Archive for category テーマ

Date: 7月 9th, 2016
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その4)

マランツのModel 7のデザインは完全な左右対称ではなく、
電源スイッチ側にある四つのツマミの径は、反対側にある四つのツマミよりも小さい。

ほんのわずかだが左右対称を崩してある。
DEQXが自動補正した音から、ほんのわずかな違和感のようなものをとりのぞくには、
同じ作業が必要ということだった。

バランスを崩す、といってしまうと正確な表現ではなくなってしまうし、
間違って伝わる可能性も出てくるのだが、
感覚的には、それはほんのわずか崩す、といったものであることは確かだ。

小学校のころ、こんなことが少し流行った。
正面写真のセンターに鏡を置き、
左半分の顏だけの顏、右半分だけの顏をつくる。
どちらの顔も、写真の顏とは違ってくる。

つまり人の顔は一見左右対称のようであって、完全な左右対称ではない。
美男美女といわれる人の顔は、より左右対称である、ともいえる。
それでも完全な左右対称な顔の人はいない。

もし完全な左右対称の顏をもつ人が現れ、
しかも左右対称の表情をしたら、それをわれわれはどう感じるのだろうか。

DEQXを始め、同種の機器の自動補正のプログラムは、人間が作ったものではあるけれど、
けれどいまのところは、どこか左右対称のような自動補正をしているのではないか、
そんな気がしないでもない。

どの機器も使ったことがないので、友人の感想を聞いてそう感じているだけにすぎない。
そして思うのは、自動補正で得られた音は、完璧なバランス、
もしくは完璧なバランスに近いものなのか、ということだ。

Date: 7月 9th, 2016
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その3)

1981年にdbxの20/20が登場した。
10バンドのグラフィックイコライザーであり、
それまでのグラフィックイコライザーになかったマイクロフォンが付属していた。

10バンド分割イコライザー/アナライザーと呼ばれていた20/20は、
マイクロフォンでの測定が可能なだけではなく、
20/20搭載のアナライザーによる自動補正が可能だった。

20/20以降、自動補正のイコライザーがぽつぽつと登場するようになってきた。
20/20は信号処理はアナログだんだが、いまではデジタル信号処理を行うようになり、
20/20のよりも精度も高く、バンド幅も狭くなり、
より細かな自動補正が可能な機器がいくつも登場するようになった。

それらの中にDEQXがある。
現行の、この種の製品の中では早くから登場していた。
私は試したことがないが、友人がDEQXの音を聴いている。

DEQXの効果は、非常に大きいものだ、ということだった。
そうだろう、と思う。

ただDEQXの自動補正のまましばらく聴いていると、
違和感のようなものを感じはじめるようになるそうだ。

ここでことわっておくが、DEQX固有の問題ではない、と思っている。
おそらく同じことは、他の同種の機器でも起ると思われる。
DEQXの名をここで出しているのは、たまたま友人が試聴する機会を得ていたからだけだ。

友人はDEQXを高く評価している。
これもそうだろうと思う。
ただ、DEQXの音をそのままでの評価ではなく、自動補正が行われた後、
細かな微調整を施した音は、ほんとうに素晴らしいということだった。

このDEQXの話を聞きながら思っていたことがいくつかある。
そのひとつはマランツのModel 7のデザインについて、
瀬川先生(もっと以前には岩崎先生)が書かれていたことである。

Date: 7月 9th, 2016
Cate: 価値か意味か

価値か意味か(その4)

瀬川先生の著書「オーディオABC」の下巻を手に入れた。
古書店を探し廻って見つけた、のではなく、
先日のaudio sharing例会のときに常連のKさんが、「そういえば……」と教えてくれた。

おかげで手に入れることができた。
上巻は、もちろん持ってる。
自分で買った一冊だけでなく、瀬川先生の遺品の二冊も持っている。
上巻が三冊あるのに、下巻が一冊もなかった。

「オーディオABC」に書かれていることは、
新潮文庫の「オーディオの楽しみ」にも、大半が書かれている。
だから下巻の内容は「オーディオの楽しみ」でほとんど読んでいる、とはいえる。

上巻の内容は、スピーカー、アンプ、アナログプレーヤー、それに音についてであり、
下巻は、チューナー、テープデッキに関する内容となっている。

おそらく「オーディオABC」は上巻の方が売れているはずだ。
上巻は何度か古書店で見かけていたが、
下巻を見かけたことはあっただろうか……、と記憶をたどってみてもなかったと思う。

いまチューナー(FM放送)の知識は、どれだけ必要だろうか。
テープデッキに関しても、「オーディオABC」に載っているのはアナログ方式のものである。
そう考えると、「オーディオの楽しみ」は持っているし読んでいるから、
「オーディオABC」の下巻は、私にとって必要な本だったのかといえば、
知識を得るという意味では、必要はなかった、といえる。

「オーディオABC」の下巻の価値は、どうだろうか。
私が購入した店では2000円(税抜き)だった。
それがたまたま半額セールで1000円(税抜き)になっていた。

「オーディオABC」の下巻の定価は1000円。
39年前のオーディオの書籍が、当時の定価の倍の値段ということは、
その店は、その価格で売れる本だという判断の元の値付けである。

けれど売れなかった。
売れないからこそ、半額になり特売品のワゴンの中に入れられていた。

これが、この本への思い入れとは無関係なところでの商業的な価値ということだろう。

今回はたまたま1080円で買えた。
半額セールではなく2160円だったら、どうしたか。
やっぱり買ったはずだ。

私にとって「オーディオABC」の下巻は、2160円の価値は最低でもあるということなのか。
ならば3240円だったら、どうしてたか。買わなかったかもしれない。
もっと高い価格、たとえば5000円をこえていたら、買っていない。

こんなことを考えているのは、「オーディオABC」の下巻は私にとっての価値が、
どういうものなのかがはっきりとつかめないからで、
価値がはっきりとしないものにお金を払うということは、
本の価値ではなく、本の意味を求めての行為なのかもしれないのだ。

Date: 7月 8th, 2016
Cate: 電源

ACの極性に関すること(その5)

ステレオサウンド 57号で井上先生がいわれているのは、
レコードにもACの極性が存在するということである。

ステレオサウンドは55号から「オーディオ・ジョッキー」という短期連載が始まった。
ACの極性に関する試聴記事が一回目(55号)で、
放送局、PA、スタジオなどのプロの現場でのAC極性のコントロールについての取材が二回目(56号)で、
レコードにもACの極性があることにふれたのが三回目(57号)である。

記事は井上先生と黒田先生の対談形式。
この記事から井上先生の発言をいくつか拾っておく。
     *
 今回は、オーディオのプログラムソースで一番重要なレコード自体にも、AC極性があるということをとりあげてみたい。レコードは、録音からカッティングに至る制作過程で数多くの機材を使用します。当然、これら機械類はAC電源を必要としますから、出来上ったレコード自体にもAC極性があるのではないかということでいろいろチェックしてみると、これが明らかにあるのですね。
(中略)
 これまでにもACのコントロールをしていって、おかしいなと感じたことはあったのです。うまく鳴ってくれるレコードと、うまく鳴ってくれないレコードとがある。機器間の極性は合っているはずなのに、何とはなしモタモタするとか、妙にコントラストがついてくっきりしすぎちゃって、うるさい感じになる。
(中略)
 簡単にいうと、発端はテープレコーダーなんです。AC極性を合わせた再生システムにテープレコーダーを加えると、テープレコーダーの極性を変えることによって2種類の音が録音できるでしょう。さらに極性を変えながらこのテープを再生すると、また2種類できる。録音再生で4通りの音になるわけです。それなら、レコードが極性によって鳴り方が変っても当然じゃないかということで……。
(中略)
 昔から、ACのことをよくわかっている人でもどうも昨日の音とは違う、特に,マルチアンプの場合にはかなり細かくレベル調整をしてバランスをとっていくと、あるレコードはいいのだけれどあるレコードではダメということがあったでしょう。これはACをひっくり返すと直っちゃうんです。この事も一つのきっかけといえます。
     *
レコード制作側が、録音・カッティングなど、
レコードが出来上るまでのすべてのプロセスにある機材のACの極性を合せていれば、
本来ならば起らない問題なのだが、現実には、そうではないことがわかる。

このレコードにおけるAC極性の問題を、黒田先生はオスとメスがある、という表現をされている。
ほとんどのレコードはオスであっても、少数ではあるがメスのレコードがある。

つまりACの極性を合せる、の「合せる」の意味に少し違う意味が加わってくることになる。

Date: 7月 7th, 2016
Cate: 電源

ACの極性に関すること(その4)

ACの極性をかえることで音が変化するのはいまや常識である。
ACの極性合せはどうやるのかについては、(その2)で書いている。

アース電位をデジタルテスターで測る。
このときすべての接続をはずしておく必要がある。
他の機器とケーブルでつながっていてはだめである。

そうやってアース電位を測る。
コントロールアンプが、仮に5Vと10Vだったとする。
通常であれば5Vの方を、ACの極性が合っているとする。

けれどパワーアンプのアース電位が12Vと20Vだったとする。
こちらは12Vが合っているとなる。

コントロールアンプは5V、パワーアンプは12Vだとアースの電位差は7Vということになる。
ここでコントロールアンプのACの極性をあえて反対にする。
つまり10Vにすることで、パワーアンプとのアースの電位差は2Vと小さくなる。

こういう考え方もできるのではないか。
だとしたら、どちらを選択すればいいのか。
これは、聴いて判断するしかない。

ACの極性合せを聴感で行う場合、
注意点としては音の入口側からやっていくことである。
CDプレーヤーをまずやり、次にコントロールアンプ、パワーアンプとやっていく。

ACの極性があえば、音場が拡がる。
音楽が演奏される場が、どんなイメージで鳴ってくるか。
たとえば狭い兎小屋で演奏しているかのような窮屈な鳴り方なのか、
それともホールで演奏しているように響いてくれるのか。

別項で書いたマークレビンソンのLNP2のゲイン切り替えの音の違いと、
基本的には同じともいえる。

他にもチェックポイントはあるけれど、まずは音楽が演奏される場としての音場であり、
つまりは聴感上のS/N比をあげることである。

そうやってシステム全体のACの極性を合せた上で、
個々のオーディオ機器の極性がどうなっているのかをチェックしてみることである。

単体で測ったアース電位が低い方がいいのか、
それとも接続する機器同士のアース電位差が小さい方がいいのかははっきりする。

まれにではあるが、聴感で合せたACの極性が、
テスターで測って合せた極性で、すべて逆の場合がないわけではない。

これについては、ステレオサウンド 57号で、井上先生が解説されている。

Date: 7月 7th, 2016
Cate: audio wednesday, 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その1)

バーンスタインのマーラーの交響曲第五番のCDを手に入れた日のことは、
以前別項で書いている。

昼休みに行ったWAVEに、ちょうど入荷したばかりだった。
その日は、午後から長島先生の試聴があった。

試聴が始まる前に、長島先生に聴いてもらった。
一楽章を最後まで聴かれた。

このとき同席していた編集者が「チンドンヤみたい」と呟いた。

インバルの第五を好んで聴く彼にとっては、
バーンスタインの第五は、そう聴こえてしまうのか、と思ったことがあった。

この日から十数年経ったころ、
ある人のお宅で、このディスクをかけてもらったことがある。
かけ終って「この録音、ラウドネス・ウォーだね」といわれた。

ちょうどラウドネス・ウォーが、日本のオーディオ雑誌で取り上げられるようになった時期でもあった。
確かに、その人のシステムでは、バーンスタインのマーラーは、芳しくなかった。

この音を聴いたら、あの日、「チンドンヤみたい」といった彼は、
「ほら、やっぱり!」といったであろう。
そういう音のマーラーしか鳴ってなかった。

その人は、あまりマーラーを聴かないのかもしれない。
その人の音には、バーンスタインのマーラーは向いていなかったのかもしれない。

にしても、「この録音、ラウドネス・ウォーだね」はトンチンカンな反応でしかない。
その人のシステムは、ひどく聴感上のS/N比の悪い音である。
特に機械的共振による聴感上のS/N比の悪化がかなり気になる自作のスピーカーだった。

そういうスピーカーだから、オーケストラが総奏で鳴っていると、
聴感上のS/N比が、まったく確保されていない悪さが、ストレートに出てしまう。

ここで疑うべきはどこなのか。
その人はバーンスタインのマーラーの録音だと決めつけていた。

8月3日のaudio sharing例会では、少なくともそんな低レベルの音は出さない。
今日(7月7日)は、マーラーが生まれた日だ。

Date: 7月 7th, 2016
Cate: 名器

ヴィンテージとなっていくモノ(その5)

シーメンスのオイロダインというスピーカー。

スピーカーシステムとは呼びにくい、このモデルは鉄製のフレームに、
外磁型の38cm口径のウーファーと大型のコンプレッションドライバーとホーンが、
がっちりと固定されている。

いわゆるエンクロージュアとよばれる箱はない。
2m×2mの平面バッフルか大型の後面開放型エンクロージュアを用意する必要がある。
いわゆるスピーカーシステムではなく、2ウェイのスピーカーユニットの一種といえる。

出力音圧レベルは104dB/W/mと高い。
周波数レンジは狭い。
トーキー用スピーカーと呼ばれるモノであり、
アメリカのウェスターン・エレクトリックでさえ、
とっくに製造を中止してしまった古典的な劇場用スピーカーを、長いこと製造していた。

1980年ごろにウーファーが38cmから25cmの三発に変更になったが、その後もしばらく製造された。
こういうスピーカーは珍しい。
シーメンスという会社の体質が、他の利益追求型の会社とは違っていたのかもしれない。

ヴィンテージといえるのは、ほぼすべてが製造中止になったモノである。
でも、このオイロダインだけは現役だったころ、
すでにヴィンテージとためらいなくいえたスピーカーである。

Date: 7月 7th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

ハンバーガーとアメリカとオーディオと(その1)

アメリカのテレビ番組に”THE NEXT GREAT BURGER“というのがある。
「グレイト・ハンバーガー ─史上最高の激うまバトル─という邦題がついている。

タイトルからすぐに想像がつくように三人の料理人が登場し、
自慢のハンバーガーを作り、うち二人が予算を勝ち抜き決勝で競い合う、というものだ。

20分ちょっとの番組で、映画や海外ドラマのように重たいものではなく、
軽い内容のものが見たくて、たまたま見つけた番組だった。

すべてのエピソードを見終ったわけではないが、
見ていてすぐに感じたのは、ハンバーガーは、アメリカを象徴する料理だということだった。
アメリカに行ったことのない者の感じ方であることはことわっておく。

アメリカにもさまざまな料理があるのは知っているけれど、
アメリカと聞いて真っ先に思い浮ぶ料理は、
“THE NEXT GREAT BURGER”を見た今では、「ハンバーガーだろ!!」となってしまう。

それほど、ここに登場するハンバーガーはすごい。
いったいどれだけの具材をはさむのだろうか、と思う。
それだけハンバーガーの厚みは増す。

分厚い(ほんとうに分厚い)ハンバーガーを、彼らはどうやって食べるのか。
お上品にナイフとフォークを使って、高級料理のように食べるのか。
そんなことはない。
両手で持ち、そのまま口に運び、齧りつく。

手で押えているといっても、厚みはかなりのものであるのに、
その厚みに必要な分だけ口を開けて食らいついている。
あれが口の中に入るのか、とまず思う。

上品ぶるわけではないが、あの厚みのものに齧りつくことは私には無理だ。
多くの人が無理だと思う。

そして、この番組に登場する多くの(すべてではない)ハンバーガーは、
屋上屋を重ねる、といいたくなる面を持っている。

味を追求しての厚みであることは理解できる。
それでも屋上屋を重ねるという感覚がどうしてもつきまとう。

同時に、いまのオーディオもこれに近い、という同じ面を持っている、とも思ってしまう。

Date: 7月 7th, 2016
Cate: audio wednesday

第67回audio sharing例会のお知らせ(Heart of Darkness)

8月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。

8月3日の05時45分は新月である。
以前予告していたように、今回のテーマは「新月に聴くマーラー」である。

照明を落として真っ暗な状態でのマーラーである。
マーラー以外はかけない。
最初から終りまでマーラーだけを聴いていく。

バーンスタインの第五交響曲の第一楽章で始めたい。
ジュリーニの第九交響曲の第四楽章(アダージョ)でしめくくりたい。

この二曲のあいだにかけるのは、参加される方が持ってこられたCDだ。

「新月に聴くマーラー」を4月に思いついたものの、
喫茶茶会記のシステムで、わざわざ新月にマーラーという音が出せるのだろうか、
という不安に近いものがなかったわけではない。

けれど6月のaudio sharing例会でのLNP2の比較試聴で、
これだったらなんとかいけそうな予感がした。

それに今回はJBLの2405も手配できそうである。
6月に鳴らしたシステムの上にトゥイーターを追加する。
もちろん直列型ネットワークを使うから、2405の接続をどうやるのかはまだ決めていない。

2441の上をカットするのか、そのまま出したままにしるのか。
2405のカットオフ周波数はどのあたりに設定するのか。
2405も直列型ネットワークにするのか……、
このあたりをじっくり試聴して検討する時間はとれそうにないから、
当日ぶっつけ本番に近い状態で鳴らすことになるかもしれない。

そんな音出しで、「新月に聴くマーラー」にふさわしい音が出せるのか。
いわば急拵えのシステム、時間のないセッティング、チューニングで、
マーラーの交響曲の真髄にふれるような音が出せるのか。

それでもマーラーの何かがかけらとして、聴いている側に飛んでくるような音は出せる。
そう考えている。
楽観的なといえばそうである。

今回はオーディオ機器の比較試聴ではない。
ただただマーラーを聴くのみである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 6th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(その5)

1966年と2016年とでの、アンプ選び(別にアンプに限らないけれど)は、
市場に出廻っている現行製品の数の違いだけでなく、
これまで発売になってきたアンプも、そこには含まれる。

往年の名器と呼ばれるアンプも選択肢に含まれるようになるわけで、
1966年における選択肢と2016年における選択肢とは、
予算が制約がなければないほど、選択肢の数の開きは大きくなるといえる。

中古市場には、まれにではあるが、驚くほどの美品が登場することがある。
数十年前のオーディオ機器が、これほどのコンディションで残っているのか、
よくこれだけのモノを見つけ出してきたな、と感心してしまうほど、
そういうモノが、もちろんそれだけの値札を下げてではあっても、現れてくる。

予算に制約がなければ、そういう美品をポンと買える。

予算に制約がある場合でも、そのアンプはかろうじて予算内に収まっていることだってある。
とはいえ、そのアンプの一般的な中古相場からすると、そうとうに高いわけだから、
いくら新品同様といえるコンディションであっても、それは法外な値段と感じることもある。

マランツのModel 7の、極上といえるコンディションのモノは、
聞いたところでは150万円以上するらしい。

いくらコンディションのいいモノが少なくなってきたとはいえ、
ここまで値がつり上がるのか、と私は驚く方である。

私は150万円以上するのは、高い、高すぎると思う感覚だ。
けれど、150万円という価格自体は、いまの高騰化しているオーディオ機器の中にあっては、
法外な価格とはいえないわけで、オーディオマニアならば、
コントロールアンプ一台の予算として、このくらいは考えている人は少なくないであろう。

予算に制約のある場合でも、それが予算内におさまっていたとしても、
150万円以上するModel 7は、選択肢となるだろうか。

なる人とならない人がいるわけで、
なる人にとっての「虚」と、ならない人にとっての「虚」とはどういうものだろうか。

Date: 7月 5th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(評論とブームをめぐって・その3)

毎年暮の恒例となっている各オーディオ雑誌の賞。
賞は本来ならば、優れた人、モノ、作品に光を当て、特別に輝かせるためにあるはず。
そうであれば賞を与える側(選ぶ側)は、光を発していなければならない。

ところがいまはどうだろうか。
発した光で特別に輝かせている、とは到底思えない。

賞そのものを全面的には否定はしない。
本来のかたちである賞であることを期待しているだけである。

けれど、そのために必要な太陽となる存在が、いまはいない。
少なくとも私はそう見ている。

いまは、だからオーディオに関する賞は、賞として成立していない、といえる。
にも関わらず毎年、どのオーディオ雑誌も(ラジオ技術以外は)、賞をやる。

State of the ArtからComponents of the year、
さらにStereo Sound Grand Prixと賞の名称が変っていくごとに、
光を発していく力が失われていった。

月は太陽が発した光を反射することで、
太陽の光が直接当らないところ(モノ)へと光を届け、そこにあるモノをほのかに輝かせ、
その存在に気づかせる。
そういう役目があるから、月の存在を決して否定はしない。

けれどくり返していうが、太陽の光がなければ……、である。

Date: 7月 5th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(評論とブームをめぐって・その2)

月と太陽の違いは、そのまま批評と評論の違いにあてはまる。

私が月と太陽の違いに思い至ったのは、
ある人の独り言に近い、ある発言を聞いたからだった。

その人はその人本人に、瀬川冬樹と同じくらいの才能があれば、
あのスピーカーの実力を、もっと広く知らしめることができたであろう……、
そんな趣旨のことを一度となく聞いたことがある。

その人の心情はわかったうえで、このことを書いている。
それは才能の違いなのだろうか。

才能の違いからきたのであれば、
オーディオ評論家としての才能について考えていかねばならないわけだが、
私には才能の違いではなく、資質の違いのように思えてきたのだった。

最初に聞いた時は、私も「才能の違い」だと思った。
けれど二三度聞いていくうちに、ほんとうにそうなのだろうか……、
他の要素があるような気がしてきたことが、月と太陽に思い至るきっかけのひとつになった。

そのオーディオ機器の実力を正しく評価するのが批評であるとすれば、
評論とは、そのオーディオ機器に光を当てて輝かせることにあるはずだ。
惚れ込んで、自分で買い込んでしまったオーディオ機器を、いかに輝かせることができるか、
輝かせることができなければ、それはオーディオ評論とはいえないレベルのものである。

太陽は光を発している。
その光で、対象となるオーディオ機器を輝かせる。

瀬川先生によるオーディオ評論が、まさにそうだった。
このことに気づいてほしい、と思う。

月は残念ながら光を自ら発することはできない。
太陽の光を反射させるだけなのだから、輝かせることができたとしても淡い輝きに留るし、
太陽の存在がなければ、その淡い輝きすらも望めない。

月としての才能が高ければ高いほど、光を発することができないジレンマに陥る。

Date: 7月 4th, 2016
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その5)

その3)に書いているように、
マンガは二ページ、もしくは一ページ全体をまず見ることから、読むことは始まるといえる。

マンガの読み方に長けている人にとって、
本(紙だけでなく電子書籍も含めて)のサイズは大きい方が、
細部もはっきりと読めていいといえるが、
読み慣れていない人、不得手な人にとっては、
長けている人にとって適しているサイズは大きすぎるということになりかねない。

ひと目でパッと見渡せるサイズとして、もっと小さなサイズが適しているからだ。
これは電子書籍になり、そのためのハードウェアの種類があり、
サイズも複数用意されている時代だからこそ、
捉えようによってはマンガにとって、いい時代を迎えている、ともいえる。

まず全体を把握すること。
そのために自分に適したサイズを選び、慣れてくれば大きなサイズへと移行していく。
同時にコマ割りの把握、コマを追っていく順序、
絵とセリフ、それから効果音・擬音などの把握を徐々にこなせるようになっていくものだと思う。

一コマ目から凝視していくような読み方では、マンガは楽しめないのではないだろうか。

音の聴き方も、実はそうである。
そしてマンガの電子書籍のサイズにあたるものは、音の場合は何になるのか。
それを把握して、自分に適したサイズの「音」から始めていくのは、
音の聴き方を訓練していく上で重要なことだと思っている。

ただ凝視するような聴き方だけをしていては、
見えてこない(聴こえてこない)領域(世界)がある。

オーディオは比較することが多い。
そのため細部を凝視する聴き方を、人はまず身につけてしまうことが多い。
でも、そこから一旦離れた聴き方をしなければならない。

Date: 7月 4th, 2016
Cate: 試聴/試聴曲/試聴ディスク

音の聴き方(マンガの読み方・その4)

電車に乗っていると、スマートフォンでマンガを読んでいる人が増えていることに気づく。
20年くらい前だろうか、マンガが文庫本でけっこうなタイトル数が出ていた時期がある。

文庫本だから、本のサイズは、いわゆるマンガの単行本よりも小さくなる。
単行本は、そのマンガが最初に掲載された週刊誌、月刊誌よりも小さい。
スマートフォンは文庫本よりも、さらに小さいわけだから、
掲載誌のサイズからすれば、ずいぶんと小さくなったものだ、となる。

しかも紙の本は開いて読むから、見開き(二ページ)表示だが、
スマートフォンでは一ページ表示が基本となる(見開き表示も可能だが)。
そう考えれば、かなり小さい。

そういう環境で、自分の描いたマンガを読んでほしくないというマンガ家はいる。
わからないわけではないが、だからといって電子書籍化されたマンガを、
ここにあてはめてしまい、マンガは紙の本で、という意見はどうかと思う。

スマートフォンは確かに小さいがズームは可能だし、ズームして読むのは邪道ならば、
もっと大きなタブレットもあるし、パソコンの、もっとサイズの大きなディスプレイで読むことができ、
そうなれば電子書籍のマンガも見開き表示が基本となる。

こんなことを書いているのは、電子書籍化は、マンガのひとつの理想かもしれないからだ。
紙の本は、必ず湾曲している。
マンガが印刷されている紙がフラットであることはまずない。
手に取って読んでも、本の上に置いていても湾曲している。
文庫本も単行本も掲載誌も、である。

マンガ家が描いている紙はフラットである。
マンガが電子書籍になって、初めて読み手側もフラットで接することができるようになった。
このメリットは、マンガにとって大きいと思うし、
電子書籍化にあたって、小説とマンガとの違いにもなってくる。

そして電子書籍化されたことで、読み手側がサイズを選択できるようになった。
これまでは出版社側が提供するサイズしかなかったのが、
ハードウェアさえ揃えれば、自分に適したサイズを選択できる。

このことは、特にマンガの読み方に慣れていない人にとって大きなメリットのはずだ。

Date: 7月 4th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(ドキッとさせられたこと)

7月2日の川崎先生のブログには、ドキッとさせられた。
タイトルには、こうあった『「●●とは何か?」、質問形式とその答えは能無しである』。

ブログ本文を読み終えて真っ先にやったことは、
このブログ内の検索である。
「とは何か」で検索をした。

検索結果はすぐに表示されるけれど、
川崎先生のブログを読んでいるときから、どきどきしていた。
結果は、本文中では使っていたけれど、タイトルには使っていなかった。
とりあえずだけれど、ほっとした。

毎日ブログを書くということは、毎日タイトルをつけることである。
同じテーマで書いているものであれば、
同じタイトルで(その1)、(その2)……、とつけていけばいいが、
テーマを変えたりすれば、新たにタイトルをつけなければならない。
同じテーマであっても、多少脱線するときは括弧内を(その1)とかではなく、
何か考えることもある。

面倒に感じることがないわけではない。
ぴったりくるタイトルが考えつけばいいのだが、そうでないときもある。
安易につけようと思えば、そうできる。

ブログの日々のタイトルを気にしている人がどれだけいるのかははっきりしない。
書き手ほど読み手は気にしていないのかもしれない、と思う反面、
読み手の方がしっかりと読んでいるはず、とも思う。

気を抜くわけにはいかない。