セッティングとチューニングの境界(その12)
ほとんどのオーディオマニアが、使いこなしが大事だ、という。
だが、この使いこなしとは、どういうことなのか。
私は、オーディオには三つのingがある、といっている。
セッティング(setting)、チューニング(tuning)、エージング(aging)の三つであり、
私は使いこなしという言葉には、この三つを含めての意味で使っている。
使いこなしをどう定義するのかは人それぞれであっていいわけだが、
ただぼんやりと使いこなしという言葉だけを使っている人もいる。
そういう人は、セッティングとチューニングを一緒くたに考えがちのようだし、
さらにはエージングに関しても、どこか的を外しているとしか思えないこともある。
それでも多くのオーディオマニアが、使いこなしが大事、という。
いまはこういうことを書いている私も、
もしステレオサウンドで働くことがなかったら、使いこなしをどう考えていただろうか、と思う。
私が前回、恵まれていた、と書いたのは、ここである。
私はステレオサウンドの試聴室で、使いこなしを学ぶことができた。
特に井上先生は、はっきりと言葉にされたわけではないが、
セッティングとチューニングについて、学ぶ機会を与えてくれた。
考えるきっかけを与えてくれた、ともいえる。
教えてくれた、とは書かない。
あくまでも学ぶ機会を与えてくれたのであって、
そこで学べるかどうかは、こちら側の問題である。
井上先生の使いこなしは、いくつもの亜流を生んだ。
その亜流に接した人はそこそこいよう。
でも、それはあくまでも亜流であって、井上先生の使いこなしではない。
にも関わらず、一時期、井上メソッドなる言葉まで一部では流行っていた。
どこが流行元というか発信元なのかは知っている。
それが亜流なのも知っている。
でも、井上先生の使いこなしを見て聴いている人であっても、
亜流を亜流とは思っていないのだから、
まして見たことも聴いたこともない人は、亜流を井上先生の使いこなしと信じてしまうようだ。