Archive for category 使いこなし

Date: 9月 13th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(誰かのシステムを調整するということ)

親しい間柄の人の音を聴かせてもらっているときに、
ときどき「どう調整したらいいか、どこを調整したらいいか」という話になることがある。

こういうときあれこれ言うことはあっても、原則としてそこにあるシステムの調整に手を出すことは、まずない。
なにもそれは面倒だからではなく、こまかいところまで口を出して手を出さないほうが、
ときに面倒というか、まどろっこしく感じもする。
それでも手は出さない。私が直接やったほうがずっと早く終ることでも、そのシステムの持主にやってもらう。
ときに手本が必要と思われることに関しては、手本を見せるけれども、それでも手は出さない。

それはあくまでも、そこにあるシステムは、その人のものだから、である。
そのシステムは、その人だけが触れて調整すべきもの、と私は思っているからだ。

Date: 8月 21st, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(快感か幸福か)

使いこなしについて書いてきていて、ふと思い出すのは、
別項「快感か幸福か(その1)」に書いたことである。

Date: 8月 16th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その35)

使いこなしは、オーディオのシステムを構成するすべてについて、ある。
けれど、やはり使いこなしの醍醐味、難しさはスピーカーシステムにある。

スピーカーはアンプからの電気信号を振動板の動きに変換して空気の疎密波をつくり出す。
はるか昔、はるか場所でマイクロフォンが捉えた音が、ふたたび音に戻るのはスピーカーがあるからだ。

このスピーカーとは、いったい何者(何物、何モノ)なのか?

素気ない言い方をすれば、スピーカーは変換器である。
変換器である以上、より正しい変換器であるべきだ、という考えがある一方で、
オーディオの世界では、スピーカーは楽器だ、という捉え方もつねに存在してきた。

有名なところでは、ソナス・ファベールの創始者のフランコ・セルブリンは、
伝え聞くところによると「スピーカーは楽器だ」と公言している、とのこと。

ただ、私はこの「スピーカーは楽器だ」というセルブリンの言葉は、
ほんとうに正確に伝えられているのだろうか、と思っている。
「スピーカーは楽器だ」の前後には、なにかがあったように思えるからだ。

セルブリンは、彼がソナス・ファベールでつくってきたスピーカーシステムには、
アマティ、ガルネリ、ストラディヴァリと、楽器の名前を使っている。
だから、「スピーカーは楽器だ」が、その方向で受けとられているのではないだろうか。

けれどセルブリンのスピーカー開発の実際の手法をきくと、
「スピーカーは楽器だ」はそう単純なことではないように思えてくる。

Date: 8月 12th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(誰かに調整してもらうこととインプロヴィゼーション・その1)

音楽は好きだけど、オーディオ機器の使いこなしに煩わされたくない。
だから信頼できる人に調整してもらい、そして定期的にチェックしてもらいその音を維持したい、という方が、
自分の手で自分のオーディオをいっさい調整しないことについては、別に否定的なことはいっさい言わない。
そういう方たちは音楽が好きでいい音で聴きたい、と思い、それなりにオーディオに投資をされていても、
オーディオ好き、オーディオマニアではないから、結構なことだと思っている。

とはいいながらも、ひとつ疑問がある。
その音楽好きの方が、ものすごく熱心なジャズの聴き手であり、
もし「ジャズはインプロヴィゼーションこそが大事なこと」といわれているのであれば、
たとえその方がオーディオに関心のない方でも、やはり自分で調整すべきではないか、という疑問だ。

オーディオに特に関心がなければ、最初に誰かに調整してもらい、
ここまできちんと調整すれば、こういう音が出るんだという、そのオーディオがもつ可能性を知ることは大事だ。
やれば、いつかはあの音が出せる、さらにはあの音以上の音が鳴らせる、という確信があるとないのとでは、
やはり使いこなしにかける情熱も変ってこよう。
だから最初は誰かに調整してもらうのもいい、と思う。

でも、ジャズにおけるインプロヴィゼーションをほんとうに大切にしたいのであれば、
調整してもらった後に、自分の手でケーブルを外し、スピーカーシステムの位置も変え、
つまり一度システムをバラして、一から自分の手でセッティングして調整していかなくて、
なにがインプロヴィゼーションだ、とすこし悪態をつきたくなる。

どんなに信頼できる人に調整してもらったからといっても、
その人は所詮赤の他人である。
その赤の他人に、己のインプロヴィゼーションをまかせてしまう。
それがジャズの聴き方なのだろうか。ジャズなのか。
ジャズをオーディオで聴くということなのか。

Date: 8月 12th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その34)

「理由」(その11)で書いたことのくり返しになるが、それでももう一度書いておく。

五味先生にとってのオートグラフ、長島先生にとってのジェンセンG610B、
菅野先生にとってJBL・375+537-500、マッキントッシュXRT20、
岩崎先生にとってのパラゴン、D130、
瀬川先生にとってのJBL・4343(4341)、グッドマンAXIOM80は、
五味先生の、長島先生、岩崎先生の、菅野先生の、瀬川先生の「意識」の具象であった。

Date: 8月 11th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その33)

「オーディオは耳の延長」だということが、以前からいわれている。
けれど、すなおに、このことにはうなずけない。

マイクロフォンはその機能からして、耳の延長である。
もちろん生録をやる人以外に、マイクロフォンで自分で聴くために録音する人はいない。
マイクロフォンを使っている人たち、つまりレコーディングのプロフェッショナルにとって道具であるけれど、
それでもマイクロフォンこそが、聴き手の耳の延長にある、という見方ができる。

ではおもにスピーカーシステムということになろうが、再生系のオーディオはなんなのか。
これは聴き手の耳の延長というよりも、送り手側にとっての演奏手段の延長である、という見方ができる。
オーディオ機器も、それを使い調整するのは聴き手側であっても、
どちら側の延長にあるかというと、必ずしも聴き手側にあるとは断言しにくいところを感じてしまう。

そこに前回(その32)で書いたことが、ここに加わり、
正直なところ、私はオーディオを道具として捉えることに矛盾に近いものを感じていた。

では、聴き手の目の前に存在しているオーディオは、
いったい何なのか、という問いに明確な答えを見出せずにいた時期が続いていた。

別項「続・ちいさな結論(その1)」でも書いているが、
やっと答えを出すことができた。

おもしろいもので、その数ヵ月後にふとして偶然で出合えたのが、池上比沙之氏による「岩崎千明考」、
ここにも同じ答があった。
このことは3日前にここで書いているし、池上氏の文章はfacebookにて公開している。

答えは「意識」である。

Date: 8月 7th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(誰かに調整してもらったら……補足)

前回書いたことをお読みになった方の中には、
「お前は、そうやって一度ばらしたオーディオ機器をふたたびセッティングして、
同じ音が出せたと思い込んでいるだけだろう」、
そんなふうに思われる方がいても不思議ではない。

私は、そうやって同じ音が出せた、とは書いていない。
それに最初から、そううまくいくわけではない。

これは以前にも書いていることだが、井上先生の試聴に最初に立ち合えたのは、
ステレオサウンド 64号の新製品の試聴だった。先輩が準備し結線した音を聴かれて、
まずその音の調整から始められた。
たっぷり時間をかけて納得のいく音が出たところから、新製品の試聴が始まったわけだ。
これは毎回同じことが続いた。

そして私が試聴室の準備をするようになった。
試聴のときに井上先生が指示されたことを思い出しながら、機器をセッティングしていく。
それでも簡単に再現できるものではなかった。
やはり試聴のはじまる前にダメだしされて、調整しなおす。
「次回こそ……」と思いながら、井上先生が何を聴かれてどう判断されているのかを、
私なりに考えていっていた。

そんなことをくり返すうちに、井上先生による、試聴が始まる前の調整の時間が短くなってきた。
そういうとき井上先生は何も言われない。
だから、その時間が短くなってきて、最終的には試聴室にこられて、
そのまま試聴を始められるようにまでもっていけるようになっていた。

私は、こういうふうにして使いこなしを身につけてきた。

Date: 8月 4th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(誰かに調整してもらったら……)

私が幸運だったのは、ステレオサウンドの試聴室において、
井上先生の使いこなしを直に見て聴いて体験できたことにある。
井上先生だけではない、菅野先生、山中先生、長島先生がどう音を調整されていくのかも体験できた。

だからといって、使いこなしを教えてもらったわけでは決してない、
言わせてもらえれば、学んできた、のである。
教えてもらう、と、学ぶ、の意味するところは大きく違う。

オーディオ機器の調整、使いこなしは系が複雑に、規模が大きくなるほど一筋縄では行かなくなる。
仕事から戻ってきて、わずかな時間しかオーディオにさけない、という状況では、
誰かの力を借りたくなる。

借りるのはいい、と思う。だが頼ってはいけない。

信頼できる誰かに調整してもらった結果、
それまででていた音からは想像できない域に達しそうな可能性のある音が出たとする。
あとは、これを維持できれば、と多くの人が思うだろう。
でも、それでは維持もできないし、当然、そこから先にはその人の力では進めない。

ステレオサウンドの試聴室で、井上先生によっていい音が出る。
けれど試聴室だから、セッティングがそのまま維持されるわけではない。
早いときに、いい音が出て、1、2枚ディスクを聴いたら、次の試聴にうつることもある。

試聴室のリファレンス・スピーカーだったJBLの4344がうまく鳴って同じこと。
次の試聴が入れば、せっかくうまく鳴っていた状態はすべて崩される。
そして、また一からやり直す。
あのとき鳴っていた音を、もう一度再現しようとする。
これをくり返してきたからこそ、私は、学んだ、と言い切ることができる。

誰かに調整してもらい、いい音が出たら、
心情としてしばらくはその音を味わいたい。
だから数日間、じっくりとことん味わえばいい。
味わったら、ケーブルを外し、スピーカーシステムの置き場所も、アンプやCDプレーヤーなども、
ラックからすべて取り出して、いちどまっさらに状態にする。
そして自分の手で、もういちどすべてのオーディオ機器をセッティングする。

これをやれなければ、いつまでたっても、何度誰かに調整してもらっても、学ぶことはできない。
このことを肝に銘じてほしい、と思う。

Date: 8月 2nd, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(四季を通じて・その5)

使いこなしの名手といわれていた井上先生が、
季節によって聴きたい音楽、聴きたい音が変ってくることについて、よく口にされていたのは、
ステレオサウンドにいた当時は気がつかなかったけれども、無関係ではないどころか、
密接に関係していることだ、といまははっきりといえる。

この項のふたつ前に「日常を発見していく行為」が、音をよくしていく行為だと書いた。
つまりどういうことなのか、これと井上先生のことがどう関係してくるのかについて書けば、
こういうことだと私は受けとめている。

つまり、いま目の前で、身の回りで起っている現象をしっかりと観察しろ、ということだと確信している。

よく自分の意見を持て、自分の意見を言え、ということがいわれている。
これは全面否定するつもりはないが、そんなことよりも、オーディオに関していえば、
現象を、誰かが見落している(聴き落している)ようなことまでしっかりと確実につかむことが大事ではないだろうか。

意見を持たなければ、意見を言わなければ、という気持が心のどこかにあれば、
目の前で、まわりで何が起っているのを、その現象がなんであるのかをつかんだつもりにはなれても、
それは単なる思い込みでしかなくて、私は思い込みによる意見をききたい、とは思っていない。

意見は、音をしっかり聴いていっていれば自然とついてくるはずだ。
井上先生は、日常という現象をしっかりと、そしてしなやかに観察されていた、
いま、そう思っているところだ。

Date: 1月 30th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(四季を通じて・その4)

オーディオにおいては、どうしてもふたつの音をくらべて、その違い(差)に対して敏感であろうとする。
だが、ここだけに敏感であろうとすればするほど、間違いも犯しやすくなる、といえる。

もうひとつ変化に対しても、敏感でありたい。

音は一時たりとも同じ表情はしていない。音楽も、一瞬たりとも同じ表情はしない。
同じフレーズをくり返すときでも、表情までがまったく同じことはない。
例外的にくり返しのフレーズにおいて、同じ録音を採用するときもあるが、
これとて、その直前に演奏されるフレーズによって、表情は結果として変化する、ともいえよう。

同じような表情はあっても、まったく同じ表情はない。
表情は変化している。
こういう表情の変化に敏感であることが、使いこなしにおいては重要である。

どこもいじらなくても、なにか変えなくても、音は聴いているうちに変化していく。
アンプがあたたまってくると、それでも音は変るし、
スピーカーも、とくにしばらく鳴らしていないスピーカーほど、鳴らしていくうちに変っていく。

そういうひとつの流れの中にある変化は、むしろ意識せずに聴いてる方が、敏感に感じとれる。
それは季節の変り目と同じようで、はっきりとした変り目が存在するわけではないけれど、
あきらかにはっきりと変った、と感じられるものだ。

Date: 1月 20th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(四季を通じて・その3)

季節の変り目の息吹を感じとることは、
日常を発見していく行為にもつながっていると思う。

そしてこの「日常を発見して行為」が、音を良くしていく行為へ、とつながっていく。

日常をしっかりと見つけ、感じとることができること、こそが使いこなしにおいて大事ことであり、
これができない人は、結局は、
目先を変える──つまり器材やアクセサリーを頻繁に変えていく──ことに終始してしまう。

これはなにも使いこなしについてだけいえることではない。

オーディオ評論についてもいえよう。
批評・評論は非日常のなかでは成り立たない気がする。
日常をしっかり見つめられる人でなければならないのは、使いこなしと同じ。

ここでも、このことができない人は、何かを書くために、器材を変えていく、
新しい製品を聴いていくことのみにとらわれてしまう。

結果として目先を変えなければ、何も書けないことになってしまう……。

Date: 1月 20th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(四季を通じて・その2)

季節は、ある日とつぜん変るわけではない。
昨日までが冬で、今日から春、といったものではないことはいうまでもない。いつしか変っていくもの。

けれど、どこかにその変り目を感じさせてくれるものがある。
何に感じるかは人によって多少違うだろうけれど、
なにかひとつは、たとえば春なら春の息吹を感じさせるものがあると思う。

季節の変り目を感じさせる「息吹」に対して敏感であることは、
音の変化に関しても、使いこなしに関しても、大事なことだと思う。

わずかな息吹を感じとり、確実なものとしていくこと。
使いこなしも同じこと。

2日前に書いたことのくり返しになるが、
この息吹を、へんにいじくりまわしてしまうと、死んでしまう。
無視して放っておいても、ひからびてしまう。

Date: 11月 9th, 2010
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その32)

オーディオの使いこなしには、いくつかの難しさを含んでいる。
そのひとつが、オーディオを音楽を聴くための道具だとしたときに、他の道具との違いとして、
その道具としての働きをしているとき(つまり音楽を鳴らしている音)、
道具の使い手(聴き手)の「手」から離れているところにある。

オーディオに関心のある人は、オーディオにとって使いこなしが大切であることは理解されているけれど、
そうでない人たちにとっては、オーディオの使いこなしへの理解はほとんどないのではなかろうか。
おそらくオーディオも、テレビ、ラジオなどの他の家電製品と同じようにみられていると思う。

このことと、オーディオの使いこなしの難しさは、手から離れてしまうことにおいて関連している。

他の道具──、たとえばオーディオとの引き合いによくだされるカメラや車、
身近なものでは筆や万年筆、それからものをつくる工具類。
オーディオにある意味、近いものでは楽器もそうだ。
これらの道具は、その働きをしているとき、使い手の中にあり、
こちらの身体動作に対してリアルタイムでなんらかの反応を返してくる。

第二の脳、といわれる手になんらかの反応がある。

ところがオーディオは、スピーカーの位置や角度を調整する。
アナログプレーヤーなら、トーンアームの高さ、カートリッジの針圧など、そういったことがらを調整しているとき、
もちろんなんらかの反応(というよりも感触)はあっても、それは「音」ではない。

使いこなしの結果としての「音」が返ってくるとき、使い手は椅子にすわり「聴き手」になっている。
ここに、わずかな時間が生じる。そしてその結果の音は、手ではなく耳で受けとる。

Date: 11月 5th, 2010
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(四季を通じて・その1)

今年の気候がとくにおかしいのか、それともこれから先、こういう気候がつづいていくのか……。
そのへんのことは、わからない。
それでも、日本には、まだ四季がある。

日本でオーディオを通して音楽を聴くということは、四季を完全に無視することはできないだろう。

瀬川先生は、日本の四季に馴染ませる時間が、スピーカーの使いこなしにおいて最低限必要だといわれている。

反論をお持ちの方もいるだろう。
瀬川先生が、この発言をされた頃からすると、いまの時代の新しいマンションで、
エアコンを四六時中かけている空間(リスニングルーム)においては、四季なんて関係なくなっている。
いつも快適な温度設定と湿度設定によって、そこにはじめじめした梅雨も、空気が乾燥しきった冬、
そういった要素からはほとんど切り離されている、と。
たしにそういう生活をおくっている人もいる。
そういう人のスピーカーでも、四季は、別の意味である。

常に一定の温度と湿度の部屋から一歩も出ないで生活できる人は別だが、少なくとも人は外出する。
暑い日もあれば寒い日もある。外には、まだまだ四季がある。

そういうふうにでも四季を感じていれば、聴きたいと思う音楽は、1年のうちで自然と変化していくはず。
暑い日に帰ってきたときに聴きたくなる音楽と、
寒い日に帰ってきたときに聴きたくなる音楽は、
その音楽を聴く空間はつねに快適であっても、異ってくるもの。

閉じられた空間に四季はなくなっていくのかもしれないけれど、
鳴らす音楽には四季は残っているはず。

もしそこからも「四季」がなくなっていたら、
なにか別のものを知らず知らずのうちに失っていたのかもしれない。

Date: 10月 31st, 2010
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その31)

オーディオは──それもステレオになってからは──、「和」の世界だとつくづく思う。
この「和」については、別項の「ハイ・フィデリティ再考」でいずれ語る。

なのに、比較試聴では、どうしても意識は「差」にとらわれがちになる。
使いこなしの過程で、何かを変更する。
そのとき、前の状態の音と変更後の音を比較して、どちらがいい音なのかを判断して選択する。

このとき耳は、「差」に強く向いてしまう。これは仕方のないことだ。
だが、「差」ばかりに向いてしまっていては、結局判断を誤ることにつながるだろう。
だからこそ、つねに「和」をこころがけておくこと。
音の「和」からオーディオの美は生まれてくる、と思っている。