Archive for category ブランド/オーディオ機器

Date: 3月 11th, 2019
Cate: 930st, EMT, MERIDIAN, ULTRA DAC

オーディオの唯一無二のあり方(その1)

五味先生がEMTの930stについて書かれた文章は、
こんなふうに毎日、オーディオと音楽について書いていると、
無性に読み返したくなることがふいに訪れる。

私のオーディオの出発点となった「五味オーディオ教室」にあった文章が、
特に好きである。
     *
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
 私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
 そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
 極言すれば、レンジなどくそくらえ!
     *
930stについて、この文章を読んだ時から、アナログプレーヤーは930stしかない──、
中学二年のときに思ってしまった。

だから930stが生産中止になり、
トーレンスから930stのゴールドヴァージョンの101 Limitedが出た時に、
思わず「買います!」と宣言した(というかさせられた)。

自分のモノとしてじっくり聴いてこそ、
五味先生の書かれたことを実感できる。

いま、このことを改めて書いているのは、
私のなかでのメリディアンのULTRA DACは、930stに近い存在、
つまり音楽として美しく鳴らす、というオーディオの唯一無二のあり方だからだ。

少し前に、耳に近い音と心に近い音ということを書いた。
心に近い音とは、音楽として美しく鳴らす、ということであり、
私が最近のオーディオ評論が薄っぺらだと感じる理由も、ここにある。

Date: 1月 21st, 2019
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その30)

ホーン型スピーカーは、過渡特性に優れている、と昔からいわれている。
スピーカーの教科書的な書籍にもそう記述してあるし、
なるほど測定結果をみても、確かにそうだな、と頷けることも事実だ。

それでも私のなかでは、若干の疑問もつねにあった。
ほんとうにホーン型スピーカーは過渡特性に優れているのか、と思ってきた。

けれど、そんなことをいつしか考えないようになっていた。
この20年ほどはそんな感じだった。
そこにメリディアンのULTRA DACを聴いたわけだ。

ここでもくり返すが、ULTRA DACで鳴らすアルテックは、
ホーン臭さを微塵も感じさせない。

そのことについて昨秋から考えていた。
いまのところ仮説にすぎないけれど、結局、ホーン型は過渡特性に優れているからなのだ、と。
そういう直観が、いまはある。

もちろん、ここでいうホーン型とは、きちんと設計、そして製造されたモノのことであり、
なんとなくホーン型のようなスピーカーのことではない。

とにかくきちんとつくられたホーン型スピーカーならば、過渡特性は優秀であり、
その優秀さゆえに、CDプレーヤー全盛時代になり、評価が低くなっていった──、
これも仮説にすぎないのだが、ULTRA DACの音は、こんなことを考えさせてくれる。

CDプレーヤーも、初期の製品にはデジタルフィルターはあまり搭載されていなかった。
マランツ(フィリップス)のCD63には4倍オーバーサンプリングのデジタルフィルターが搭載されていた。

デジタルフィルターは、あっという間に広まった。
デジタルフィルターを搭載していない機種は1980年代後半には存在してなかったはずだ。

けれどこのデジタルフィルターの搭載が、
ホーン型の評価の凋落に関っているのではないのか。

ここでの仮説は、ULTRA DACが、
メリディアンの謳うところの時間軸の精度の高さが事実であるであることが前提である。

Date: 1月 16th, 2019
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その29)

40年前の、女性ヴォーカルに向くスピーカーといえば、
スペンドールのBCIIにしろ、QUADのESL、それからロジャースのLS3/5A、
他にもいくつか挙げられるけれど、共通していえることのひとつには、
ホーン型ではない、ということがある。

ホーン型スピーカーは、いまではハイファイ用には向かない、
そんな認識が広まっているようだ。

しかもそれはオーディオマニアだけでなく、
メーカー側も、そう考えているところが、残念なことに多数派のようである。

オーディオ評論家もそうである。
とあるオーディオ評論家は、オーディオショウで、
口のまわりに手をあてて、ホーン型はいわゆるメガホンなんですよ、
といいなから声を出して、ホーン臭い音になるでしょう、とやってたりする。

この程度の認識でホーン型を腐している。

ドーム型ユニットの性能向上もあって、
ホーン型の影は薄くなっている。
いったいいつごろからそうなっていったのか。

ふりかえるに、1980年代の終りごろからなのかもしれない。
そこにどういうことが関係してなのか、検証していくことがいくつもあるが、
まずひとつ思い浮ぶのは、CDの普及である。

当時はそんなふうには捉えていなかったが、
ここにきてメリディアンのULTRA DACを二度聴いて、そうなのでは……、と思うようになってきた。

不思議なことにULTRA DACだと、
アルテックの古典的なホーンからホーン臭さが、ほぼ消え去る。

角を矯めて牛を殺す的な音で、そんなふうにしているのでは、まったくない。
ホーンの良さを積極的に活かしながらも、ホーン臭さが、ほぼないように感じる。

一度目は不思議だった。
たまたまなのかとも思ったりもした。

二度目に聴いて確信した。

Date: 1月 9th, 2019
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その28)

40年ほど前、つまり1970年代後半ごろのオーディオでは、
女性ヴォーカルの再生に向く──、そういったことが割といわれていた。

力の提示に関してはややよわいところがあるものの、
ウェットな音色で、声帯の湿り気を感じさせ、
繊細でどこか色気のある音、そして刺激的な音を出さないオーディオ機器は、
スピーカーシステムであれ、アンプであれ、カートリッジであれ、
弦やヴォーカルの再生に向く、といった評価がなされていた。

ヴォーカルだけでなく、たいてい「弦やヴォーカル」となっていたし、
こういった場合、ヴォーカルは男性歌手も含まれているわけだが、
ウェイトとしては女性ヴォーカルと受け止めてよかった、といえる。

私にとってのベストバイ特集号として初めてのステレオサウンドは43号。
43号は、読み返した。
何度も何度も暗記するほどに読んだ。

43号でベストバイとして選ばれた機種のほとんどは、当時聴いたことがなかった。
実機を見たことのあるモノも少なかった。

43号に掲載されている写真と、各筆者の文章から、
どれが女性ヴォーカルの再生にぴったりなのか、
主に、そういう視線でくり返し読んでいた。

スペンドールのBCII、QUADのESL、
ラックスのSQ38FD/II、パイオニアのExclusive M4、
オンキョーのIntegra A722nII、
これらのオーディオ機器が女性ヴォーカルを色っぽく再生してくれそうな感じだった。

ここでことわっておきたいのは、
当時の女性ヴォーカルの再生に向く、ということと、
現在の、それもメリディアンのULTRA DACが聴かせる声(歌)の素晴らしさということとは、
そうとうに次元の違ったことであり、同列に語れない、ともいえる。

あのころの女性ヴォーカルに向く、というのは、
いわば個々のオーディオ機器の個性的音色が上手く作用しての、そういうことであり、
このことは音を語る上での「音色」という言葉のもつ意味について、
じっくり書けるほどに興味深いところでもあるが、
ここではそのことに触れると先にすすめなくなるので割愛するが、
とにかく40年ほど前の、ヴォーカル再生に向く、というイメージで、
ULTRA DACの、声(歌)が素晴らしい、ということを捉えてほしくない、ということだ。

Date: 12月 23rd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その7)

スチューダーのデジタル出力はAES/EBUのみである。
同軸75Ω出力はない。

今回感じられた音の良さは、接続方法もあったのだろうか、と考えている。
D731に同軸出力があれば、AES/EBSとの比較試聴ができ、
デジタル伝送の仕方によって、どれだけの音の違いがあるのかを確認もできるのだが、
残念ながら、ついていないものは仕方ない。

AES/EBUの良さもあったのだろうか──、
と12月のaudio wednesdayが終ってからずっと考えている。

もしかしたら同軸75Ωによる接続のほうが音が良かったりするかもしれない。
それでもAES/EBUが頭から離れなくなっている。

オラクルのCD2000 mkⅢに興味を持つ理由のひとつが、ここである。
AES/EBUの存在がある。

それからCD2000 mkⅢは、アルミ製のフタがある。
このフタをするのかしないのかでも、音は変化する。
した方がいいという人もいれば、しないほうがいいという人もいる。

どちらが良くてどちらがダメという聴き方よりも、
うまく使い分ければいい。

メリディアンのULTRA DACには、通常のCD再生時に、三つのフィルターが選択できる。
CD2000 mkⅢとULTRA DACとの組合せでは、ここにフタをするかしないかが加わり、
計六通りの音の変化が得られる。

どれがいいと決めつけるのではなく、
音楽に対する「想像と解釈」で柔軟に使い分けていけばいいではないか。

Date: 12月 23rd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その6)

フィリップスのスイングアームのピックアップ。
こんなことをいまいったところで現行製品は存在しない。

程度のいい中古を手に入れるしかない。
それも趣味のうちといえば確かにそうだけれど、
それでも古いCDプレーヤーは、いつディスクを読み込めなくなるか、という不安がある。
それに修理も可能かどうか、あやしい。

いまはまだどうにか修理が可能でも、
五年後十年後はどうなるか、はっきりとしない。

もうディスクを読み込んで再生する時代ではなくなってきている。
確かにそうではある。
CDをリッピングして、という時代への変化を迎えている。

それでもCDトランスポートには、メカニズムのおもしろさがあって、
それに伴ってくる再生のおもしろさもある、といえる。

そんなことを考えながら、
現行製品でULTRA DACと組み合わせておもしろくなりそうなトランスポートは何があるのか。

以前書いたように47研究所の4704/04 “PiTracer”には非常に興味がある。
けれど、製造中止にはなっていないが、現在は製造を休止している。

何人かのオーディオマニアの方からは、エソテリックのVRDS方式こそ、
現時点での理想ではないか、といわれるが、
個人的にはディスクにわずかとはいえストレスを与えている、あの方式には疑問がある。

P0くらいになると、それでも独特の説得力をもった音になって、認めないわけではないが、
とっくに製造中止になっているし、P0とULTRA DACの組合せがいい、とは思いにくい。

CDトランスポートの現行製品の数は、いまでは多くはない。
ULTRA DACと組み合わせてみたいといちばんに思うのは、
オラクルのCD2000 mkⅢである。

スイングアームではないけれどフィリップスのメカニズムを搭載し、
デジタル出力には同軸出力のSPDIFだけでなく、AES/EBU出力も備えている。

Date: 12月 23rd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その5)

CDプレーヤーが世に登場し、
フィリップスのピックアップメカニズムを搭載した海外製のCDプレーヤーがいくつか登場し始めた時、
フィリップスのピックアップの方が、国産のピックアップよりも音がいい傾向がある──、
そんなことがいわれるようになった。

このことが広くいわれるようになったようには感じていなかったが、
少なくともステレオサウンドの試聴室に持ち込まれる各社のCDプレーヤーの新製品を聴くうちに、
なんとなく誰もが感じとっていたことのように思っている。

アナログプレーヤーではリニアトラッキングアームが理想のようにいわれている。
国産のCDプレーヤーのピックアップはリニア方式だった。
フィリップスは、当時はスイングアーム方式だった。

だからスイングアームの方がいいのかもしれない、ともいわれたし、
いまはどうなのか知らないが、当時の国産のピックアップは、いわゆるMM型だった。
フィリップスはMC型だった。

カートリッジと同じで、MM型のほうがレンズを含めた実効質量は軽くできる。
MC型はその点では不利である。

けれど、音を聴けば、
カートリッジにおけるMM型とMC型に通ずる音の差があるのではないか──、
そんなこともいわれていた。

さらにいえば、当時は国産はプラスチックレンズ、フィリップスはガラスレンズということもあった。
ここでもプラスチックよりもガラスの方が……、
これらのことが厳密な比較試聴で実証されているわけではない。

ただ感覚的にそう捉えられていた。

今回ULTRA DACと組み合わせたスチューダーのD731は、
フィリップスのスイングアーム方式の最後のメカニズムCDM4Proを搭載している。

ピックアップメカニズムだけで、トランスポートとしての性能がすべて左右されるわけではない。
そんなことはわかっていても、
D731と接続したULTRA DACの音を聴いていたら、
そんな昔にいわれていたことを思い出していた。

Date: 12月 22nd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(ウォルター・レッグのこと)

レッグ?
いったい何者なの?

そう思う人も、いまでは多いのではないか、と書いていて気付いた。
レッグとはウォルター・レッグ(Walter Legge)のことである。

クラシック音楽の録音について少しでも関心のある人ならば、
ウォルター・レッグについての説明は不要でも、
クラシック音楽を聴いてきていても、録音にまったく無関心な人、
そして世代によっては、レッグって? となるかもしれない。

レッグは1906年6月6日生れで、1979年3月22日に亡くなっている。
「レコードうら・おもて」の訳者あとがきには、こうある。
     *
 本書はON AND OFF THE RECORDの全訳である。主体となっている文章は、世紀のソプラノとして知らぬ人のないシュヴァルツコップさんの亡くなられたご主人、故ウォルター・レッグ氏のものである。生前、EMIのプロデューサーとして、ヨーロッパのクラシック音楽界にその人ありといわれた人である。いわば舞台裏の指揮者であり、名伯楽であった。クレンペラーもカラヤンもカラスも、レッグ氏がいなかったらひょっとして今日の名声を持てなかったかもしれない。シュヴァルツコップさん自身についても(それは彼女自身が本書の冒頭のワーグナーの一節を引いて認めているところだ)。
     *
それからEMIのレコーディングのためのオーケストラとして、
1945年にフィルハーモニア管弦楽団を、1957年にはフィルハーモニア合唱団を創立もしている。

ステレオサウンド 68号の「プロデューサーとディレクターの仕事③)でも、
レッグのことが取り上げられている。

「レコードうら・おもて」の扉に、
1974年のラジオインタヴューでの一節がある。
「そうですね、いったい私って何なのてしょう?
 音楽の産婆役ですね」

最後にシュヴァルツコップが引用したワーグナーの一節を書き写しておこう。
     *
あなたの愛がなかったなら
私はどうなっていたでしょう、
いつまでも子供のままでいたでしょう
あなたが私の眼をさまして下さらなかったなら。
あなたによって知ったのです、
善悪の判断のつけ方を。
あなたによって分かったのです、
心が何かということを。
あなたによって目覚めたのです
あなたによって学んだのです、
清らかに、自由に、勇敢に考えることを。
私はあなたによって花開いたのです!
 〈ニュルンベルクのマイスタジンガー〉第三幕より

Date: 12月 22nd, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その10)

「レコードうら・おもて」で、レッグはカラスの声・歌について、こう書いている。
     *
基本的な特徴は豪華の一語であり、テクニックは驚嘆すべきものだった。実際、カラスは三つのコロラトゥーラ技法、豊潤な声、輝かしい(そして必要とならば深いかげりを帯びた)声、驚嘆すべき軽快な歌声。最もむずかしいフィオリトゥーラ[旋律装飾]でさえ、カラスが驚くべきかやすさでというか、本当に楽々と歌いこなすことができないような声域でも、音楽的にもテクニックの上でも問題なくやり遂げた。彼女クロマティックは、特に下降の場合、実に美しく滑らかで、スタッカートは、この上なくやりにくいインタヴァルであっても、傷一つなく正確であった。十九世紀のハイ・ソプラノ用の曲には、持続する高音ではかん高くなったり強引に歌ってしまうことが時にあったにせよ。彼女の能力をの限界を試すようなものは、ほとんどただの一小節もなかった。
 カラスの声の中心部は基本的には深いかげりのある音色だが、ここが最も表現の幅の広いところで、一番滑らかなレガートをふんだんに歌えるところだった。特に、彼女のきわめて個性的な音色を持っている部分であり、まるで瓶の中に向けて歌っているような感じのすることが多かった。これは、私の信ずるところでは、上口蓋の形を普通とはまるで違う、ゴチック・アーチの形にすることから来ていることだった。普通の形は、ロマネスク・アーチである。彼女の胸部も、その背丈の女性としては異常に長かった。このことが、訓練を積んだに違いないと思われる肋骨間の筋肉の発達と相まって、長いフレーズを一息で、しかも見た眼に楽々と歌って音楽を形作る、尋常ならざる能力を彼女に与えた。彼女は胸声をドラマティックな効果を出すために主として使い、台本や状況がそれによって効果を上げると感じると、同じような声域の他の歌手たちよりも高い音域で胸声へ滑らかに移行した。三つの、ほとんど比類ない声を一つの統一した全体へ合体させる技術を完全に修得したのは、テンポの速い音楽、特に下降音階の時だけだったのは残念だが、一九六〇年頃までは、巧妙な技法で、このギア・チェンジを目立たせずにやり遂げていた。
 カラスのレガートは他の誰よりも素晴らしかった。レガートは電信あるいは電話線のように、走っている線の形が見えなければならず、子音はその線の上に雀の足のように軽く乗るだけでなければならないということを、よく知っていたからだ。子音をきわめて効果的に使ったが、基本的にはレガートを、その流れがはっきり聴き取れるように、そしてドラマティックな効果を上げる時を別にすれば子音が間に入るのを気付かせないように歌うのが、カラスのやり方だった。
 ただ美しいだけの歌唱を、カラスは頭から軽蔑した。生涯、ベル・カント、つまり美しい歌唱が頭から離れなかったカラスだが、一つのシラブル、あるいは一つの子音でさえも──時には劇的意味を伝える長いフレーズの──意味やドラマティックな緊迫感という重要な色づけを意図的に行った、私の記憶では数少ないイタリア人アーティストだった。カラス自身よくいっていた──「結局、私たちの歌わされるテキストの中にはさほど詩的でないものもあります。聴衆、そして私自身に、ドラマティックな効果を伝えるためには、美しくない音を出さなければならないのです。真実でありさえすれば、汚くともかまいません。」
     *
まだまだ引用したいところはあるけれど、このへんにしておく。

レッグは《まるで瓶の中に向けて歌っているような感じ》と書いている。
これはカラスの声を歌を聴いた時から感じていたことだ。
なんとも不思議な感じがするものだ、と感じたし、
「レコードうら・おもて」を読んで、的確な表現だとも思った。

《まるで瓶の中に向けて歌っているような感じ》は、
コンサートでのカラスならば、そうでもないだろうが、
録音を再生装置を介して聴くとなると、ネガティヴへと向いてしまう。
そんなふうに感じたことのない人は、どれだけいるのだろうか。

Date: 12月 20th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その9)

「レコードうら・おもて」は1986年に出ている。
32年前に読んでいるわけだ。

そのころの私は23歳。
それほどマリア・カラスの録音を聴いていたとはいえなかった。

「レコードうら・おもて」はそんなころ読んでも面白い本だった。
けれど、今日、改めてマリア・カラスの章だけを読みなおして、
こんなにもおもしろい内容だったのか、と驚くとともに、
マリア・カラスの章に書かれいてることに深く頷くばかりだ。

読みながら、まったくそのとおり、そのとおり、心のなかでつぶやいている。
ようするに、「レコードうら・おもて」を最初に読んだ時、
私はマリア・カラスの熱心な聴き手とはいえなかっただけでなく、
マリア・カラスのほんとうのところをどれだけ聴いていたのか、
それすらも疑問であるような未熟な聴き手だったわけだ。

32年のあいだに、どれだけマリア・カラスの録音を聴いてきたかというと、
熱心に聴いてきた時期もあれば、まったく聴かなかった時期もある。
そうやって32年がすぎて、二週間ほど前にメリディアンのULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた。

そして今日「レコードうら・おもて」を読んだ。
ULTRA DACで聴いていなければ、これほど頷かなかったかもしれない。

Date: 12月 20th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その8)

トゥリオ・セラフィンのことばを、三浦淳史氏の文章を読んだ記憶がある──、
そう書いておきながら、今日帰宅してふと書棚のなかの一冊に偶然目が行った。

あっ、これだ、この本だ、と確信をもって手にしたのは、
「レコードうら・おもて(原題:On and Off the Record)」である。
音楽之友社から出ている。
レッグ&シュヴァルツコップ回想録である。

この本に、ローザ・ポンセルの章とマリア・カラスの章がある。
そのどちらにもセラフィンのことばは出てくる。

マリア・カラスの章から引用しておこう。
     *
 自分をごまかしたり早死したりすると、短い時間に流星のように輝かしいキャリアを築いて早々に引退してしまった一人の有名なオペラ歌手に対する判断を誤ることになる。カラスという名前は、文明社会の到る所で日常的に耳にする言葉の一つだ。聴けばすぐそれと分かる声、人を引きつける個性、夥しい数のレコード、そしてひっきりなしに流されるセンセーショナルなニュースやゴシップ欄の話題のお陰で、カラスの名声は絶頂期のカルーソーすら及ばぬほど大きかった。だが、トゥリオ・セラフィンの慎重な判断を持ち出してバランスを取る必要がある。今世紀最高の歌手たちと六十年にわたって仕事をしてきた人の発言である。──「私の長い生涯に、三人の奇蹟に出会った──カルーソー、ポンセルそしてルッフォだ。この三人を除くと、あとは数人の素晴らしい歌手がいた、というにとどまる。」カラスの最も重要な教師であり、父親の役目も果たし、彼女の比類ないキャリアを築き上げたセラフィンであるのに、彼女を三つの奇蹟に入れなかった。カラスは「数人の素晴らしい歌手」の一人だったのだ。セラフィンの言葉は、本人は気付かなかったに違いないが、アーネスト・ニューマンがカラスのコヴェント・ガーデンへのデビューの際に評した言葉を繰り返していたことになる──「彼女は素晴らしい。だが、ポンセルではない。」
     *
だが、それでもマリア・カラスは女神(ディーヴァ)である。
それは「レコードうら・おもて」の目次からもわかる。

 序文 ヘルベルト・フォン・カラヤン
 はじめに エリーザベト・シュヴァルツコップ
 1 ウォルター・レッグ讃/ドール・ソリア
 2 自伝
 3 フィルハーモニー管弦楽団
 4 回転盤の独裁者──スタジオのレッグ/エドワード・グリーンフィールド
 5 ティッタ・ルッフォ
 6 ロッテ・レーマン
 7 ローザ──八十歳の誕生日を迎えたローザに敬意を表して
 8 エリーザベト・シュヴァルツコップ
 9 トマス卿
 10 オットー・クレンペラー
 11 女神──カラスの想い出
 12 アーネストニューマンとフーゴー・ヴォルフ
 13 ヘルベルト・フォン・カラヤン
 14 引退後の日々
 エピローグ

ローゼ・ポンセルのところにないことばが、マリア・カラスのところにはある。
「女神」だ。

Date: 12月 19th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その7)

いつのころからか、Diva(ディーヴァ)、もしくは歌姫という表現を、
頻繁に見かけるようになった。

この人(歌手)もディーヴァなのか、と思ってしまうほどに、ありふれてしまった。

私はグラシェラ・スサーナの歌が心底好きでも、
グラシェラ・スサーナのことを一度もディーヴァとおもったことはない。

それはディーヴァと呼ばれるにほんとうにふさわしい歌い手を知っているからだ。
マリア・カラスは、ほんとうにディーヴァである。

それでもトゥリオ・セラフィンは、
人生における三つの奇蹟として、カルーソー、ルッフォ、そしてポンセルの名を挙げている。
これも三浦淳史氏の文章で読んだと記憶している。

ポンセルとはソプラノ歌手のローザ・ポンセルのことだ。
マリア・カラスではなかった。

奇蹟といえる三人にはマリア・カラスは含まれていない。
マリア・カラスのことは非常に優れた歌い手の一人──、
そんなふうに記憶している。

ローザ・ポンセルの名を知ったのも、この時だった。
ポンセルのCDが、発売にもなっていた。
聴いたけれど、なにしろ録音が古すぎる。

ポンセルは1920年代から30年代にかけて活躍していた。
なので録音も少ないし、当然古い。

セラフィンのことばを疑うわけではないが、これではポンセルの凄さを、
私は感じとることができなかった。

ローザ・ポンセルこそディーヴァだ、とすれば、
マリア・カラスもディーヴァとは呼べない──、
そんなこともいえるのだろうが、
1963年生れの私にとっては、ポンセルもカラスも録音だけでしか聴けない。

これは私だけではない。
ほとんどの人にとっても同じはず。

ポンセルの実演を聴いたことがある人は、どれだけいるのか。
カラスでさえ、そうである。

ポンセルはほんとうに素晴らしいのであろう。
けれど聴けないことには、もう想像するしかない。
ならば、私にとって、そして私だけでなく多くの人にとって、
マリア・カラスこそディーヴァであろう。

もちろんディーヴァは一人だけなわけではない。
それでせ私にとって、ディーヴァと呼べる最初の歌い手は、
ふりかえってみても、マリア・カラスだった。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その6)

黒田先生は、「オペラへの招待」のカルメンの章の冒頭に、こう書かれている。
     *
「恋って、いうことをきかない小鳥のようなもの、飼いならそうとしたって、そんなこと、誰にもできない」
 カルメンは、そのようにうたう。カルメンがその登場の場面でうたう「ハバネラ」の冒頭である。この歌であきらかにされるのは、カルメンの、大袈裟にいえば人生観、あるいは恋愛観である。
「掟なんて、しったことではない。わたしを好きになってくれなくったって、わたしのほうで好きになってやる。わたしに好かれたら、気をつけたほうがいいよ!」
 カルメンは、「ハバネラ」で、こうもうたう。
 では、カルメンとはなにものか?
     *
カルメンとはなにものなのか?
マリア・カラスによる「ハバネラ」は、この問いへの答を見事に表現している。
今回、ULTRA DACでマリア・カラスの「ハバネラ」を聴いて、実感できた。

マリア・カラスの名前は、クラシックに興味を持つ以前から知ってはいた。
名前だけではある。
カラヤンの名前よりも先に知っていた。

マリア・カラスの録音で最初に買ったのは「カルメン」である。
それでも「カルメン」の録音で、マリア・カラスの「カルメン」よりも、
アグネス・バルツァの「カルメン」の方を聴いた回数は多かった。

「オペラへの招待」でも、
黒田先生は「カルメン」の推薦ディスクとしてあげられているのは、
バルツァによるカルメン、カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニーによる録音と、
ベルガンサ、アバド指揮ロンドン交響楽団による録音である。

マリア・カラスの録音ではない。
私はロス・アンヘレス、ビーチャム指揮フランス国立管弦楽団による録音も好きなのだが、
バルツァ盤を20代のころ聴いていたのは、録音のよさも関係してのことだ。

そのころの私は、カラスの「カルメン」をそれほどうまく鳴らせていなかった。

そういえばアグネス・バルツァはギリシャ人である。
マリア・カラスはギリシャ系アメリカ人である。
ギリシャの血をひく歌手が、カルメンには向いているのか。

それはともかくとして、今回ULTRA DACで、カラスの「ハバネラ」を堪能できた、とさえ感じている。
これは私だけではなかったようだ。

それでも、まだマリア・カラスをMQAで聴いたわけではない。
e-onkyo musicのサイトでは、マリア・カラスのスタジオ録音がMQAで配信されている

通常のCDとMQA-CDの違いは、すでに知っている。
まだ先がある。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その5)

なぜオーディオショウではマリア・カラスがかけられないのか──、
こんなことを書いている私も、ここ十年ほどマリア・カラスを聴いていなかった。

それがここに来て急にマリア・カラスのことが気になってきたのは、
9月のaudio wednesdayで、メリディアンのULTRA DACを聴いたからである。

マリア・カラスのCDを聴いたわけではない。
なのに帰りの電車のなかで、マリア・ラカスを聴きたい、とふと思った。
ULTRA DACで聴いてみたい、と思った。

自分でもULTRA DACの音が、なぜ突然マリア・カラスと結びついたのかはわからない。
とにかくマリア・カラスだ、とおもった。

12月のaudio wednesdayで、マリア・カラスの「カルメン」をかけたのは、
その1)で書いているとおり。
これだけの音で鳴るのならば、
オーディオショウでも頻繁にかけられるようになるのでは──、とおもうほどに鳴った。

「カルメン」ならば、クラシックに関心のない人でも耳にしているだろう。
特にハバネラは聴いたことがない、という人のほうが少ないだろう。

ビゼーの「カルメン」には、「ハバネラ」だけではない。
お馴染みの音楽がかわるがわる登場してくる。
そのお馴染の音楽は、くり返すが、クラシックをさほど聴かない人にとってもそうである。

「カルメン」はオペラの数多い作品のなかでも、とびきりの知名度をもつ。
その意味で、まさにオーディオショウ向きともいえるのに、
不思議なことに、私の知る範囲では「カルメン」も聴いていない。
マリア・カラスの「カルメン」を含めてだ。

Date: 12月 13th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その4)

瀬川先生が、ステレオサウンド 52号の特集の巻頭に書かれている。
     *
もうこれ以上透明な音などありえないのではないかと思っているのに、それ以上の音を聴いてみると、いままで信じていた音にまだ上のあることがわかる。それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる。
     *
アンプの音についてのことだが、同じことは今回トランスポートにも当てはまる、と感じた。
スチューダーD731のトランスポートとしての音はヴィヴィッドだ、と書いた通りだ。

表現を変えるならば、ストレスがないように感じる。
音の出方にストレスを感じないのだ。
だからこそヴィヴィッドに感じるのかもしれない。

それまでのラックスのD38u、パイオニアのPD-D9をトランスポートとして聴いたとき、
ストレスといったものを特に感じることはなかった。

けれどD731とULTRA DACの音を聴くと、
D38u、PD-D9の音には、どこかしらストレス的なものがあったように感じてしまうから、
瀬川先生の書かれていたことを思い出してもいた。

こういう音を聴いていると、EMTの930stの音も思い出してしまう。
EMTのアナログプレーヤーの音が、どこか体に染み込んでしまっているのか。
どこか共通する、ストレス的なものを感じさせないヴィヴィッドな音を聴いてしまうと、
あぁ、これなんだ、と確信に近いものを感じてしまうところが私にはある。

別項「JUSTICE LEAGUE (with ULTRA DAC)」で書いたこと。
JUSTICE LEAGUE(ジャスティス・リーグ)のサウンドトラックの23曲目、
“COME TOGETHER”の抜群のかっこよさは、ストレスフリーといいたくなる音ゆえかもしれない。

こういう音を聴いてしまうと、
ULTRA DACが魔法の箱のようにおもえてしまうし、
思慕の情みたいなものが湧いてくる。