Archive for category テーマ

Date: 11月 26th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その13)

2019年に登場した製品で、インパクトが最も強かったのは、
OTOTENに出展していた中国のESD ACOUSTICである。

インターナショナルオーディオショウでの、
テクダスのAir Force ZEROもあるけれど、
このモデルに関しては、実物を見るまでに、
けっこうな量の情報に触れていたから、インパクトという点ではやや色褪てしまう。

ESD ACOUSTICに関してはまったく知らなかっただけに、
ブースに入って、そのシステムの規模に圧倒された。

とはいえ、音だけでいえば、今年のオーディオショウで強く印象に残ったのは、
別項で書いているように、アクシスのブースでの、
ファインオーディオとFMアコースティックスの組合せによる音である。

この音は、また聴きたい、と思ったし、
日曜日にもう一度行こうかな、と思ったほどの音だった。

ESD ACOUSTICの音は、来年のOTOTENでまた聴きたい音である。
一年のあいだにどれだけ練り上げられているのか、それを確かめたいという気持が強い。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その29)

トリオのL07Cのことでは、瀬川先生の存在があった。
トリオの重役から、《殴りたいほど口惜しいよ》といわれるほどに書かれていた。
瀬川先生があれだけ書かなければ、L07CIIはL07Cと同じデザインだったであろう。

アキュフェーズのE800はどうか。
瀬川先生はいない。菅野先生もそうだ。
オーディオ評論家の誰も、E800のプロポーションのひどさについて書かないであろう。

ラックスのアンプのプロポーションに関しても、
それを擁護するようなことを書く人はいたが、プロポーションについて批判的なことを書く人は、
私が知る限り、誰もいなかった。

エソテリックのデザインに関しても、そうである。
むしろ褒める人がいる。

E800は12月発売のステレオサウンドに登場することはまちがいない。
ベストバイに選ばれるはずだし、ステレオサウンドグランプリでもそうであろう。

そこでE800のずんぐりむっくりのプロポーションについて触れる人はいるのか。
やんわりとでもいい、苦言を呈す人はいるだろうか。
後二週間ほどで、それははっきりする。

メーカーにとって、輸入元にとって、都合の悪いことは黙っておく方が、
オーディオ評論家(商売屋)にとっては都合がいい。

でも、それでいい、と本音で思っているのか、と問い質したい。
一人でも多くquality customerを増やしていくことを、
オーディオ評論家の役目だとは思っていないのか。

quality customerがいなくなることはない。
すでにE800のプロポーションのひどさにがっかりしている人たちはいる。

それでもquality customerではない人たちが増えてくれば、
メーカーはどうなっていくであろうか。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その28)

別項「オーディオがオーディオでなくなるとき(その9)」で書いたことを、くり返す。

マッキントッシュのゴードン・ガウの言葉だったと記憶している。

「quality product, quality sales and quality customer」だと。
どれかひとつ欠けても、オーディオの世界はダメになってしまう、と。

quality product(クォリティ・プロダクト)はオーディオメーカー、
quality sales(クォリティ・セールス)はオーディオ店、
quality customer(クォリティ・カスタマー)はオーディオマニア、
そういうことになる。

ステレオサウンドのウェブサイトの記事にある人、
大阪ハイエンドショウでE800の音を聴いて予約した人は、quality customerといえるのか。

アキュフェーズにとっては、すぐさま予約してくれる人、
しかもE800はプリメインアンプとしては高級品であるから、
そういう人は、いいお客さんであるはずだ。

いいお客さんが、quality customerかといえるかといえば、微妙でもある。
E800の音はいいのだろう。

インターナショナルオーディオショウで、
E800がファインオーディオのF1-12を鳴らしている音は聴いている。
短い時間だったが、まともな音で鳴っていた。

アクシスのブースでFMアコースティックスで鳴らした音を聴いた直後だっただけに、
印象にあまり残っていないということはあるが、
アキュフェーズらしい音であったし、きちんとした条件で聴いたら、
かなりいい評価をする可能性もある。

音はいいはずである。
少なくとも悪くはないはずだ。

だからしつこいぐらいに E800のプロポーションについて書いている。
音がよければ、それで満足するのか。
すぐさま予約することは、メーカーにとって、ほんとうにいいことなのか。

E800が売れた、としよう。
かなりのヒット作になれば、
アキュフェーズは、これからのアンプのデザインをどう考えていくのか。

quality productは、音さえ良ければ、優れていれば、それでいいのか。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その27)

オーディオ協会のfacebookが、
ステレオサウンドのインターナショナルオーディオショウの記事へリンクしている。
アキュフェーズの記事があるのを、それで知った。

《先般の大阪ハイエンドショウでも、E-800の音を聴いてすぐに予約をしたという方もいたそうだ》
とあった。
予約された人は、E800のずんぐりむっくりのプロポーションが気にならないのだろう。

それはそれでいい。
すべてのオーディオマニアが、私と同じように感じているわけでないことぐらい知っている。

またトリオのL07Cのことを持ち出すが、
L07CIIが出た、ということは、L07Cは売れていた、ということでもある。

瀬川先生はL07Cの音は認めても、デザインは酷評だった。
それでも抵抗なく使っている人はいたわけだ。

ステレオサウンド 49号で
《そのために私個人も多くの愛好家に奨めたくらいだが、ユーザーの答えは、いくら音が良くてもあの顔じゃねえ……ときまっていた》
と瀬川先生は書かれている。

瀬川先生の周りでは、L07Cのデザイン(顔)を認めていない人が少なからずいた。

結局、気にする人とまったく気にしない人がいる。
そのことは昔からそうだった。

けれど、そうだった……、ということで、これからも変らずでいいとは思っていない。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その17)

スピーカーが、同じ598という価格であっても、
KEFではなく、1980年代の598戦争時代の国産のスピーカーシステムであったなら、
AU-D707とAU-D607のどちらをとるかとなったら、あまり迷うことなくD707にするであろう。

そういえば303には、ウーファーを二発にした304というモデルもあった。
同時期に発売になっている。

おもしろいもので、304は、ほとんどというか、まったく話題になっていない。
304は見たこともない、なので音ももちろん聴いたことがない。

悪いスピーカーシステムではなかったはずだ。
なのに……、である。

日本ではそうだったのだが、イギリスではどうだったのか。
そのへんのこともわからないが、304を鳴らすとしたら、AU-D707にしたように思う。

何も同時代のスピーカーとアンプ同士で鳴らすのがベストとは考えていない。
古いスピーカーシステムを新しいアンプで鳴らす新鮮さは、確かにある。

ここでもくり返すが、303がメインのスピーカーであるならば、そうしただろう。
AU-D607で鳴らす303の音に、これといった不満は感じていないが、
それでも新しいアンプで鳴らしてみた音は、どんなだろう、とは想像してしまう。

想像はするけれど、そういう機会が訪れたとしても、
303はAU-D607で鳴らすことから、あえて逸脱しないようにしたい、とも思っている。

これはこれでいい、と満足することが大事だからだ。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その16)

サンスイのAU-D707とD607。
どちらがアンプ単体として優れているかといえば、D707であろう。

それにパネルデザインにおいても、D707のほうがいい。
D607もいいのだけれど、D707を見たあとでは、
ツマミが少なくなっていることが、どことなく足りないものがあるように感じさせる。

D607だけを見ていると、そんなふうには感じないのに、
D707と比較してみると、そう感じる。
D707の方が兄さんだな、とも思う。

その707は、D707になって電源トランスが二個から一個になっている。
この変更点をどう解釈するかは、いろいろある。

D607は左右独立電源トランスなのに、
上級機のD707は、前作707では左右独立だったのを左右共通にしているのだから、
理解に苦しむ──、という意見もあったはずだ。

電源トランスを左右チャンネルで独立させることのメリットもあればデメリットもある。
一つにまとめることも同じだ。メリットもあればデメリットもある。

サンスイがD707で目指した音では、電源トランスを一つにして、
その分大型にすることが効いているのだろう。
それはおそらく音の力強さとか充足感といったところと関係しているはずである。

D607では607が特色としていた音の面を活かす方向での、
左右独立電源トランスと出力段のトランジスターの数の少なさなのだろう。

井上先生がいわれている独特のプレゼンス、
菅野先生がいわれている音の空芯感、
これはD707にあまり感じられないところであり、D607ならではの音である。

サンスイのAU-Dシリーズにも、アンプの優劣は存在する。
それでも単なる優劣だけでなく、それぞれの価格のプリメインアンプとして、
このアンプならではの音のよさを失わないようにまとめあげている。

そこに気づくと、KEFのModel 303には、AU-D607をもってきたい。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: ディスク/ブック

金魚撩乱

岡本かの子の「金魚撩乱」を、今日知った。

いつからなのか美魔女なる言葉を、頻繁に目にするようになった。
調べてみると、光文社の商標登録になっている。
才色兼備の35歳以上の女性を指し、魔法をかけたかのように美しい、という意味とある。

美・魔女なのか、美魔・女なのか。
美魔・女だとしたら、美魔という表現があるのかと思い、検索してみた。

そうやってたどりついたのが「金魚撩乱」だ。
この作品に、美魔(びま)が出てくる。
     *
マネキン人形さんにはお訣れするのだ。非人間的な、あの美魔にはもうおさらば。さらば!
     *
美魔女はここからヒントを得たのだろうか。
だとしたら、美魔・女ということになるが、美魔女について、もうどうでもいい。

美魔であり、マネキン人形さんとは、真佐子のことだ。
復一の心情である。

オーディオマニアも、美魔にとり憑かれているのかもしれない──、
そんなことを思いながら読んでいた。

「金魚撩乱」の最後を引用しておく。
     *
「これこそ自分が十余年間苦心惨憺して造ろうとして造り得なかった理想の至魚だ。自分が出来損いとして捨てて顧みなかった金魚のなかのどれとどれとが、いつどう交媒して孵化して出来たか」
 こう復一の意識は繰り返しながら、肉情はいよいよ超大な魅惑に圧倒され、吸い出され、放散され、やがて、ただ、しんと心の底まで浸み徹った一筋の充実感に身動きも出来なくなった。
「意識して求める方向に求めるものを得ず、思い捨てて放擲した過去や思わぬ岐路から、突兀として与えられる人生の不思議さ」が、復一の心の底を閃めいて通った時、一度沈みかけてまた水面に浮き出して来た美魚が、その房々とした尾鰭をまた完全に展いて見せると星を宿したようなつぶらな眼も球のような口許も、はっきり復一に真向った。
「ああ、真佐子にも、神魚華鬘之図にも似てない……それよりも……それよりも……もっと美しい金魚だ、金魚だ」
失望か、否、それ以上の喜びか、感極まった復一の体は池の畔の泥濘のなかにへたへたとへたばった。復一がいつまでもそのまま肩で息を吐き、眼を瞑っている前の水面に、今復一によって見出された新星のような美魚は多くのはした金魚を随えながら、悠揚と胸を張り、その豊麗な豪華な尾鰭を陽の光に輝かせながら撩乱として遊弋している。
     *
復一がめざしていた金魚造りは、そのままオーディオマニアの行為そのものの描写のようでもある。

Date: 11月 25th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その12)

インターナショナルオーディオショウも終り、今年もあと一ヵ月と少し。
まだ三ヵ月ほど残ってそうな気がしなくもないが、あと少しで今年が終る。

先ほど公開した「資本主義という背景(その8)」が、9,900本目。
このブログの目標である10,000本まで100本となった。
あと少しで終る、という感じがようやくしてきた。

夏のあいだ、書いた本数が少なかった。
そのため10月、11月は遅れを取り戻さなければならなかった。
10月も11月も、9月の二倍は書いた。
遅れをどうにか取り戻した。

書き始めたころは、平成が終ってしまうとは思っていなかった。
平成のうちに10,000本書ける、と思っていた。

2019年をふりかえって、というより、
2008年から2019年までをふりかえって、である。
ようやくふりかえられるようになった。

Date: 11月 25th, 2019
Cate: 欲する

資本主義という背景(その8)

《恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性欲は恋愛と呼ぶに値しない》

芥川龍之介の「侏儒の言葉」にそう書いてある。

欲と慾の違いがよくわかっているわけではないが、
引用したことが真理であるならば、
欲と慾とは、詩的表現を受けていないか受けているのかの違いなのか。

だとすると、心の部分が詩的表現といえるのか。
そんなことをぼんやりと考えている。

Date: 11月 25th, 2019
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その5)

薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」の三番の歌詞、

 スーツケース いっぱいにつめこんだ
 希望という名の重い荷物を
 君は軽々と きっと持ちあげて
 笑顔見せるだろう

このところを聴きたくて、最初から聴いているところが私にはある。
だから「セーラー服と機関銃」を聴くときは、最後まで聴く。

ここのところの歌詞、
そういえば、と思い出した。

ステレオサウンド 38号で黒田先生が岩崎先生の音について書かれている。
《さびしさや人恋しさを知らん顔して背おった、大変に男らしい音》だと。

だから憧れるのか。

Date: 11月 25th, 2019
Cate: ショウ雑感

2019年ショウ雑感(その22)

この人はうまいな、と感じたのは、
ドイツのオーディオ誌STEREOの編集者(名前は失念した)によるものだった。
太陽インターナショナルのブースで、であった。

この人がうまい、と感じたのは、
おそらく聴き手として、こういう場に参加した経験がきっとあるためではないのか。

それも少なくない回数を体験している人なのではないだろうか。
話ばかりでもダメだし、音を聴かせるだけでもダメ。
話と音を聴いてもらう時間の比率が同じだとしても、
一時間の試聴で、前半30分が話だけ、後半30分を音を聴くだけでは、うまくいかない。

こんなことは体験している人ならば、みなわかっていることである。
なのに、いまでもそんな感じで進めていく人がいる。

そういう人たちは、オーディオショウに来場者として参加したことがないのか──、
そう思ってしまう。
各ブースで行われる試聴に参加したことがないのだろうか。

それとも参加したことが何度もあっても、
退屈と感じたらすぐに次のブースに移っていく人なのか。

オーディオショウでの、こういう場を、プレゼンテーションとは考えていないのか。

Date: 11月 25th, 2019
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その26)

瀬川先生のステレオサウンド 49号の文章には、L07Cのデザインを批判したことに対して、
トリオのある重役から
《デザインのことをああもくそみそに露骨に書かれては、あなたを殴りたいほど口惜しいよ。それほどあのデザインはひどいか、と問いつめられた》
とある。

これは大事なことというか、絶対に見逃せないことである。
問いつめてきたトリオの重役は、L07Cのデザインをひどいとは思っていないことがうかがえる。

L07Cを商品として世に送り出した、ということは、
この重役だけでなく、開発、デザインに携わった人たちだけでなく、
おそらく営業や広報の人たちも、
少なくともL07Cのデザインをひどい、とは思っていないのではないか。

ひどい、と思う人がいたならば、もう少しまともなデザインでL07Cは商品化されたはずだ。

今度のアキュフェーズのE800にしても、同じなのかもしれない。
アキュフェーズだけではなく、一時期のラックスもそうだったのかもしれない。
あのずんぐりむっくりしたアンプのプロポーションを続けていたのだから。

一人でやっている小さなオーディオメーカーだったら、こういうことはありうる。
すべてを一人でやっているわけだから、
そこで独りよがりな面が強く製品に顕れてしまうことはあっても不思議ではない。

でもアキュフェーズもラックスもエソテリックもトリオも、そういう会社ではない。
なのに、ひどいデザインのモノを世に送り出すのは、
つまりは、誰一人として、ひどいデザインだ、とは感じていないからなのだろう。

一人くらいはいたのかもしれない。
でも、その一人が声をあげられない雰囲気、
あげたとしても、誰もふり返られないのであれば同じことだ。

Date: 11月 25th, 2019
Cate: ユニバーサルウーファー

電子制御の夢(ウーファーの場合・その2)

MFBに関心をもった時期が、10代のころあった。
でもMFBについて知るほどに、大変な技術だと思うようになって、
こういう技術がほんとうにうまくいくのだろうか、という疑問もわいてきた。

そのころの私にはMFBがどういう技術なのかはおおまかにはわかっても、
MFB制御のシステムを自作することは技術的に無理だった、ということ、
それから実際にMFB採用のスピーカーを聴いたことがなかった、ということも、
MFBに関心をもたなくなった理由といえる。

それでもステレオサウンドでインフィニティのスピーカーにおいて、
MFBによる低音再生のすごさを一度でも体験すると、やはりMFBか、と思ったりもした。

それにヤマハからASTが登場した。
MFBとはいえないが、スピーカーのアース側に電流検出用の抵抗をもうけ、
そこからNFBをかけることでアンプの出力インピーダンスを、
ウーファーのボイスコイルの直流抵抗を打ち消すために負性抵抗にする技術と、
バスレフ動作との組合せによる低音再生の拡大には、
どこか挑発されているような気すらした。

低音再生は難しい。
オーディオの歴史は、低音再生の歴史ともいえるところがある。

難しいから避けて通るのか。
それも一つの手ではある。

実際に、オーディオマニアのなかには、低音なんていらない、
と極論をいう人もいる。

そこまでではなくても、低音を出すことによるデメリットよりも、
低音を出さないことのメリットをとる、という人もいる。

低音再生に消極的な人がいる。
私も、10代のほんの一時期、そんなふうに考えていたこともあるから、
その言い分もわからなくはない。

でも、そんな時期はとっくに過ぎ去った。
過ぎ去ったうえで、ユニバーサルウーファーについて考え、
MFBにこだわらなくとも、電子制御による低音再生は、
新しいアプローチが可能になってきたように感じている。

Date: 11月 25th, 2019
Cate: ディスク/ブック

音楽を研究する愉しみ

風響社から「音楽を研究する愉しみ」が出ている。

さきほど知ったばかりの本だ。
リンク先には目次と内容説明がある。

これだけで面白そうだな、と思えてきた。
南米、タイ、韓国、中国、ミャンマーの音楽についての研究の本のようだ。
南米音楽は聴くけれど、タイ、韓国、中国、ミャンマーの音楽にはさほど興味がない、
韓国の音楽は好きだけれど……、
そういう人は私も含めて少なくはないように思う。

南米、タイ、韓国、中国、ミャンマーの音楽すべてをかなり聴きこんでいる人は、
どれぐらいいるのだろうか。

だからといって、この本には関心がない、といってしまうのは勿体ないように思う。
まだ読んでいない、手にとってすらいない本なのだが、
「音楽の愉しみ」ではなく、「音楽を研究する愉しみ」であり、著者は五人、
学問分野や方法論の違いが当然あるはずだ。

そのうえでの「音楽を研究する愉しみ」である。

Date: 11月 24th, 2019
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その25)

ステレオサウンド 43号に、これが載っていた。
     *
 はじめて見たとき、この外観は試作品かと思ったほどで、デザインに関しては評価以前の論外といいたいが、その内容と音質は本格的な高級プリアンプで、ことに鳴らし込むにつれて音のデリカシーにいっそうの艶を加えながらダイナミックにステレオのプレゼンスを展開する音質の良さは特筆ものだ。それだけに、このデザインは一日も早く何とかしてもらいたい。いくら音が抜群でも、この形では目の前に置くだけで不愉快だ。
     *
トリオのコントロールアンプL07Cについての瀬川先生の文章である。
この文章からは、瀬川先生の怒りが感じとれた。

でも、当時中学三年だった私は、瀬川先生の怒りを、完全に理解していたわけでもなかった。
確かにL07Cのデザインは、お世辞にも優れているとは思えなかった。

それでも、ここまでの怒りの理由が、どうしても理解できなかった。
わかろうとはした。

49号でも、L07CIIのところで、こう書かれていた。
     *
 しかし07シリーズは、音質ばかりでなくデザイン、ことにコントロールアンプのそれが、どうにも野暮で薄汚かった。音質ばかりでなく、と書いたがその音質の方は、デザインにくらべてはるかに良かったし、そのために私個人も多くの愛好家に奨めたくらいだが、ユーザーの答えは、いくら音が良くてもあの顔じゃねえ……ときまっていた。そのことを本誌にも書いたのがトリオのある重役の目にとまって、音質について褒めてくれたのは嬉しいが、デザインのことをああもくそみそに露骨に書かれては、あなたを殴りたいほど口惜しいよ。それほどあのデザインはひどいか、と問いつめられた。私は、ひどいと思う、と答えた。
     *
《デザインに関しては評価以前の論外》、
《この形では目の前に置くだけで不愉快だ》、
《どうにも野暮で薄汚かった》、
L07Cのデザインを知らない人が読んだら、どれだけひどいデザインを想像するだろうか。

実を言うと、ごく短いあいだだったがL07Cを持っていたことがある。
友人が秋葉原のジャンクパーツ店で、数千円を売られていたのを買ってきて、
使わないからあげるよ、といってくれたモノだった。

L07Cが出て十年以上経っていた。
それでも瀬川先生の怒りの半分程度しか理解できていなかった、といまではいえる。