Archive for category テーマ

Date: 8月 29th, 2016
Cate: 測定

耳はふたつある(その2)

マイクロフォンを聴取位置に立てる。
けれど聴取位置とは正確にはどこなのか。
右耳の位置なのか、左耳の位置なのか。
右耳と左耳の中央なのか。

マイクロフォンを使った測定の経験のある人ならば、
マイクロフォンの位置がわずか違っただけでも、測定結果が同じにはならないことを知っている。
それは右耳の位置、左耳の位置の違いでもはっきりと出る。

しかも音は右耳と左耳の両方に入ってくる。
たとえ右側のスピーカーだけで音を出していても、
右側のスピーカーの音は右耳にしか入ってこない、ということは現実にはあり得ない。
右側のスピーカーの音は左耳にも、ほんのわずかな時間差で入ってくる。
左側のスピーカーの音は左耳だけでなく、右耳にも入ってくる。

ということは右側のスピーカーの測定を行う場合、
人が音を聴くのに近づけるには、マイクロフォンを二本使う、ということになる。

マイクロフォンを二本使っての測定は、ずいぶん以前に岩崎先生が述べられている。
週刊FMに連載されていた「カタログに強くなろう」に、こうある。
     *
 前置きが長くなったが、スピーカーの特性を前にすると、アンプと違って山や谷が細かく続き、さらに全体にまたがって大きな起伏がいくつもある。
 これは横の目盛が周波数で、縦の高さがそれに応じた音響出力だ。細かい山や谷は、周波数がわずかずれると出力が大きくなったり、小さくなったりするということを意味する。
 これは簡単な構造のようにみえるスピーカーの振動板が、実は細かい部分部分がそれぞれ別々の動き方をしているため、マイクとスピーカーの距離によってその各部の出力が、相加わったり打ち消し合ったりして、出力が増えて山になり、減って谷ができるわけ。
 ところで、そうした細かい山や谷は、実は耳で聴いたところほとんど気にならない。それは測定上の条件からできる山や谷であるからだ。もしスピーカー前方のマイクの位置を少しずらせば、山や谷のできる周波数もまた少しずれてくる。
 だから人間の耳のように約一六cm離れた二つのマイクで測定してこれを合成すると、山や谷はほとんどなくなって、特別の理由でできた山や谷と、全体の大きな起伏とがはっきりした形となり、それが音の傾向を物語るデータとなる。
     *
マイクロフォンを人間の耳のように離して立てる。
ならばダミーヘッドを使うという手もある。

Date: 8月 28th, 2016
Cate: audio wednesday, 柔と剛

第68回audio sharing例会のお知らせ(柔の追求・その6)

ハイレゾ、ハイレゾと囂しい。
ハイレゾという略語がいいとは思っていないから、よけいにそう思う。

と同時に、高域再生限界を拡げるために、
トゥイーターの振動板には軽くて剛性が高くて内部音速が速い素材が採用される。
ピストニックモーション領域の拡大のためである。

この手法は、いわば剛の追求である。
けれどスピーカーの世界(振動の世界)には、柔の追求もあると、
世紀が代ったころから考えるようになってきた。

柔の追求という視点で、これまでのスピーカー技術をもう一度みていくと、
古くから、剛の追求(ピストニックモーションの追求)とは違う動作方式、
つまり柔の追求からの方式があったことに気づいた。

ATM(ハイルドライバー)、ウォルッシュドライバーも古くからある。マンガーユニットもある。
まだまだ数は少ないし、剛の追求がメインストリームであることに変りはないだろうが、
柔の追求はスピーカーの動作方式だけではないと考えている。

デジタルにおいても、PCMはいわば剛の追求なのではないだろうか。
サンプリング周波数、ビット数をCDの44.1kHz、16ビットから増していくハイレゾは、
ピストニックモーション追求(剛の追求)と同じ性質といえよう。

ハイレゾにはDSDがある。
この方式は、デジタルにおける柔の追求といえるように考えている。

PCMとピストニックモーション。どちらも剛の追求である。
DSDと非ピストニックモーション。どちらも柔の追求である。

聴き手には、選択の自由がある。
PCMと非ピストニックモーション(剛と柔)、
DSDとピストニックモーション(柔と剛)も、現実には聴くことができる。

剛と剛、柔と柔、剛と柔、柔と剛とがあるわけだ。

ハイレゾ、ハイレゾと騒ぐのはいいけれど、
剛の視点、柔の視点、どちらからも捉えていくことを忘れてはならない、と思う。

9月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)。
今回はひさびさにゲストに来ていただく。

無線と実験にATMの記事を発表された渡辺成治氏が来てくださる。
ATMユニットを持参して来てくださる。

Date: 8月 28th, 2016
Cate: 型番

型番について(続々・三つの数字の法則)

SAECのトーンアームの三桁の数字の合計が11となることを、前回書いた。
なぜ11なのかは、11(いい)の当て字ということだが、それだけではないようにも思っている。

SAECの前身は(たしか)ジムテックである。
ジムテックがどういうメーカーだったのかは以前書いていることなので、くり返さない。
このジムテックであったことが、11という数字と関係しているように思う。

アルテックのウーファーといえば、515と416が有名である。
5+1+5=11
4+1+6=11
ここにも合計11がある。

ジムテック時代のスピーカーがどんなものであったのかを知っているならば、
アルテックのことを持ち出したのが、唐突でないことがわかってもらえるはずだ。

SAECが型番を三桁の数字にして、その合計が11になるようにしたのは、
アルテックの515と416と無関係とは思えない。

Date: 8月 27th, 2016
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その6)

モーツァルトのレクィエムとは逆に、
フルトヴェングラーによるマーラーは、第二次大戦後になる。

ナチス時代のドイツでユダヤ人作曲家のマーラーの作品の演奏は不可能だったし、
いかなフルトヴェングラーでも、それを覆すことも不可能だったのだろう。

フルトヴェングラーのマーラーは「さすらう若人の歌」が残されている。
フィッシャー=ディスカウとの演奏・録音である。

ここでのフィッシャー=ディスカウの歌唱は、
人生で一度きりのものといえる──、というのは、これまでに何人もの方が書いている。
その通りの歌唱である。

フィッシャー=ディスカウは何度も、その後「さすらう若人の歌」を録音している。
すべてを聴いてはいないが、フルトヴェングラーとの演奏を超えている、とは言い難い。
歌い手として成熟・円熟していくことが、すべての曲においてよい方向へと作用するわけではないことを、
フィッシャー=ディスカウが27歳のときの歌唱は証明しているように感じられる。

マーラーがユダヤ人でなかったとしたら、
ナチス時代にマーラーの演奏が可能だったとして、
さらにそのときに27歳のフィッシャー=ディスカウがいたとして、
いまわれわれが聴くことができる「さすらう若人の歌」が聴けただろうか……、
となるとそうとはいえないような気がする。

ナチス時代の終焉という戦後になされた「さすらう若人の歌」、
第二次大戦後、一度も演奏されることのなかったモーツァルトのレクィエム。
おそらくレクィエムを聴くことはできないであろう。
ならば想像するしかない。

Date: 8月 27th, 2016
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(結婚にあてはめれば……・その1)

以前、菅野先生にいわれたことを思いだす。
「結婚してもいい、とおもっている相手とは結婚するな。
 結婚したい、とおもっている相手としなさい」
そういうことをいわれた。

結婚してもいいと結婚したいは、根本のところではっきりと違う。
確かにその通りだ、と思って聞いていた。
オーディオ機器を選ぶことも、
スピーカー選びは、いっそう同じことがあてはまる、とも思っていた。

それからほぼ30年。
したいとしてもいいの違いのことを思い出しながらも、
実のところ、最良の伴侶は、したいとおもう人(スピーカー)ではなく、
してもいいとおもう人(スピーカー)の中にいてくれているかもしれない──、
そう考えるようにもなってきた。

したいという気持には思いこみも多分に含まれてもいよう。
結婚したいとおもっている人(スピーカー)と成就できれば、幸せであろう。

結婚生活は続く。
一ヵ月や二ヵ月といった短い時間ではなく、
もっともっもと永い時間を共にすごすうちに、
考えもしない、思いもしないことになることだってあろう。そうならないこともある。
どうなるのかなんてわからない、とも思うようになってきて、
意外にも、してもいいとおもっている相手との方がうまくいくことだって、
充分あり得るだろうとも。

正直、はっりきとしたことはわからない。
どちらがいいとか思っているわけでもない。

どちらであれ自分の元に来てくれる相手と生活を続けていく──、
ということぐらいしかいえない。

Date: 8月 27th, 2016
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その5)

フルトヴェングラーのモーツァルトのレクィエムは、
死ぬまでに聴きたい、と思う。
けれど、いまのところLPでもCDでも出ていない(はずだ)。

五味先生が書かれていた。
     *
 フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。(「死と音楽」より)
     *
これを読んでいるから、どうしても聴きたい、と思う。
録音が残っていないのか。

調べるとフルトヴェングラーがレクィエムを指揮したのは、1941年が最後である。
第二次大戦後は一度もレクィエムを指揮していない。

その理由はわからない。

Date: 8月 26th, 2016
Cate: 原器

オーディオ「原器」考(SPUと国産MC型)

オルトフォンのSPUは、鉄芯入りMC型カートリッジの原器といっていい存在である。
日本のMC型カートリッジにも、
SPU型といえるMC型カートリッジがいくつも存在していた。

コーラルの777シリーズ、デンオンのDL103シリーズ、アントレーのEC1、EC10、グレースのf10シリーズ、
ハイレクトの2017、ナカミチのMC1000、スペックスのSD909などがそうだ。
海外モデルではEMTのTSD15がある。

上記の国産MC型カートリッジは、構造によってふたつに分けられる。
コーラル、アントレー、グレースのグループと、
デンオン、ハイレクト、ナカミチ、スペックスのグループとにである。

手元にステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 2がある方は、
これらのカートリッジの内部構造図を比較していただきたい。
すぐに気づかれるであろう。

MC型カートリッジの構造はコイルの後にダンパーがあり、
さらにその後にはポールピースがあり、
ポールピースと向き合うようにマグネットが配置されている。

SPUではマグネットとポールピースは平行の位置関係にある。
カンチレバーはポールピースからまっすぐに出ている。

SPUのカートリッジ本体をGシェル(もしくはAシェル)から取り出してみると、
マグネットが斜めになっている。
そのため通常のヘッドシェルにSPUの本体を取り付けるためにはスペーサーが必要になる。
以前はオーディオクラフト、フィデリティ・リサーチからSPU用のスペーサーが発売されていた。

つまりトラッキングアングルの分だけSPUの本体は角度をつけて専用シェルに取り付けられている。
国産MC型のコーラル、アントレー、グレースのグループは、
SPUと同じで、ポールピースとマグネットが平行関係にある。

これだとカートリッジの内部でなんからのスペーサーを必要とする。
ならばポールピースとマグネットを平行の位置関係にせずに、
ポールピースをトラッキングアングルの分だけ傾けてしまえば合理的ともいえる。
デンオン、ハイレクト、ナカミチ、スペックスのグループが、これにあたる。

どちらが構造として優れているのだろうか。
SPU型ではない他のMC型カートリッジをみると、
ポールピースとマグネットが平行の位置関係であるモノが多い。

ちなみに構造をみれば、
ナカミチのカートリッジを製造していたのはスペックスだとわかる。

Date: 8月 25th, 2016
Cate: 型番

JBLの型番(D130)

JBLの最初の製品は、15インチ口径のD101である。
101は、最初の製品だから、ということなのだろう。納得がいく。

次に登場したのはD175である。
型番の数字が意味するのは、ダイアフラムの口径(1.75インチ)である。
納得できる。

なんとも不思議というか、なっとく出来ないのがD130である。
D101がアルテックの515に似ていた。
このこと以外にもアルテックの機嫌を損ねるようなことがあった。

D130は、そういう背景のもとに誕生したユニットであり、
このユニットこそがJBLの名声を一挙に高めていく。
けれど、なぜD130なのだろうか。
D102ではないのだろうか。

番号が飛びすぎている感がある。
なぜ130なのか、と以前から思っていた。

今日ふと気がついたのだが、JBLのB。
これを分解すると1と3になる。
もしかすると、そんなところから130という数字が生れたのかもしれない。

まぁ、こじつけである。
でも1946年、創立時の名称はJBLではなく、
Lansing Sound Incorporatedである。

アルテックからのクレームにより、
James B. Lansing Sound Inc.となる。

ここで加わったBが、13へと変化していった……。
それにしても、なぜ130なのだろうか。

Date: 8月 25th, 2016
Cate: オーディオの「美」

美事であること(50年・その2)

見事ではなく美事とすれば、
ステレオサウンドが50年を迎えることは、
オーディオ雑誌として季刊誌としては、見事とはいえようが、
いまの(というかここしばらくの)ステレオサウンドは美事といえるだろうか。

私は美事であってほしいと願っている。
願っているのだから、美事ではないと思っているわけだ。

これを書いている私も、あと10年すれば、
オーディオマニアとして50年を迎えることになる。

Date: 8月 25th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(映画と音)

映画「シン・ゴジラ」の公開にあわせて、
Huluは7月1日から、ゴジラの映画を一作目から順次公開していった。
ゴジラの公開のあとには、ガメラの公開が始まった。

ゴジラもガメラも、最初の数作を除いて、小学生のころ、映画館で観ている。
あのころの映画は、冒頭でタイトルが大きく映し出される。

タイトルの下には、決って”Litton-Westrex”のロゴがあった。
小学生には、それが何を意味するのかはわからなかったし、知ろうともしなかった。

仮に身近な人に、あれは何? ときいたところで誰も知らなかった、と思う。

いまはもちろん知っている。
そうか、このころの映画は、冒頭で表示されていたのか、
知らず知らずのうちにWestrexの名前を見ていたか、と思うと同時に、
いつのころからか、Litton-Westrexはなくなり、代りにDolbyである。

いまやほほすべての映画といっていいだろう、
映画のエンドクレジットにはDolbyのロゴが表示される。

Date: 8月 25th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 200号に期待したいこと(その2)

〆切本」が8月下旬に発売になる。
90人の書き手の〆切にまつわる話を収録したもの。おもしろそうな本だと思う。

9月になったら発売されるステレオサウンド 200号。
200号に、〆切話が載っていたら……、とちょっと期待してしまう。

瀬川先生、岩崎先生は遅かった、と聞いている。
それでも大関クラスで、横綱は五味先生だったそうだ。

私がいたころでも、〆切に関する話はいくつかある。
原田勲会長からきいた瀬川先生と五味先生の話は、実に興味深いものだった。

もしかするとステレオサウンド 200号に乗っているかもしれないから、
どういう違いがあったのかについては書かない。

Date: 8月 24th, 2016
Cate: ジャーナリズム
1 msg

オーディオにおけるジャーナリズム(ウィルソン・ブライアン・キイの著書・その4)

情報がBGM化していく時代のような気がしてならない。

情報はinformationだから、background informationでBGIか。
でも情報というよりメディアがBGM化していると捉えるならば、
background mediaだから、BGMとなる。

音楽の聴き方も、ある意味BGM(background media)的になりつつあるような気もする。
こう書いておきながら、こじつけようとしているのではないか、という自問もある。

それでもウィルソン・ブライアン・キイの「メディア・レイプ」とは、
こういうことを指しているのではないか、ともやっぱり思えてしまう。

その2)で書いているように、
ウィルソン・ブライアン・キイの「メディア・セックス」と「メディア・レイプ」は、
30年近く前に読んではいるけれど、タイトルだけが印象として残っているだけである。

ウィルソン・ブライアン・キイがどういう糸で「メディア・レイプ」と使ったのか。
不思議なくらいに思い出せない。

だから、ここでの「メディア・レイプ」は、
ウィルソン・ブライアン・キイのそれとは違う意味で使っている可能性がある。
それでもBGM(background media)とメディア・レイプはいまつながりつつある、
もしくは融合しつつある──、と考えるのは根本から間違っていることなのだろうか。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: prototype

prototype(L400とDitton 99)

L400とはJBLのコンシューマー用スピーカーの型番。
Ditoon 99は型番からわかるようにセレッションのスピーカーのことである。

L400? Ditton 99?
そんなスピーカー、あったっけ? となるのが当然である。
どちらもプロトタイプ留りで、市販されることはなかった。

L400については、ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界」’77年で、
岩崎先生が、その存在について語られている。
型番からわかるように、4343をベースにしたコンシューマー板である。
つまり4ウェイのシステムである。

L400については、当時の輸入元だった山水電気の西川さんに訊いたことがある。
プロトタイプは確かにできあがっていた、とのことである。

Ditton 99については「コンポーネントステレオの世界」’78年の巻末、
「新西洋音響事情」でセレッションの社長アルドリッジが語っている。

1978年春に登場予定だったDitton 99は、
38cm口径ウーファーに、20cm口径ミッドバス、上二つのユニットはドーム型が受け持つ、
これも4ウェイのシステムである。

アルドリッジは「我々もこのモデルには大きな期待を寄せています」と語っていた。

Ditton 66は30cm口径のウーファーに同口径のABR(パッシヴラジエーター)付きの3ウェイだった。
Ditton 99はウーファーがひとまわり大きくなる。
ABRは使われないのか、それとも付きなのか。
ABR付きだとしたら、Ditton 66よりも背の高いプロポーションになる。

けれど1978年春になっても出なかった。
代りに出たのはDitton 66の改良版といえるDitton 662だった。

ただDitton 662も、Ditton 66の改良版だったのか、と疑問に思うところもある。
セレッションはDitoon 662のあとに、SL6を1982年に出す。
SL6が話題になり、その陰にかくれるように1983年にひっそりと、
Ditoon 66 SeriesIIが登場しているからだ。Ditton 662 SeriesIIではなく、66に戻っている。

売れないと判断があって、L400もDitton 99も登場しなかったのだろう。
そうだとしたら、なぜ売れないと判断したのだろうか。
もしくは他に理由があったのだろうか。

私はどちらも聴いてみたかった。
特にDitton 99は、聴きたかった。
Ditton 66のことを考えていたら、Ditton99のことを思い出してしまった。

Date: 8月 23rd, 2016
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その8)

ステレオサウンド 42号についていたアンケートハガキ(ベストバイ・コンポーネントの投票)、
この記入は考え方次第で、楽にもなるし、考え込むことにもなる。

知っている範囲で、欲しいと思うコンポーネントのブランドと型番を、
各ジャンルで書いていくのであれば、楽である。
自分で買えるかどうかはこの際考えない。

とにかく「欲しい」と思うモノを記入していく。
その結果、どういう組合せになるだろうか。

ひとりの人間が「欲しい」と思うモノだから、
スピーカーにしてもアンプにしても、カートリッジにしても、
音の傾向がまるで違うモノが並ぶことは、原則としてはあり得ないはずだ。

けれど実際は違う。
編集部にとってアンケートハガキは、興味深いものである。
編集部に戻ってくるハガキの数は、読者のすべてではないことはわかっている。
送ってくる人よりも送らない人のほうが圧倒的に多い。

それでも最新号が書店に並んで数日後、
ぽつぼつとアンケートハガキが戻ってくるのに目を通すのは、楽しかった。

読者の選ぶベストバイ・コンポーネントの集計は、私が担当していた。
だからよくわかっている。
アンケートハガキには、投票機種の記入だけでなく、
現用機種の記入欄もあったから、そこから読みとれることはいくつもあるといえる。

感じたのは、意外にも組合せとしてちぐはぐに感じられるモノが並んでいるハガキがあること。
それも少なくなかった、ということ。

42号でのアンケートハガキでの記入で、
私がいちばん考えたのは、組合せとしてどういう音を聴かせてくれるのか、だった。

Date: 8月 22nd, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(藝術新潮より)

まず、これをお読みいただきたい。
     *
八百長、提灯持ち的記事 レコード、電蓄などに関する記事で時々八百長的、提灯持ち的印象を与えるのがある。原稿料は雑誌社が出すのか、メーカー側が受け持つのかと疑いたくなるものさえある。優秀品をよしとするのは一向に差し支えないが、度を過すと逆効果だ。質問欄なども公平で的確なのがある一方、雑誌によつて紐付き的解答もなしとしない。筆者と会社のコネを知つている者にはすく察しがつくが、一般読者はだまされる。商品のカタログ・データをそのまま持ち出しての推薦は無価値同然、これは店員のすることだ。読者もこれはホンモノか、これはヒモツキかと見抜く力が必要である。
     *
藝術新潮に載っていた。
1964年1月号であるから、52年前の文章だ。

誰が書いたのかはわからない。
載っているのは「日本版LP 1月新譜抄」の隣に、コラムとして、である。

「日本版LP 1月新譜抄」のところにも筆者の名前はない。
ただこれは西条卓夫氏が書かれたものであることはわかっているし、
そのことを知らなくとも読んでいれば、すぐに察しがつく。

コラムには「メーカー、レコード界への注文」とつけられている。
上に引用したのは、その一部でしかない。

電蓄をオーディオと、
よつて、知つている、を、よって、知っているに書き換えれば、
ほとんどの人が52年前に書かれたものだとは思わないはずだ。