クルレンツィスのベートーヴェン(その3)
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団によるベートーヴェンが出たのは、
いまからほぼ二十年ほど前のこと。
私がアーノンクールの、このベートーヴェンを聴いたのは、
発売後けっこう時間が経ってからだった。
それも吉田秀和氏の文章を読んだのがきっかけになっている。
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しかし、アーノンクールできくと、もう一度、当初の目印“madness”が戻ってくる。それに、第二楽章のあの重く深い憂鬱、悲嘆を合せてみると──いや、この演奏を論じて、第三楽章スケルツォで随所にはさまれた例の「吐息」のモティーフに与えられたp、ppの鮮やかな効果、あるいは主要部とトリオの対比の見事さといったものも、全くふれずに終るわけにはいかない──、これは、フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏であり、その新しさは、ベ日トーヴェンの音楽のもつ原初的なすさまじさ、常軌を逸したもの、ドストエフスキーやムソルグスキーやニーチェを含む十九世紀の人たちだったら「神聖な狂気」と呼んだであろうような重大な性格を、もう一度、音にしてみせた点にあるといっていいだろう。くり返すが、これはモーツァルトの音楽とは全く違うものだ。
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吉田秀和氏の、この文章は、河出文庫「ベートーヴェン」で読める。
これを読んだからこそ、アーノンクールのベートーヴェンを聴きたくなった。
読んでいなければ、いまも聴いていないかもしれない。
吉田秀和氏の文章は、
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団による七番を聴いてのものだ。
ベートーヴェンの七番は、カルロス・クライバーの素晴らしい演奏がある。
他にも、いい演奏はある。
それでも《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》といえるのは、
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団だと、聴くと納得する。
フルトヴェングラーからアーノンクールまでに録音された七番のすべてを聴いているわけではない。
七番は好きだから、かなりの数聴いているつもりでも、
吉田秀和氏が聴かれた数からすれば、私の聴いてきたのはわずかといっていい。
その吉田秀和氏が《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》と書かれている。
ベートーヴェンの交響曲は、特に三番以降は、それまでの交響曲とはまったく違う。
モーツァルトの音楽とも全く違うものなのは、
アーノンクールの演奏を聴かずとも、ベートーヴェンの音楽を聴いてきた人ならばわかっている。
フルトヴェングラーの演奏が、そのことを明らかにした、ともいえる。
だから《フルトヴェングラー以来、最初の「新しい」演奏》と書かれているのだろう。
クルレンツィスの七番は、その意味では私は「新しい」とは感じなかった。