱されている。
オーディオマニアをレコード演奏家としてとらえた場合に、
スピーカーケーブルを何の恥じらいもなく、
むしろ堂々と部屋の真ん中を這わせている人(レコード演奏家)は、
演奏家としては、テクニックだけに終始するタイプということになる、と受けとめることもできる。

少なくとも、私は菅野先生がそういわれるのをきいていて、そう思っていた。

Date: 12月 5th, 2013
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その37)

1988年の夏ごろ、フィリップスからノーノイズCDが登場した。
一回目が15枚、二回目以降は8枚ほど発売になっていた。
クラシックを聴いていた人ならば、このうちの数枚は耳にされているかと思う。

ノーノイズ(NO NOISE)はフィリップスの登録商標で、
それまでのアナログによる信号処理では除去できなかったノイズを、
デジタル信号処理によって除去するものである。

このデジタルノイズリダクションシステムは、
アメリカのソニック・ソリューションズ(Sonic Solutions)によって開発されたもの。
具体的にどういうふうに処理をおこなっているのか、技術的なことを知りたい方は、
ラジオ技術1988年6号にくわしい記事が掲載されている。

ステレオサウンドでは、岡先生が88号に5ページにわたる記事を書かれている。

いまでは個人が所有するパソコンでも簡単に短時間で処理できることでも、
1988年当時の処理能力では、このノイズ除去処理は大変な作業であったことがわかる。

このノーノイズCDが登場したときはまだステレオサウンドにいたので、
試聴室で第一回新譜は聴くことができたし、
このノーノイズCDのサンプラーも、
そして特典として用意されていたR.シュトラウス指揮のベートーヴェンの第五交響曲も聴くことができた。

すべてではないが、いくつかのノーノイズCDは購入もしている。

Date: 12月 5th, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その13)

ケーブルは原則として、同じケーブルであれば長いものよりも短い方が、音質的には有利といえる。
線間容量も短ければ小さくなるし、
直流抵抗、その他の要素にしても長いよりも短い方が有利であることは確かである。

それにずっと以前に比べていまでは外部からのノイズの混入という点からしても、
長いケーブルよりも短いケーブルの方が有利といえる。

ならば各オーディオ機器を最短距離で接続するのは、
音質的には有利と考えがちになる。

たとえばCDプレーヤーを聴き手の真ん前に置く、
コントロールアンプはCDプレーヤーの真後ろに置く、
パワーアンプはコントロールアンプの真後ろに置く。
つまり左右のスピーカーのセンターに、
CDプレーヤー、コントロールアンプ、パワーアンプが直線上に並ぶわけだ。

こうすればCDプレーヤーとコントロールアンプ、コントロールアンプとパワーアンプ、
パワーアンプとスピーカーシステム、それぞれを結ぶケーブルはもっとも短くてすむ。

使い勝手はよくない。
見た目もあまり芳しくない。
けれど音質優先の配置だ、と胸を張れるだろうか。

こういう設置も一度試して、その音を聴いておくことは、
やる気があればやってみた方がいい、と私はすすめる。
けれど、そのままで聴くことはすすめない。

Date: 12月 5th, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その12)

何年前のことになるだろうか、
菅野先生が、強い口調で話されたことがあった。

「部屋の真ん中を大蛇のようなケーブルが這っているところの音がまともだったことはない」と。
細部まではっきりと記憶しているわけではないが、このようなことをいわれたのははっきりと憶えている。

菅野先生はステレオサウンドの企画、ベストオーディオファイル、レコード演奏家訪問で、
多くのオーディオマニアのリスニングルームを訪問されている。
それだけではない、他のオーディオ雑誌の企画でも訪問されているし、
記事にならない訪問も決して少なくないはずだ。

その菅野先生が断言されている。
菅野先生が断言されなくとも、私も、
私なりの体験(菅野先生にくらべると桁違いに少ないのだけれども)、
同じことは感じていた。

音質最優先ということで、
大蛇のようなスピーカーケーブルを併記で部屋の真ん中を這わせる人もいるし、
天井からぶら下げている人もいる。

こうした方が音がいいから、とその人たちはいう。
その人たちにいわせれば、こうした方が音がよかったのだから、
菅野先生が言われていること、私もそう感じていることには納得できない、となるだろう。

Date: 12月 5th, 2013
Cate: audio wednesday

第36回audio sharing例会のお知らせ

1月のaudio sharing例会は、1日(水曜日)です。
ほかの日に変えようかと考えましたが、喫茶茶会記が年中無休ということですので、
毎月第一水曜日ということを変えることなく、正月早々1日に行います。

時間はこれまでと同じ、夜7時の予定ですが、
6時からにするかもしれません。時間については今月末にもう一度お知らせします。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 12月 4th, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その11)

スピーカーケーブルやラインケーブルに、非常に高価なモノが登場しはじめたことと関係しているのか、
オーディオ雑誌に登場する人のリスニングルームで、
部屋の真ん中を太いケーブルが大蛇のように這っている写真をみかけるようになってきた。

同じケーブルを使っていても、どう這わせるのか、どこを這わせるのかによって音が変る。
だからもっとも音がいいとするところを這わせた結果が、
部屋の真ん中を大蛇が這うようになってしまった、ともいえるだろう。

私がいたころ、ステレオサウンドの試聴室ではスピーカーケーブルを部屋の真ん中を這わせていた。
試聴室はいわば実験室ともいえるし、
試聴室で聴く行為は、あくまでも試聴であり、リスニングルームと同じように思う人もいるかもしれないが、
試聴室とリスニングルームは決して同一には語れない。

リスニングルームをリスニングルームとして、音楽を聴く場としておきたいのか、
それとも試聴室としておくことに、なんのためらいも感じないのか、によって、
ケーブルの這わせ方は違ってくるのではないのか。

リスニングルームを試聴室として使うことは、私にだってあった。
いわば実験的に試してみたいことがあって、一時的にそういう使い方をしていたわけだ。

あえて、普通ならばやらないことをやってみることは、時として必要だと思っている。
あえてのことをやってみて、わかることがやはりあるからだ。
でも、あえてのことを、そのままにしておくわけではない。
あくまでも、それは一時的なことであって、
それによって得られることを、その先にどう活かしていくのか、採り入れていくのかに、頭を使う。

Date: 12月 4th, 2013
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(その13)

メリディアンのM20は、好きなスピーカーのひとつである。
かなり心は動いた。
何度かステレオサウンドの試聴室で聴く機会があり、聴くたびに、買おうかなぁ、と思っていた。

M20の音、
それもメリディアンのCDプレーヤーとコントロールアンプで統一したときの音は、
私の好きな音を出してくれる。
しかも、その好きな音というのは、LS3/5Aに感じている魅力と同じ流れのものだから、
よけいに心が動いていた。

LS3/5Aに対する不満、
というよりもないものねだり、とでもいうべきか、願望として、
あとすこしスケールの豊かな音がしてくれれば、思わないわけではない。

メリディアンのM20は、その「あとすこし」というところを、
私にとってはうまい具合に満たしてくれていた。

LS3/5Aと M20の違い、
ユニット構成はすでに書いているように共通するところがある。
ウーファーがシングルかダブルかの違い、
エンクロージュアが密閉かバスレフかの違い、容積・プロポーションの違いなどがあり、
内蔵ネットワークかマルチアンプか、という違いもある。

これらのことが、どう音に関係してきて、LS3/5AとM20の音の違いとなってあらわれるのかは、
なんともいえない。

M20はLS3/5Aと共通する音色をもちながらも、LS3/5Aよりも安心して音楽を聴ける。
LS3/5Aの、少し神経質なところが、その魅力となっているわけだが、
そういうあやうい魅力はM20には感じなかった。

Date: 12月 4th, 2013
Cate: ワーグナー, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(カラヤンの「パルジファル」・その7)

ステレオサウンド 50号の「オーディオ巡礼」に登場された森忠揮氏は、
すでに書いているようにアンプはマランツのペア。
アナログプレーヤーは、RCAのターンテーブルにカートリッジはオルトフォンのSPU-A、
トーンアームはRF297で、シーメンスのオイロダインを鳴らされている。

森氏は1970年代後半にステレオサウンドに「幻聴再生への誘い」という連載を書かれていて、
ご自身の装置については、そこで触れられている。

私なら、オイロダインには、伊藤先生のアンプを組み合わせたい。
この項のタイトルがいくら「妄想組合せの楽しみ」としているとはいえ、
伊藤先生のアンプは一般的な意味での市販品とはいえない。

伊藤先生のアンプを除くとなると、
ずいぶんと音の傾向は違ってくるけれど、やはりオイロダインと同じドイツのアンプ、
ノイマンのV69aをパワーアンプとしたい。
コントロールアンプは、同じノイマンのWV2、
アナログプレーヤーは、別項で書いているようにEMTの927Dst。

入口から出口まですべてドイツ製になってしまった。
しかもずいぶんと昔の機器ばかりでもある。

いかなる音が響いてくるのか想像がつく部分とそうでないところもある。
クナッパーツブッシュの「パルジファル」は、こんな装置で一度でいいので聴いてみたい。
だが、この装置でカラヤンの「パルジファル」を聴きたいか、となると、
試しに一度は鳴らしてみたい、と興味半分で思わないわけではないが、
カラヤンの「パルジファル」を聴くとなると、まったく違うシステムを持ってこないと、
カラヤンの「パルジファル」の評価、というよりも、聴き方を、
間違うとまではいわないけれど、どこかズレたところで聴くことになりはしないだろうか。

Date: 12月 3rd, 2013
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その3)

ららぽーとがある船橋からいま住んでいる国立まで電車の時間は一時間半ほどある。
その間ぼんやりと思っていたことがある。

いまジョン・カルショウがいたら、この日私が体験した技術で、
21世紀の「ニーベルングの指環」を制作するのではなかろうか、と。

20世紀の「ニーベルングの指環」はショルティとの全曲録音だった。
音だけのものであっても、カルショウはさまざまなことを試みている。
そのすべてが、いま聴いても価値が変らない、とはいえないところはある。
やりすぎの感はたしかにある。

それでも当時、初の「ニーベルングの指環」の全曲盤である。
あれだけ長い作品を音だけのレコードで、聴き手に最後まで聴き通してもらうためのアイディアとしては、
成功しているといえるし、そこがまたいまではやりすぎとも感じてしまう。

とはいえカルショウ/ショルティによる「ニーベルングの指環」はおもしろいレコードである。
こういうレコードを、いまから50年以上前にカルショウはつくっている。
そのカルショウが、3D映像とドルビーアトモスを与えられたら、
どんな「ニーベルングの指環」をわれわれに提示してくれるであろうか。

ワーグナーの楽劇でも、
「ニーベルングの指環」の作曲の途中でつくられた「ニュルンベルグのマイスタージンガー」、
「トリスタンとイゾルデ」は登場するのは人間だけなのに対して、
「ニーベルングの指環」ではそうではない。

そういう作品である「ニーベルングの指環」だけに、あれこれ夢想してしまっていた。