Archive for category オーディオ評論

Date: 1月 7th, 2014
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その3)

ウェスターン・エレクトリックの300Bにどれだけ優れた真空管であっても、
300B一本でアンプが作れるわけではない。
電源トランス、整流管、平滑コンデンサーから構成される電源が必要だし、
300Bに必要なだけの入力電圧をかせぐために電圧増幅段もいる。
それに出力トランスがなければ、スピーカーを鳴らすことはできない。

300Bといえど、アンプの一部品にしかすぎない、といえるわけで、
300Bの音について語ることは厳密には無理というものだ。

300Bを使用しているアンプをいくつ聴いたところで、
300Bの音だけを聴いているわけではない。
理屈ではそうなのだが、いくつか注意深く聴いていると、
300Bの音らしきものを感じることはできる。

だからこそ多くの人が300Bに夢中になるのだろう。

では300Bの音とは、どういう音なのか。

300Bは直熱三極管であり、日本ではシングルアンプの製作例が多いし、
いくつか市販されたアンプもシングルアンプが多い。

そのためだろうか、三極管シングル、という言葉が持つイメージが、
300Bのイメージにすり替わっているようにも感じることがある。

300Bシングルの音は、楚々として日本的な美しい音。
これなどは、まさにその典型的な例である。

300Bの音は、
300Bのシングルアンプの音は、そういう音なのか、といえば、まったく違う。

Date: 1月 6th, 2014
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その2)

ハタチぐらいのとき、伊藤先生に初めてお会いした時に、
ウェスターン・エレクトリックの349Aのプッシュプルアンプを作ろう、と思っていることを、
私が直接話す前に、サウンドボーイの編集長であり伊藤先生の一番弟子のOさんが先に話されていて、
「349Aでアンプを作るんだって」と伊藤先生から切り出された。

返事をすると、「349Aはいい球だよ」と言われ、続けてこういわれた。
「最初から300Bでアンプを作る人が増えているけども、そうじゃなくて、
段階を経て300Bにたどりついた方が、300Bの良さがわかるよ」
そういうことだった。

私がハタチというのは、いまから30年ほど前のこと。
あの頃よりも、ずっと今の方が300Bで最初のアンプを作るという人は増えているかもしれない。
作るまではいかなくとも、最初に手に入れた真空管アンプが300Bを使っている、という人もいても不思議ではない。

それはそれでいいのかもしれないが、
やはり私はいきなり300Bというのは、すすめない。

最初は手頃な真空管から始めて、次に一歩先に進んで、また別の真空管。
こんなことを何度かやって、あれこれ苦労した上で300Bにたどりつく。

それまで300B以外の真空管で、どう苦労しても得られなかった音が、あっさりと出てきてしまう。
300Bを完璧な真空管とまではいわないけれど、圧倒的に優れた真空管とはいおう。

ならば最初から300Bでもいいじゃないか、
他の真空管を使ってアンプを作るなんて、手間も時間もお金ももったいない。
十分な予算があるから、そんな貧乏臭いことはしたくない。
そんな考えをする人は、
オーディオに関しても同じことをやっているんだろう。

ラジオからラジカセ、
それから一応コンポーネント呼べるオーディオを手に入れて、
カートリッジをグレードアップして、アンプを次に、そしてスピーカーをやはりグレードアップする。
一通りすべての機器をグレードアップしたら、
またどこかをグレードアップしていく……。

そういう過程を踏んできているのがオーディオマニアであり、
お金があるから最初から最高のシステムを、と販売店に行く人がいるけれど、
そういう人はオーディオマニアとは呼べない。

Date: 1月 6th, 2014
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(300Bのこと・その1)

300Bとは、ウェスターン・エレクトリックの直熱三極管のことであり、
真空管にほとんど関心のない人でも、一度は、この型番を耳にしたことがあることだろう。
もっとも有名な(少なくとも日本では)真空管である。

300Bはずっと以前は幻の真空管だった、ときいている。
存在は知られていても、実際に手に入れるにはかなりの苦労があった、らしい。

ステレオサウンド 8号の新製品紹介のページ「話題の新製品を診断する」の扉に、
瀬川冬樹の文字がある。珍しいことである。

瀬川先生が、このころのステレオサウンドの新製品紹介のページに登場されたのは、
これぐらいではなかろうか。
ここで瀬川先生が担当されているのは、ステレオギャラリーQのパワーアンプである。

ステレオギャラリーQの名を見て、すぐに300Bのシングルアンプを思い浮べられる人は、
いまでは少なくなったのかもしれないが、
1968年当時、ウェスターン・エレクトリックの300Bを採用したアンプとして話題になっていて、
そのことは、その約10年後にオーディオに入ってきた私でも、割と早く知っていたぐらいである。

そこに瀬川先生はこう書かれている。
     *
かつて八方手を尽してやっとの思いで三本の300Bを手に入れて、ときたまとり出しては撫で廻していた小生如きマニアにとって、これは甚だショックであった。WE300Bがそんなにたくさん、この国にあったという事実が頭に来るし、それを使ったアンプがどしどし組み立てられて日本中にバラ撒かれるというのは(限定予約とはいうものの)マニアの心理として面白くない。そんなわけで、試聴と紹介を依頼されて我家に運ばれてきたアンプを目の前にしても、内心は少なからず不機嫌だった。ひとがせっかく大切に温めて、同じマニアの朝倉昭氏などと300Bの話が出るたびに、そのうちひとつパートリッジに出力トランスを特注しようや、などと気焔をあげながら夢をふくらませていたのに、俺よりも先に、しかもこう簡単に作られちゃたまらねェ! という心境である。
     *
ウェスターン・エレクトリックの300Bとは、こういう真空管である。
(だった、と過去形では書かない)

Date: 10月 28th, 2013
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(入力作業をやっていておもうこと・その2)

仮にステレオサウンドに井上先生がいなかったとしよう。
井上先生だけでなく、技術やメーカーの歴史などに造詣の深かった長島先生、山中先生といった存在もなかったら、
果して瀬川先生は、ああいう姿勢でオーディオ評論をやられただろうか。

場合によってはそうであっただろうし、技術的な説明にも力を入れられたのではないだろうか。

つまり信頼できる仕事仲間(オーディオ評論家)がいたからこそ、
瀬川先生は他の人がしっかりと書いてくれることには触れずに、
瀬川先生のみが書けることに筆を費やされた(費やすことができた)。
そう見るべきではないだろうか。

この時代は、高い力量をもつ人たちがいた。
その人たちがオーディオ評論家の役目をきちんと認識した上で、
自分の役割もわかったうえでの、それぞれの文章であった。

たとえばステレオサウンドの特集記事のテストリポートの試聴記にしても、
瀬川先生の文章だけでは、そのスピーカーなりアンプがどういう音だったのかはわかる。
わかるけれども、その製品がどういう製品であったのかは掴みにくい。

スピーカーの試聴記にしても、瀬川先生の文章だけでは、
あれっ、このスピーカーのユニット構成はどうなっていたっけ? となってしまうことがある。

そういうとき同時に試聴記を書かれた方の文章には、
この手の記述があって、ああ、そうだった、このスピーカーはこういう構成だった、と思い出せる。

ステレオサウンドという本は、どの時代になって、
どんなに旧い号でも、実物があればそれを手にとって読まれれば、
一冊のステレオサウンドとして読まれるわけだが、
そこに掲載されている文章は必ずしもそうとはかぎらない。

ずっと以前も、メーカーが輸入商社が、
自社製品、取扱い製品が掲載された記事をまとめた小冊子を発行していたことがある。

そこにはいくつかの号からの文章が集められて再掲載される。
そして、いまは私がthe Review (in the past)で同じようなことをやっている。

こういう再構成の作業をやってみると、すぐに気がつくことだ。

瀬川先生は、信頼できる仲間(ライバル)がいたからこそ、
自分のスタイルを貫き通せたんだ、ということに。

そのことに気がつかずに、瀬川先生だけを高く評価するのはどうかと思う。
そして、いまはどうかと見渡してほしい。

Date: 10月 28th, 2013
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(入力作業をやっていておもうこと・その1)

もうひとつのブログ、the Review (in the past)の入力作業をやっていると、
気がつくことがいくつかある。

入力している文章は、そのほとんどを掲載されているオーディオ雑誌が出た時に読んだものだ。
それをけっこう年月が経ってから入力していると、あれこれ気がつく。
読んでいただけでは気がつかなかったことでもあるし、
私自身が歳をとったから気づくようになったこともあるし、
the Review (in the past)という文章がメインのブログに再構成していることで気がつくこともある。

瀬川先生の製品紹介は、それが新製品であってもほとんど製品の技術的な説明は省かれることが多かった。
それとは反対に井上先生は、ことこまかに製品の技術的な説明を書かれていた。

正直読者だった10代のころは、瀬川先生の文章は楽しみにしていたし、
井上先生の文章にはそれほど関心をもてなかった。
なぜ、この人は、メーカーのカタログや広告をみればわかることを(たとえそれだけではないにしても)、
これだけ書くのだろうか……。
その意図がよくわからなかった。

けれどthe Review (in the past)の入力作業をやり始めたら、
わりと早く気づいたことがある。
こんなふうに掲載誌から、いわば抜きとって別の媒体に再掲載(公開)するときには、
しかもそれが書かれてから十分すぎる時間が経過している場合には、
井上先生の書き方もまたひじょうに大事だということに。

Date: 10月 11th, 2013
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その3)

無線と実験、ラジオ技術にも新製品紹介のページはある。
無線と実験は巻頭のカラーページをあてているから、ラジオ技術よりも新製品紹介に力を入れている、といえよう。

ラジオ技術の新製品紹介は、ページ数が少ない。紹介される機種数もわずかである。
書店売りをやめる前からラジオ技術に載る広告の量は少なかった。
新製品紹介のページが少ないということは、このこととも関係があるはずだ。

この二誌は、数年間、新製品がどこからもまったく登場しない状況になったとしても、
特に誌面づくりに困ることはないだろう。

基本的にはどちらも技術誌であり、自作記事、それに関連する記事がメインであるからである。

だがこの二誌以外のオーディオ雑誌は、ありえない話とは言え、
もしそんな状況になってしまったら、どういう誌面をつくっていくのだろうか。

まず新製品がまったく登場しなくなれば、多くのオーディオ雑誌が年末の号で行っている賞、
それぞれに名称がつけられているが、ほぼすべてなくなることだろう。

これだけでも大きな変化である。
月刊誌ならば、賞の号は12冊出るうちの一冊だが、
季刊誌にとっては4冊のうちの一冊であり、大きな変化はより大きな変化となってくる。

新製品が登場しなくなれば、ベストバイにしても毎年やる必要があるだろうか。

ひとつひとつ具体的には書かないけれど、
オーディオ雑誌がこれまでやってきた企画を、
もし新製品がまったく登場しなくなったら、という視点から見てみると、
それらの記事が成立するための条件がはっきりとしてくる。

つまりは、無線と実験、ラジオ技術の二誌はオーディオ評論の割合が低いから、
特に大きな変化とはならないのに対し、
この二誌以外のオーディオ雑誌は、いわゆるオーディオ評論によって成り立っている、ともいえるし、
そのオーディオ評論、あえて、ここでは現在のオーディオ評論と限定するけれど、
オーディオ評論とはいったい何なのか、の問いを書き手、編集者だけでなく、読み手にもつきつける。

Date: 10月 9th, 2013
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その2)

ステレオサウンドは季刊誌だから三ヵ月に一度、
オーディオアクセサリー、アナログもステレオサウンドと同じく季刊誌。
ステレオ、無線と実験、書店売りはしていないけれどラジオ技術は月刊誌だから、毎月出る。

どのオーディオ雑誌にも新製品が紹介されている。
新製品が紹介されていないオーディオ雑誌はないし、
新製品がまったく発売されないこともない、ということである。

一時期、日本のメーカーの新製品ラッシュが批判された。
そのころと比べれば、いつの日本のメーカーの開発スパンは長くなってきている。
それでも、どのオーディオ雑誌を手にとっても、毎号、多くの新製品が並んでいる。

一社あたりの新製品の数は以前よりも少なくなっていても、
メーカーの数が増えていれば、トータルとしての新製品の数は、以前よりも多くなる。

しかも昔以上に、ケーブルを含めたアクセサリー関連の新製品が増えてきている。
これらも当然誌面で取り上げられるから、
新製品のページが足りなくなることはあっても、
今号は新製品が少なくてページがうまらない、という事態にはなっていない。

新製品は編集者にとってはありがたいともいえる。
新製品が出続けているかぎりは、その紹介記事をつくるだけで誌面はうまっていく。
話題を提供してくれるのも新製品であるからだ。

そういう新製品が、ありえないことなのだが、一年間まったく、
どのメーカーからも登場しなくなったらどうなるだろうか。

一年間くらいではそれまで登場してきた、
既に市販されているオーディオ機器を再び取り上げることで記事はつくれる。

新製品がまったくでない状況が一年、二年、三年と続いたら……。
こんな、ほぼ絶対にあり得ないことを考えてみると、気がつくことがある。

Date: 4月 30th, 2013
Cate: オーディオ評論
1 msg

「新しいオーディオ評論」(その1)

もっと「新しいオーディオ評論」を期待しています。

このメッセージを受けとって、改めて自覚していた。
私は五味先生の書かれたものを核として、
瀬川先生、岩崎先生、菅野先生、伊藤先生たちの書かれたものによってかたちづくっている。

このことを全否定しての「新しいオーディオ評論」は私はない、とおもう。

以前書いているように、
長島先生の言葉を借りれば、
瀬川先生によって
「オーディオ評論という仕事は、彼が始めたといっても過言ではない。
彼は、それまでおこなわれていた単なる装置の解説や単なる印象記から離れ、
オーディオを、『音楽』を再生する手段として捉え、
文化として捉えることによってオーディオ評論を成立させていったのである。」

ということは、全否定なしに「新しいオーディオ評論」はしょせん無理なことなのか。
これについて、まったく考えなかったわけではない。
でもほぼ同時に答もあった。

青は藍より出でて藍より青し

これが答だった。
藍より青し、も「新しいオーディオ評論」のはず。
そして、やはり「青」なのか、とおもった。

Date: 4月 21st, 2013
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」について考えている

一週間前、ある方からあるメッセージが届いた。
こう書いてあった。

もっと「新しいオーディオ評論」を期待しています。

わずか一行のメッセージであった。
けれど、どきっ、としたことは確かだった。

まず考えたのは、こうやって毎日ここに書いていることについてだった。
そのあと、メッセージの意味するところを考えていった。
短いだけに、考えていく必要があった。

なぜ「新しいオーディオ評論」と鉤括弧でかこんであるのか。
「新しいオーディオ評論」の前に、もっと、とあることについても。

このメッセージを受けとって数時間後に考えたのは、グールドの存在だった。
彼は「新しい聴き手」「新しい新しい聴き手」について書いている。

ここから浮んできたのは、「新しいオーディオ評論」は、
「新しい読み手・聴き手」の誕生に関係していく・つながっていくことなのかだった。

たしかにこれも「新しいオーディオ評論」ではある。
だが、これだけではないし、必ずしも「新しい読み手・聴き手」の誕生へとつながっていかなくとも、
「新しいオーディオ評論」は存在し得る、とも考えられる。
つまり、そうとは限らないわけだ。

実はそういう返答もいただいている。

この一週間、「新しいオーディオ評論」について考えていた。
まだはっきりと「新しいオーディオ評論」が見えてきたわけではない。

毎夜ブログを書く。
書いているときも、書き終り「公開」のボタンをクリックするときも、
「新しいオーディオ評論」が頭をよぎる──。

Date: 3月 18th, 2013
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(あとすこし「土」について)

1966年、それまでなかった「土」としてステレオサウンドが創刊され、
その「土」のうえに、オーディオ評論家という、やはり、これもそれまでなかった才能が花咲いた。

この、それまでなかった「土」は、オーディオ評論家だけを芽吹かせたわけではない。
それまでいなかった読み手をも芽吹かせた──。

グレン・グールドが、
新しい聴き手(New Listener)、新しい新しい聴き手(New New Listener)について語っていたことを、
ここで思い出していただきたい。

グレン・グールドという存在は、
単にピアニストとしてきわめて優れていただけではなく、
彼自身が、新しい聴き手、新しい新しい聴き手を芽吹かせるための、
それまでなかった「土」でもあったところに、
彼自身がそれまでいなかった音楽家であったといえる。

グレン・グールドの聴き手のすべてが、
グレン・グールドのいうところの新しい聴き手とはいえない。
ただただスノッブな聴き手もいるわけだが、
それでもグレン・グールドという、それまでなかった「土」は、新しい聴き手を芽吹かせているはず。

それと同じ意味で、
新しい読み手(New Reader)、新しい新しい読み手(New New Reader)が芽吹いてきた──、
そうおもいたい……。

Date: 3月 13th, 2013
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(「土」について)

「松下秀雄氏のこと」のところで、
松下氏のことを、それまでなかった「土」という喩えで書いた。
そして、ステレオサウンド創刊当時からのオーディオ評論家の人たちを、
その「土」があったからこそ芽吹き育っていった、それまでなかった「木」になっていった、と書いた。

その「木」はそれまでなかった「実」をつけた。
残念なことに、それまでなかった「木」にも寿命があった。

けれど、それらの、それまでなかった「木」は寿命を迎えて、
何も残さなかったわけではない。
それまでなかった「木」は「土」に還っていった。

その「土」のうえに、さらにそれまでなかった「木」が芽吹き育っていくはずだった……。

Date: 12月 20th, 2012
Cate: オーディオ評論,

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(賞について・その1)

いま別項で、オーディオ機器に与えられる賞について書いている途中だが、
10年ほど前から思っていることがあって、
それは、なぜオーディオ雑誌による賞はオーディオ機器にのみ与えられるのか、
オーディオ評論を対象とした賞がないのか、なぜなのか、である。

こんなことを考えるのは、
私がステレオサウンドを、
以前も書いていたように、オーディオ評論の雑誌としてとらえているところが大きいと思う。

オーディオ機器を紹介するオーディオ雑誌であれば、
オーディオ機器を対象とした賞だけでもいい。
けれど、ステレオサウンドは、もともとはそういうオーディオ雑誌ではなかった。

そんなオーディオ雑誌だったとしたら、五味先生が原稿を書き続けられることはなかったのではなかろうか。
五味先生の文章が巻頭にあることが、
ステレオサウンドが、他のオーディオ雑誌と最も異るところであった。
だから、ステレオサウンドは、ある時期まで成功した、といえよう。

あのころといまとでは、オーディオ評論家と呼ばれる人たちが、まったく変ってしまった。
ステレオサウンド創刊当時に書かれていた人たちは、みないなくなってしまった。
菅野先生の不在は、ほんとうに大きいと思う。

だからこそ、と思う。
該当者なしの年も出てくると思うけれど、
1年を振り返って、もっとも精力的に活動した人、
読み手の心に残る文章を書いてきた人、
オーディオ界をよくしていこう、と尽力してきた人、
とにかく、人を対象とした賞があってもいい、というよりも、
いまは必要なのかもしれない、と考える。

実際にやろうとしたら、
どんな人たちが選考委員となるのか、
どこまでを対象として、選考基準をどうするか、など、
いろいろと詰めていかなければならないこともたくさん出てくるであろう。

毎年が無理であれば、オリンピックのように4年に一度でもいいではないか。
オーディオ機器の賞とは別に、人を賛える賞が、なぜないのか。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 言葉

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続・おもい、について)

五味先生はオーディオにおいて何者であったか──、
私は、オーディオ思想家だと思っている。

2年前、この項の(その13)で、そう書いた。

あえて書くまでもなく、思想ということばは、思う・想うと思い・想いからなる。

五味先生の、音楽、オーディオについてのことばは重たい。

そう感じない人もいよう。
それでも私には読みはじめたときから、ずっと、まちがいなく死ぬまで「おもい」。

(その13)の最後には、こう書いた。

五味先生の、そのオーディオの「思想」が、瀬川先生が生み出したオーディオ「評論」へと受け継がれている。

だから私には瀬川先生の文章も、また「おもい」と感じる。

Date: 11月 12th, 2012
Cate: オーディオ評論, 言葉

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(おもい、について)

「おもい」とキーボードで入力すると、変換候補として、思い、想い、懷のほかに、重いも表示される。

思い、想い、懷、これら三つには、心があり、
重いには心はないから、「おもい」のなかで重いだけは、まったく別の言葉でもあるように思える。

けれど心は身体に宿っているもの、と捉えれば(心身という言葉もあるのだから)、
心+身(み)を「おもみ」とすれば、重みにつながっているようにも思えてくる。

思い、想い、懷は、けっして重いと無関係ではない。
「おもい」のない言葉には重みがない。

Date: 11月 25th, 2011
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(批評と評論・その4)

ステレオサウンドの古いバックナンバーを読み返せば、
瀬川先生がカセットデッキの試聴をされていたり、カセットデッキについてなにかを書かれている記事が、
ほかの評論家の方々に比べて少ないことに気づかれるだろう。

FM fanに「オーディオあとらんだむ」という連載をされていた。
そのなかで、「本当に性能の向上したカセット」というタイトルで2回記事を書かれている。
こんな出だしではじまる。
     *
別冊FM fanの26号で、カセットデッキのテスト・レポートを担当したところ、本ができてから、ずいぶんいろいろの人たちに、不思議な顔をされた。ひと言でいえば、この私が、カセットに、本当に興味を持っているのだろうか、というのである。
少し前までは、たしかに、私は「カセットぎらい」で通してきた。それは、カセットテープという方式自体がきらいなのではなく、その音質の良くないことに、どうしても我慢がならなかったから、だ。
けれど、いまはもう違う。ここ1〜2年来、新開発されたカセットテープや、新型のデッキを聴いてみれば、その音質が、数年前と比べて、まさに飛躍的に向上していることは、もはや誰の耳にもはっきりわかる。カセットシステムが、本当の意味で、オーディオ装置のプログラムソースの座を確立し始めたことを、私自身もようやく認めてよいという心境になってきた。
     *
ちょうど同じころ、
熊本のオーディオ販売店が定期的に催していた瀬川先生による「オーディオ・ティーチイン」でも、
カセットデッキの取り上げられた回があった。
そのときも、同じことを言われていたのを思い出す。

オーディオ雑誌の編集者からカセットデッキのテストをやってほしい、という依頼があると
「いいよ、だけどおれがテストしたら、カセットについてクソミソに言うが、それでもいいか?」
と聞き返されたそうだ。
編集者は逃げて行ってしまう、とオーディオあとらんだむの99回目に書かれている。

つまり一部の高級クラスのカセットデッキには一応の満足のゆくものはあっても、
一般的な水準という意味では、音の入り口となるレコードプレーヤー、FMチューナーと比較すると、
まだまだのレベルであった。
レコードプレーヤー、FMチューナーだと普及クラスのモノでも、
たとえばJBLの4343と組み合わせても、なかなかの音が楽しめるのけれど、
ある時期までのカセットデッキだと4343と組み合わせると、再生音に本当の美しさが感じとりにくい、と。

このことが瀬川先生にとっての評価のひとつの基準であり、
オーディオあとらんだむの中でも、こう書かれている。
     *
しかし、私自身は、カセットの音質に、これだけは譲れない、というかなり厳格な基準を自分なりにあてはめてきた。ここ数年間の目ざましい向上についても、知らないわけではないが、それでも、私自身の基準には、大半のテープやデッキが、まだ到達していなかった。
     *
そして、レコードプレーヤー、FMチューナーにくらべ、カセット(テープ、デッキをふくめて)、
甘やかされていたのは、少しおかしいのではないだろうか、とも書かれている。

オーディオ機器を試聴して、そのことについてふれていくときの「厳格な基準」、
これは瀬川先生の文章を通して読んでいけば、自然と伝わってくるはずだ。
だから、読んで信じられた。

「これだけは譲れない、というかなり厳格な基準」──、
評論に必要なこと、である。