Archive for category 使いこなし

Date: 1月 16th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その8)

オーディオに興味を持ち始めたばかりの人が、
トーンコントロールやグラフィックイコライザーを調整しようとする際
おそるおそるツマミをいじるのではなく、
大胆にいじったほうがいい、とは昔からいわれている。

トーンコントロールならば、ツマミを右に左にまわしきる。
トーンコントロールはBASS(低音)とTREBLE(高音)、ふたつのツマミがある。
同時にふたつのツマミをいじるのではなく、どちらかをいじる。

BASSだとして、まず右にまわす(左でもかまわない)。
徐々にではなく、右にまわしきる。
つまりいっぱいまで上げた音を聴く。
そして反対方向にまわしきる。下げきった音を聴く。

両端に振り切った音を確認する。
そして中点にあたる音(トーンコントロールの0ポジション)を聴く。
この後で変化量を少なくしていく。

自作スピーカーで、中高域がホーン型であれば、
その位置決めはおろそかにできない。
前後に移動したり、左右に移動したりする。

前後に移動する場合も、左右に移動する場合も、
基本はトーンコントロールと同じである。

いちばん前にもってきた音を聴く、
それからいちばん後にした音を聴く、
それから中間の音を音を聴く。

つまり振り子を思いきり左右に振ってみることで見えてくる「点」がある。

Date: 1月 16th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その7)

何をやったのかを具体的に書かないのは、
1月4日に喫茶茶会記における音の変化を聴いていない人に、
どれだけ細かく書いたところで意味がない、と思っているからだ。

仮に具体的に書いたところで、同じことを読んだ人がやったところで、
同じにはならない。
なぜかといえば、同じことをやったつもりでも、同じようなことでしかないことが大半だからである。

私がやったことと同じことができる人ならば、
すでにやっているか、どんなことをやったのかがおおよそ想像がつくはずだ。

それに喫茶茶会記のスピーカーは、いわゆる自作スピーカーに類するモノである。
既製品のスピーカーシステムに応用できることもあれば、そうでないこともある。

私は、その場に来てくれて、そこでの音の変化を感じ取ってくれた人には、
出し惜しみはしない。
訊かれたことにはできるだけ答えるようにしている。

それでも、そこでやったことをそのまま、
その人がその人のシステムに応用できるかは別の話である。

重要なのは何をやったかではないから、
ここで具体的なことは書かないだけである。

「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」の七曲目にしぼって、
チューニングをすすめていった。

最初にやったことが効いた。はっきりとした手応えだったから、次にとりかかれる。
ここで 三段階の音を聴いてもらう。
次にまた別のことをやる。
ここでも三段階の音を聴いてもらった。

こうすることで、演奏の場の感じが変っていく。
秩父ミューズパーク音楽堂での録音である。
このホールには行ったことはない。

ウェブサイトによれば、定員600人の大きさのホールである。
スピーカーのチューニングをするまでの音では、
どこで録音したんだろうか、と思っていた。
録音データはその時点では見てなかった。

チューニングをやっていくと、能の舞台のように感じられてきた。

Date: 1月 15th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その6)

話を1月4日のことに戻そう。

ディスクを決めて、ボリュウムの位置もいっさいいじらず、
①の音から⑧の音まで聴いてもらった。

同じディスクでそのまま続けることも考えたが、
気分転換を兼ねて、セッティング、チューニングとは関係なく、
他のディスクを聴いてもらった。

そして常連のHさんが持参されたCD「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」をかける。
まず一曲目を聴いて、七曲目を聴いた。

七曲目を聴いてもらい、いま鳴っている音をどうしたいか、
不満はどこにあるのかを、Hさんにきいた。

こうしてほしい、という要望があった。
その点は、私も感じていたことであり、
それが録音によるものなのかがはっきりとしていなかった。

どこをいじる。
三つほどすぐに浮んだ。
三つすべてを一度にいじるのではなく、まず最初にどこにするのか。

これはほぼ直感的に決めた。
スピーカーのところに行き、わずかなところを変える。
時間はほとんど掛からない。左右のスピーカーに対して行っても、30秒程度のことである。

傍で見ていると、何をやっているのかはっきりとしない、
その程度のことを変えてみた。

これだけのことであっても、音の変化ははっきりと、大きかった。
不満と感じていたところがかなり解消された。

これにはHさんも、かなり驚かれた。
①から⑧までの音の変化を聴いてきて、さらに驚かれた。

同じ状況でどこをいじるのかは人によって違ってくる。
私は、ここだ、と感じたところをいじったわけだ。
それは直感であり、
これまでのセッティングとチューニングの経験とオーディオの想像力によって裏打ちされた直感である。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その5)

引用した五味先生の文章だけでは、
セッティングとチューニングの違いについて私がいいたいことが何なのか、
はっきりとしないじゃないか、と思われるかもしれない。

映画「ピアノマニア」だけを観ても、そうかもしれない。

でも、「ピアノマニア」を観て、
五味先生の文章を読み、
セッティングとチューニングについて、そしてその違いについて考えてきた人ならば、
セッティングとチューニングの違いについて、何かを掴めているはずだ。

ただ漫然とオーディオをやってきた(いる)人、
セッティングとチューニングを一緒くたに捉えてしまっている人、
数年前のステレオサウンドの「ファインチューニング」というタイトルに、
何の疑問も感じなかった人は、
「ピアノマニア」を観て、五味先生の文章を読んでも、
私がいいたいことは何ひとつわかってくれないであろう。

結局のところ、そういう人は、オーディオの想像力が欠如しているのだから。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その4)

ピアノの調律に関する話は「西方の音」の中の「大阪のバイロイト祭り」に出てくる。
     *
 大阪のバイロイト・フェスティバルを聴きに行く十日ほど前、朝日のY君に頼んであった調律師が拙宅のベーゼンドルファーを調律に来てくれた。この人は日本でも有数の調律師で、来日するピアニストのリサイタルには、しばしば各地の演奏会場に同行を命ぜられている人である。K氏という。
 K氏はよもやま話のあと、調律にかかる前にうちのピアノをポン、ポンと単音で三度ばかり敲いて、いけませんね、と言う。どういけないのか、音程が狂っているんですかと聞いたら、そうではなく、大へん失礼な言い方だが「ヤマハの人に調律させられてますね」と言われた。
 その通りだ。しかし、我が家のはベーゼンドルファーであってヤマハ・ピアノではない。紛れもなくベーゼンドルファーの音で鳴っている。それでもヤマハの音がするのか、それがお分りになるのか? 私は驚いて問い返した。一体どう違うのかと。
 K氏は、私のようにズケズケものを言う人ではないから、あいまいに笑って答えられなかったが、とにかく、うちのピアノがヤマハの調律師に一度いじられているのだけは、ポンと敲いて看破された。音とはそういうものらしい。
 大阪のワグナー・フェスティバルのオケはN響がひく。右の伝でゆくと、奏者のすべてがストラディバリウスやガルネリを奏してもそれは譜のメロディをなぞるだけで、バイロイトの音はしないだろう。むろんちっとも差支えはないので、バイロイトの音ならクナッパーツブッシュのふった『パージファル』で知っているし、ベームの指揮した『トリスタンとイゾルデ』でも、多少フィリップスとグラモフォンの録音ディレクターによる、音の捕え方の違いはあってもまさしく、バイロイト祝祭劇場の音を響かせていた。トリスタンやワルキューレは、レコードでもう何十度聴いているかしれない。その音楽から味わえる格別な感銘がもし別にあるとすれば、それはウィーラント・ワグナーの演出で肉声を聴けること、ステージに作曲者ワグナーの意図したスケールと色彩を楽しめることだろう。そうして確かにそういうスケールがもたらすに違いない感動を期待し、何カ月も前から大阪へ出掛けるのを私は楽しみにしていた。この点、モーツァルトのオペラとは違う。モーツァルトの純音楽的な美しさは、余りにそれは美しすぎてしばしば登場人物(ステージの)によって裏切られている。ワグナー論をここに述べるつもりは今の私にはないし、大阪フェスティバルへ行くときにもなかった。ワグナーの音楽は私なりにもう分ったつもりでいる。舞台を観たからって、それが変るわけはない。そんな曖昧なレコードの聴き方を私はしていない。これは私に限るまい。強いていえば、いちどステージで観ておけば、以後、レコードを聴くときに一そう理解がゆくだろう、つまりあくまでレコードを楽しむ前提に、ウィーラント・ワグナーの演出を見ておきたかった。もう一つ、大阪フェスティバル・ホールでもバイロイトのようにオーケストラ・ボックスを改造して、低くさげてあるそうだが、そうすれば音はどんな工合に変るのか、それも耳で確かめたかった。
 ピアノの調律がおわってK氏が帰ったあと(念のため言っておくと、調律というのは一日で済むものかと思ったらK氏は四日間通われた。ベーゼンドルファーの音にもどすのに、この努力は当然のように思う。くるった音色を——音程ではない——元へ戻すには新しい音をつくり出すほどの苦心がいるだろう)私は大へん満足して、やっぱり違うものだと女房に言ったら、あなたと同じですね、と言う。以前、ヤマハが調律して帰ったあとに、私は十歳の娘がひいている音を聞いて、きたなくなったと言ったそうである。「ヤマハの音にしよった」と。自分で忘れているから世話はないが、そう言われて思い出した。四度の不協和音を敲いたときに、音がちがう。ヤマハに限るまい、日本の音は——その調律は——不協和音に、どこやら馴染み合う響きがある。腰が弱く、やさしすぎる。
     *
「西方の音」を読んだ当時は、ピアノの音色の話として捉えた。
それに関する話として読んだ。

ある時期から、セッティングとチューニングについてとしても捉えられることに気づいた。

Date: 1月 11th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その3)

19時開始時点の音を便宜的に①の音とする。
一度セッティングを戻した(崩した)音が②の音、ケーブルを交換した音が③の音、
トーンコントロールをバイパスしたのが④の音、MA2275のメーターをOFFにしたのが⑤の音……、としていくと、
CDプレーヤーのディスプレイをOFFにしたのが⑧の音であり、
この⑧の音と①の音は同じであり、
②の音が聴感上のS/N比も悪く、クォリティ的にも冴えない音であり、
段階を踏むごとに聴感上のS/N比は向上していっている。

①の音と②の音の差が、だからいちばん大きい。
オーケストラの国籍が判然としない音になるばかりか、
コントラバスが②の音では、
巨人が巨大なコントラバスを一人で弾いているかのような鳴り方に近くなる。

②から③、③から④へ……、
コントラバスの鳴り方の変化は顕著だった。
オーケストラにおけるコントラバスの鳴り方になっていく。
オーケストラの国籍も定まってくる。

ここまで聴いてもらったところで質問があった。
チューニングなのか、セッティングなのか、という質問だった。

「セッティングです」と即答した。
そう言いながら思い出していたのが「ピアノマニア」という映画のことだった。

ちょうど五年前に公開されている。
この映画については2012年1月に書いている。

「ピアノマニア」はドキュメンタリー映画である。
だから主人公ではなく主役といえるのは、
スタインウェイの調律師、シュテファン・クニュップファーである。

シュテファン・クニュップファーの調律をどう見るか。
オーディオにおけるセッティングとチューニングの違いが描かれている、ともいえる。

とはいえ「ピアノマニア」を観ていない人には、ことこまかに説明する必要があるけれど、
セッティングなのか、チューニングなのかを訊いてきたHさんは、
「ピアノマニア」を観ている人であるから、通じるところがある。

ここで「ピアノマニア」について書くことはしない。
けれどピアノの調律に関して思い出したことは、もうひとつある。
五味先生が書かれていた文章である。

Date: 1月 10th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その2)

後述するが、ケーブルを作ってきてよかったと思ったのは、
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」を鳴らしたからだった。

このCDでのチューニングの際の音の変化を聴いていて、
喫茶茶会記標準のケーブルでは、こうはうまくならなかったという判断があったからだ。

ケーブルを交換したあとは、アンプのMA2275をいじった。
フロントパネルについているスイッチ(ツマミ)をいじる。

まずトーンコントロールをバイパスする。
それからメーターをOFFにする。
その他にふたつほどやっている。
このふたつは、フロントパネルのスイッチとは関係のないことだ。

ここまでやった時点で、CDプレーヤーのディスプレイをOFFにする。
ディスプレイをON/OFFできるCDプレーヤーは他にもいくつかある。
試されたことのある方の中には、それほどの変化はなかった、と思われたかもしれない。

でも、あるレベルのセッティングをしていれば、
CDプレーヤーのディスプレイのON/OFFによる音の差ははっきりと出る。

だからこそ、1月4日のaudio wednesdayでは、
CDプレーヤーのディスプレイのOFFを後にもってきた。

ここまでやって、19時開始時点の音に戻ったわけである。
それは正しく19時開始時点の音であった。

同じことをくり返しているわけだから、同じ音になるわけだが、
これがうまくできない人もいるのではないだろうか。

試聴で大事なのは、再現性である。
音楽の再現性という意味ではなく、
同じことをくり返したら、同じ音を出せるという意味での再現性である。

この再現性こそがセッティングの領域である。

Date: 1月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その1)

1月4日のaudio wednesdayは、
セッティングとチューニングの境界をテーマにしていた。

当日は17時くらいからセッティング開始して、約一時間ほどで終了。
その後、確認の音出し。そして、いくつかの確認。

つまり在る程度セッティングを終えた状態で、開始時間の19時。
まずこの状態で、試聴ディスクを聴いてもらう。

ディスクは変えず、音量もいっさい変えず(レベルコントロールには触れていない)、
セッティングを数段階前の状態に戻して、同じディスクの同じところを聴いてもらう。

そうとうに音は変化している。
そしてひとつずつセッティングを変えていく。

まずCDプレーヤー(ラックスD38u)とプリメインアンプ(マッキントッシュMA2275)間のケーブルを変える。
喫茶茶会記で使っているケーブルから、私が自作してきたケーブルへ変えた。

特に高価なケーブルを使ったモノではない。
切り売りで1mあたり数百円の、いわばありきたりのケーブルである。
RCAプラグを含めて、製作にかかった費用は二千円ほど。

高価なケーブルによる音の変化を聴いてもらいたかったのではなく、
ケーブルの接続方法による音の変化を聴いてもらいたかったから、ケーブルを作ってきたし、
特別なケーブルを使用することはしなかった。

それにチューニングとしてではなく、セッティングとしてのケーブル交換の意味合いもある。
ここでの音の変化はかなりある。
高価なケーブルをあれこれ使う前に、やること(目をつけるところ)があるわけだ。

Date: 1月 3rd, 2017
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(ステレオゆえの難しさ・その2)

すべてのモノにバラツキがある。
そう思ってとりかかったほうがいい。

バラツキのないモノなど存在しないことが前提となるステレオ再生なのだ。

試しにスピーカーの位置はそのままで、
アンプの左右チャンネルを入れ替えてみる。
左チャネルのスピーカーから左チャンネルの音がするようしながら、
アンプの結線を入力と出力を同時に入れ替えるわけだ。

つまりアンプの左チャンネルに右チャンネルの信号を入れ、
アンプの右チャンネルに左チャンネルの信号を入れ、
アンプの左チャンネルに右チャンネルのスピーカーを、
アンプの右チャンネルに左チャンネルのスピーカーを接続して鳴らしてみる。

たったこれだけのことなのに音が変化する。
左右チャンネルのバラツキの少ないアンプであれば、差はわずかだが、
意外と差は小さくなかったりすることがけっこうある。

スピーカーユニットに関しても、同じことをやってみる。
ウーファーを左右で入れ替えてみる。
左チャンネルのスピーカーについていたウーファーを取り外して、
右チャンネルのスピーカーに取りつけるわけだ。

これでも音は変化する。
変化しない(差がきわめて少ない)スピーカーのほうが稀である。

2ウェイのスピーカーシステムならば、次はトゥイーターだけを入れ替えてみる。
この時点ではウーファーは元に戻して置く方がいい。

2ウェイで、トゥイーター、ウーファーを複数使用していないスピーカーならば、
このくらいの済むが、実際は3ウェイ、4ウェイであったり、
トゥイーターが複数使用されていたり、ネットワークの存在もある。

アンプもプリメインアンプならば一回で済むことが、
セパレートアンプとなると、
コントロールアンプとパワーアンプを別々に左右チャンネルを入れ替えることになる。
マルチアンプの場合だと……。

これらは順列組合せだから、システム構成によってはかなりの数になってしまう。
それをひとつひとつ聴いて音を確認して、バラツキの少ない組合せを見つけていく。

Date: 1月 3rd, 2017
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(ステレオゆえの難しさ・その1)

スピーカーの設置は難しい。
あちらを立てればこちらが立たず、ということにぶつかる。

スピーカーの設置(セッティング)を難しくしているのは、
ステレオであるということだ。

いいかえればスピーカーが二本あるということに起因する。
モノーラル再生で、スピーカーが一本であれば、
部屋のあちこちにスピーカーを移動して音を聴いて、
最適の位置を見つけ出すことは、そう難しいことではない。

スピーカーが大きく重たければ、それなりの労力は必要としても、
やる気と体力があれば、最適の位置は見つけ出せる。

ところがステレオでは二本のスピーカーを、当然だが設置する。
一本のスピーカーでは最適の位置が見つけ出せても、
二本のスピーカーに対しての最適の位置を見つけ出せるかというと、
これが想像以上に難しい、というか、基本的には無理なのかもしれない。

専用のリスニングルームを建てられるのであれば、解決するであろう。
左右のスピーカーの設置条件を左右で完全に等しくできる可能性がある。

ただし十分に注意が必要なのは、目に見える範囲の条件だけでなく、
目に見えない部分、家の基礎構造を含めての条件の一致である。

そこまでのことができるのであれば、
ステレオでのスピーカーの設置の難しさはかなり解消されるであろうが、
現実はそうではない。

与えられた環境下での二本のスピーカーの設置は、
片側を最適の位置に置いたら、反対側のスピーカーは、
ステレオ再生には不都合な位置に置くことになるかもしれないし、
そうでなかったとしても、その場所はスピーカーの置き場所として最悪なこともある。

しかもスピーカー自体にバラツキがある。
面倒でもモノーラルにして、同じ位置に設置しなおして、
二本のスピーカーの音を聴いてみるとまったく同じ音がするということは、
まずあり得ないということが体験としてわかる。

そこにアンプやその他のオーディオ機器の左右チャンネルの音の差が加わる。

オーディオ機器は工業製品ではあるが、バラツキがまったくないわけではない。
大なり小なりある。

スピーカーのシリアルナンバーが連番だから大丈夫、という話ではない。

Date: 2月 15th, 2016
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その5)

調教ということになれば、そこには主従が生れる。
主はスピーカーの使い手(鳴らし手)、従はスピーカーということになり、
主従の契りがある。

別項で、このことについて書いた。
柳宗悦氏の「美学論集」からの引用を、もう一度添えておく。
     *
用いずば器は美しくならない。器は用いられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用いる。
人と器と、そこには主従の契りがある。器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増すのである。
人はそれらのものなくして毎日を過すことができぬ。器具というものは日々の伴侶である。私達の生活を補佐する忠実な友達である。誰もそれに頼りつつ一日を送る。その姿には誠実な美があるのではないか。謙譲な徳が現れているのではないか。
     *
《器は、仕えることによって美を増し、主は使うことによって愛を増す》とある。
器は、ここではスピーカーだ。

この主従の契りがない調教では、スピーカーは決していい音で鳴ってはくれない。
いいかれば、主従の契りがあるからこそ調教が成り立つ。

と同時に、別項の最後に書いたように、主従の関係を逆転させる時期をもったことのない者には、
モノの調教はできない、といえる。
私はそう信じている。

Date: 1月 26th, 2016
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その4)

調教といってしまうと、
暴馬、じゃじゃ馬を力づくでおとなしくさせて訓練する、というイメージがもたれがちである。
けれど調教は、そのことひとつではない。

暴れがちな馬を強制的におとなしくさせたところで、
その馬の良さはいきてこないどころか、殺してしまうことになる。
悪さも殺させるけれども……、である。

いわゆる角を矯めて牛を殺すことになってしまう。
スピーカーに関しても、まったく同じことがいえる。

使いこなしが難しい、いわゆる暴馬的なスピーカーの使いこなしには、
大きくふたつの方法(というか方向)がある。

ひとつはいまあげた、良さも悪さも殺してしまう鳴らし方であり、
これもまた調教といえる。
もうひとつは、とにかく良さも悪さもすべて出して切ってしまう、という鳴らし方である。

長島先生がジェンセンのG610Bの使いこなしにおいてとられたのは、
いうまでもなく後者の鳴らし方(調教)である。

どちらをとるかは人によって違う。
前者を調教とイメージする人もいれば、後者こそ調教と考えている人もいる、ということだ。

長島先生と同世代、
つまりステレオサウンドの初期から関わってこられた方たちは、
後者の調教をとられてきた人たち、ともいえる。

ステレオサウンド 77号のComponents of The yearのゴールデンサウンド賞には、
ダイヤトーンのDS10000の他に、
JBLのDD55000とマッキントッシュのXRT18という対照的なモデルも選ばれている。

そのDD55000について、井上先生が次のように語られている。
     *
 使いこなしが難しいという話が出たけど、このスピーカーの使いこなしには、ぼくは二つの方法があると思うんです。悪さもよさも殺して鳴らすのと、とにかく鳴らし放題鳴らしてしまう方法のふたつが。ぼくは後者をとりますね。鳴らすだけ鳴らして、このスピーカーの音の世界に自分が入ってから、どうするか考える。個人のシステムだから、それでいいと思うんです。最初からいい音、というよりも聴きやすい音を出す必要はない。リファレンス機器じゃないんだから。まずこのスピーカーの音の世界の中に入って、どんな鳴り方をし、どんな素性を持っているスピーカーなのか探って、それからいろいろ苦労したほうがいい。外野にいて、調教しようとしても、鳴ってくれるスピーカーじゃありませんよ、これは。
     *
この井上先生の発言にも、調教という言葉が出てくる。
調整ではなく、やはり調教が、である。

Date: 1月 19th, 2016
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(その5)

KEFのModel 107を知った時、正直にいえばKEFも迷走しはじめた……、そう思っていた。
KEFのModel 105は手に入れたいスピーカーのひとつだった。

Model 105の音は、私にとっては、
熊本のオーディオ店で瀬川先生が調整された音が、その音そのものとして記憶している。
このときのことは、以前書いている

KEFのmodel 105を、
瀬川先生は《敬愛してやまないレイモンド・クックのスピーカー設計理論の集大成》とされている。
(ステレオサウンド 47号より)

まさしく、そういう音でModel 105は鳴っていたし、
それゆえにModel 107のスタイルを見た時に、なぜ……とおもった。

この「なぜ」は、迷走しはじめた……と思えたKEFに対してのものだった。
でも、ここで本来すべきだったのは、自分に対して「なぜ」を向けることだった。

つまりなぜKEFはModel 107を出したのか。
中高域に関してはModel 105のスタイルを継承しつつも、
ウーファーに関しては、いままでKEFが手がけてこなかったスタイルをとっていることに対して、
その理由を考えなかったことを、いまごろ反省している。

Model 105がレイモンド・クックのスピーカー設計理論の集大成であるならば、
Model 107もレイモンド・クックのスピーカー設計理論の集大成として捉えた上での「なぜ」と考えると、
Model 105で中高域のサブエンクロージュアが上下だけでなく左右にも可動する理由が、見えてくる。

Date: 1月 16th, 2016
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その3)

スピーカーの調教といっても、ピンとこない人は必ずいるはずだ。
どういうスピーカーを鳴らしてきたかでも、調教という言葉に対して、
どう感じるかは違ってくるものと思われる。

調教なんて大げさな……、調整でしょう、と思う人が使ってきた(鳴らしてきた)スピーカーと、
そうそう調教してきた、と頷かれる人が使ってきた(鳴らしてきた)スピーカーは、
その性格において大きく異るものがある。

黒田先生が調教という言葉を使われたステレオサウンド 38号の一号前、
37号では、森忠輝氏が、やはり調教と表現されている。

森忠輝氏は、そのころシーメンスのオイロダインを手に入れられている。
「幻聴再生への誘い」という連載が、そのころのステレオサウンドにはあった。

森忠輝氏は、五味先生のオーディオ巡礼(50号)に登場されているので、
ご記憶の方も少なくないと思う。

シーメンスのオイロダインを、
マランツのModel 7とModel 9、
それにRCAのアナログプレーヤーで鳴らされていた。

森氏は、パルジファルを、この時かけられている。
     *
森氏は次にもう一枚、クナッパーツブッシュのバイロイト録音の〝パルシファル〟をかけてくれたが、もう私は陶然と聴き惚れるばかりだった。クナッパーツブッシュのワグナーは、フルトヴェングラーとともにワグネリアンには最高のものというのが定説だが、クナッパーツブッシュ最晩年の録音によるこのフィリップス盤はまことに厄介なレコードで、じつのところ拙宅でも余りうまく鳴ってくれない。空前絶後の演奏なのはわかるが、時々、マイクセッティングがわるいとしか思えぬ鳴り方をする個所がある。
 しかるに森家の〝オイロダイン〟は、実況録音盤の人の咳払いや衣ずれの音などがバッフルの手前から奥にさざ波のようにひろがり、ひめやかなそんなざわめきの彼方に〝聖餐の動機〟が湧いてくる。好むと否とに関わりなくワグナー畢生の楽劇——バイロイトの舞台が、仄暗い照明で眼前に彷彿する。私は涙がこぼれそうになった。ひとりの青年が、苦心惨憺して、いま本当のワグナーを鳴らしているのだ。おそらく彼は本当に気に入ったワグナーのレコードを、本当の音で聴きたくて〝オイロダイン〟を手に入れ苦労してきたのだろう。敢ていえば苦労はまだ足らぬ点があるかも知れない。それでも、これだけ見事なワグナーを私は他所では聴いたことがない。天井棧敷は、申すならふところのそう豊かでない観衆の行く所だが、一方、その道の通がかよう場所でもある。森氏は後者だろう。むつかしい〝パルシファル〟をこれだけ見事にひびかせ得るのは畢竟、はっきりしたワグナー象を彼は心の裡にもっているからだ。〝オイロダイン〟の響きが如実にそれを語っている。私は感服した。(ステレオサウンド 50号より)
     *
五味先生の文章を読んでもわかる。
森氏は、オイロダインを調教されてきたことが。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その2)

長島先生が、どんなふうに言われていたのかを正確に引用するために、
ステレオサウンド 38号をひっぱり出していた。

38号の特集記事「オーディオ評論家 そのサウンドとサウンドロジィ」の巻頭は、黒田先生が書かれている。
「憧れが響く」とつけられた黒田先生の文章を、だからひさしぶりに読み返していた。

すると、調教という言葉が出てきた。
この黒田先生の文章を以前に読んでいたから、
調整なのか調教なのか、ということを思いついたと、だからいえるのかもしれない。

文章を書くことに慎重な黒田先生が、調整ではなく調教を使われている。
そこのところを引用しておく。
     *
 このスピーカーならああいう音といった予断が、ぼくにも多少はあった。しかしそうしたぼくのぼくなりの予断を、オーディオ評論家八氏は、いとも見事に、くつがえした。彼らは、再生装置というレコードをきくための道具を、完璧に手もとにひきつけ、自分の音をそこからださせていた。このスピーカーならああいう音という、一種の思いこみにかなわぬ、つまりそれがもつ一般的なイメージから微妙にへだたったところでの、それぞれの音だった。しかし、それがそれ本来の持味、特性を裏切っていたというわけではない。
 したがって彼らは、それぞれの機械を、名調教師よろしく、申し分なく飼育してしまっていたといういい方も、可能になる。
 しかし、彼らは、なにゆえに、おのれの装置を調教したのか。おそらく、目的は、調教することにはなく、その先にあったはずだ。いや、かならずしもそうとはいえないかしれない。一般的にはあつかいにくいといわれている機器を、敢て、挑戦的な意味もあって、つかいこなすことによろこびを感じることもあるだろう。その場合の、つかいにくいとされている機器は、暴馬にたとえられる。暴馬を調教するには、当然それなりのよろこびがあるにちがいない。
 ここでひとつあきらかになることがある。それはオーディオ評論家とは、再生装置の調教師であり、同時に、騎手でもあるということだ。
     *
調整と調教の違いは、整えると教えるにある。
教えることで、そのモノと行動をともにすることができる、といえるのではないか。