Archive for category テーマ

Date: 7月 8th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(買い方によって……・その4)

「このアンプはデザインで損している」とか「このスピーカーはデザインで得している」とか、
そういった評価にもならないことを聞くことがままある。

こんなことをいう人は、デザインを理解していない、と言えるし、
デザインを付加価値としてしか捉えていない。

「付加価値が……」男も、そう捉えている。
だから、損している、得している、といったことをいうのだろう。

つまり「付加価値が……」男は、得している、損しているといった次元で、
付加価値を捉えている(考えている)ともいえる。

そう考えると、秋葉原のヘッドフォン、イヤフォン専門店で、
二時間も試聴して、気に入ったモデルを見つけたにもかかわらず、
より安く買えるamazonでの購入を選んだ男も、
得した、損した、という次元でのものの考え方の範疇から抜け出せないのかもしれない。

損とか得とか、付加価値とは本来そういうものではないはずだ。
今回のイヤフォン購入の件で思うのは、この人はおそらく若い人であろう。

twitterは匿名だし、年齢がわかるわけでもないけれど、
いくつかのこの人のツイートを読めば、若い人だと思う。

若者は経済的余裕がない、
だから少しでも安いところから買う──、
そのことがわからないわけではないが、
それにしても……、と思うわけだ。

店で二時間も試聴しても、気に入ったモデルが見つからなかったのであれば、
買わずに店を出てもいい。

けれどそうではない。
目先の損得で、買わずに店を出ている。
しかもamazonで買ったことを、ツイートする。

イヤフォン、ヘッドフォンの専門店の店員が、そのツイートを偶然見つけたら、
あぁ、あの人か……、ということになろう。

Date: 7月 7th, 2019
Cate:

「音楽への礼状」より

 誰もが、あなたのようにゴーイング・マイ・ウェイでやっていけたらいいな、と思っています。ところが、願望は願望のままでとどまることが多く、なかなか思いどおりにはいきません。
 思ってはいても、なかなか思いどおりにいかない理由は、周囲の事情とかあれこれ、おそらく、いろいろあるでしょう。しかし、思いどおりにいかないもっとも大きな理由は、自分自身のなかで凛とした気性が欠如しているためのようです。あれやこれや、思いきってスパッと捨てられさえすれば、おのずとフットワークは軽くなる。にもかかわらず、望んでも、それがなかなかできない。そうとわかってはいても、実行がともなわないからです。
 仕事をすれば、その仕事を、一応はまわりのひとたちにも評価されたい、と思ったりします。他人に、たとえ表面的にであっても、うやまわれたりすれば、それなりに悪い気持はしません。多くのひとたちは、ともかく課長になりたいとか、あるいは、庭のある家に住みたいとか、さまざまな願望を胸にたたんで、毎日を生きることになります。そのようなことをあれこれ思いはかりながら人生をやっていれば、まるでバーゲンセールで不必要なものを買いこみすぎたときのように、階段をおりる足もともふらつきがちで、行動の自由をうばわれます。
 生活臭などというものには、不精髭ほどの愛矯もありません。しかし、そのことに無頓着なためでしょうか、髭は毎日しっかり剃るにもかかわらず、住宅ローンにやつれた顔を恥じようともしないひとがいます。ほんとうに大切なものはなんなのか、そのみきわめを怠れば、思いきりよくなにかを捨てられるはずもありません。あれもこれもと欲張るから、生活臭などという悪臭を周囲にふりまくことになります。生活臭という悪臭は、困ったことに、口臭に似て、当人はその臭いに気づかない。
(中略)
 あなたの、こだわりといったものがまったく感じられない仕事ぶりは、世俗の名声とか名誉とか、あるいは財産とかあれこれ、いずれにしても一服するときに飲むコーヒーほどの意味もないものを、いさぎよく無視したところでなされているように思われます。そのようにあなたによってうたわれた歌であるがゆえに、どの歌も、静かにほんとうのことをうたいます。
 残念なことに、ぼくらは、日々の生活をしていくうえで、小さな頭で姑息な計算をしつづけるウジウジした男やイジイジした女に会うことが多く、その結果、気分も、さっぱりせず、萎えがちです。そういうとき、北ヨーロッパのひとたちが輝く太陽をみたくて南に旅するときのような気持で、ぼくは、あなたのディスクをプレイヤーにセツトします。あなたのうたう、さらりと歌でありつづけている歌がスピーカーからきこえてくると、それをきくぼくは、自分のなかにも巣くっているウジウジやイジイジに気づき、これはいかん、と大いに反省したりします。
 過度に男を主張することもなく、楽しみつつさらりと男をやっているあなたの歌は、ぼくにとって、いつでもすがすがしく感じられます。
     *
黒田先生の「音楽への礼状」からの書き写してある。
ここでの「あなた」とは、ジョアン・ジルベルトである。

Date: 7月 7th, 2019
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(菅野沖彦氏のこと)

ステレオサウンドでの試聴のあいまに、菅野先生が話されたことを思い出している。

それがいつなのか正確には話されなかったが、
音というものがよくわからなくなった時期が、菅野先生にもあった、とのこと。

その時、菅野先生はラジカセを買いに行かれたそうである。
さすがにオーディオ店、電器店だと、
オーディオ評論家がラジカセを買いに来た──、
そんなウワサが流れることもあろうから、わざわざデパートで購入された、とのこと。

ラジカセで音楽を聴かれたはずだ。
どんなふうに聴かれたのか、
そこで何を感じられたのか、何を学ばれたのか、
いまになって強く知りたい。

あの時、きちんときいておけばよかった、と後悔している。

Date: 7月 7th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(買い方によって……・その3)

二言目には「付加価値が……」というオーディオマニアを知っている。
この「付加価値が……」男は、
差別化のためには「付加価値が……」というし、
デザインも付加価値だ、という。

こんな男と付加価値について話し合う気はまったくなくて、
「付加価値が……」男の考える付加価値とは、いったいどういうものなのか、
私は理解していないし、理解する気はまったくない。

それでも思うのは、「付加価値が……」男は、
おそらく付加価値とは、多くの人に共通するものだと考えているのではないか、である。

けれど付加価値とは、一人ひとり違う、と私は考える。
付加(附加)とは、読んで字の通りである。
つけ加えることである。

何を、誰がつけ加えるのか。
「付加価値が……」男は、メーカーがつけ加えるものとして考えているのではないか。

そうではない。
付加価値とは、一人ひとり違うものと考える私には、
それを手にした人によって、手にした状況によって、
そこにつけ加わるものである。

その2)で書いている買い方をした人にとっては、
付加価値よりも、少しでも安く買えることが優先されることなのだろう。

二時間もの試聴につきあってくれた店員は、
客(?)の顔を憶えていることだろう。

amazonで買わずに、この店で購入していれば、
その店員との関係が、なんらかの形で生れてきたはずだ。

このことが付加価値につながっていくはずだ。

Date: 7月 7th, 2019
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(その7)

この項の(その4)に、
audio wednesday常連のHさん(愛知のHさんと違う)から、facebookにコメントがあった。

グッドマンのAXIOM 150でのモノーラル再生は、
これまで経験のない音楽表現を聴くことができた、とあった。

これだけ、当日の音を聴いていない人の中には、
ノスタルジーに浸った音は思う人もいよう。

でもHさんは、決してノスタルジアといったことではなく、
一つの音楽表現(ピリオド奏法と同じようなもの?)としての経験、とされていた。

ピリオド奏法と同じ、とはいえないにしても、
確かにHさんがいわれるように、
ピリオド奏法と同じようなもの? と感じるのにつながっていく性質の音とはいえる。

ステレオ録音をモノーラルで聴いているわけだから、
録音されている情報量すべてが再生されている──、
そういう感じの音からは遠い鳴り方である。

しかも今回は歌ばかりを聴いていた。
聴く音楽がかわれば、印象もまた違ってこようが、
どの歌も、ここでの表現を逸脱するような表現を求めてくるわけではなかった。

そのこともHさんの印象に、いい方向に働いていたのかもしれない。

それでも(その5)の最後に書いた細工による音の変化は、
しなやかできっちりと表現してくれた。

それまではどこかナロウな感じがどこかしらつきまっていたが、
もうほとんど気にならなくなった。

この部分は、やっぱり、これだけの悪さをしていたのか──、
そのことを実感していた。

Date: 7月 7th, 2019
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(その6)

カセットテープの音に、どこかふわふわしたところを感じ、
それが安定感のなさにつながっているように感じもする私は、
熱心にカセットテープの音に取り組んできたとはいえない。

メタルテープが出れば、関心をもった。
もったけれど、メタルテープ対応のカセットデッキを買うにはいたらなかった。

ナカミチが1000ZXL、さらに1000ZXL Limitedを出したときも、
すごいモノだなぁ、と思いながらも、そのおもいに憧れは含まれていなかった。

なので1000ZXLを持っている人をうらやましく思うことはなかったし、
1000ZXLを買えるだけの余裕があるのならば、
ルボックスかスチューダーのカセットデッキが欲しい、と思っていた。

カセットデッキの性能として、1000ZXL以上は求められないであろう。
1000ZXLの音をきいたことがないわけではない。
700ZXLの音も聴いているし、
そのころNHK-FMで放送されたシルヴィア・シャシュのライヴを録音したとき、
ステレオサウンド試聴室にあったケンウッドのL02Tと700ZXLを使った。

カセットテープでも、これだけの音で録れるのか、と感心もした。
それでも、その録音したテープを聴くのには、ソニーのウォークマンWM2だった。

カセットテープと私とのつきあいは、その程度だった。
夢中になることはなかった。

7月のaudio wednesdayのテーマをカセットテープにしてからも、
だからといって、準備になにかやっていたわけでもない。

そんな私でも、いざ、ひさしぶりにカセットテープでの音楽をまじめに聴いていると、
こういう聴き方を忘れていたような感覚があった。

Date: 7月 6th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その10)

今年のOTOTENに出展していたESD ACOUSTICは、中国の若いメーカーである。

中国は、衣食住足りて、いま文化的なことに目を向けている──、
そういう意見を目にした。
ESD ACOUSTICは、そういう背景から生れたメーカーなのかもしれない。

日本の、1970年代のオーディオブームも、そうだったのかもしれない。
高度成長期を経て、文化的なことに目を向けるようになってのオーディオブームだったのか。

そうともいえるし、
そうだとしたら、衣食住足りて、いま文化的なことに目を向けている」ということでは、
日本と中国も同じなのか、という気もする。

けれど違う背景がある、とも思っている。
決して衣食住足りている、とはいえない時代に、
オーディオに真剣に取り組んでいた人たちが日本にはいた。

五味先生がそうだった。
芥川賞を受賞されるまでのこと、
受賞されてからも、それ以前の生活とたいしてかわらなかったこと、
剣豪小説を書く決心をされるまでのことは、
五味先生の書かれたものを読んできている人ならば知っている。

そうであっても、五味先生は、いい音を求めて続けられていたからこそ、
「オーディオ愛好家の五条件」の一つに、
「金のない口惜しさを痛感していること」を挙げられている。

五味先生だけではない、瀬川先生もそうだ。
ステレオサウンド 62号、63号の記事を読んで、瀬川先生の少年時代の家庭事情を知った。
瀬川先生も「金のない口惜しさを痛感している」人であった(はず)。

衣食住足りなくとも、オーディオに、音に情熱を注いできた人たちがいる。
衣食住足りている時代以前の背景が、
日本と中国とでは違うのではないだろうか。

中国に、五味先生、瀬川先生のような人はいなかったのではないか。
中国だけではない、他の国でもそうなのではないだろうか。

Date: 7月 6th, 2019
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(買い方によって……・その2)

amazonの日本語サイトが公開されたのが2000年。
一、二年経ったころ、インターネットで見かけるようになったのは、
書店で立ち読みして欲しい本を見つけたら、amazonで買う、というものだった。

そのころのamazonは書籍のみだったが、取り扱い品目は増えていった。
いまや何でも売っている。

そうなってくると、オーディオに限っても、
量販店や専門店で試聴して、インターネットで価格のいちばん安いところ調べ、そこで買う──、
そういう人が登場してきた。

今日、twitterを眺めていたら、フォローしている人がリツィートしている投稿が目に留った。

秋葉原にあるヘッドフォン、イヤフォン専門店で、
約二時間試聴して、気に入ったイヤフォンを見つけた。
それは三千円のイヤフォンであった。

気に入ったイヤフォンがいくらであってもかまわない。
試聴の二時間、一人の店員がつきっきりだったそうだ。

店員の心境はわからない。
気に入るイヤフォンが見つかってよかった、
その役に立てた、と喜んでいたかもしれない。

けれど、それはその人がその店が買ってくれれば、の話だろう。
二時間試聴した人は、そこでは買わずamazonで買った、そうである。

そんなことをツイートしているわけである。
少しでも安いところで買いたい、という気持はわからないわけではない。
それでも三千円が、どんなに安いところで買ったとしても、
半額になることはまずない。

せいぜい数百円の違いではないだろうか。
それでも、その人は二時間もの試聴を快く許してくれた店では買わなかった。

この人は、二時間の試聴につきあってくれた店員になんといって店を出たのか。
しかも、そのことを恥ずかしげもなくツイートする。

この投稿をリツィートしていた人は、
エントリークラスの商品が先細った理由の一つか? とコメントされていた。

Date: 7月 6th, 2019
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(Made in Japan・その5)

1991年ごろのことだ。
府中で、ある看板が目に入った。

木工の工房だった。
そこには、オーレックスのスピーカーの試作品を手がけていた、
そんなことが書かれていた。

そのころオーレックスは、本格的なオーディオから手を引いていた。
なので、その木工の工房も、東芝からの仕事が減ったかなくなったのか。

そのころの私は無職に近い状態だったから、
そこにスピーカー・エンクロージュアの製作を依頼する余裕はなかった。

それから十年くらい経っていただろうか、
その工房のあたりに行ったけれど、見つけることはできなかった。

工房はすでに閉めていたのか、
それとも私の記憶違いで、別の場所で探していたのか。

その後、何度かこのあたりを通りかかることはあった。
気をつけて見ていたけれど、見つけられなかった。

この工房が、オーレックスのスピーカーシステムの試作のどれだけを請け負っていたのか、
それはわからない。
試作品の大半を、この工房で作っていたのか、ごく一部だけなのか。

ただいえるのはエンクロージュアの試作品を外注していたことは確かだ、ということ。
このことが、当時の私には意外だった。

オーレックス(東芝)ほどの大企業でも、エンクロージュアの試作品を外注に出すのか。
自社で腕のいい木工職人を雇っていなのか。

他のメーカーはどうだったのか。
エンクロージュアの試作品は外注に出さず、すべて自社内で作っていたところは、
どのくらいあったのだろうか。

Date: 7月 6th, 2019
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(亀倉雄策氏のこと)

「長岡鉄男の日本オーディオ史 1950〜82」の42ページに、
《亀倉雄策、本格コンポ》とある。

長岡鉄男氏が、長岡鉄男というペンネームを使っていない時代、
《メーカー訪問、名曲喫茶訪問もふった、ステレオ・ユーザー・インタビューもやった》時代、
50人ぐらいの人のところに訪問されている。

三十人ほどの名を挙げられて、短いコメントがついている。
オーディオマニアとして知られている人が数人、そこにはある。

《藤井康男、龍角散社長、特注アルバトロスの無指向性システム》、
《荻昌弘、特注巨大コンポ》、
《柳家小三治、LE−8Tを使った本格的コンポ》などとある。

柳家小三治氏のLE8Tを使ったシステムを、本格コンポとはせずに、
本格的コンポとされているのに対し、亀倉雄策氏のは本格コンポ、である。

どんなシステムだったのか、詳細はわからないが、
当時の柳家小三治氏のシステムよりも、マニアックなものだったのか。

デザイナーの亀倉雄策氏はオーディオマニアだったのか。

Date: 7月 5th, 2019
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(その5)

AXIOM 150を鳴らすアンプ、MA7900には、5バンドのトーンコントロールがついている。
ふだんアルテックのスピーカーを鳴らす際には、パスしている。
まったく使わないというわけでもないが、ほとんどは使わずに鳴らしている。

でも今回はついている機能は、使わなければもったいないという感覚で、
慎重にいじる帯域もあれば、
かなり大胆にいじった帯域もある。

とはいってもトーンコントロールをいじっていた時間は一分ほどである。
もっと時間をかけてこまかくやっていけば、もっといい感触が得られたかもしれないが、
わりといい感じにまとまってくれたと思う。

どの帯域をどの程度動かしたかについて書いたところで、
条件が変れば、何の参考にもならないから省かせていただく。

大事なことは、どういう音にしたいのかという心象をしっかりと持った上でいじる、ということ。
ここでの心象とは、鳴らす音楽に対する「想像と解釈」からなる。

このあたりで、スピーカーもカセットデッキも調子を取り戻しつつある感じの音になってきた。
もうみんな黙って聴いている。

60代が一人、50代も一人、ぎりぎり20代が二人、
四人が黙って聴いていた。

音も変ってきたこともあるし、
耳のピントが合ってきた(なれてきた)ということもあろう。

ここまで来て、ひとつだけ細工をした。
TC-K555ESXでは片手がすぐにやれることである。
元に戻すのも片手でできることである。

それでも、このちょっとした細工による音の変化は、みなびっくりしていた。
TC-K555ESXは簡単にできるが、ほかのメーカーのデッキ、
ソニーのデッキでも時期の違うモデルになると、そうはいかないかもしれない。

けれど、どこのデッキであっても、ここでやったことは応用できるし、
そこでの音の変化は、今回の音の変化と同じ傾向をもつはず。

Date: 7月 4th, 2019
Cate: background...

background…(ポール・モーリアとDitton 66・余談)

その6)を書いたのがほぼ二年前。
(その7)以降を書くことを忘れているわけではない。

でも今回は(その7)ではなく、余談として、である。

ユニバーサルミュージックはメジャーレーベルで、
MQA-CDに積極的である。
今年の秋、また新譜が発売になる。

そこにポール・モーリアもMQA-CDで発売される予定である。
ポール・モーリアだけでなく、
いわゆるイージーリスニングと呼ばれていた音楽の代表的なものも出る。

ポール・モーリアをMQA-CDで出して、意味があるの? と思われるかもしれない。
でも日本フォノグラムが、当時ポール・モーリアのLPを、メタル原盤を輸入して発売していた。

それにずっと以前には、
ポール・モーリアのLPが試聴レコードとして使われていたこともある。

ポール・モーリアのMQA-CDなんて意味がない──、なんていいたくない。
積極的に聴いてみたいと思っているし、
できるならばセレッションのDittonシリーズのスピーカー、
Ditton 66かDitton 25で聴いてみたい、とも思う。

Date: 7月 4th, 2019
Cate: 公理

オーディオの公理(その8)

2017年秋だったか、
どこかのメーカーがBluetooth対応のスピーカーを発表していた。
アンプ内蔵なのは当然だが、このメーカーは真空管を採用していた。

そして「真空管でなければ出せない音がある」、
そんなことを謳っていた。

そういえばその数ヵ月後に、管球王国でも同じようなタイトルの記事を載せていた。

だが「真空管でなければ出せない音がある」は、
「真空管では出せない音がある」といっているのと同じである。

記事として充実させ、読んで面白い記事にするためには、
「真空管では出せない音がある」ことにも触れていく必要がある、と私は思う。

管球王国での、実際の記事がどんなふうだったのかは知らない。
でも、管球王国という雑誌名と、これまでの記事からして、そこまで踏み込んだ内容とは思えない。

「真空管でなければ出せない音がある」というのは、公理なのか。
公理といえば、そうかも……、とは私も思う。

真空管とトランジスターとでは、そこに使われている材料・材質、
構造がまるで異る能動素子である。

どれだけ回路を極めようと、この二つの能動素子が同じ音を出すということは、
まず考えられない。
その意味では、「真空管でなければ出せない音がある」は公理なのか。

これが公理になってくるのだとしたら、
「真空管では出せない音がある」も公理になってくるのではないか。

そういえば、公理は英語ではaxiomである。
昨晩audio wednesdayで鳴らしたグッドマンのスピーカーの型番には、
axiomがつく。

Date: 7月 4th, 2019
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(その4)

中学生だったころ、
ラジカセとの距離は近かった。
どのくらいかといえば、手を伸ばせばラジカセがそうさできるところに置いて鳴らしていた。
1mも離れていない。

そんな至近距離で聴いていた。
これは音量の問題というよりも、
少しでも多くの音を聴き取りたい──、
そう思っての、この距離の近さである。

音量をあげて、少し距離をとればいいじゃないか、といわれそうだが、
私が持っていたラジカセで、ほどよく鳴ってくれる音量と兼合いも関係してのことだ。

そのことを思いだしたから、
来られた方に、AXIOM 150の正面1mくらい床に直接坐ってもらって聴いてもらった。

AXIOM 150は中型くらいのフロアー型エンクロージュアにおさめられていて、
ユニットの位置(高さ)は、
ちょうど床に坐ったくらいが、耳の位置とユニットの位置とが合ってくる。

こうやって聴いていると、
中学時代のラジカセで聴いていたころの感覚がよみがえってくるような気さえする。

私が持っていたラジカセはフルレンジ一発だった。
トゥイーターはなかった。

喫茶茶会記の店主、福地さんにも、こうやって聴いてもらった。
喫茶茶会記の「店主日記」に、昨晩のことを書かれている。

Date: 7月 4th, 2019
Cate: きく

カセットテープとラジカセ、その音と聴き方(その3)

セッティングが終り、まずグラシェラ・スサーナを鳴らした。
グッドマンのAXIOM 150はしばらく鳴らしていなかったのだろう、
そんな感じのする音でもあった。

AXIOM 150は30cm口径のダブルコーンのフルレンジ型ユニット。
優に四十年以上前のスピーカーである。
五十年といってもいいだろう。

そういうスピーカーユニットなので、ワイドレンジなわけがない。
ほどよくナロウレンジの音が鳴ってくる。

カセットデッキのTC-K555ESXも、頻繁には使っていない、
つまり電源を入れていなかったのかもしれない。

とにかくしばらく鳴らし続けていた。
音は、それだけで変ってくる。

AXIOM 150でモノーラルで音を鳴らしながら、
アルテックのシステムのセッティングをしていた。

今回のテーマを思いついたときには、
ずっとAXIOM 150でモノーラルでだけ鳴らそうと考えていたけれど、
その後、喫茶茶会記の店主の福地さんが、
ソニーのラジカセ(ステレオの2ウェイ)を用意してくれた。

ならばアルテックも鳴らそうと考えを改めた。
とにかくそんなふうにして音を鳴らしていた。

ミュージックテープはステレオ録音である。
スピーカーは一本。
なのでアンプでモノーラルにして鳴らしている。

こういう鳴らし方だから、ヴォーカルのみ、といいたくなる鳴り方だ。
ヴォーカルの後方で、いろんな楽器が鳴っているけれど、
モノーラルゆえに際立つことはほとんどない。

聴いていて、そうだそうだ、ラジカセで、モノーラルで聴いたいたグラシェラ・スサーナは、
こうだった、と思い出していた。
同時に、あのころラジカセとは距離が、近かったことも思い出した。