Archive for category テーマ

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その4)

ここでのアパッチとは、アメリカインディアンの部族名である。

「死の舞踏」がアパッチの踊りでは困るわけだが、
それでも実演であっても、どれだけ「死の舞踏」たりえているのかは、
当時でも疑問に感じていた。

けれどレコードを疑っていては、オーディオはできない。
それに「死の舞踏」を、バーンスタインのマーラーの録音から、
つまり旧録音から五味先生は感じとられていた、ということだ。

少なくとも五味先生のリスニングルームでは、
《悪魔が演奏するようにここは響いて》いるわけだ。

だからこそアパッチの踊りでは困る、とされている。

でも、いま読み返して、アパッチの踊りならば、まだいいほうじゃないか、と思っている。
(その2)で書いた人のリスニングルームでは、
バーンスタインの第五(新録音)が、
どう聴いてもウィーンフィルハーモニーが演奏しているとは思えないし、
それこそチンドンヤのように鳴っているだけである。
響いてもくれない。

別項「五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか」で、
《他人(ヒト)とは違うのボク。》と書いた。

確かにオーディオの自作の理由、大義名分はこれである。
けれど、出てくる音までが、極端に《他人(ヒト)とは違うのボク。》になってしまうと、
バーンスタインのマーラーの第五がチンドンヤ的に成り果ててしまう。

そこで、何を疑うのか。
自作スピーカーで聴いている、その人は、スピーカーの出来に自信をもっている。
それは悪いことではない。

けれど、バーンスタインのマーラーを「ラウドネス・ウォーだね」といってしまったのは、
明らかに自身のスピーカーではなく、
本来疑うべきではないレコード(録音)を疑ったことになる。

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その3)

書いていくことで思い出すことが次々と出てくることがある。
今回も「五味オーディオ教室」にあったことを思い出した。
     *
 最近、私は再生装置がもたらす音楽に、大変懐疑的になった。これまでずいぶん装置を改良するのに無駄金をつかい、時にはベソをかきながらつかい、そのたびによくなったと思ってきた。事実よくなっているらしい。人さまのどんな装置を聴かされても、うらやましいとはもう思わないし、第一、音がよかったためしがない。私ごとき音キチにこれは大変なことで、要するに、わが家の再生音は家庭でぼくらが望み得るもっとも良質な音のひとつを響かせているからだろう。
 が、装置のグレード・アップが、果たしてレコードの《音楽》そのものをグレード・アップしているか。いい演奏、いい録音、いい再生装置——これらは家庭で音楽を鑑賞するわれわれに重要な三条件だと、そう単純に私は考えてきたが、どうやら違う。
 いい演奏者といい録音、これはまあレコード会社にまかせるしかないが、どういう装置を選択するかで、究極のところ、演奏と録音をも選んでいる──その人の音楽的教養(カルショーの言う審美眼)は、再生装置を見ればうかがえると、私は思ってきた。しかし間違っていたようである。
 芦屋の上杉佳郎氏(アンプ製作者)を訪ねて、マーラーの交響曲〝第四番〟(バーンスタイン指揮)を聴いたことがある。マーラーの場合、第二楽章に独奏ヴァイオリンのパートがある。マーラーはこれを「死神の演奏で」と指示している。つまり悪魔が演奏するようにここは響いてくれねばならない。上杉邸のKLHは、どちらかというと、JBL同様、弦がシャリつく感じに鳴る傾向があり、したがって弦よりピアノを聴くに適したスピーカーらしいが、それにしても、この独奏ヴァイオリンはひどいものだった。マーラーは「死の舞踏」をここでは意図している。それがアパッチの踊りでは困るのである。レコード鑑賞する上で、これは一番大事なことだ。
     *
「五味オーディオ教室」を最初に読んだのは、13歳のとき。
マーラーの交響曲も何ひとつ聴いていなかった。
バーンスタインの名前は知っていても、
バーンスタインの演奏も何ひとつ聴いていなかった。

なので、そういうこともあるのか……、と思いつつ読んでいた。
「死の舞踏」がアパッチの踊りに変じてしまうのか。

そして、この時は、KLHがどういうスピーカーなのかも知らなかった。
上杉先生が鳴らされていたKLHは、屏風状のコンデンサー型スピーカーであることを知ったのは、
「五味オーディオ教室」から、そう経たずに手にした「コンポーネントステレオの世界 ’77」、
その巻末にリスニングルームがいくつか紹介されていた。

そこにKLHのスピーカーが写っていた。
といっても、上杉先生の部屋ではない。

それでもKLHがどういうスピーカーなのか、
少なくとも見た目だけはわかったし、
そのころには、ヴォーカルや弦の再生には、コンデンサー型が向くようなことは、
何かで読んでいた。

だから、「五味オーディオ教室」を何度目かの読み返しのときには、
それでも「死の舞踏」がパッチの踊りに変じてしまう、その理由について考えていた。

それにだが、
レコードから《悪魔が演奏するようにここは響いてくれ》るような音が鳴ってくるのか。
そういう音を鳴らすことそのものが、そうとうに難しいことなのではないのか。

そんなことを「五味オーディオ教室」をくり返し読むたびに考えていた。
ひたすら想像するしかなかったころのことだ。

Date: 5月 31st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その2)

バーンスタインのウィーンフィルハーモニーとのマーラーの交響曲第五番には、
バーンスタインによるマーラーならではの毒がある。

けれど、その毒を腑抜けにしてしまう音も、世の中にはある。
そういう音を好む人も、世の中にはいる。

そういう音を好む人が少なからずいるから、
私が、まったくいいとは思わない演奏が、世の中にはけっこう多くあるのか──、
とも思う。

ここでも、毒にも薬にもならない、ということを考えるわけだが、
そういえばと思い出すことを(その1)に書いていた。

四年前に書いている。
その時は、(その1)とはつけていなかった。
「夜の質感(バーンスタインのマーラー第五」がタイトルだった。

いま「毒にも薬にもならない」音について書いている。
昨晩、また違う意味での「毒にも薬にもならない」音になるのか、と思い出したから、
タイトルに(その1)とつけて、今日、この(その2)を書いている。

その音は、個人のリスニングルームでの音だった。
自作のスピーカーシステムだった。
(その1)にも書いているように、
中高域での機械的共振が著しくひどい構造であり、
オーケストラが総奏で鳴ると、もうどうしようもないくらいに聴感上のS/N比が悪くなる。

けれど、このスピーカーを自作した人は、そのことに気づかずに、
バーンスタインのマーラーの第五の録音を「ラウドネス・ウォーだね」と一言で決めつける。

スピーカーは耳の延長だ、ということがいわれる。
どういうスピーカーで聴くか、ということは、使いこなし以前に、
己の耳だけでなく、音楽を聴く感性をも、歪めてしまうことだってある。

その人が「ラウドネス・ウォーだね」といいたくなる気持はわからないではなかった。
そんな感じを人に与えるような音で、バーンスタインのマーラーが鳴っていた。

けれど、それは録音の所為ではない。
自作スピーカーの所為であることは明らかなのだが、本人だけが気づいていない。

そんなスピーカーから鳴ってきたバーンスタインのマーラーの第五には、
もう毒はなかった。
毒が抜かれてしまった、というのではなく、毒が変質してしまっていた。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

巧言令色鮮矣仁とオーディオ(その1)

別項で、「毒にも薬にもならない音」について、何度か書いてきている。

巧言令色鮮矣仁といえる音もまた、毒にも薬にもならない音であろう。

以前、「音を表現するということ(その4)」で、
優れたアナウンサーが、優れた朗読家とはかぎらない、と書いた。

アナウンサーはannouncer、つまりannounce(告知する、知らせる)人であり、
アナウンサーに求められるのは、情報の正確な伝達である。

ならばアナウンサーは、巧言令色鮮矣仁であってもいいのではないか。
巧言令色鮮矣仁がアナウンサーの理想なのかについては考えなければならないが、
仮にそうだとしたら、もっとも理想的なアナウンサーは、
これから先、AIがますます発達してきたら、人が読むよりも、
AIに読ませたほうが、より巧言令色鮮矣として、
より正確に情報を伝えてくれる可能性も考えられる。

アナウンサーは、人である。
男性か女性か、どちらかである。

けれどAIの発達は中性のアナウンサーを、見事につくりあげてくれるかもしれない。
中性的な男性、中性的な女性、そんな雰囲気の人はいても、完全な中性なわけではない。

完全な中性とは、どういうものだろうか。
両性具有が、完全な中性とは思えない。
性器をもたない者こそが、完全な中性だとしたら、
それはAIによるもののはずだ。

一方、朗読は、announceではなく、recite。
音楽や朗読などの少人数による公演は、recital(リサイタル)である。

ここに巧言令色鮮矣仁は、どれだけ求められるのだろうか。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(コメントを読んで)

(その12)に、facebookでコメントがあった。

ガソリン臭くて、燃費が悪くて、音がいっぱい出る、
そんな野性味溢れた車が好き──、
そういうことをいった人がいる、という内容だった。

クルマ好きのなかには、そういう人がいるのは確かだろう。
このコメントで私が興味深いと感じたのは、「燃費が悪くて」のところだった。

野性味溢れるクルマは、燃費が悪い、というイメージが、私にはある。
免許を持たない私の印象だから、事実かどうかはなんともいえないが、
スーパーカーと呼ばれるクルマであっても、昔のスーパーカーと現在のスーパーカーでは、
燃費に関しては改善されているはずだ。

この燃費は、いわば変換効率であって、
スピーカーに関しては、昔のスピーカーのほうが変換効率は高かった。
いわば燃費のいいスピーカーといえるわけだ。

このことは、ここでのテーマよりも、
別項「拡張と集中」に深く関係してくることでもある。

Date: 5月 30th, 2020
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(秋葉原で感じたこと・その9)

トロフィー屋としか呼べないようなオーディオ店で、
オーディオ機器を購入する──。

そこで扱っているオーディオ機器は、ひじょうに高価なモノばかりで、
ケーブルにしてもひじょうに高価なモノばかりで、
ケーブルなどのアクセサリーを含めたシステム・トータルの価格は、
数千万円はあたりまえで、ときには一億円前後にもなる。

そういう、まさしくトロフィー屋でオーディオ機器を買う、
買える、ということは、優越感を満たしてくれるはず。

まして、そこの常連ともなれば、まさしく優越感がそうとうに満たされることだろう。
そのこと自体を否定するつもりは、さらさらない。

買える人は、どんどん買えばいい。
けれど、どれだけ優越感をえられたとしても、それは幸福とはいえないはずだ。
どこまでいっても、優越感は幸福にはつながらず、快感でしかない。

快感はどれだけ重ねようと、
どれだけエスカレートさせようと、快感でしかない。

快感を幸福と思える人ならば、それでいい。
けれど、そういう人はオーディオマニアではない。

少なくとも五味先生と同じオーディオマニアではない。
まるで別種のオーディオマニアなのかもしれない。

Date: 5月 29th, 2020
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その12)

精度の高い音。
それを実現するのは悪いことではない。
いいことではある。

でも、それだけでは満足できないのを、
精度の高い音のスピーカーシステムを聴くたびに、感じてしまう。

精度の高い音を聴いていると、論語の巧言令色鮮矣仁が自然と浮んでくる。
まさしく巧言令色鮮矣仁といえる音が、意外にも多い。

こんなことを思っていたら、黒田先生が書かれていたこともおもいだす。
「音楽の礼状」で、こう書かれている。
     *
 ぼくらは、この頃、「論語」でいうところの、あの巧言令色鮮矣仁の教えを忘れすぎているように思われてなりません。
 みんながみんな、巧言の刃を研ぐことに専心して、そういえば仁などという野暮なものもあったっけな、といった感じです。たかができの悪い駄洒落としか思えないようなものを考えだしただけの広告文案家が時代の寵児になり、女優と浮名をながし、まんざらでもなさそうな様子で小鼻をひくつかせているのなどは、笑止千万です。しかし、それが、残念ながら、現代です。口八丁は、いつの頃からか、恥ずべきことではなくなったようです。ぼくの中学の校章は桃の花をあしらったものでした。当時、校長は、ことあるたびごとに、生徒たちを集めては、桃の木は美しい花を咲かせるので、その木の下にはおのずと道ができます、みなさんも、そういう、桃の木のようなひとになって下さい、というようなことをいっていました。生意気ざかりのニキビ面が校長のたれる、およそ新鮮とはいいがたい教訓に耳をすますはずもなく、横の列の女生徒のうなじでもつれている髪の毛など、ぽんやりながめていました。それでも、校長が口をすっぱくしてはなしたのは無駄ではなかったようで、ほんとうにすぐれているものは、自分からあれこれけたたましくいいたてたりしない、という程度の世間をみる場合の知恵となって、ニキビ面の頭脳にしみつきました。
 ニキビ面にもあれこれあって、それなりに生活などというものをはじめてしばらくたち、ふと、あたりをみまわしてみると、巧言が仁を圧倒し、あるはずの桃の木は、切り倒されたのか焼きはらわれたのか、影も形もありませんでした。なにからなにまで、真偽のほどはともかく、それなりに氏素性を誇り、しかるべき能書きで武装していました。高級料理屋でだされる料理では、彩りのために皿にそえられた笹の葉にまでそれなりのいわくがあったりして、よせばいいのに、それをまた、恩着せがましく口にするお節介な仲居がいたりします。冗談じゃない、俺は、パンダではないんだから、笹には興味ない!
 音楽家だけ、そのような時代の風潮から無関係でいられるはずもありませんから、硬・軟いずれの音楽界でも、まず、レコード会社なりコンサート・エージェントの考えだしたキャッチフレーズが、呼び込みの役割をはたします。音楽の世界にあっても、桃の木はみあたらず、巧言の輩ばかり跋扈するのか、とあやうく絶望しかかったりしますが、そこで絶望するのは粗忽者です。
(中略)
 この時代はスターの時代なのだそうです。そういう時代の要請をうけてと考えるべきでしょうか、ジャーナリズムとコマーシャリズムが結託して、似非スターや疑似スターを量産しつづけています。クラシック音楽の世界も例外ではないようです。似非スターも擬似スターは、いずれ無残にもメッキがはげ、忘れられていきますが、それでも、しばらくは時代の波にのって浮遊します。クラシック音楽の世界でもまた、似非スターや擬似スターのための、それなり効果的なキャッチフレーズを考えだし、「商売にする」時代です。かくして、ここでもまた桃の木をみつけるのが難しくなっています。
 鳴物入りで登場したニュースターの演奏をきいて、これはちょっとおかしいぞ、と思ったとき、ぼくは、いつでも、いわゆるスター性などという虚飾をとっくの昔に捨て、静かに音楽を紡ぎだすことにだけ専心しつづけているあなたがたの演奏に耳をすますことにしています。そのときのぼくの気持は、なにか困ったことにぶちあたって、遠い日に教えをうけた恩師の門をたたく落第坊主の気持に似ています。
 いい音楽には独特の静けさがある、と思います。おそらく、いい音楽には、巧言令色がないためです。ぼくは、あなたがたの独特の静けさをたたえた演奏が、大好きです。
     *
ボザール・トリオについて書かれたものだ。
音楽について語られているわけだが、そのままスピーカーについてもあてはまるし
オーディオ業界についてもそうである。

Date: 5月 29th, 2020
Cate: audio wednesday

第112回audio wednesdayのお知らせ(untitled)

2000年の終りごろにステレオサウンドから出た「音[オーディオ]の世紀」。
巻末に「21世紀に残したい至宝のディスク100選」がある。
十人の筆者が十枚ずつ、音楽ジャンルに関係なく選んだ記事だ。

菅野先生は、次の十枚を選ばれている。
 カルロス・クライバー/ウィーンフィルハーモニーによるベートーヴェン
 グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲(1981年録音)
 ジャン・ベルナール・ポミエのベートーヴェンのピアノソナタ全集
 シモン・ゴールドベルグの芸術の第一集、第二集
 ハリー・ベラフォンテの「BELAFONTE AT CARNEGIE HALL」
 ソニー・ロリンズの「SAXOPHONE COLOSSUS」
 カウント・ベイシーの「THE CANSAS CITY 7」
 アート・ペッパーの「Art Pepper meets The Rhythm Section」
 綾戸智絵の「life」

ジャン・ベルナール・ポミエ、シモン・ゴールドベルグは、
菅野先生らしい、と思った。
意外に感じたのは綾戸智絵だった。

そこには、こう書かれていた。
    *
本誌のテスト取材で朝沼予史宏さんの推薦で知ったCDだが、この人の弾き語りを聴いて唸った。まいった。テストに使ったトラックはスマップの「YOZORA NO MUKOU」で、僕は何を隠そうスマップのファンなのだが、彼女のこの曲の完全な消化と昇華はどうだ! 以来、このミュージシャンのファンになったのだ。綾戸智絵という生きてきた過去と生きる現在のすべてを、数分の音楽に完全に表現てきることができる天才だ! 録音は若干のノイズがあるが大変よい。これが彼女のアルバムのなかでは一番好きである。
     *
「life」は1999年の録音にもかかわらず、アナログ録音であり、SACDも出ていた。
私が「音[オーディオ]の世紀」を手に入れたのは、ずいぶん経ってからということもあって、
このCDも買い逃していた。

e-onkyoにも、これまで綾戸智絵のアルバムはいくつかあった。
けれど「life」はなかった。
いつか出るのか、と待っていたところ、
5月29日に配信がはじまった五枚のアルバムのなかに「life」があった。

96kHz、24ビットで、flacとWAVしかない。
ちょっと残念なのだが、MQAはない。

それでも嬉しい。
綾戸智絵の「life」も、6月3日のaudio wednesdayに持っていく。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 5月 28th, 2020
Cate: オーディオのプロフェッショナル

オーディオのプロフェッショナルの条件(その6)

オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)。
数年前から、こう書いてきているだけでなく、
現在オーディオ評論家(職能家)はいなくなった、とも書いている。

オーディオ評論家(商売屋)と、その人たちのことを思っているけれど、
それでも読評よりは、ずっとまとも、というか、
少なくとも自分の立ち位置だけは明らかにしている。
それがオーディオ評論家(商売屋)であったとしてもだ。

別項で「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」を書いている途中だが、
オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)をいっしょくたに捉えるのは、
ミソモクソモイッショである。

オーディオ評論家(商売屋)と読評に関しても同じだ。
いっしょくたに捉えては、やはりミソモクソモイッショである。

私が小学生だったころと記憶しているが、
一億総評論家といわれていた。

いつごろいわれていたのか検索してみたところ、
いまの時代も、そう呼ばれていることを知った。

個人的には、十年以上まえから、
一億総アーティストだと感じているし、
だからといって、一億総芸術家とは呼びたくない気持がある。

いまの時代が、再び一億総評論家時代なのは、
インターネットの普及、SNSの普及があるのは明白だ。

そういう時代に、オーディオの世界で読評があらわれてきた。
私が読評と呼んでいる人からは、一億総アーティスト臭がしている。
私一人がそう感じているだけなのかもしれないが。

Date: 5月 27th, 2020
Cate: audio wednesday

第112回audio wednesdayのお知らせ(untitled)

6月3日のaudio wednesdayには、
クインシー・ジョーンズの「BACK ON THE BLOCK」を持っていく。

1989年に出たアルバムだ。
当時、録音の仕事をしていた友人が「音、いいよ」と聴かせてくれたのが出合い。

友人が勤めていた小さなスタジオのスピーカー(ヤマハのNS10M)で聴いた。
音がいい。
確かにいい。
びっくりするほど、いい音に聴こえた。

買おう、と思ったけれど、このころはまったくといっていいほど仕事をしていなかった。
一枚三千円ほどのCDを買うのも躊躇うほどだった。

少し余裕ができたら買おう。
こんなことを思っていると、余裕ができた時にはほかのCDを買ったりする。
結局、買いそびれてしまった。

すると、今度は廃盤になっていたため、しばらく手に入らなかった。
縁がないCDなのか。

再発になったようだけど、その時は「BACK ON THE BLOCK」への興味をなくしていた。

4月、5月とほとんど出掛けずにいたら、
ふと「BACK ON THE BLOCK」を聴きたくなった。

インターネットにアクセスすれば、多少の音の悪さを我慢すれば聴ける。
でも、三十年ほど前の、あの音の感激はほんものだったのか、
それを確かめたくもなった。

喫茶茶会記のアルテックで、まったく気兼ねすることなく音量を、
どこまでもあげて聴きたい、と思うようになった。

こんなことを思ってしまうと、無性に聴きたくなってくる。
タワーレコード、HMVでも、いまのところ入手ができないようだ。

以前だったら、また縁がなかったのか……、と諦めるところだが、
新品にこだわらなければ、いまはいくらでも簡単に探せる。
ヤフオク!で検索してみると、けっこう出てくる。

いま聴くと、そうでもなかった、と思うのか、
それとも、やっぱり! と思うのか。

一週間後のaudio wednesdayが楽しみである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 5月 26th, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その22)

4月、5月は書店にほとんど行かなかった。
近所の書店は早仕舞していたし、
ほとんど出掛けずに過ごしていたこともあって、
4月、5月発行のオーディオ雑誌は見ていない。

ステレオ 6月号の特集「巣ごもりオーディオ」も、
オーディオアクセサリー 177号の特集「こんな時は、自宅でオーディオ三昧」、
どちらも見ていない。

どんな内容になっているのか、ちょっとは興味があるけれど、
なんとなく書店から足が遠のいてしまっている。

ステレオ、オーディオアクセサリー以外の雑誌も見ていない。
オーディオ関係の雑誌から、これほど遠ざかったのは初めて、といえる。

離れてみて、オーディオ雑誌がなくても、オーディオは楽しい、という、
至極当り前のことを実感している。

おもしろいオーディオ雑誌を読みたい、という気持は依然としてあるけれど、
オーディオ雑誌から離れても、何が変ったのだろうか、という気持が強くなってもいる。

ほかの人はどうなんだろうか。
定期購読している人は、発売時期には自宅に送られてくるから、読んでいる、という人、
書店が買うという人のなかには、私と同じように序店から足が遠のいてしまった人もいることだろう。

こう状況下だからこそ、オーディオ雑誌があってよかった、という人、
オーディオ雑誌がなくても、何も変らなかった、と感じている人、
いろんな人がいるはずだ。

今年はオーディオショウのほとんどが中止になっている。
オーディオショウから離れた一年といえる。

これでインターナショナルオーディオショウが中止になれば、
ほぼオーディオショウは開催されなかった、ということになる。

オーディオショウから離れた一年は、
私にとってのオーディオ雑誌と同じように、特になくてもいいや、
なくてもオーディオは楽しい、と思う人が出てくることだろう。

そんなふうに感じてている人は、
誰のためのオーディオショウなのか、と考えるかもしれない。

Date: 5月 25th, 2020
Cate: アナログディスク再生

歴史はくり返す(?)

ステレオサウンド 58号掲載の、
行方洋一氏の「東芝EMIのアドレス・レコードを聴く」から、少し引用したい。
     *
 さてレコード制作上で、重要な音質上のファクターとなるカッティング・マシーンに目を向けてみよう。現在の新らしいタイプのカッティング・マシーンは、メカをコントロールするコンピューター内蔵なのである。ミゾぎれやキッティング(ミゾとミゾがクロスしてしまうこと)が、このコンピューターによってサーボされるのである。むかしはカッティング・マンの職人的な感覚によって作られていたレコードのカッティングも、だいぶ変化してきているわけだ。カッティング・ヘッドをドライブするドライブアンプも、ハイパワーになり、カッター自体もハイパワー入力に充分たえられるようになったため、かつてのレコードにくらべて、カッティング・レベルも5dBや8dBは軽くレベル・アップされているのである。
 レベルの話で想い出すのだが、私は弘田三枝子の「ビー・マイ・ベイビー」というシングル盤で、大チョンボをやったことがある。この曲のイントロで、バス・ドラムがリズムをきざんでいたのであるが、その時代の再生機器は、さっきもいったようにたいへんクォリティが低かった。にもかかわらず、レベルをその時代ノーマル・レベルより、2dBほど上げてカッティングを行なって、このシングル盤を発売してしまったのである。発売して1週間ほどのあいだに、会社にはクレームの電話や返品が山ほど入ってしまった。というのは、イントロのバス・ドラムのアタックで、針がとんでしまうのである。2小節あるリズムパターンの、頭の小節の1拍目で、針が6小節ほど先にとんでしまうのである。
 レコードというのは、いつの時代でもユーザーの再生装置の水準をよく考えて、制作しなければならないのだという教訓を、実感させられたエピソードであった。このシングル盤は、最近の再生システムではビクともしないのだから、くやしい話だ。
     *
58号は1981年春号である。
約40年前のことを思い出したのは、facebookでの投稿を読んだからだ。

サニーデイ・サービスというバンドが、「いいね!」というアルバムをLPでも出した。
アナログディスク用のマスタリング、カッティングを何度か行い、
納得のいく仕上がりになった、とのこと。

けれど、そのアナログディスクを購入した人から、特定の箇所で針飛びするという指摘が、
何件かあったとのこと。

「いいね!」のアナログディスクのプレス工場で、
一般的なアナログプレーヤーと安価なプレーヤーとで検品して出荷したにもかかわらず、
ということでもある。

詳しいことはサニーデイ・サービスの曽我部恵一氏のtwitterで読める。

行方洋一氏の大チョンボとなった弘田三枝子の「ビー・マイ・ベイビー」は、
1960年代前半のころの話である。もう60年近い昔の話である。

にもかかわらず、同じことを2020年のいま起きている。

針飛びがするというプレーヤーでも、チェックしたところ、
問題なくトレースした、とのこと。

そのプレーヤーがどの程度のモノなのかは、はっきりとしないが、
再現してのチェックで、気温はチェック項目にあったのだろうか、とも思う。

アナログディスクは、行方洋一氏が書かれているように、
いつの時代でもユーザーの再生装置の水準をよく考えて、制作しなければならないだけでなく、
ユーザーの水準をよく考えて、制作しなければならないわけでもある。

Date: 5月 24th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

「オーディオの対岸にあるもの」について(その3)

毒にも薬にもならない──、という表現がある。
毒にも薬にもならない音、というのがある。

毒にならない音だから、一定水準以上の音であるともいえる。
少なくとも、けっして悪い音ではない。

毒にも薬にもならない──、
そういう録音について、以前、菅野先生と話したことがある。

誰の録音なのかは書かない。
けれど、その人の録音は、優秀録音として高く評価されている。

私はそれほど多くの、その人の録音を聴いているわけではないが、
確かに優秀な録音であるのは確かだ。

それでも、菅野先生が、毒にも薬にもならない、といわれたのはとてもよくわかる。

その人の録音だけでなく、毒にも薬にもならない音は、
再生音にも増えてきている、と感じている。

そして、そういう音が高く評価されているようにも感じている。
優秀な録音であったり、精度の高い再生音であったりする。

ケチをつけるというのを、あら探しを無理矢理するようなことなのかもしれない。
けれど「毒にも薬にもならない」のである。

そう感じる人がどのくらいいるのかというと、
いまでは少数のようにも感じている。

なぜ「毒にも薬にもならない」音が増えてきているのか。
誤解されたくない、という気持が根底にあるからではないだろうか。

Date: 5月 23rd, 2020
Cate: ロングラン(ロングライフ)

定番(その7)

定番といえるモデルをもつメーカーとそうでないメーカーがある。
型番だけが定番を受け継いでいるから、といって、
そのモデルが必ずしも、誰もがみてもはっきりと定番といえるわけでないことは、
日本のメーカーの製品には、少なくない。

型番は違ってきているけれど、定番といえるそうモデルはある。
QUADのコンデンサー型スピーカーシステムである。

現在のQUADコンデンサー型は、ESL2812、ESL2912となっているが、
1981年に登場したESL63と基本的に同じままである。

ESL2912はパネルが六枚になっていて大型化されたモデルだから、
ESL63のそのままとはいえないが、基本的に大きく違っているわけではない。

ESL2812はパネル数もESL63と同じである。
外観は多少は変更されている。

けれどサンスイのプリメインアンプの607、707、907シリーズが、
新モデルが出るたびに、別のアンプに変っていったこととは対照的である。

日本ではQUADのESL2812の存在はないに等しいのかもしれない。

さっきQUADの輸入元のロッキーインターナショナルのサイトをみたら、
スピーカーのところに表示されるのは、小型ブックシェルフ型のみで、
ESLは、そこにはない。

QUAD本家のサイトをみれば、そこには2812、2912ともにきちんとある。
製造中止になったわけではなく、ロッキーインターナショナルが取り扱いをやめたのだろう。

輸入元が取り扱いブランドの全製品を輸入しないのは、昔からよくあることだ。
日本市場では売れそうにないと判断されたモノは取り扱わないようだ。

たとえばハーベスのトップモデル、Monitor 40.2は、
まだMonitor 40だったころから気になっているモデルなのだが、
Mプラス コンセプトのサイトには、ずっと以前からいまも、Model 40のページはない。

Date: 5月 23rd, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その5)

オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人、
そこからはるか遠いところにいる人たちが、自身のことをオーディオマニアという。

このことは、ある世代に共通していえることなのか、
それともすべての世代に、こういう人がいるのか。

どうもすべての世代に、少しずついるように感じている。
その人たちの割合が多いのか少ないのかまではわからないが、
そういう人たちが老いていくほどに、ますます遠いところへ向っていく。

若いころは、己れとの闘いの体験も少なかったりするから、
未熟であってもいい──というか、未熟でないほうが逆におかしい。

最初から老成ぶっている若いオーディオマニアがいる。
いつの時代にもいる。

老成ぶることをかっこいい、と思っているのだろうか。
この種の人たちも、己れとの闘いの体験も少なかったりするような気がする──よりも、
もうそこから逃げてしまっている、目を逸らしているのかもしれない。

この種の人たちは、一生、老成ぶったオーディオマニアでいるつもりなのだろうか。
若いころから老成ぶっていた人は、老成することはないだろう。

この人たちも、また「おさなオーディオ」である。