オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(入力作業をやっていておもうこと・その2)
仮にステレオサウンドに井上先生がいなかったとしよう。
井上先生だけでなく、技術やメーカーの歴史などに造詣の深かった長島先生、山中先生といった存在もなかったら、
果して瀬川先生は、ああいう姿勢でオーディオ評論をやられただろうか。
場合によってはそうであっただろうし、技術的な説明にも力を入れられたのではないだろうか。
つまり信頼できる仕事仲間(オーディオ評論家)がいたからこそ、
瀬川先生は他の人がしっかりと書いてくれることには触れずに、
瀬川先生のみが書けることに筆を費やされた(費やすことができた)。
そう見るべきではないだろうか。
この時代は、高い力量をもつ人たちがいた。
その人たちがオーディオ評論家の役目をきちんと認識した上で、
自分の役割もわかったうえでの、それぞれの文章であった。
たとえばステレオサウンドの特集記事のテストリポートの試聴記にしても、
瀬川先生の文章だけでは、そのスピーカーなりアンプがどういう音だったのかはわかる。
わかるけれども、その製品がどういう製品であったのかは掴みにくい。
スピーカーの試聴記にしても、瀬川先生の文章だけでは、
あれっ、このスピーカーのユニット構成はどうなっていたっけ? となってしまうことがある。
そういうとき同時に試聴記を書かれた方の文章には、
この手の記述があって、ああ、そうだった、このスピーカーはこういう構成だった、と思い出せる。
ステレオサウンドという本は、どの時代になって、
どんなに旧い号でも、実物があればそれを手にとって読まれれば、
一冊のステレオサウンドとして読まれるわけだが、
そこに掲載されている文章は必ずしもそうとはかぎらない。
ずっと以前も、メーカーが輸入商社が、
自社製品、取扱い製品が掲載された記事をまとめた小冊子を発行していたことがある。
そこにはいくつかの号からの文章が集められて再掲載される。
そして、いまは私がthe Review (in the past)で同じようなことをやっている。
こういう再構成の作業をやってみると、すぐに気がつくことだ。
瀬川先生は、信頼できる仲間(ライバル)がいたからこそ、
自分のスタイルを貫き通せたんだ、ということに。
そのことに気がつかずに、瀬川先生だけを高く評価するのはどうかと思う。
そして、いまはどうかと見渡してほしい。