夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その2)
バーンスタインのウィーンフィルハーモニーとのマーラーの交響曲第五番には、
バーンスタインによるマーラーならではの毒がある。
けれど、その毒を腑抜けにしてしまう音も、世の中にはある。
そういう音を好む人も、世の中にはいる。
そういう音を好む人が少なからずいるから、
私が、まったくいいとは思わない演奏が、世の中にはけっこう多くあるのか──、
とも思う。
ここでも、毒にも薬にもならない、ということを考えるわけだが、
そういえばと思い出すことを(その1)に書いていた。
四年前に書いている。
その時は、(その1)とはつけていなかった。
「夜の質感(バーンスタインのマーラー第五」がタイトルだった。
いま「毒にも薬にもならない」音について書いている。
昨晩、また違う意味での「毒にも薬にもならない」音になるのか、と思い出したから、
タイトルに(その1)とつけて、今日、この(その2)を書いている。
その音は、個人のリスニングルームでの音だった。
自作のスピーカーシステムだった。
(その1)にも書いているように、
中高域での機械的共振が著しくひどい構造であり、
オーケストラが総奏で鳴ると、もうどうしようもないくらいに聴感上のS/N比が悪くなる。
けれど、このスピーカーを自作した人は、そのことに気づかずに、
バーンスタインのマーラーの第五の録音を「ラウドネス・ウォーだね」と一言で決めつける。
スピーカーは耳の延長だ、ということがいわれる。
どういうスピーカーで聴くか、ということは、使いこなし以前に、
己の耳だけでなく、音楽を聴く感性をも、歪めてしまうことだってある。
その人が「ラウドネス・ウォーだね」といいたくなる気持はわからないではなかった。
そんな感じを人に与えるような音で、バーンスタインのマーラーが鳴っていた。
けれど、それは録音の所為ではない。
自作スピーカーの所為であることは明らかなのだが、本人だけが気づいていない。
そんなスピーカーから鳴ってきたバーンスタインのマーラーの第五には、
もう毒はなかった。
毒が抜かれてしまった、というのではなく、毒が変質してしまっていた。