Archive for category 使いこなし

Date: 2月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その17)

レコード芸術に、瀬川先生の連載が始まったのは1981年の夏だった。
「MyAngle 良い音とは何か?」というタイトルだった。
一回だけの連載だった。
     *
 二年、などというと、いや、三ヶ月だって、人びとは絶望的な顔をする。しかし、オーディオに限らない。車でもカメラでも楽器でも、ある水準以上の能力を秘めた機械であれば、毎日可愛がって使いこなして、本調子が出るまでに一年ないし二年かかることぐらい、体験した人なら誰だって知っている。その点では、いま、日本人ぐらいせっかちで、せっぱつまったように追いかけられた気分で過ごしている人種はほかにないのじゃなかろうか。
 ついさっき、山本直純の「ピアノふぉる亭」に女優の吉田日出子さんが出るのを知って、TVのスウィッチを入れた。彼女が「上海バンスキング」の中で唱うブルースに私はいましびれているのだ。番組の中で彼女は、最近、上海に行ってきた話をして、「上海では、日本の一年が十年ぐらいの時間でゆっくり流れているんですよ」と言っていた。なぜあの国に生れなかったんだろう、とも言った。私は正直のところ、あの国は小さい頃から何故か生理的に好きではないが、しかし文学などに表れた悠久の時間の流れは、何となく理解できるし、共感できる部分もある。
 いや、なにも悠久といったテンポでやろうなどという話ではないのだ。オーディオ機器を、せめて、日本の四季に馴染ませる時間が最低限度、必要じゃないか、と言っているのだ。それをもういちどくりかえす、つまり二年を過ぎたころ、あなたの機器たちは日本の気候、風土にようやく馴染む。それと共に、あなたの好むレパートリーも、二年かかればひととおり鳴らせる。機器たちはあなたの好きな音楽を充分に理解する。それを、あなた好みの音で鳴らそうと努力する。
……こういう擬人法的な言い方を、ひどく嫌う人もあるらしいが、別に冗談を言おうとしているのではない。あなたの好きな曲、好きなブランドのレコード、好みの音量、鳴らしかたのクセ、一日のうちに鳴らす時間……そうした個人個人のクセが、機械に充分に刻み込まれるためには、少なくみても一年以上の年月がどうしても必要なのだ。だいいち、あなた自身、四季おりおりに、聴きたい曲や鳴らしかたの好みが少しずつ変化するだろう。だとすれば、そうした四季の変化に対する聴き手の変化は四季を二度以上くりかえさなくては、機械に伝わらない。
 けれど二年のあいだ、どういう調整をし、鳴らし込みをするのか? 何もしなくていい。何の気負いもなくして、いつものように、いま聴きたい曲(レコード)をとり出して、いま聴きたい音量で、自然に鳴らせばいい。そして、ときたま——たとえば二週間から一ヶ月に一度、スピーカーの位置を直してみたりする。レヴェルコントロールを合わせ直してみたりする。どこまでも悠長に、のんびりと、あせらずに……。
 あきれた話をしよう。ある販売店の特別室に、JBLのパラゴンがあった。大きなメモが乗っていて、これは当店のお客様がすでに購入された品ですが、ご依頼によってただいま鳴らし込み中、と書いてある。
 スピーカーの「鳴らしこみ」というのが強調されている。このことについても、改めてくわしく書かなくては意が尽くせないが、簡単にいえば、前述のように毎日ふつうに自分の好きなレコードをふつうに鳴らして、二年も経てば、結果として「鳴らし込まれて」いるものなので、わざわざ「鳴らし込み」しようというのは、スピーカーをダメにするようなものだ。
 下世話な例え話のほうが理解しやすいかもしれない。
 ある男、今どき珍しい正真正銘の処女(おぼこ)をめとった。さる人ねたんでいわく、
「おぼこもよいが、ほんとうの女の味が出るまでには、ずいぶんと男に馴染まさねば」
男、これを聞き早速、わが妻を吉原(トルコ)に住み込ませ、女の味とやらの出るのをひとりじっと待っていた……とサ。
 教訓、封を切ったスピーカーは、最初から自分の流儀で無理なく自然に鳴らすべし。同様の理由から、スピーカーばかりは中古品(セコハン)買うべからず。
 今月はこれでおしまい。
     *
最後のところを引用した。
ソフトウェアの達人といわれていた瀬川先生が、これを書かれている。

《何もしなくていい。何の気負いもなくして、いつものように、いま聴きたい曲(レコード)をとり出して、いま聴きたい音量で、自然に鳴らせばいい。そして、ときたま——たとえば二週間から一ヶ月に一度、スピーカーの位置を直してみたりする。レヴェルコントロールを合わせ直してみたりする。どこまでも悠長に、のんびりと、あせらずに……。》

近ごろ、やっと瀬川先生の真意がわかってきたように思っている。
ひとり勝手に思っているだけにしても、
世の中、スピーカーをダメにする「鳴らし込み」は、むしろ増えているのではないだろうか。

瀬川先生のいわれる「鳴らし込み」の前提として求められるのは、セッティングである。

Date: 2月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その16)

「オーディオの想像力の欠如が生むもの(その19)」で、
オーディオの想像力の欠如が、セッティング、チューニングの境界をさらに曖昧にしている、
と書いた。

もっといえば、オーディオの想像力の欠如のままでは、チューニングは無理である。

鍛えられているかどうかよりも、
オーディオの想像力があるかどうかのほうが、重要だとも思っている。

オーディオ業界にいる人たちすべてがオーディオの想像力をもっているとは思っていない。
むしろ持っている人の方が少ないのではないか──、そんな気さえすることがある。
オーディオ評論家と名乗っている人たちに関しても、そうである。

オーディオの仕事をしていない人たちに、オーディオの想像力がないのかといえば、
そうではない。
むしろ、オーディオを仕事としている人たちよりも、オーディオの想像力をもつ人は多いかもしれない。

オーディオ歴の長い人ほど、オーディオの想像力をもっているかといえば、
これもそうとはいえない。

オーディオの想像力について書いていくことは難しい。
だから、別項で「オーディオの想像力の欠如を生むもの」を書いた。
オーディオの想像力そのものについて、いまのところはうまく書けなくとも、
オーディオの想像力が欠如するということについては、書ける。

くり返そう、
オーディオの想像力が欠如していては、チューニングは無理である。
けれど強調したいのは、チューニングができなくとも、いい音を出すことはできる、ということだ。

Date: 2月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その15)

鍛えられていなくとも、オーディオはできるし、楽しめる。
ただ(その6)で書いた、どこをいじるか。
その個所を直感で決め、わずかな時間と手間で、そこでの不満を解消できるかどうかは、
鍛えられているからこそ、と断言できる。

鍛えられていなくとも、偶然でも、私と同じ個所をいじることはあろう。
それでも、そこをどうするかは違ってくるだろうし、
同じことをやれたとしても、別の場合には、偶然はそうそう重ならない。

偶然に頼って、というのは、鍛えられていない人のやり方である。

オーディオの再生系にはいじるところが、それこそ無数にある。
しかもそのいじり方もひとつではない。
どこをいじるのか、どういじるのか。組合せの数はさらに増える。

そこにぽんと放り出されたら……。
オーディオはどこをいじってもは音が変る。
だからこそやっかいでもある。

そのため見当違いであっても、そこに固執しがちになることがある。
とはいえ、それもまた楽しいといえる面があるのがオーディオなのだから、ややこしい。

オーディオは趣味で、本人が楽しんでいるのであれば、
第三者がとやかくいうことではない──のかもしれないが、
それでもいいたいのが、それがチューニングといえるのだろうか、である。

ここでは、オーディオは趣味だから……、は通用しなくなる。
本人がチューニングと思っていじっていれば、それはチューニングではないか。
そう考える人はいるけれど、私は違う。

Date: 2月 6th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その14)

「オーディオは趣味なのだから……」
鍛えるとか、鍛えられるとか、そんなことは趣味であるオーディオには無縁のこと。

──こういう考えがあってもいい。
こういう考えの人にとってのオーディオの師とは、
オーディオの楽しみを教えてくれた人、ということになる。

二年前の春、映画「セッション」(原題:WHIPLASH)について書いた。
この映画についての否定的な意見を、そのころfacebookでよく見かけた。

しかも面白いことに映画を観た上で書いているのではなく、
予告編だけを見てのものだったり、
誰かがこの映画について書いたものを読んでの否定的な意見が大半だった。

音楽をやるのに、この映画で描かれているようなことは必要ない。
楽しく、音楽を学んでいければいいのに……、
そんな感じが根底にある意見をいくつも見た。

鍛え鍛えられる──、
そんなことからは無縁でいたいのだろうか、とそれらの意見を見ていて思った。

オーディオの楽しみ方、関わり方は、人それぞれであっていい。
けれど、それは音楽との関わり方にも深く関係することである。

(その11)と(その12)で、私は恵まれていた、と書いたのは、そういうことである。

Date: 2月 6th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その13)

オーディオの使いこなしに限らない、
何かを身につけるには、正しいやり方による修練でなければならない。

独学だということを誇らしげにいう人もいるが、
そういう人の多くは独学ゆえの未熟なやり方であり、
そんなことをくり返し長い期間を続けてきても、
あるレベル(そう高いレベルではない)までは行けても、
それ以上のレベルには、独学だけではどうにもならない。

独学そのものが、独学のすべてがそうだというわけではないが、
独学は往々にして苦手なところを避けがちであり、
本人にそういう気持はなくとも、楽な方へと流れてしまいがちでもある。

だからといって、誰かについて学べばいいのか、というと、そうでもない。
誰を師とするかが、ここでは重要である。

鍛えられていない人を師とすれば、そこまで、である。

師をもつオーディオマニアは、意外に多い。
○○さんがオーディオの師です、という人はけっこういる。

○○さんは、決して有名な人ではなかったりする。
何も有名な人が師だからいいというものでもないし、
無名の人にも、優れたオーディオマニアはおられる。

けれど、○○さんが師です、といっている人を見ていると、
○○さんがどのくらいのオーディオマニアであったのか、間接的に知ることになる。

○○さんが師です、といっている人のやり方が、とても偏っていることが多いからだ。
○○さんが師です、という人の理解が悪くて、そうなっているのかもしれない。
○○さんは、素晴らしいオーディオマニアの可能性だってある。

○○さんを知らないのだから、どちらなのかははっきりとわからない。
素晴らしいオーディオマニアであっても、○○さんはおそらく鍛えられていない人だとは思う。

鍛えられている人ならば、人を鍛えることができるはずだからだ。

Date: 1月 22nd, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その12)

ほとんどのオーディオマニアが、使いこなしが大事だ、という。
だが、この使いこなしとは、どういうことなのか。

私は、オーディオには三つのingがある、といっている。
セッティング(setting)、チューニング(tuning)、エージング(aging)の三つであり、
私は使いこなしという言葉には、この三つを含めての意味で使っている。

使いこなしをどう定義するのかは人それぞれであっていいわけだが、
ただぼんやりと使いこなしという言葉だけを使っている人もいる。

そういう人は、セッティングとチューニングを一緒くたに考えがちのようだし、
さらにはエージングに関しても、どこか的を外しているとしか思えないこともある。

それでも多くのオーディオマニアが、使いこなしが大事、という。
いまはこういうことを書いている私も、
もしステレオサウンドで働くことがなかったら、使いこなしをどう考えていただろうか、と思う。

私が前回、恵まれていた、と書いたのは、ここである。
私はステレオサウンドの試聴室で、使いこなしを学ぶことができた。

特に井上先生は、はっきりと言葉にされたわけではないが、
セッティングとチューニングについて、学ぶ機会を与えてくれた。
考えるきっかけを与えてくれた、ともいえる。

教えてくれた、とは書かない。
あくまでも学ぶ機会を与えてくれたのであって、
そこで学べるかどうかは、こちら側の問題である。

井上先生の使いこなしは、いくつもの亜流を生んだ。
その亜流に接した人はそこそこいよう。

でも、それはあくまでも亜流であって、井上先生の使いこなしではない。
にも関わらず、一時期、井上メソッドなる言葉まで一部では流行っていた。

どこが流行元というか発信元なのかは知っている。
それが亜流なのも知っている。

でも、井上先生の使いこなしを見て聴いている人であっても、
亜流を亜流とは思っていないのだから、
まして見たことも聴いたこともない人は、亜流を井上先生の使いこなしと信じてしまうようだ。

Date: 1月 19th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その11)

19時から開始して23時近くまでやっていた。
「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」の七曲目でのチューニングを経て、
最後に最初にかけたディスクをもう一度鳴らした。

①から⑧までの音で使ったディスクである。
⑧の音から「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」でのチューニングを経た音。
それを聴いてもらった。

①から⑧までの音では聴いてもらったのは時間の都合もあるし、
あまり長く聴いても、場合によっては違いがわからなくなることもあるため、
冒頭の数分だけを聴いてもらっていた。

最後は、通して聴いてもらった。

常連のHさんが、こういってくれた。
「AさんとKさんが来られた時に、もう一度やるべきです」と。
AさんとKさんも常連の方たちだ。
今回は先約があって来られなかった。

まだまだやりたいことはあるし、
こういう内容のことは一度やったから終り、というものでもない。

一度体験したからといって、すくに身につくものではない。
私がやったことをすべて記憶して帰ったとしても、
同じことを自分のリスニングルームで再現できるとは限らない。
うまくいくこともあれば、そうでないこともある。

それにたいてはすべて記憶して、というのはまず無理である。
記憶しているつもりでも、気づいていないところがあるものだ。

見て聴いているだけでは、そうなりがちだ。
やはり自分の手でやってみないと、すべてを記憶するところまではいけない。

私が恵まれていたと感じるのは、この点である。

Date: 1月 19th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その10)

あとやったことといえば、
セッティング、チューニングの過程でディスクを決めて、
一度もCDプレーヤーの中から取り出さない理由も、音で確かめてもらった。

特別なことではない。
トレイにディスクをセットして再生する。
再生をストップしてトレイを出す。
ディスクには手を触れずに、もう一度再生する。

CD登場後、しばらくして話題になったことである。
そんなことで音は変らない、と言い張る人もいた。
実際に音を聴かせても、変らないじゃないか、という人もいた。

インターネットでも、そんなことで音は変らない、という人はいる。
変らないのと聴き分けられないのとは、同じではない。

そしてセッティングが不備があれば、この違いは確かに出にくい性質ではある。
もちろんCDプレーヤーによっても、差の出方は違うし、
必ずしも二回目が音が良くなるとは限らない。

一回目と二回目で差が出るということは事実である。
だからといって常にそうやって聴いているわけではない。
慣れれば、うまく鳴っていないということはすぐにわかる。
そういう時だけトレイの出し入れをやるくらいだ。

とはいえ、この音の違いは、こまかなセッティング、チューニングにおいては無視できない。
ディスクを何枚も聴いてやるのもいいけれど、そうすることで、
変えているつもりはないところが変っている可能性があることを常に意識しておくべきである。

ラックスのD38uは、一回目と二回目の音の差はあるほうだといえよう。
参加された方が、こんなに違うんだ、と驚かれていた。

Date: 1月 16th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その9)

システム全体の音をどこまで振れるか。
これはもうオーディオの想像力がなくてはできないことだ。

しかも反対方向にも振るのだから。
その反対方向がどの方向なのかを見定めるのも含めて、オーディオの想像力なくしては無理である。

トーンコントロール変化量は、上限も下限も、アンプによって決っている。
その範囲内だけでツマミを動かすだけ、ともいえる。
スピーカーユニットの位置決めもそういえなくもない。

ただしこちらは位置を動かすことは、
ウーファーとの相対的な位置関係が変化するだけでなく、
エンクロージュア上部への加重の掛かり方も変化していく。
それにともないエンクロージュアの振動モードが変化していく。

そのため物理的な位置の中間が、中点とは限らない。
とはいえ振り幅はわかりやすい、といえる。

オーディオの再生系には、こうした振り幅が各所にある。
かなりの数あり、その振り幅の組合せが、システム全体の振り幅なのだから、
これを把握しようとして、
すべての振り幅をひとつひとつ確かめて、順列組合せの数だけ確かめることは、
まず無理といえる。

順列組合せの数といっても、たいした数ではないじゃないか、
という人はセッティングというものがわかっていない。
実際はものすごい数になる。

仮に時間をかけて、順列組合せの数すべての音を確かめたとして、
それでシステム全体の振り幅がどのくらいなのかを把握できるとは限らない。

結局、システム全体の振り幅を見極めるのは、オーディオの想像力であり、
チューニングにはオーディオの想像力が必要だという理由でもある。

Date: 1月 16th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その8)

オーディオに興味を持ち始めたばかりの人が、
トーンコントロールやグラフィックイコライザーを調整しようとする際
おそるおそるツマミをいじるのではなく、
大胆にいじったほうがいい、とは昔からいわれている。

トーンコントロールならば、ツマミを右に左にまわしきる。
トーンコントロールはBASS(低音)とTREBLE(高音)、ふたつのツマミがある。
同時にふたつのツマミをいじるのではなく、どちらかをいじる。

BASSだとして、まず右にまわす(左でもかまわない)。
徐々にではなく、右にまわしきる。
つまりいっぱいまで上げた音を聴く。
そして反対方向にまわしきる。下げきった音を聴く。

両端に振り切った音を確認する。
そして中点にあたる音(トーンコントロールの0ポジション)を聴く。
この後で変化量を少なくしていく。

自作スピーカーで、中高域がホーン型であれば、
その位置決めはおろそかにできない。
前後に移動したり、左右に移動したりする。

前後に移動する場合も、左右に移動する場合も、
基本はトーンコントロールと同じである。

いちばん前にもってきた音を聴く、
それからいちばん後にした音を聴く、
それから中間の音を音を聴く。

つまり振り子を思いきり左右に振ってみることで見えてくる「点」がある。

Date: 1月 16th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その7)

何をやったのかを具体的に書かないのは、
1月4日に喫茶茶会記における音の変化を聴いていない人に、
どれだけ細かく書いたところで意味がない、と思っているからだ。

仮に具体的に書いたところで、同じことを読んだ人がやったところで、
同じにはならない。
なぜかといえば、同じことをやったつもりでも、同じようなことでしかないことが大半だからである。

私がやったことと同じことができる人ならば、
すでにやっているか、どんなことをやったのかがおおよそ想像がつくはずだ。

それに喫茶茶会記のスピーカーは、いわゆる自作スピーカーに類するモノである。
既製品のスピーカーシステムに応用できることもあれば、そうでないこともある。

私は、その場に来てくれて、そこでの音の変化を感じ取ってくれた人には、
出し惜しみはしない。
訊かれたことにはできるだけ答えるようにしている。

それでも、そこでやったことをそのまま、
その人がその人のシステムに応用できるかは別の話である。

重要なのは何をやったかではないから、
ここで具体的なことは書かないだけである。

「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」の七曲目にしぼって、
チューニングをすすめていった。

最初にやったことが効いた。はっきりとした手応えだったから、次にとりかかれる。
ここで 三段階の音を聴いてもらう。
次にまた別のことをやる。
ここでも三段階の音を聴いてもらった。

こうすることで、演奏の場の感じが変っていく。
秩父ミューズパーク音楽堂での録音である。
このホールには行ったことはない。

ウェブサイトによれば、定員600人の大きさのホールである。
スピーカーのチューニングをするまでの音では、
どこで録音したんだろうか、と思っていた。
録音データはその時点では見てなかった。

チューニングをやっていくと、能の舞台のように感じられてきた。

Date: 1月 15th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その6)

話を1月4日のことに戻そう。

ディスクを決めて、ボリュウムの位置もいっさいいじらず、
①の音から⑧の音まで聴いてもらった。

同じディスクでそのまま続けることも考えたが、
気分転換を兼ねて、セッティング、チューニングとは関係なく、
他のディスクを聴いてもらった。

そして常連のHさんが持参されたCD「能×現代音楽 Noh×Contemporary Music」をかける。
まず一曲目を聴いて、七曲目を聴いた。

七曲目を聴いてもらい、いま鳴っている音をどうしたいか、
不満はどこにあるのかを、Hさんにきいた。

こうしてほしい、という要望があった。
その点は、私も感じていたことであり、
それが録音によるものなのかがはっきりとしていなかった。

どこをいじる。
三つほどすぐに浮んだ。
三つすべてを一度にいじるのではなく、まず最初にどこにするのか。

これはほぼ直感的に決めた。
スピーカーのところに行き、わずかなところを変える。
時間はほとんど掛からない。左右のスピーカーに対して行っても、30秒程度のことである。

傍で見ていると、何をやっているのかはっきりとしない、
その程度のことを変えてみた。

これだけのことであっても、音の変化ははっきりと、大きかった。
不満と感じていたところがかなり解消された。

これにはHさんも、かなり驚かれた。
①から⑧までの音の変化を聴いてきて、さらに驚かれた。

同じ状況でどこをいじるのかは人によって違ってくる。
私は、ここだ、と感じたところをいじったわけだ。
それは直感であり、
これまでのセッティングとチューニングの経験とオーディオの想像力によって裏打ちされた直感である。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その5)

引用した五味先生の文章だけでは、
セッティングとチューニングの違いについて私がいいたいことが何なのか、
はっきりとしないじゃないか、と思われるかもしれない。

映画「ピアノマニア」だけを観ても、そうかもしれない。

でも、「ピアノマニア」を観て、
五味先生の文章を読み、
セッティングとチューニングについて、そしてその違いについて考えてきた人ならば、
セッティングとチューニングの違いについて、何かを掴めているはずだ。

ただ漫然とオーディオをやってきた(いる)人、
セッティングとチューニングを一緒くたに捉えてしまっている人、
数年前のステレオサウンドの「ファインチューニング」というタイトルに、
何の疑問も感じなかった人は、
「ピアノマニア」を観て、五味先生の文章を読んでも、
私がいいたいことは何ひとつわかってくれないであろう。

結局のところ、そういう人は、オーディオの想像力が欠如しているのだから。

Date: 1月 12th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その4)

ピアノの調律に関する話は「西方の音」の中の「大阪のバイロイト祭り」に出てくる。
     *
 大阪のバイロイト・フェスティバルを聴きに行く十日ほど前、朝日のY君に頼んであった調律師が拙宅のベーゼンドルファーを調律に来てくれた。この人は日本でも有数の調律師で、来日するピアニストのリサイタルには、しばしば各地の演奏会場に同行を命ぜられている人である。K氏という。
 K氏はよもやま話のあと、調律にかかる前にうちのピアノをポン、ポンと単音で三度ばかり敲いて、いけませんね、と言う。どういけないのか、音程が狂っているんですかと聞いたら、そうではなく、大へん失礼な言い方だが「ヤマハの人に調律させられてますね」と言われた。
 その通りだ。しかし、我が家のはベーゼンドルファーであってヤマハ・ピアノではない。紛れもなくベーゼンドルファーの音で鳴っている。それでもヤマハの音がするのか、それがお分りになるのか? 私は驚いて問い返した。一体どう違うのかと。
 K氏は、私のようにズケズケものを言う人ではないから、あいまいに笑って答えられなかったが、とにかく、うちのピアノがヤマハの調律師に一度いじられているのだけは、ポンと敲いて看破された。音とはそういうものらしい。
 大阪のワグナー・フェスティバルのオケはN響がひく。右の伝でゆくと、奏者のすべてがストラディバリウスやガルネリを奏してもそれは譜のメロディをなぞるだけで、バイロイトの音はしないだろう。むろんちっとも差支えはないので、バイロイトの音ならクナッパーツブッシュのふった『パージファル』で知っているし、ベームの指揮した『トリスタンとイゾルデ』でも、多少フィリップスとグラモフォンの録音ディレクターによる、音の捕え方の違いはあってもまさしく、バイロイト祝祭劇場の音を響かせていた。トリスタンやワルキューレは、レコードでもう何十度聴いているかしれない。その音楽から味わえる格別な感銘がもし別にあるとすれば、それはウィーラント・ワグナーの演出で肉声を聴けること、ステージに作曲者ワグナーの意図したスケールと色彩を楽しめることだろう。そうして確かにそういうスケールがもたらすに違いない感動を期待し、何カ月も前から大阪へ出掛けるのを私は楽しみにしていた。この点、モーツァルトのオペラとは違う。モーツァルトの純音楽的な美しさは、余りにそれは美しすぎてしばしば登場人物(ステージの)によって裏切られている。ワグナー論をここに述べるつもりは今の私にはないし、大阪フェスティバルへ行くときにもなかった。ワグナーの音楽は私なりにもう分ったつもりでいる。舞台を観たからって、それが変るわけはない。そんな曖昧なレコードの聴き方を私はしていない。これは私に限るまい。強いていえば、いちどステージで観ておけば、以後、レコードを聴くときに一そう理解がゆくだろう、つまりあくまでレコードを楽しむ前提に、ウィーラント・ワグナーの演出を見ておきたかった。もう一つ、大阪フェスティバル・ホールでもバイロイトのようにオーケストラ・ボックスを改造して、低くさげてあるそうだが、そうすれば音はどんな工合に変るのか、それも耳で確かめたかった。
 ピアノの調律がおわってK氏が帰ったあと(念のため言っておくと、調律というのは一日で済むものかと思ったらK氏は四日間通われた。ベーゼンドルファーの音にもどすのに、この努力は当然のように思う。くるった音色を——音程ではない——元へ戻すには新しい音をつくり出すほどの苦心がいるだろう)私は大へん満足して、やっぱり違うものだと女房に言ったら、あなたと同じですね、と言う。以前、ヤマハが調律して帰ったあとに、私は十歳の娘がひいている音を聞いて、きたなくなったと言ったそうである。「ヤマハの音にしよった」と。自分で忘れているから世話はないが、そう言われて思い出した。四度の不協和音を敲いたときに、音がちがう。ヤマハに限るまい、日本の音は——その調律は——不協和音に、どこやら馴染み合う響きがある。腰が弱く、やさしすぎる。
     *
「西方の音」を読んだ当時は、ピアノの音色の話として捉えた。
それに関する話として読んだ。

ある時期から、セッティングとチューニングについてとしても捉えられることに気づいた。

Date: 1月 11th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その3)

19時開始時点の音を便宜的に①の音とする。
一度セッティングを戻した(崩した)音が②の音、ケーブルを交換した音が③の音、
トーンコントロールをバイパスしたのが④の音、MA2275のメーターをOFFにしたのが⑤の音……、としていくと、
CDプレーヤーのディスプレイをOFFにしたのが⑧の音であり、
この⑧の音と①の音は同じであり、
②の音が聴感上のS/N比も悪く、クォリティ的にも冴えない音であり、
段階を踏むごとに聴感上のS/N比は向上していっている。

①の音と②の音の差が、だからいちばん大きい。
オーケストラの国籍が判然としない音になるばかりか、
コントラバスが②の音では、
巨人が巨大なコントラバスを一人で弾いているかのような鳴り方に近くなる。

②から③、③から④へ……、
コントラバスの鳴り方の変化は顕著だった。
オーケストラにおけるコントラバスの鳴り方になっていく。
オーケストラの国籍も定まってくる。

ここまで聴いてもらったところで質問があった。
チューニングなのか、セッティングなのか、という質問だった。

「セッティングです」と即答した。
そう言いながら思い出していたのが「ピアノマニア」という映画のことだった。

ちょうど五年前に公開されている。
この映画については2012年1月に書いている。

「ピアノマニア」はドキュメンタリー映画である。
だから主人公ではなく主役といえるのは、
スタインウェイの調律師、シュテファン・クニュップファーである。

シュテファン・クニュップファーの調律をどう見るか。
オーディオにおけるセッティングとチューニングの違いが描かれている、ともいえる。

とはいえ「ピアノマニア」を観ていない人には、ことこまかに説明する必要があるけれど、
セッティングなのか、チューニングなのかを訊いてきたHさんは、
「ピアノマニア」を観ている人であるから、通じるところがある。

ここで「ピアノマニア」について書くことはしない。
けれどピアノの調律に関して思い出したことは、もうひとつある。
五味先生が書かれていた文章である。