Archive for category テーマ

Date: 7月 2nd, 2016
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その17)

6月のaudio sharing例会では、マークレビンソンのLNP2を聴いた。
LNP2はVUメーターをもつコントロールアンプである。

VUメーターつきのコントロールアンプは、LNP2以外にも意外とあった。
ヤマハのCI、テクニクスのSU-A2、ソニーのTA2000F、TA-E7B、サンスイのCA3000、
ナカミチの610、ダイナベクターのU22、DV3000、クワドエイトのLM6200R、ギャラクトロンのMK16、
4チャンネル対応のモノでは、ビクターのJP-V1000があった。

それから一般市販されたモノではないけれど、
伊藤先生のコントロールアンプにもVUメーターがついている。

ダイナベクターのDV3000だけが上下にVUメーターが配置されていた。
他のアンプは左右に配置されている。

これはどうなんだろうか。
人によって違うのだろうか、と思いつつも、
私はVUメーターは左右に並んでいてほしい。
上下に配置させていると、違和感といってはいいすぎだけれども、それに近いものを感じてしまう。

それにできれば中央にあってほしい。
上下左右の中央ではなく、左右の中央にあってほしい。それも下ではなく上でなくてはならない。
そうなると、LNP2、U22、610、LM6200Rがそうなっている。

だからといってVUメーターが、
アンプのフロントパネルの中央で威張っているかようにあってほしいのではなく、
ついている以上は、もっとも見やすい位置に、見やすいように配置されていてほしいのだ。

LNP2をひさしぶりに、時間をかけて聴くことができてあらためて思っていた。
VUメーターがついていると(もちろん正確なメーターにかぎるのだが)、
オーディオは楽しい、と感じる。

針が振れるのは、質量があるモノが動くということであり、
アナログプレーヤーのターンテーブルプラッターもそうだが、
重さでいえばメーターの針よりもずっと重いし、針のような動きはしない。

それでも粛々と廻っている姿が見えるのは、やはりオーディオだ、と思うところだ。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 夢物語

オーディオ 夢モノがたり(その11)

カッターヘッドを手にしたことのある人なら、
カートリッジとカッターヘッドの大きさと重さの違いにびっくりされるはずだ。

写真を見て、カッターヘッドの大きさはなんとなくわかっていた。
あれだけのサイズだから、けっこうな重さであろうこともわかっていたにもかかわらず、
ウェストレックスのカッターヘッドを手にしたときは、やはりびっくりした。

理屈ではわかる。
ラッカー盤に溝を刻んでいくメカニズムである。
カートリッジのような繊細さとは対極のところにあるモノだ、と。

カートリッジもカッターヘッドも、アンプに接続されている。
カートリッジはイコライザーアンプの入力へ、
カッターヘッドはパワーアンプの出力へ、と接続されている。

カートリッジが扱う電力は、極微小だ。
オルトフォンのSPUで41.66nW、シュアーのV15 TypeIIIで0.2606nW程度である。
(「図説・MC型カートリッジの研究」より)
カッターヘッドを駆動するパワーアンプの出力は、大きいものでは数百Wである。

似ているようでいて、規模において大きく違うカートリッジとカッターヘッド。
だからこそカッターヘッドの構造を置き換えたようなカートリッジの難しさがあることにつながっていく。

オルトフォンのカッターヘッドDS731/732は、
カッティング針がロッキングブリッジと呼ばれる部材に取り付けられていて、
このロッキングブリッジの両端を、それぞれコイルが駆動する。
ロッキングブリッジとコイルとの間には、フレキシブルジョイントが介在している。

このフレキシブルジョイントがなければDS731/732は動作しないはずであり、
オルトフォンのカッターヘッド的構造のカートリッジを考える場合、
この部分をどうするのかが大きな問題である。

カッターヘッドの、あのサイズだからできる構造を、
そのままカートリッジのサイズに持ち込もうとするのは無謀である。

フレキシブルジョイントをなくして、カートリッジとして動作するためにはどうしたらいいのか。
いわゆるコイルにとらわれていては、解決できそうになかった。
リボンならば、という発想に切り替えてみると、なんとかなりそうな構造になる。

ただしリボンといってもフラットなリボンではなく、
いわゆるプリーツ状のリボンということになる。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 夢物語

オーディオ 夢モノがたり(その10)

カートリッジの発電方式にはいくつかある。
代表的といえるのはMM型とMC型であり、MC型カートリッジといっても、
その内部構造は実にさまざまである。

空芯コイル、鉄芯入りコイルといった違いだけでなく、
コイルの形状、その取り付け方、マグネットを含む磁気回路、
ダンパー、リード線の引き出し方の違いなど、多種多様である。

MC型カートリッジの教科書といえるのが、
1978年のステレオサウンド別冊「図説・MC型カートリッジの研究」である。
長島先生の本であり、HIGH-TECHNIC SERIESの二冊目である。

この本についてはこれまでにも何度か触れている。
いまもよく開く一冊である。

この本に、オルトフォンのカッターヘッドDSS731/732の構造図が載っている。

カッターヘッドは、ウェストレックス、ノイマンが有名であり、
ウェストレックスには10A、ノイマンにはDSTというカートリッジがあった。
どちらもラッカー盤検聴用カートリッジといわれている。

ウェストレックス、ノイマンに対してオルトフォンの場合は、
たしかにカートリッジはいくつもある。
カートリッジの種類、数はウェストレックス、ノイマンよりもはるかに多い。

けれどオルトフォンのカートリッジの構造は、
ウェストレックス10A、ノイマンDSTとは異る。

「図説・MC型カートリッジの研究」を読んだ時から、
なぜオルトフォンには、DS731/732の構造のままカートリッジが存在しないのか、
と思っている。

カッターヘッドをそのままカートリッジに置き換えたような構造が、
いかに大変なのかは理解している。
この種のカートリッジが、これまでにどれだけ登場したのかを振り返れば、わかることだ。
使いこなしも難しい。一般的なカートリッジとはいえない。

それでもこの種のカートリッジには夢がある、といえよう。
ダイアモンドの針先の真上で発電する。
この困難なことに挑戦してきたカートリッジの設計者がいて、実際の製品が登場してきた。

私も、ときどき思い出しては考えている。
どうすれば実現できるのか。
実現できそうな構造を考え出せるのか。
その度にDS731/732の構造図を見ていた。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その17)

トスカニーニのオペラで、
それも黒田先生が書かれていることの中から、これも引用しておきたくなる。
     *
「Morro!」(死んでしまいます!)
 ヴェルディのオペラ「椿姫」の第一幕第二場です。アルフレードと別れてほしい。アルフレードの父ジョルジョから、執拗に嘆願されたヴィオレッタは、切羽つまって、そういいます。この場面での「Morro!」のひとことは、ヴィオレッタのつらさや悔しさ、つまり愛するアルフレードと別れなければならない無念の思いを背負い、ほとんど悲鳴のようにきこえます。このことばがヴィオレッタの口をついてでるのは、オーケストラが総奏によって緊迫感をたかめていった後です。このことばの前におかれた、ほんの一瞬の静寂が、「Morro!」のひとことを真実なものにします。
 ヴィオレッタは、さぞやつらいであろう。さぞや悔しいであろう。「Morro!」のひとことをきいたききては、それがオペラでの出来事であることも忘れ、ヴィオレッタに同情しないでいられなくなります。あやうく、涙をながしそうにさえなります。しかし、どのような演奏でも、その「Morro!」のひとことが、飛来する矢となってききての胸を射貫くとはかぎらない、ということをぼくが理解したのは、「椿姫」というオペラの魅力に気づいた後、しばらくたってからでした。
 あなたの指揮なさった全曲盤で、ぼくはオペラ「椿姫」を知りました。それまでのぼくは、わずかに、このオペラのうちの有名な前奏曲とかアリアを知っている程度でした。当時は、レコードがSPからLPに変わりつつある時期で、まだオペラの全曲盤の種類もそうは多くありませんでした。その頃に入手可能だった「椿姫」の全曲盤はふたつありました。失礼をもかえりみず書かせていただきますが、ぼくがあなたの指揮なさった全曲盤を選んだのは、ただ単にあなたの指揮なさった全曲盤が二枚組だったからでした。もう一方の、レナータ・テバルディがヴィオレッタをうたったほうの全曲盤は三枚組でした。いろいろな畑の作品をきいてみたくてしかたのなかった、したがって一枚でも多くレコードのほしかった当時のぼくとしては、同じオペラなら三枚組より二枚組のほうが得だ、と考えただけのことでした。
 もし、あなたの指揮なさった全曲盤が三枚組で、テバルディがヴィオレッタをうたったほうの全曲盤は二枚組であったら(誤解のないように書きそえておきますが、テバルディのほうの盤も後に二枚におさめられて発売されました)、ぼくは、いささかもためらうことなく、テバルディのうたったほうの盤を買ったにちがいありませんでした。それにしても、ぼくは、大マエストロであるトスカニーニさんにむかって、なんと無礼なことをいっているのでしょう。
 そのようないきさつがあって、あなたの指揮なさった「椿姫」の全曲盤をききました。当時は、ぼくもまだ若かった。時間も充分にありました。ぼくは、くる日もくる日も、一日に一度はかならず、あなたの指揮された「椿姫」の全曲盤をききつづけました。そうやってきいているうちに、ぼくは、オペラが音のドラマであるということを、理屈としてではなく、感覚的に理解できるようになりました。
 それからしばらくして、テバルディがヴィオレッタをうたったほうの「椿姫」の全曲盤を、友だちに借りてききました。そして、遅ればせながら、ヴィオレッタによる「Morro!」が、いつでもあなたの指揮された演奏でのような鋭さをあきらかにするとはかぎらない、ということを知りました。テバルディがヴィオレッタをうたった全曲盤ではモリナーリ=プラデルリが指揮をしていました。ヴィオレッタをうたうソプラノの実力からしても、さらにはあの場面で求められる声からしても、あなたの指揮なさった全曲盤でのリチア・アルバネーゼより、レナータ・テバルディのほうが上だと思います。にもかかわらず、テバルディによる「Morro!」は、アルバネーゼの「Morro!」のようには、ぼくを刺しませんでした。アルバネーゼの「Morro!」が手裏剣にたとえられるとすれば、テバルディの「Morro!」はほんの飛礫(つぶて)にとどまりました。
 そのとき、ぼくは、オペラではたす指揮者の役割の大きさに気づいたようでした。そして、同時に、ぼくは、それをきっかけに、一気にオペラにひかれはじめ、さらにトスカニーニ・ファンにもなりました。
     *
マガジンハウスから出版された「音楽への礼状」からの引用だ。
音楽の礼状」は、いまは小学館から復刊されている。

この黒田先生の文章を読んで、トスカニーニの「椿姫」のディスクを買って聴いた。
カルロス・クライバーの「椿姫」のあとに聴いたことになる。

ヴィオレッタの「Morro!」(死んでしまいます!)は、
黒田先生が書かれているまま聴こえてきた。
モノーラル盤で、音質的にも優れているとは言い難いトスカニーニ盤での、
リチア・アルバネーゼによる「Morro!」は、まさに手裏剣だった。

だからモノーラルで、お世辞にもいい音とはいえない録音であっても、
聴き手を刺すことができる、聴き手の胸を射貫くことができる。

ここでも「ボエーム」のレコードと同じであって、
トスカニーニの強い演奏によってもたらされるものに、聴き手は心をうたれる。

実は、このところよりも別のところを読んでもらいたくて引用している。
《そうやってきいているうちに、ぼくは、オペラが音のドラマであるということを、理屈としてではなく、感覚的に理解できるようになりました。》
ここである。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その5)

誰だって嫌いな音、苦手な音はできれば聴きたくない。
けれど、ここで考えたいのは、嫌いな音、苦手な音が音の良し悪しとどう関係しているか。

嫌いな音、苦手な音がすべて、いわゆる悪い音であったのならば、
さまざまな手段で、嫌いな音、苦手な音を排除すればいい。

この項の(その1)で書いているかつての同僚のように、
チャーハンに入っているグリンピースを取り除くように……。

チャーハンからグリーンピースを取り除くことは、さほど難しいことではない。
米や具材と融合しているわけではないから、ひとつひとつ取り出せる。

けれど音となると、そうはいかない。
グリーンピースをチャーハンの中から取り除くようには、完全にはできない。
いわば抑える、といったほうがより正確である。

たとえば中高域が強く張り出した音が苦手な男がいたとする。
彼はグラフィックイコライザーを使って、
彼にとって張り出していると思える帯域のレベルをぐっと下げる。

けれど実際には張り出していると感じた帯域は、音圧レベル的に高いというわけではなかった。
別の要因で、張り出したように聴こえることもある。

そういう場合でも、彼はその帯域のレベルを下げる、というよりも、
削ぎ落とすくらいにグラフィックイコライザーを調整する。

そうすることで張り出していた音は、いくぶんか、かなり抑えられることになる。
でも、張り出していると感じさせる要因だけを抑えたわけではない。

同時にグラフィックイコライザーでそこまでレベルを変動させてしまえば、
帯域バランスはくずれてしまう。はっきりとくずれてしまう。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その19)

アンドレ・シャルランの言葉は、
中野英男氏の著書「音楽 オーディオ 人々」に「日本人の作るレコード」という章にある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之——N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
 事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
別項「正しいもの(その4)」でも引用している。
若林駿介氏の録音について、あれこれ書こうとしているのではない。

60歳のアンドレ・シャルランは、30代なかばの若林氏のことを気に入っていた、とある。
少なくともシャルランは若林氏の録音技術を認めた上での、
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」
であることに、読んでいて衝撃を受けた。

私の受けた衝撃は、若林駿介、中野英男、両氏がうけられた衝撃からすれば、
ずっと小さいものかもしれない。

私は、シャルランがたずねたことに若林氏がどう答えられたを知りたい。
けれど、そのところは中野氏は書かれていない。
若林氏は沈黙されたのか、
それとも何か納得のいく説明をされたのか。

いまとなってわからないことだ。
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
だからこそわれわれへの問いかけのように受けとめている。

「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」は、
いま書いている「どちらなのか」にも深く関係してくる。

Date: 7月 1st, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その16)

黒田先生と粟津氏の対談から、あと少し引用しておきたい。
     *
黒田 さっき「ボエーム」を例に出したから、また「ボエーム」でいうと、このオペラは精神性とか本質とかいったことをいいだすと、すべてが吹っとんでしまうような作品なんです。すべてが感覚の喜びというか、つまりエンターテイメントです。で、さっきのミミの死のところをまた引き合いにだすと、トスカニーニのレコードのあのひどい音でも、それがわかる。トスカニーニは強い演奏をしますから、ある和音が強くひびく。それでミミの死を知るわけ。
 ところがカラヤンがベルリン・フィルを指揮したレコードでは、たしかに和音をそうひびかせているんだけれど、オーケストラの色調をそこでガラッと変えるんです。色調を変えることによって、ミミの死を伝え、また感覚的な喜びを聴きてに味あわせているんですね。
 トスカニーニとカラヤンのそうしたちがいが、本質なのか瑣末的なのかといえば、枝葉末節といわざるをえないでしょう。しかし、それは枝葉末節だときめつけてしまうと、この「ボエーム」というオペラは成り立たなくなってしまう、とぼくは思うのですよ。
     *
この対談が載っているステレオサウンド 58号は1981年3月に出ている。
私はまだ18だった。
クラシックの聴き手として、そうとうに未熟だったことはわかっていた。
だから、この対談から、クラシックの聴き方を学んだともいえる。

オペラのコンサートはまだ観たことがなかった。
レーザーディスクもまだだった。
「ボエーム」を聴いたことはあっても、観たことはなかった。

レコード(録音物)という音だけのメディアで聴く前に、
コンサートもしくはレーザーディスクで観ていたら、「ボエーム」の聴き方は変っていたかもしれない。

それにこの対談を読みながら、トスカニーニの演奏のことも考えていた。
まだこの時点では、トスカニーニの「ボエーム」は聴いていなかった。

でも、黒田先生のいわれるとおり、ある和音を強くひびかせることで、
ミミの死を伝えているのは、
トスカニーニの演奏がそうであったことも理由のひとつだろうが、
もしかしたら、当時の録音のレベル、再生のレベルを考慮したうえでの、
そういう演奏だったのではないか。

もしかするとカラヤンのようにオーケストラの色調も変えたかったのかもしれない。
けれど、そこまでは当時の録音・再生では無理であったから、
あえて和音を強くひびかせることだけで、ミミの死を伝えたとは考えられないだろうか。

私が「ボエーム」を観たのは、この対談の七年後だった。
スカラ座の引越公演で、カルロス・クライバーの指揮だった。

Date: 6月 30th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その10)

こうやって書いていくと、
そういえばあれもそういうことだったのか、と憶い出すことが出てくる。

ステレオサウンド 54号の特集。
「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」の冒頭に、
黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏の座談会が載っている。
試聴のあとの総論と、いくつかのスピーカーを具体的に挙げて話されている。
その中での菅野先生の発言を引用しておく。
     *
菅野 特に私が使ったレコードの、シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタは、ヘブラーのピアノがスピーカーによって全然違って聴こえた。だいたいヘブラーという人はダメなピアニスト的な要素が強いのですが(笑い)、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度のピアノにしか聴こえないスピーカーと、非常に優美に歌って素晴らしく鳴るスピーカーとがありました。そして日本のスピーカーは、概して下手なピアニストに聴こえましたね。ひどいのは、本当におさらい会じゃないかと思うようなピアノの鳴り方をしたスピーカーがあった。バランスとか、解像力、力に対する対応というようなもの以前というか、以外というか、音楽の響かせ方、歌わせ方に、何か根本的な違いがあるような気がします。
     *
シェリングとヘブラーによるモーツァルトのヴァイリオン・ソナタのレコード。
ここに刻まれている情報(あえてこう書いている)を、あますところなく鳴らせたとしたら……。
その結果、ヘブラーのピアノが、下手なお嬢様芸に毛の生えた程度にしか鳴らなかったら、
そういうものだと受けとめてしまうのか。

菅野先生は、バランスとか、解像力、力に対する対応がきちんとしていたとしても、
それだけでヘブラーのピアノが優美に歌うわけではない、というふうに語られている。

ヘブラーというピアニストは、その程度だよ、といってしまうのは簡単である。
けれど、少なくともヘンリック・シェリングと組んで演奏し、録音を残している。

シェリングは、ヘブラーとは違いダメなヴァオリニスト的な要素が強い演奏家では決してない。
そのシェリングと組んでいるだから、
ヘブラーのピアノは、非常に優美に歌って素晴らしく鳴ってくるべきともいえる。

そのためにスピーカーに要求されるのは、
音楽の響かせ方、歌わせ方であり、
ここのところにヘブラーのピアノの鳴らし方の根本的な違いがあるような気がする、とされている。

このヘブラーと同じような経験が、私にとっては(その6)に書いたことである。
また別の経験もしている。
別項「AAとGGに通底するもの(その6)」を中心に、そのときのことを書いている。
グールドは、ヘブラーとは違うタイプのピアニストであり、
ダメなピアニスト的な要素はまったくないにも関わらず、そういうふうに鳴ってしまったのを聴いている。

ステレオサウンド 54号でのヘブラーと、私が経験したグールドとでは、
いくつかのことが違っていて、必ずしもまったく同じこととはいえないし、
音楽的感銘、音楽の響かせ方、歌わせ方、それに音楽性といったことは曖昧な表現である。

そんな曖昧な表現で何がわかるのか、という人は、
測定データを提示しろ、と言いがちだ。
だが、測定データで何がわかるのか、といいたい。

そして「測定データ……」という人には、レコード再生はかろうじてできたとしても、
レコード演奏はまず無理だといっておく。

Date: 6月 29th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その9)

五味先生の「五味オーディオ教室」から始まっている私のオーディオにおいて、
瀬川先生の再生アプローチは、
五味先生の再生アプローチと同じである、と感じていた。

「五味オーディオ教室」にこう書いてある。
すでに三回引用しているが、やはりもう一度書いておく。
     *
 EMTのプレーヤーで再生する音を聴いて、あらためてこのことに私は気づいた。以前にもEMTのカートリッジを、オルトフォンやサテンや、ノイマンのトランスに接続して聴いた。同じカートリッジが、そのたびに異なる音の響かせ方をした。国産品の悪口を言いたくはないが、トランス一つでも国産の“音づくり”は未だしだった。
 ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
 私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
 そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
 極言すれば、レンジなどくそくらえ!
     *
周波数レンジもセパレーションもシュアーに及ばないEMTなのに、
コーラスのレコードをかけると、三十人の合唱が五十人に聴こえる、ということは、
どちらの再生が録音に対して、より正確かといえば、おそらくシュアーだったかもしれない。
EMTで三十人が五十人に聴こえる、ということは、
つまりはEMTによる味つけ、色づけといった演出の結果であろう。

でも、それが「音楽として」「美しく」鳴らしてくれるのであれば、
どちらをとるのか。

私の答は、はっきりしている。
改めて、オーディオは極道、音楽は修道。
このことが、ここに書かれていたと実感している。

Date: 6月 29th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その8)

瀬川先生が「いま、いい音のアンプがほしい」に書かれていたことに通じていくことは、
ステレオサウンド 45号にも書かれている。

45号は前号から続いてのスピーカーシステムの総テストで、
KEFのModel 105の試聴記に、
《かなり真面目な作り方なので、組合せの方で例えばEMTとかマークレビンソン等のように艶や味つけをしてやらないと、おもしろみに欠ける傾向がある。》
と書かれている。

ここにも《ゾクゾク、ワクワクするような魅力》を求められていることがあらわれている。
KEFのModel 105は、私も好きなスピーカーのひとつである。
瀬川先生の試聴記にもあるように、
《そこに手を伸ばせば触れることができるのではないかと錯覚させるほど確かに定位する》。

熊本のオーディオ店に来られたとき、
瀬川先生が調整されたModel 105を、そのワンポイントで聴くことができた。
かけてくださったのはバルバラのレコードだった。

バルバラが、まさにスピーカーの中央にいると錯覚できるほどの鳴り方だった。
瀬川先生が45号の試聴記に書かれていることが、よくわかる。

そこにEMTやマークレビンソンを組み合わせて、
《艶や味つけをして》ということは、
それだけEMT、マークレビンソンはそういう性格を強く持ち合わせているということでもあり、
これが瀬川先生の再生アプローチであり、組合せの考えであると、私は受けとっていた。

同時に試聴記は、単なる試聴記に留まっていては、
それはオーディオ評論家の仕事ではない、ということも感じていた。

Date: 6月 29th, 2016
Cate: audio wednesday

第66回audio sharing例会のお知らせ(今年前半をふりかえって)

7月のaudio sharing例会は、6日(水曜日)です。

昨日のブログにも書いているように、
電話で約二時間、オーディオについて語り合っていた。

今年のaudio sharing例会は、音出しをメインに行っている。
音出しは楽しい。
けれどオーディオの楽しさは、語り合うことにもあるんだ、ということを、
電話で話しながら、改めて感じていた。

一方的にオーディオのことを話すのではなく、語り合うことの楽しさ。
今回は音出しのことも含めて、語り合える場にできれば、と思っている。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 6月 28th, 2016
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(評論とブームをめぐって・その1)

昨晩、二時間ほど電話で話していた。
ほとんどがオーディオのことである。

あることについてたずねられたから、
以前書いたことと同じことを話した。
彼は同意してくれた。

わかってくれるだろうと思って話したことだし、すぐにわかってくれた。
彼は私より少し上の世代で、
相当にオーディオにのめり込んできているから、
オーディオが、いわば輝いていた時代を知っている。

だからこそ、彼ならば、すぐにわかってくれるだろうという予感があった。

昨晩話したことは「オーディオ評論をどう読むか(その2)」で書いていることだ。

輝いている、という表現をする。
けれど、その表現の裏には、その人・モノ・ことが光を発して輝いていいるのか、
誰か・何かの光を反射して輝いているのかがある。

つまり太陽と月との関係と同じである。
太陽ばかりの世界がいいとはいわないが、
月が自らを太陽と勘違いしてもらっては困る、とは思っている。
だから、別項で書いたようなことが起る、といえる。

何も人ばかりではない。
オーディオ雑誌もそうだ。
ステレオサウンドはある時期、輝いていた、といえる。
その輝きは、なぜあったのか。

そのことを考えている人は、編集部にいるのだろうか、とさえ思う。

ブームといわれる現象もそうだと思う。
ブームとは、ある種の輝きと捉えれば、
その輝きが何によってもたらされているのかを見極めれば、
繰り返しやって来るブームであっても、違いがはっきりとしてくる。

Date: 6月 27th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その7)

レコード(録音物)の再生における音楽的感銘とは、
いったいどこに存在しているのか。

このことを考えるとき決って思い出すのが、
瀬川先生の、この文章である。
     *
 ただ、SG520の持っている独特の色気のようなものがなかった。その意味では、音の作り方はマランツに近い──というより、JBLとマランツの中間ぐらいのところで、それをぐんと新しくしたらレヴィンソンの音になる、そんな印象だった。
 そのことは、あとになってレヴィンソンに会って、話を聞いて、納得した。彼はマランツに心酔し、マランツを越えるアンプを作りたかったと語った。その彼は若く、当時はとても純粋だった(近ごろ少し経営者ふうになってきてしまったが)。レヴィンソンが、初めて来日した折に彼に会ったM氏という精神科の医師が、このままで行くと彼は発狂しかねない人間だ、と私に語ったことが印象に残っている。たしかにその当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
 そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
 結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず、そうだとしたら、いまのレヴィンソンはむろんのこと、現在の国産アンプメーカーの多くの、徹底的に物理特性を追い込んでゆく作り方を主流とする今後のアンプの音に、それが果して望めるものかどうか──。
 だがあえて言いたい。今のままのアンプの作り方を延長してゆけば、やがて各社のアンプの音は、もっと似てしまう。そうなったときに、あえて、このアンプでなくては、と人に選ばせるためには、アンプの音はいかにあるべきか。そう考えてみると、そこに、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わいこそ、必要なのではないかと思われる。
     *
1981年夏、ステレオサウンド別冊の巻頭からの引用だ。

《ゾクゾク、ワクワク》を音楽的感銘と捉えれば、
(音楽的感銘は)録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、
それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワク(音楽的感銘)は蘇る筈だ、
ということになる。確かにこれは理屈だ。正しい理屈のように思える。

そう思っている人も多いのではないだろうか。
そうだとしたら、音楽的感銘をできる限りそこなわないように再生するのが、
正しい鳴らし方ということになる。

けれど瀬川先生がそうであるように、
《オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたい》
という人もいる。
それがどういうことであるのかは自覚している。
瀬川先生も書かれている。
《結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれず》と。

それを音楽的感銘といっていいものかどうか。
それはオーディオ的感銘ではないか、という人もいるはず。

けれどオーディオを介在させることで、
音楽的感銘をより高めようというする再生アプローチが、
瀬川先生の《レコードを演奏》するであったのだと、私は思っているし、
私自身がめざしているのも、そこである。

Date: 6月 27th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その6)

レコード演奏とは、レコード(録音物)を再生することである。
LPにしろCDにしろ、その他のメディアにしても、
演奏する、といっても、ただ再生しているだけではないか、という反論は以前からある。

レコード演奏、レコード演奏家という表現は菅野先生が提案されているが、
実はそれ以前にも「レコードを演奏する」という表現は瀬川先生によって使われていた。

瀬川先生にとっては、レコードをかける、という行為は、演奏する、ということだったわけだ。

瀬川先生、菅野先生のようにはっきりと言葉にしなくとも、
そういう意識でレコードをかけている人はいるはずだ。

こんな経験をしたことがある。
ある人のリスニングルームで、グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴いた。
グールドのディスクをかける、ということは音が鳴ってくる前からわかっていた。
それでも、鳴ってきた音は、まるでおそまつなテクニックのピアニストのようだった。

ゆったりしたテンポの変奏の場合がそうだった。
音がとぎれとぎれに聴こえてくる。
速いテンポで弾けないから、遅いテンポで弾いている。
そんな感じのする演奏になってしまっていた。

そこには深遠さは、すっかり霧散していた。
どうしてこういう演奏に堕してしまうのか、と思わず言ってしまいたくなるほどだった。

その人のシステムは、かなりのモノを組み合わせていた。
調整も熱心にやられていたように思われた。
オーディオへの思い入れも強いようだった。

それでも……、だった。
そこにグレン・グールドによるゴールドベルグ変奏曲の音楽的感銘はなかった。

オーディオは時として、こういうふうに音楽的感銘を著しくそこなうことがある。

Date: 6月 26th, 2016
Cate: オーディオマニア

どちらなのか(その5)

「五味オーディオ教室」でオーディオにのめり込んでいった私にとって、
五味先生がリスニングルームに来て下さる日を夢見ていた。

その日が何年後かもっと先のことになるのか、
まったく見当つかなかったけれど、その日を夢見てオーディオに精進していこう──、
そう思い始めていたころ、1980年に五味先生が亡くなられた。

五味先生に会えなかった……、
そのショックも大きかった。
五味先生にききたいことは山ほどあった。
いまもある。

けれどもうきくことはできない。何もきけなかった。
だから自分で考えていくしかない。
このブログを書いているのも、だからである。

これでよかったのかもしれない。
と思うとともに、この行為は極めようとしているのか、
修めようとしているのか、どちらなのか。
両方なのだろうか。