Archive for category テーマ

Date: 3月 22nd, 2021
Cate: audio wednesday

喫茶茶会記とaudio wednesday(その1)

2020年12月31日に閉店した喫茶茶会記。
移転先は長野県茅野市、5月上旬には再開予定。

正式にオープンしたら、できるだけ早いうちにaudio wednesdayを再開する。
水曜日になるのか、別の曜日になるのか、
それによって名称も変るかもしれないが、夏が訪れる前にはやりたいと考えている。

Date: 3月 22nd, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(その9)

アメリカで録音されたのであればアメリカ盤を、
イギリスで録音されたのであればイギリス盤を買えば、
インターネットを介したデータの受け渡しが行われないか、といえば、
おそらく違うはずだ。

録音スタジオ、マスタリングのスタジオとプレス工場が同じ敷地内にあれば、
そうかもしれないが、たいていは違う場所にある。

そうなればアメリカ国内においても、スタジオからプレス工場へのデータは、
インターネットを介して行われているとみたほうがいい。

ヨーロッパになると、各国にプレス工場があるわけではなく、
やはりインターネットを介して行われているはずだ。

それは日本でも同じはずである。
日本で録音した場合でも、つまり日本にマスターがあっても、
プレス工場にはインターネットを介してデータが送られる。

インターネットを介しての音楽データは信用できない、と主張している人は、
こういうことを想像しないのだろうか。

つまり輸入盤しか買わないとしても、インターネットとまったく無縁でつくられるディスクは、
まったくないとはいわないが、ほとんどないといっていい。

もちろん、どの世界にも例外はあるから、
インターネットをまったく介さずに製造されるディスクもあるとは思う。
それでも、それらはごく少数なのではないのか。

勘違いしないでほしいのは、
デジタルはそういうことで音は変化しない、といいたいのではない。

Date: 3月 21st, 2021
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その28)

現代真空管アンプをどうイメージしていくか。
こまかな回路構成について後述するつもりなのだが、NFBをどうするのか。

私は出力管が三極管ならばかけないという手もあると考えるが、
ビーム管、五極管ともなるとNFBをかけることを前提とする。

NFBはほとんどの場合、出力トランスの二次側巻線から初段の真空管へとかけられる。
信号経路とNFB経路とで、ひとつのループができる。
このループのサイズを、いかに小さく(狭く)していくかは、
NFBを安定にかける以上に、
真空管アンプ全盛時代とは比較にならないほどアンプを囲む環境の悪化の点でも、
非常に重要になってくる。

プッシュプルアンプならば、初段、位相反転回路、出力段、出力トランス、
これらをどう配置するかによって、ループの大きさは決ってくる。

信号経路をできるだけストレートにする。
初段、位相反転回路、出力段、出力トランスを直線状に並べる。
こうするとNFBループは長く(大きく)なってしまう。

初段、位相反転回路、出力段、出力トランス、
これらを弧を描くように配置していくのが、ループのサイズを考慮するうえでは不可欠だ。

QUAD IIのこれらのレイアウトを、写真などで確認してほしい。
しかもQUAD IIは、出力トランスと電源トランスを、シャーシーの両端に配置している。

やや細長いシャーシー上にこういう配置にすることで、
重量がどちらかに偏ることがない。

出力トランスと電源トランスの干渉を抑えるうえでも、
この二つの物理的な距離をとるのは望ましい。

Date: 3月 20th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(その8)

1982年にCDが登場し、録音もデジタル方式に大半が移行していても、
海外から日本のレコード会社にマスターテープのコピーが送られてくることにかわりはなかった。

変ったのは、マスターがデジタルになったことぐらいだろう。
インターネットが普及し始めたころでも、それはかわらなかったはずだ。

かわってきたのは、常時接続が当り前になり、
高速回線が普及してからだろう。

さまざまな業界でデジタル化がすすみ、データの受け渡しは、
以前は光磁気ディスクやCD-Rなどにコピーして、
それらを相手先に届けるのはアルバイトだったり、
バイク便を使ってだったりだった。

いまではインターネットを介してのデータの受け渡しが当り前である。
原稿にしてもそうだし、もっとデータ量の大きなファイルであっても、
以前ならば何かにコピーして渡していたのが、
簡単に短時間で相手先に届くのが、いまのインターネットである。

そういう時代に、レコード会社がマスターテープのコピーを、
日本のレコード会社に送るだろうか。

コピーをつくるのにも時間とお金がかかる。
それを日本に送るのにもお金と、けっこうな時間がかかる。

いまでは、元のデータのコピーをつくることなく、クリックだけでわずかな手間と時間で送れる。
そんな時代なのだから、日本でMQA-CD、SACDを製造するにあたって、
マスターテープのコピーが、モノとして送られてくることはないと考えた方がいい。

元となるマスターが、インターネットを介して日本のレコード会社に送られてくる。
海外と日本のレコード会社間の光ファイバー回線が、
オーディオ用の特殊な回線であるなんてことは、もちろんない。

その経路は、TIDALのストリーミングで聴く際とほぼ同じはずである。
少し考えれば、すぐにわかることである。

ストリーミングやファイルのダウンロード、
つまりインターネットを介しての音楽データは信用できない、と主張している人は、
このことをどう捉えるのだろうか。

もしかすると、だから輸入盤しか買わない、というかもしれない。
いいそうである。

Date: 3月 19th, 2021
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その13)

部屋を横長に使うのか、縦長に使うのか。
私は、ほとんどの場合、横長に使う。

長辺側にスピーカーシステムを設置して、
左右のスピーカー間をできるだけ離せるようにするためだ。

それよりもスピーカーを後の壁から離すことのほうが重要と考える人もいて、
そういう人は縦長に部屋を使う。

人それぞれだから、
それにそれぞれに事情があって、
そこにしかスピーカーが置けない、ということだってあるから、
どちらがいい(悪い)とは決めつけないが、
私が望む音は、横長で使うほうが出てくることが多い。

左右にできるだけスピーカーを離す。
そんなことをすれば、中抜けが起るのではないか、という人がいる。

中央に定位する音が稀薄になるのは、私だってイヤだ。
イヤどころか、中央に定位する音は、しっかりあってほしい。

オーディオに興味を持ち始めた中学二年のころ、
ハイ・フィデリティよりもハイ・リアリティこそ望むことではないのか、
そんなことを考えていた。

スピーカーをできるだけ離して、しかも中央に定位する音がハイ・リアリティであってほしい。
そのための必須条件が、分離してはいけないアースの一本化である。

Date: 3月 19th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(その7)

インターネットを介しての音楽鑑賞に、懐疑的、否定的な人はいる。
どのくらいいるのはわからないが、少なくないと感じている。

先日、ある人から、こんなことを耳にした。
その人がたまたま読んだオーディオ関係の個人サイトに、
インターネットを介しての音楽、
それがストリーミングであろうと、ファイルをダウンロードしてのことであろうと、
伝送経路のクォリティを考えると、
とうていハイクォリティは望めない、という趣旨のことが書かれていた、とのことだ。

世の中に完璧な技術はないわけだから、
インターネットのベースになっている光ファイバーにしても、
完璧なわけでなはい。

それにTIDALのように海外にサーバーがあれば、かなり離れたところにあって、
そこから自分の部屋までの伝達経路を考えたら、気が遠くなる……らしい。

当然中継地点にブースターもあるだろう。
そのクォリティも当然音質に影響してくる。

もっといえば光ファイバーの設置の仕方も、そういうことに関係してくる──。

そう主張する人は、だからMQA-CD、SACD、Blu-Ray Audioなどに期待する、そうだ。

その話を聞いていて面白いな、と思っていた。
どんな人が、そんなことを主張しているのかは知らないが、
その人はMQA-CD、SACD、Blu-Ray Audioなどの物理メディアのマスターは、
海外レーベルからどうやって送られてくると思っているのだろうか。

アナログディスク全盛時代は、
マスターテープのコピーが海外から送られてきて、日本のレコード会社でカッティングしていた。
一部のレコード会社はメタル原盤を輸入して、プレスのみ日本で、ということをやっていた。

その場合、マスターテープのコピーにしても、メタル原盤にしても、
いわゆるモノが海外から送られてくるわけだ。

おそらく、いまもそうやって日本のレコード会社に届くのだ、とその人は思っているのだろう。

Date: 3月 18th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Alice Ader(その1)

2010年、最初に購入したCDの一枚が、
アリス・アデール(Alice Ader)による「フーガの技法」である。

このことは別項「AAとGGに通底するもの」にも書いている。
この「フーガの技法」で、アリス・アデールというフランスのピアニストを知った。

アデールの「フーガの技法」は、友人にもすすめた。
彼も、アデールの「フーガの技法」を聴いて、感動した、という連絡があった。

クラシックをメインに聴いていない友人に、
いつもお世話になっているから誕生日のプレゼントに贈ろう、と、
翌々年くらいに思い、注文しようとしたところ、入手できなかった。

いまはまた入手できるようになっている。
それにしてもアデールのディスクは、そう多くないというか少ない。

2010年1月、「フーガの技法」を聴いてから、
ほかの演奏も聴いてみたいと思ったものの、
タワーレコードもHMVでも、見当たらなかった。

なので、ずっとアリス・アデールに関しては「フーガの技法」だけしか聴いてこなかった。

ここまで書けば、察しのいい方ならば、またTIDALか、と思われるだろう。
そうTIDALである。

昨晩、ふとアリス・アデールはあるのか、と検索したら、
「フーガの技法」だけでなく、モンボウ、モーツァルト、スカルラッティ、ラヴェル、
ムソルグスキー、フランクなどがある。

これらのCDは、日本でも現在入手できるのかと検索してみたら、
数枚は入手できるようだ。
でも半分にも満たなかった。

とにかくTIDALがあれば、アリス・アデールが聴ける。
昨晩は、だからアリス・アデールを二時間ほど聴いていた。

今日、早起きする必要がなかったなら、すべての録音を聴き通したいほどだった。

Date: 3月 17th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Bach: 6 Sonaten und Partiten für Violine solo(その6)

一年前に、
シゲティのバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータのLPが出た。
そのときに、MQAで聴けないものか、と書いた。

昨秋、TIDALに入った。
シゲティのアルバムはTIDALにもある。
けれどMQAでは、いまのところ聴けない。
そんな日が早くきてほしい、とおもっているところに、
SACDが近々発売になる、というメールがタワーレコードの新譜案内のメールに載っていた。

案内には、Vanguard Classic提供のハイビット・ハイサンプリングのマスターをもとに、とある。
期待できそうだ。
と同時に、ならばそのままMQAでTIDALで配信を始めてくれれば、さらに嬉しい。

TIDALもあるから、聴けるバッハの無伴奏の数は多い。
それでもくり返し聴くのは、ここ十年以上そう変っていない。

シゲティをよく聴く。
だからSACDの登場は、待ってました! という心境だ。

Date: 3月 17th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その32)

いい音、
それも再生音でのいい音とは、どういうことなのか。

いろいろこまかなことを書いていけば、きりがないほどにあるように感じている。
それでも、菅野先生が提唱されたレコード演奏。

この考えに賛同する人もいれば、無関心な人、完全否定する人もいる。
それでも、いい音ということに関していえば、
レコード演奏と呼べる音は、やはり、いい音である。

では、レコード演奏と呼べる音、
再生音でのいい音とは、簡潔にいうならば、
花が咲いた音だと、最近思うようになってきた。

そして、どこかオーディオマニアは、つぼみのままで、あれこれいいすぎたり、
こだわりすぎているようにも感じている。

懸命につぼみを大きくしようとしたり、きれいにしようとしたりする。
花を咲かせてこそ、いい音であり、
それこそレコード演奏と呼べる音だ、といいたい。

つぼみを愛でるのも、趣味といえばそうである。
つぼみのまま楽しむのも、人それぞれだから、そういう趣味もあっていい。

それでも、花を咲かせたい。
そういう音でこそ、好きな音楽を聴きたいものである。

Date: 3月 16th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(その2・あと少し補足)

夜おそくなると、iPhone 12 proとHiByのFC3を使ってヘッドフォンで聴いている。
もう少しグレードの高いヘッドフォンにしようかな、とおもうこともあるが、
そうしたら今度はD/Aコンバーター/ヘッドフォンアンプ(FC3)ではもの足りなくなり、
こちらももっとグレードの高いモノにしたいという欲がわいてくるのは必定なので、
全体のバランスを考慮すると、このままのほうがいい。

再生用アプリはAmarra Playである。
アプリ内課金によって、MQA再生(コアデコード)とTIDALが聴けるようになる。

抜群にいい音とはいわないけれど、
TIDALで気に入ったアルバムを見つけると、つい聴き入ってしまうことが増えてきた。

次の日の起床時間を考えるとそろそろ寝ないと……、と思いつつも、
ついついあとすこし、もう一曲と聴いてしまう。

だから気に入っているシステム(というほど大袈裟な構成ではない)だ。
けれどAmarra Playは、曲順が、本来のあり方と違ってしまうことが意外と多い。

アルバムの収録曲数が多いほど、順番が入れ替わる傾向がある。
きちんとなっているアルバムもある。

なのでクラシックでオペラや全集ものなどは、楽章ごとに違う曲になることだってある。
以前から指摘されていることなのに、いまだ修整されていない。

この点が残念なのだが、それでも代りのアプリが見つからなければ、
まだまだ使い続けていくであろう。

Date: 3月 16th, 2021
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その31)

辞書(大辞林)には、再生のところにこうある。

(1)死にかかっていたもの,死んでいたものが生き返ること。蘇生。
(2)心を改め,くずれた生活からまともな生活に戻ること。更生。「—を誓う」
(3)廃品となったものを再び新しい製品に作りなおすこと。「—した紙」「—品」
(4)録音・録画したものを機械にかけてもとの音・画像を出すこと。「映画の名場面を—する」「—装置」
(5)再びこの世に生まれること。「弘法大師を—せしめ/文明論之概略(諭吉)」
(6)失われた生体の一部が再び作り出されること。下等生物ほど再生能力が強い。
(7)〔心〕 記憶の第三段階で,記銘され保持された経験内容を再現すること。想起。

オーディオで、再生といえば四番目の意味が常識となっている。
だからこそ再生音ともいう。

けれど再生に三番目の意味がある。
再生紙とか再生ゴムとか、そういった意味での再生があるから、
再生音といういいかたを嫌う人がいても不思議ではない。

私は、再生音といういいかたが、むしろ好きである。
それは一番目、二番目の意味での再生音ととらえているところがあるからだ。

EMIのクラシック部門のプロデュサーだったスミ・ラジ・グラップは、
「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」
と語っている。

ここでも何度も触れている。
孤独な人間は、死に向って急ぎはじめているかもしれない。
そんな孤独な人間に、僕がここにいる、と寄り添ってくれる。

ならば、その音楽に身を寄せて死に向い始めていた心が、
再生に向い始めるのを音楽を聴くことで待つこともあるからだ。

オーディオで聴く音とは、音楽である。
だからこそ、私は再生音を使う。

Date: 3月 16th, 2021
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その10)

ステレオサウンド 218号の特集に黛 健司氏が登場されてないことを嘆いたところで、
瀬川冬樹なんて過去の人でしょ、
瀬川冬樹の音の聴き方を知りたい人なんて、ごくごく少数だろうから、
そんなことステレオサウンド編集部は考えもしない──、
おそらくそうなのだろう。

けれど、ほんとうに瀬川冬樹に、ステレオサウンドの読者の大半は無関心といえるのか。

いま書店に並んでいる瀬川先生の著作集「良い音とは 良いスピーカーとは?」、
その奥付をみると、2020年9月(だったはずだ)で四刷となっている。

2013年に出た「良い音とは 良いスピーカーとは?」が、
七年経っても売れ続けているわけだ。

このことを知っているはずである、ステレオサウンドの編集部は。

そして今年は2021年である。
瀬川冬樹没後40年である。

一年前のステレオサウンド 214号には、
五月女 実氏の「五味康祐先生 没後40年に寄せて」という記事が載った。

今年は「瀬川冬樹 没後40年に寄せて」が載るのだろうか。

Date: 3月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Elgar: Cello Concerto, Op. 85 & Sea Pictures, Op. 37(その3)

e-onkyoは、つねになんらかのプライスオフをやっている。
いまもいくつかのプライスオフが行われている。

そのひとつに、「ワーナー・ミュージック音源から麻倉怜士が厳選!」がある。
そこにデュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲がある。
通常3,145円が3月18日までは2,515円で購入できる。

けっこうなことのように一見おもえるが、
このデュ=プレのエルガーは44.1kHz、24ビットである。

(その2)で書いているように昨年11月に、
デュ=プレのエルガーは、192kHz、24ビットが配信が始まっている。

44.1kHz、24ビットのほうは、2011年リマスターで、
192kHz、24ビットのほうは、2020年リマスターである。
どちらもMQA Studioがある。

2020年リマスターは192kHzだから、価格も高いのでは? と思いがちだが、
こちらは通常価格が2,515円である。

それにしても、なぜ2020年リマスターではなく、2011年リマスターなのか。
麻倉怜士氏は、あえて2011年リマスターなのか。

そのへんのことは言及されていないので、なんともいえない。

Date: 3月 14th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988・その2)

黒田先生の「ぼくだけの音楽」からの引用だ。
     *
 先日、あるテレビの音楽番組を見て、腹をたてた。
 その音楽番組では、テレビス・カメラが、しばしば、うたっている歌い手を下からみあげるアングルでとらえたり、歌い手の顔に過度にちかすぎすぎたりしていた。歌い手をどのようにうつそうと、それはディレクターの勝手といえば勝手である。しかし、すくなくともそのときの映像でみるかぎり、歌い手は、鼻の穴の奥や歯の裏までうつされ、肌の皺もあらわにされて、お世辞にもチャーミングとはいいがたかった。
 対象を愛せない人のおこないは、いつだって、なにごとによらず、説得力に欠ける。
     *
あるテレビの音楽番組のひどさ。
この文書を読まれた方は、民放のどこかの局なのだろうか、と思われるかもしれない。
NHKの音楽番組のことだ。

歌い手はミルバである。
1988年、“Milva & Piazzolla Live in Tokyo 1988”の映像のことである。

このことは黒田先生から直接きいている。
ミルバを赤鬼のようにうつしている、ともいわれていた。

その言葉には、ほんとうに怒りがこめられていた。
その怒りは、対象(ミルバ)を愛するがゆえである。

この文章は、ブライアン・ラージ(Brian Large)についてのものだ。

ブライアン・ラージについて書かれているものの、
《実は、ぼくはブライアン・ラージなる人物がどのような人物なのか、ほとんどなにも知らない》
と書かれている。

1988年当時では、そうだっただろう。
いまは簡単に検索できる。

どれだけの映像作品をてがけているのか、すぐにわかる。
ほんとうに便利になった。

黒田先生は、最後にこう書かれている。
     *
このようなタイプの、対象にたいする並々ならぬ愛情をいだいていて、しかもとびきりすぐれた技と感覚をそなえた男がいるという、そのことがとりもなおさず欧米の音楽界の底力を感じさせるようである。
     *
1988年から三十年以上が経った。
日本の音楽界の底力を感じさせるような作品は、増えてきているだろうか。

Date: 3月 13th, 2021
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その10)

録音する機能をもたないオーディオ機器。
アナログプレーヤーであったり、アンプであったり、
スピーカーであったりする。

アンプにもスピーカーにも、録音機能はどこにも備わっていない。
つまり再生系のオーディオ機器は、そのほとんどが録音機能をもたない。

録音はできない。記録することはできない。
けれど、音を記憶することはもしかしたらできているのではないだろうか。
そんなふうにおもえること(とき)があった。

一度や二度ではない。
だから、オーディオ機器は音を記憶しているのかもしれない、と。