Archive for category テーマ

Date: 5月 11th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(こだわる・その1)

再生音について考える必要はあるのか。
そう思われる人もいよう。
そんなこと考えなくとも、自分のシステムでいい音が聴ければいいのであって、
「再生音とは……」について、時間を割いてまで考えて何になるのか。

そういう人にとっては、この項はひどくつまらないであろう。

再生音はスピーカーから鳴ってくる音。
それ以上でもそれ以下でもない。

こんなふうに言い切れれば楽だ。
確かにスピーカーから鳴ってくる音が、再生音であるが、
それだけで再生音の正体について語っているとはいえない。

ステレオサウンド 38号の特集「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」、
その中で、井上先生が最後に語られている。
     *
 ほとんどすべての人間が生まれながらに現実の音に反応しているはずです。それが再生音になると、どうしても他人の手引きや教えばかりをもとめるのか。いい音というのは、あなたがいまいいと思った音なんてすよ、とぼくはいっておきたい。つまり結局は、ご自分で探し出すことでしかないんです。
     *
再生音だと、なぜそうなってしまうのか。
これを読んだ時から、ずっと心にひっかかっている。
ひっかかり続けているから、この項を書いている。

再生音の正体について考えず、正体がはっきりとわからぬままオーディオをやっていても、
いい音は出せる。
ならば、それでいいじゃないか。

そう思わないわけではない。
それでも再生音の正体をわからぬままオーディオをやっていくことに、
むなしさ(とまでいってしまうといいすぎに感じるが……)をおぼえる。

Date: 5月 11th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その2)

製品批評か商品批評か。
そんなことを考えていたら、少し違う意味での製品か商品か、があることに気づく。

ステレオサウンド始め、オーディオ雑誌は、
オーディオ機器をメーカー、輸入元から借りて試聴し記事をつくる。

記事で取り上げるオーディオ機器をすべて購入して──、
ということは現実には無理である。

オーディオ雑誌には広告が載っている、
そんな雑誌に書かれていることは信用できない、
広告なしでつくるべきだ──、
そんな意見がいまも昔もある。

わからないわけではないが、広告なしでオーディオ雑誌をつくろうとした場合、
何が問題になるかというと、雑誌の価格が高くなるということよりも、
取材対象となるオーディオ機器を、どう調達してくるかが、非常に難しい問題となる。

まったく方法がないとはいわないが、そうとうに大変になる。

オーディオ機器は、メーカー、輸入元から借りている。
このことも、製品か商品かに関係しているように思う。

ステレオサウンドにいるときは、そんなこと考えもしなかったが、
メーカー、輸入元から借りているオーディオ機器は商品なのだろうか。

オーディオ雑誌が、オーディオ店からオーディオ機器を購入したとする。
それを試聴して記事にするのであれば、商品批評ということになっても、
メーカー、輸入元から借りたモノを聴いて──、というのは、
商品批評ではなくて製品批評ではないのか。

Date: 5月 10th, 2017
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その22)

サンスイのLMシリーズを聴く機会はなかった。
LMシリーズのスピーカーは1975年に出ている。

まだ私はオーディオに興味をもっていなかった。
私がLMシリーズのスピーカーを知ったのは、1977年6月。
ステレオサウンド 43号特集ベストバイにおいてである。

でも、そこではLMシリーズの技術的特徴であるLMトゥイーターについて、
深く知ることはできなかった。
トゥイーター周りのバッフルが、
ウーファーよりも前面にあるという形だけが印象に残っていたくらいである。

LMトゥイーターについて知るのは、ステレオサウンドで働くようになり、
別冊「世界のオーディオ」のサンスイ号を読んでからである。

三井啓氏が、「サンスイに見るオリジナリティ」というタイトルの記事で、
LMスピーカーシステムの開発について9ページに渡って書かれている。

サンスイが全面的に協力しているムックだけに、開発の背景から測定データまで掲載されている。
LMシリーズのトゥイーター周りのバッフルは、前に突き出ているのか。

1977年には、すでにテクニクスからリニアフェイズのスピーカーシステムが登場していた。
コーン型ウーファーで、中高域がホーン型でなく、ドーム型、コーン型であれば、
ボイスコイルの位置はウーファーが奥まってしまうだけに、
テクニクスはスコーカー、トゥイーターの取り付けを階段状にしている。
フランスのキャバスのブリガンタンもそうである。

なのにサンスイのLMシリーズはウーファー、トゥイーター、
どちらもコーン型なのに、トゥイーターがさらに前に位置しているということは、
リニアフェイズということを無視してまで、ということになる。

音を聴く機会があれば、
もっと早くにLMトゥイーターの技術的特徴(マルチラジエーションバッフル)に興味をもっただろうが、
なにしろ聴く機会もなく、LMシリーズが普及価格帯のスピーカーということもあって、
サンスイ号を手にするまで、関心の対象外だった。

LMトゥイーター(マルチラジエーションバッフル)の考え方は、
立体バッフルともいえるし、ある種のホーンバッフルともいえるし、
振動板の前面と後面が逆相の一般的なユニットだけでなく、
同相のハイルドライバーにおいて、マルチラジエーションバッフルはうまく作用するかもしれない。

Date: 5月 10th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その2)

ステレオサウンド 56号の翌年の夏、セパレートアンプの別冊が出た。
巻頭の「いま、いい音のアンプがほしい」で、
アルテックの604EをマッキントッシュのMC275で鳴らした時のことを書かれている。
     *
 しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ、思ったものだ。
     *
620Bに搭載されているのは604-8Hで、
604Eとはホーンもフェイズプラグも、フレームもネットワークも違うから、
まったく同じには語れないにしても、同じ604であり、アルテックの同軸型ユニットである。

そうなると56号での《歌謡曲や演歌・艶歌》を、
女性ヴォーカルを受けとめた私の読み方は、それでいいんだ、と思った。

セパレートアンプの別冊が出た時には、上京していた。
とはいえアルテックのスピーカーを聴く機会はなかった。
当時はJBLが圧倒的だった。

JBLは、どのオーディオ店に行っても聴けた。
アルテックはそうではなかった。
展示はしてあったから、聴かせてほしい、といえば聴けたであろう。

けれど18の若造は、買う予定のないオーディオ機器を聴かせてほしい、とはいえなかった。
私がアルテックのスピーカーで、女性ヴォーカルを聴くのは、もう少しあとのことだ。

Date: 5月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その1)

川崎先生が、KK適塾でくり返し話されていた「製品と商品」。
5月4日のブログ「金網越しに道にまで花がある、その製品化と商品化」でも、
製品化と商品化について書かれている。

製品か商品か。
オーディオ評論が対象としているのは、どちらなのか、とその度に考えてしまう。

オーディオ評論の中には、個々のオーディオ機器の批評がある。
ここでのオーディオ機器を、
批評する側の人間(オーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者)は、
製品として見ている(聴いている)のか、
それとも商品としてなのか。
それとも、こんなことまったく意識していないのか。

批評の難しさがある。
広告があるオーディオ雑誌でのオーディオ批評には、それゆえの批評の難しさがさらにある。

製品批評の難しさと商品批評の難しさは、まったく同じとはいえないはずだ。

Date: 5月 10th, 2017
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その12)

(その11)に、facebookでコメントがあった。

そこには、
水俣病と病気扱いしたのが間違いである、と,まずあった。
たしかにそうである。
水俣病と、私も書いている。けれど、病気ではない。

コメントには、森永ヒ素ミルク中毒事件と同じくチッソ水銀中毒事件であり、
事件であるのだから、患者ではなく被害者とされるべきだ、と。

そうである、チッソ水銀中毒事件の被害者である。
(その11)でリンクしている産経ニュースの記事で、
原一男氏は
「説明不足で、差別意識があると受け止められても仕方がない発言をした。傷つけた患者や家族に謝りたい」
と語っている、とある。

ドキュメンタリー映画を製作している監督が、被害者ではなく患者と呼んでいる。
この原一男氏は、プロフェッショナルなのだろうか。

ドキュメンタリーをつくっていく人間として、
プロフェッショナルとしての非情を、原一男氏はもっていないのではないだろうか。

原一男氏にあるのは、無情だけかもしれない。

Date: 5月 10th, 2017
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その11)

さまざまなニュースが流されていっていく。
ある人は気にも留めないニュースであっても、
別のひとにとっては、絶対に見過せないニュースでもある。

このニュースがそうだ。
水俣病テーマの映画撮影中の原一男監督が「(患者は)文化を受け入れる部分がダメージを受ける」と発言 謝罪へ

映画監督の原一男氏の講演会での発言のすべてが読めるわけではなく、
その一部分だけである。
その前後に関しても情報はない。

それでも……、である。
原一男氏は説明不足といわれている。
そうとはとうてい思えない発言をされている。
見出しになっている発言よりも、はるかにひどい。

「(水俣病患者は)人間の形はしていても中身は人間でなくなる」

記事には、《参加者らから「患者への差別だ」と批判が出ている》とあるが、
これは差別という言葉でおさめてしまっていいとも思えない。

原一男氏の根底にあるのは、もっとひどい、別のもののような気がする。
それこそが「人間の形はしていも中身は人間でなくなる」ものではないのか。

Date: 5月 9th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その1)

ステレオサウンド 56号の特集(組合せ)で、瀬川先生がこんなことを書かれていた。
     *
 日本の、ということになると、歌謡曲や演歌・艶歌を、よく聴かせるスピーカーを探しておかなくてはならない。ここではやはりアルテック系が第一に浮かんでくる。620Bモニター。もう少しこってりした音のA7X……。タンノイのスーパーレッド・モニターは、三つのレベルコントロールをうまく合わせこむと、案外、艶歌をよく鳴らしてくれる。
     *
56号のころ、私は高校生。
クラシックをかなり聴きはじめていたころでもあるが、
グラシェラ・スサーナのうたう日本語の歌もよく聴いていたころだ。

だから、この一節が、他のところ以上に記憶に残っている。
グラシェラ・スサーナの歌も、《歌謡曲や演歌・艶歌》なのだから、
それを《よく聴かせるスピーカー》としてアルテックの620BとA7X、
タンノイのスーパーレッド・モニターを挙げられている。

グラシェラ・スサーナをよく聴いていたわけだから、
ここでの《歌謡曲や演歌・艶歌》は、女性ヴォーカルということになる。

瀬川先生は、ここでは男性ヴォーカルなのか女性ヴォーカルなのかは書かれていない。
どちらも、ということなのだろう。
それはわかったうえで、高校生であった読み手(私)は、女性ヴォーカルとして受け取っていた。

アルテックはアメリカのスピーカーである。
620Bはスタジオモニターなのでまだしも、
A7X(ドライバーが802-8Gに変更されている)は、元は劇場用であり、
私の中のイメージでは、男性ヴォーカルに向いている、というものだった。

高校までは熊本に住んでいた。
JBLはよく聴く機会があったのに対し、アルテックに関しては一度もなかった。

Date: 5月 9th, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その3)

瀬川先生の「コンポーネントステレオをすすめ」は1970年代の本であり、
そこに書かれていることは、そのころの話であるわけだ。

約40年前のオープンリールデッキ、
それも30万円というのはたしかにかなりのぜいたくなテープデッキである。

HI-FI STEREO GUIDEの’74-’75年度版で、2トラ38の30万円くらいの製品となると、
アカイのGX400D PRO(275,000円)、ソニーのTC9000F-2(250,000円)、
ティアックのA7400(298,000円)、ルボックスのHS77 MKIII(320,000円)ぐらいしかなかった。

国産のオープンリールデッキの高級機でも15万円前後が主流である。
’76-’77年度版をみると、30万円くらいの2トラ38機は増えている。
それでも30万円のモデルは、ぜいたくなテープデッキであることにかわりはない。

スピーカーもなければアンプもアナログプレーヤーもなく、
オープンリールデッキとヘッドフォンだけ、というスタイル(スタート)は、
現在では、ポータブルオーディオにヘッドフォン(イヤフォン)が近いようにみえる。

ポータブルオーディオもヘッドフォン(イヤフォン)も、そうとうに高価なモノがある。
スピーカーをあえて持たず、ヘッドフォン(イヤフォン)だけで楽しむ人たちがいる。

40年前のオープンリールデッキが、ポータブルオーディオにかわっただけには、
私の目には見えない。

40年前のオープンリールデッキとヘッドフォンの大学生は、
次にアンプ、それからスピーカー、アナログプレーヤーと買い足していったはずだからだ。

アンプもスピーカーもアナログプレーヤーも、
約40年前の30万円のオープンリールデッキと同等のモノを選び、
それを目標にアルバイトでかせいでいったはずだ。

オープンリールデッキとヘッドフォンの世界だけで完結していない。

Date: 5月 9th, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その2)

5月8日の川崎先生のブログ「ヘッドホンはまだワイヤード、そのコードも問題」、
冒頭の数行、
《美大入学直後のオーディオ装置は、
2chのオープンテープデッキと手に入れたあるメーカーのヘッドホンだけ。
オープン用の選び抜いたテープだけ10本も無く、ひたすら聴いていました。》
ここを読んで「あれっ、あのことは川崎先生のことなのか」と思った。

瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」の第二章、
「コンポーネントステレオを構成する」の中に、こんなことが書いてあった。
     *
 ある販売店にどこかの大学生が30万円ほどのお金を持ってやってきた。そして、38センチ2トラックの、つまり相当にぜいたくなテープデッキを買ったのだそうだ。大学生は店員に、ヘッドフォンを一個、おまけにサービスしてくれと頼んだ。
 こんなデッキを買う客だから、アンプやスピーカーもさぞかし高級品を持っているだろうと店員が質問すると、大学生は、いや、このデッキが僕の最初の買い物なんだ、アンプやスピーカーやチューナーは、この次の休暇のアルバイトでかせぐんだ、と答えたそうだ。それまでは、友人たちにテープをダビングしてもらって、このヘッドフォンで楽しむのさ……と。
 30万円あれば、ローコストのコンポーネントを一揃い揃えることもできるのに、彼は遠大な計画をたてて、建て増し式で高い水準の装置を揃えようとしている。一式30万円の装置でも、部分的に少しずつ入れ換えしながら、成長させることができなくはないが、しかしそれでは最初から低い水準のパーツでがまんしなくてはならないし、成長の完成したときに最初のパーツはほとんど姿を消してしまうだろう。右の実話のように、一度に完結しなくとも、大きな目標に向かって計画を少しずつ実現させるという考えを、私は好きだ。
     *
どこかの大学生は、川崎先生のことなのかもしれないし、
まったく別の人のことなのかもしれない。

オーディオは、男の趣味だとおもう。

Date: 5月 8th, 2017
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴとカートリッジのコンプライアンス(その3)

HI-FI STEREO GUIDEの’76-’77年度版をみると、
MC型カートリッジを出していた海外ブランドは、EMTとオルトフォンだけである。
当時日本に輸入されていた、という条件はつくけれど、
輸入されていなかったブランドで、MC型カートリッジを出していたところがあったとは思えない。

日本のブランドでは、コーラル、デンオン、ダイナベクター、フィデリティ・リサーチ、光悦、
マイクロ、サテン、スペックス、だけである。

これが長島先生の「図説・MC型カートリッジの研究」が出る1978年には、
オーディオテクニカ、アントレー、グレース、ハイレクト、ジュエルトーン、ナカミチ、
ソニー、テクニクス、ビクター、ヤマハ、フィリップスからも登場している。

「図説・MC型カートリッジの研究」以降MC型を出してきたブランドは、
アキュフェーズ、オーディオノート、エクセル、グランツ、ゴールドバグ、Lo-D、
ラックス、パイオニア、サトームセン、ソノボックス、YL音響、エラック、ゴールドリング、
リン、ミッション、トーレンスなどがあり、
それまで一機種しか出していなかったところからも、数機種登場したりしている。

MC型カートリッジのブームが来た、といえる。
ブーム前もそうなのだが、MC型カートリッジをつくり続けてきた、といえるのは、
日本のカートリッジメーカーであり、
MC型カートリッジのブームが来たのも、
海外で日本のMC型が高く評価されるようになってきたから、ときいている。
ブーム後に登場した海外ブランドのMC型も、日本製であるモノがいくつもあった。

ダイレクトドライヴを開発したのは、いうまでもなく日本のテクニクスであり、
テクニクスの成功に刺戟され、国内各社はダイレクトドライヴに移行した。

そのダイレクトドライヴの音質に疑問をいだかせるきっかけとなったMC型カートリッジを、
決して製造中止にすることなくつくり続けてきたのも日本のオーディオメーカーである。

Date: 5月 7th, 2017
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その2)

本の場合、それもイギリスの場合、
聖書とシェイクスピア全集、この二つは、
「無人島に……」という質問では除外される、という。

ようするに聖書とシェイクスピア全集は必ず持っていくわけで、
それ以外に持っていく本は何か、という質問ということになる。

このことは、イギリスで「無人島に……」という質問に答える人は、
聖書とシェイクスピア全集を持っている人、
持たないでいられるわけがない人ということでもある。

この前提を知らずに、
イギリスでの「無人島に……」の本のセレクトを見たところで、
その理由の理解はおぼつかない、ということになろう。

聖書とシェイクスピア全集。
レコード(ディスク)で、この二つに相当するものはあるだろうか。

ロック・ポップスを中心に聴く人たちにとっては、
ビートルズとあとひとつ何かなのだろうか。
ジャズだと、何になるのだろうか。

クラシックでは、マタイ受難曲ということになるのか。

Date: 5月 7th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスクのクリーニング(その2)

インターネットがもたらしたもののひとつに、
こちらが常識だと思っていたことが、意外に知られていない、ということがある。

オーディオに関しても、広く知られている、と思っていたことが、
そうではなかった、ということを何度も体験している。

こちらは常識だっと思っているから、相手も知っているものだと思い込んでいる。
相手が知らないことが、どういうことなのか、こちらにはわからない。
だからオーディオの話をしているときに、互いに、えっ!? となることがある。

この項に関することでいえば、
アナログディスクは硬くなり、弾力性が失われる、ということがある。

私の周りだけなのかもしれないが、
私と同じくらい、それ以上のキャリアのあの人でも、
意外に、このことを知らない人がいる。

アナログディスクは、基本的には塩化ビニール(PVC)である。
約85%ほどが塩化ビニールで、それに10数%の酢酸ビニール(PVA)が主材となっている。
その他に、染料や安定剤がわずかに加えられている。

安定剤は1%程度なのだが、
この安定剤があるからこそ、アナログディスクはくり返し再生に耐え得るし、
アナログディスク(LP)が登場して以来、
各レコード会社は安定剤を研究してきていた、といえる。

この安定剤を、一般的に無害といわれる蒸留水、アルコールは破壊する。

Date: 5月 7th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスクのクリーニング(その1)

別項「瀬川冬樹氏のこと(その5)」で、
瀬川先生の、カートリッジの針先とレコードのクリーニングについて書いた。

私のクリーニングも、基本的には同じである。
液体は、まず使わない。
その危険性については、瀬川先生からだけでなく、
他の方からも聞いているからである。

瀬川先生のカートリッジの針先のクリーニング方法は、
なんて乱暴な……、と思われる人がけっこういるのではないか。
瀬川先生自身は、慣れていない人には勧められない、といわれていた。

長島先生の針先クリーニングも、実は瀬川先生と基本的に同じである。
これも慣れていない人には勧められない。

クリーニングについての考えは、人によってかなり違う。
以前、液体の類は使わない、とあるところで書いたら、
けっこう攻撃的なコメントをもらったことがある。

高価なレコードクリーナーが、昔からいくつも登場しているのは、
クリーニング効果があるからだし、なぜ、それらを否定するのか、ということだった。

何も否定していたわけではなく、
あくまでも個人的に液体の類は使わない。
絶対に使わないのではなく、必要にかられれば使う。
基本的には使わない、ということであっても、理解してもらえなかった。

高価なレコードクリーナーとして、代表的な製品といえるのが、
イギリスのキースモンクスである。
1978年ごろ、MARK2が日本に入ってきた(輸入元は東志)。
価格は395,000円だった。1982年には495,000円になっていた。

MARK2は蒸留水とアルコールの混合液で洗浄、
洗浄液を吸引、その後の乾燥までを自動的に行ってくれる。

MARK2が登場したばかりのころ、究極のレコードクリーナーだ、と思っていた。

Date: 5月 7th, 2017
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その1)

音楽雑誌、オーディオ雑誌でも、
この手の記事が昔から続いている。

「無人島に流されることになったら、どのレコード(ディスク)を持っていくか」である。
音楽雑誌、オーディオ雑誌だからレコードであるわけだが、
一般雑誌では、どの本を持っていくか、である。

「無人島に流されることになったら……」、
この手の記事を読むのは楽しいけれど、
この質問をされたら、考え込んでしまうだろう。
レコードにしても、本にしても、何を持っていくのかは、
どれだけ持っていけるのかも関係してくるし、
無人島に流される期間が死ぬまで続くのか、
一年とか五年とか、その期限が来たら、元の生活に戻れるのか、
そういったこととと決して無関係ではない。

それにレコード(ディスク)の場合、
当然、再生装置が必要になるわけで、
無人島に電気があるわけないだろう、ということは無視して、
再生装置とそれが設置できる空間は用意されているという前提がなければ、
この手の質問は成り立たない。

再生装置もレコードと同じように選べるのか。
だとしたら、どういう再生装置を選ぶのか。

これもレコードと同じで、無人島に流される期間によって左右される。
それに持参するレコードによっても左右される。
レコードの選択自体も、再生装置によって左右される。

こんなふうに考えていくと、レコードの選択はできなくなるから、
「無人島に……」という質問(記事)の場合、
流される人が現在所有している(鳴らしている)再生装置が、
そのまま無人島での再生装置となる、という無言の大前提があるのだろう。