「新しいオーディオ評論」について考えている
一週間前、ある方からあるメッセージが届いた。
こう書いてあった。
もっと「新しいオーディオ評論」を期待しています。
わずか一行のメッセージであった。
けれど、どきっ、としたことは確かだった。
まず考えたのは、こうやって毎日ここに書いていることについてだった。
そのあと、メッセージの意味するところを考えていった。
短いだけに、考えていく必要があった。
なぜ「新しいオーディオ評論」と鉤括弧でかこんであるのか。
「新しいオーディオ評論」の前に、もっと、とあることについても。
このメッセージを受けとって数時間後に考えたのは、グールドの存在だった。
彼は「新しい聴き手」「新しい新しい聴き手」について書いている。
ここから浮んできたのは、「新しいオーディオ評論」は、
「新しい読み手・聴き手」の誕生に関係していく・つながっていくことなのかだった。
たしかにこれも「新しいオーディオ評論」ではある。
だが、これだけではないし、必ずしも「新しい読み手・聴き手」の誕生へとつながっていかなくとも、
「新しいオーディオ評論」は存在し得る、とも考えられる。
つまり、そうとは限らないわけだ。
実はそういう返答もいただいている。
この一週間、「新しいオーディオ評論」について考えていた。
まだはっきりと「新しいオーディオ評論」が見えてきたわけではない。
毎夜ブログを書く。
書いているときも、書き終り「公開」のボタンをクリックするときも、
「新しいオーディオ評論」が頭をよぎる──。