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Date: 5月 24th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その14)

「サンチェスの子供たち」と同時期のレコードで、すぐに浮んでくるのは、
フィリップスから出ていたコリン・デイヴィスによるストラヴィンスキーの「春の祭典」と「火の鳥」がある。
これらも試聴レコードとして登場していた。

ステレオサウンド 53号の瀬川先生の4343の記事にも「春の祭典」は出てくる。
〈「春の祭典」のグラン・カッサの音、いや、そればかりでなくあの終章のおそるべき迫力に、冷や汗のにじむような体験をした記憶は、生々しく残っている。〉
何度も読み返しては、その音を想像していた。

国産ブックシェルフの、25cmウーファーでも、
「サンチェスの子供たち」、「春の祭典」、「火の鳥」の録音がいいことははっきりとわかったし、
低音の凄さは伝わってくる。
とはいってもプリメインアンプで鳴らし、音量もけっこう出せた環境とはいえ、
4343、4350Aでこれらのディスクを鳴らしたのと比較すれば、違いは大きいのはわかっていても、
どのくらいの違いなのかは、はっきりとわからなかったころでもあり、
よけいに想像を逞しくしていた。

これらのディスクを4343で聴く機会はわりとすぐにあった。
瀬川先生が熊本のオーディオ店に定期的に来られていた時期があったからだ。
4343を内蔵ネットワークで鳴らして、これだけの音が鳴るのだから、
4343をマークレビンソンのML2のブリッジで低域を鳴らしたときの音はいったいどういうレベルなのか、
さらに4350Aを、やはりML2のブリッジで低域を受け持たせたときの凄さとは、いったいどういう音なのか。

本を読み、その音を想像し、
そのディスクを買ってきて自分のシステムで鳴らし、4343、4350Aでの音を想像する。
4343で同じディスクを聴けば、ML2のブリッジで鳴らした音を想像する──。

Date: 5月 24th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その13)

瀬川先生のスイングジャーナルでの4350Aの組合せ記事、
ステレオサウンド 53号での4343のバイアンプの記事、
どちらにもチャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」が出てくる。

「サンチェスの子供たち」は黒田先生も、ステレオサウンド 49号で、
「さらに聴きとるものとの対話を」で取り上げられている。

このころからステレオサウンドの試聴用レコードとしてもでてくようになってきた。

チャック・マンジョーネのレコードは一枚も持っていなかった私も、
ステレオサウンドをみて「サンチェスの子供たち」を買った。
輸入盤を買った(たぶん輸入盤しかなかったようにも記憶している)。

「サンチェスの子供たち」は二枚組だった。
いわゆるサントラ盤である。

一枚目の一曲目から聴いていく。
ギターを伴奏にドン・ポッターが、チャック・マンジョーネの詩による「サンチェスの子供たち序曲」を歌う。
歌が終ると、曲調は一変する。
ここが、実にスリリングである。

この序曲を4350Aで聴いたら、さぞかしスリリングだと思う。

当時はLPで聴いていた。
いまはCDで聴けるようになっている。

30年以上前のレコード。
当時はブックシェルフ型スピーカーだった。ウーファーの口径は25cmだった。
それからいろんなシステム(スピーカー)で、このディスクを聴いてきた。
その度に音は変る。

その意味で、レコードにおさめられている音楽は、決して不動でも不変でもない、といえる。
けれど、LPにしろCDにしろ、レコードそのものは変っていない。

30数年前、まだ高校生のころ買った「サンチェスの子供たち」のLP(いまも実家にある)は、
ジャケットに多少傷みはあるけれど、何かが変ったわけではない。

レコード(LP、CD)とはそういうものであり、
そういうものだからこそ、思い出させてくれる存在でもある。

Date: 5月 24th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その12)

スイングジャーナルの4350Aの組合せの記事、
ステレオサウンド 53号での4343のバイアンプの記事、
これらと前後して当時西新宿にあったサンスイのショールームでも、
4350AをML2を六台使って鳴らされているから、
ステレオサウンド、スイングジャーナルの編集者以外でも、
その音の凄さを耳にされた方はいる。

記事だけで想像をふくらませた人、
実際の音を聴いた人、
その中には、その凄さを自分のものとしたくて、4350Aを手に入れた人もいよう。

「ピアニシモでまさに消え入るほどの小さな音量に絞ったときでさえ、音のあくまでくっきりと、
ディテールでも輪郭を失わずにしかも空間の隅々までひろがって溶け合う響きの見事なこと」とも書かれている。

4350Aを大きな音量で鳴らさなくとも、こういう音が聴ける──、
それだけでも、これだけの大がかりなシステムに挑戦してみよう、とも思う。

そういう熱にいわば感化されて4350Aを買う。
それが1980年ごろとして、いまは2014年。もう34年経っている。

当時30歳だった人は64歳になっている。
25くらいで買った人でも59歳、還暦目前。

それだけ歳をとり、まわりも変化してきている。
そうなると若いころには、4350Aの「狂気をはらんだ物凄さ」を抽き出そうとしていた人も、
いまでは違う鳴らし方をしているのが当然といえる。

けれど、そうやってたどりつき、いま鳴らしている音が「角を矯めて牛を殺す」的な音になってしまうのは、
それは違うのではないか、とどうしてもいいたくなる。

Date: 5月 24th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その11)

瀬川先生の、このときのスイングジャーナルに書かれたものは、ここで公開している。

このとき4350Aをドライヴしたアンプはすべてマークレビンソン。
パワーアンプはML2を六台。
4350Aはバイアンプ仕様なので、低域にはML2をブリッジ接続で使用している。
ここまで書けば、この記事を読んでいない人でも、
ステレオサウンド 53号での、瀬川先生による4343のバイアンプで鳴らした記事を思い出されることだろう。

53号でもMl2を六台使われている。
低域にブリッジで使うためである。

4343のウーファーは2231Aが一発だからインピーダンスは8Ω。
ML2をブリッジ接続したときの出力は100Wになる。
4350のウーファーは2231Aが二発だからインピーダンスはは4Ω。
このときのML2ブリッジ接続の出力は200Wになる。

ML2はシングル(通常使用)での出力は8Ωで25W、4Ωで50W、2Ωで100Wと、
2Ω負荷までリニアに出力は増していくことから、ブリッジ接続で4Ω負荷ならば200Wの出力を保証できる。

ML2一台の消費電力は400W。
六台あれば2400Wの電力を常時消費する。
発熱量もかなりのものになる。

そうやって得られる音はどういう音なのか。
瀬川先生はスイングジャーナルに、次のように書かれている。
     *
250Hz以下で鳴らす場合の、低域の締りの良いことはちょっと例えようのない素晴らしさだ。ブリッジ接続による十分に余裕ある大出力と、4350をふつうに鳴らした低音を聴き馴れた人にはウソのように思えるおそろしく引き締った、しかし実体感の豊かなというより、もはやナマの楽器の実体感を越えさえする、緻密で質の高い低音は、これ以外のアンプではちょっと考えられない。
     *
これとほぼ同じことは、ステレオサウンド 53号でも書かれている。

Date: 5月 23rd, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その10)

JBLの4350Aで、1981年に出たふたつのマーラー、
ショルティ/シカゴ交響楽団による第二交響曲とカラヤン/ベルリンフィルハーモニーによる第九交響曲を聴きたい。
けれど、角を矯めて牛を殺す、というたとえのような音で聴きたいわけではない。

4350Aをそんな音で鳴らしところで、私がここであげたふたつのマーラーから聴き取りたいものはきこえてこない。
どんな音で聴きたいのか。

瀬川先生がスイングジャーナルで4350Aの組合せをやられたときの文章がいまも記憶に残っている。
     *
 本誌試聴室で鳴ったこの夜の音を、いったいなんと形容したら良いのだろうか。それは、もはや、生々しい、とか、凄味のある、などという範疇を越えた、そう……劇的なひとつの体験とでもしか、いいようのない、怖ろしいような音、だった。
 急いでお断りしておくが、怖ろしい、といっても決して、耳をふさぎたくなるような大きな音がしたわけではない。もちろん、あとでくわしく書くように、マークレビンソンのAクラス・アンプの25Wという出力にしては、信じられないような大きな音量を出すこともできた。しかしその反面、ピアニシモでまさに消え入るほどの小さな音量に絞ったときでさえ、音のあくまでくっきりと、ディテールでも輪郭を失わずにしかも空間の隅々までひろがって溶け合う響きの見事なこと。やはりそれは、繰り返すが劇的な体験、にほかならなかった。
     *
私にとってJBL・4350Aの音、それも最良の音とはこういう音のことである。
こういう音で鳴った時、4350Aは角を矯めることなく鳴ってくれる(はずだ)。

カラヤンのマーラーの第九は、一言で表せば精緻ということになる。
ショルティのマーラーの第二は、精確とでもいおうか。

マーラーの交響曲といっても、第二番と第九番とでは、曲そのものがずいぶん違う。
そんなふたつのマーラーの、ふたりの演奏を比較することに無理があるのはわかっているが、
カラヤンのマーラーにはショルティのマーラーにはない要素があるし、
ショルティのマーラーにはカラヤンのマーラーにはない予想がある。

にも関わらず、このふたつのマーラーを4350Aで聴きたい。
4350Aならば、劇的なひとつの体験としてショルティの第二交響曲もカラヤンの第九交響曲も聴ける、
という確信が私にはあるからだ。

Date: 5月 21st, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その9)

ショルティとカラヤンのマーラーが出た1981年ごろは、
このふたりの指揮者の録音にはあまり関心をもっていなかった時期でもある。

カラヤンに関しては、五味先生の書かれたものを読んできた影響がどうしてもあった。
ショルティは、特にこれといった理由はなかった。
ただなんとなく敬遠していた。

4350に関しても同じだった。
このころの私は4350ではなく、4343に夢中だった。
そして4343の後継機である4345に対しても高い関心をもっていたけれど、
4350は(4343、4345でさえ遠いのに)、もっとずっと遠い存在であったため、
それまでにも何度かオーディオ店で聴く機会はあり、
満足のゆく鳴り方ではなくとも、4350ならではの凄さの片鱗は感じとっていた。

まずは(とにかく)4343だ、という気持が圧倒的に強かったからだ。

4350をステレオサウンドの試聴室で聴く機会はなかった。
4355は聴いている。
このふたつのJBLの旗艦モデルは、1980年代後半から1990年代前半にかけて、
個人のリスニングルームで聴く機会は意外にあった。
でも、カラヤンの第九交響曲もショルティの第二交響曲のどちらも聴いていない。

それをいまになって聴きたい、と思っている。

Date: 5月 21st, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その8)

1981年には、カラヤンのマーラーの第九交響曲も出ている。
1979年、80年にかけての録音で、ベルリンフィルハーモニーとである。

カラヤンのマーラーの九番といえば、
1982年のベルリンフィルハーモニーとによるライヴ録音を誰もがあげるだろう。
真摯にマーラーの、この交響曲を聴いてきた人ならば、カラヤンの、この演奏を聴いて、黙ってしまった、と思う。
カラヤンに否定的な態度をとる人でも、沈黙してしまうのではないだろうか。

このディスク(CDのみの発売)で聴けるカラヤンのマーラーは、そういう演奏である。

再録音に積極的だったカラヤンにしても、こんな短期間での再録音は他にない。
なぜ、カラヤンは再録音を行ったのか。
しかもオーケストラはどちらもベルリンフィルハーモニーである。
1982年のライヴ録音では、ウィーンフィルハーモニーであれば、なんとなく理由もわかるような気もするが、
そうではない。

演奏時間を比較してみても、旧盤と新盤とでは大きな違いはない。
ほとんど同じといっていいくらいである。

ただ旧盤はスタジオでのアナログ録音で、新盤はデジタルによるライヴ録音。
この間における録音の進歩。
結局、それが僅かな期間で再録音をした理由であり、だからこそLPを出さずにCDのみの発売だった理由でもあろう。

1982年のライヴ録音の陰にかくれてしまった感のあるスタジオ録音による旧盤の九番。
このディスクも、4350で聴きたいマーラーである。

Date: 5月 20th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その7)

コンサート・フィデリティの概念からは、
ショルティ/シカゴ交響楽団のマーラーの第二は、まったくハイ・フィデリティではない、ということになる。

そんなのはオーディオ的に凄い音であっても、音楽的ではない──、
ほんとうにそうなのだろうか。

コンサート・フィデリティがあれば、スコア・フィデリティもある。
スコア・フィデリティからすれば、ショルティ/シカゴ交響楽団のマーラーの第二は、
少なくとも第一楽章の冒頭の低弦の凄まじさは、ハイ・フィデリティということになりはしないのか。

マーラーが第二交響曲で表現したかった音(響き)は、
優れた指揮者による解釈と優れたオーケストラの力量、それにいいホールがあれば、それで再現できるといえるのか。

スコアに書かれたものがすべてであるだろうが、
スコアにすべてが書かれている保証は、どこにもない。
マーラーの頭の中、胸の裡にあった第二交響曲の冒頭とは、いったいどんなものだったのか。

誰かが答を出せることではない。

ショルティ/シカゴ交響楽団の第二は、第一楽章の冒頭、それに終楽章は、
ショルティの出した確信であることは、はっきりといえる。

こういう録音は、この時代だからできた、という気もする。
1980年代も最初のほうならば、できたであろう。
だが1990年代には、こういう録音側でのある種の作為(意図)は、
その現場において認められなかった可能性もあるし、聴き手側からも受け入れられなかったかもしれない。

いまショルティ/シカゴ交響楽団のマーラーの第二交響曲は、どういう評価なのかは知らない。
興味はないからだ。

薄っぺらな音のスピーカーで聴いて、何がわかるのか、と暴言めいたこともいいたくなる。
4350で聴いてみろ、ともいいたくなる。

こんなことを書いているけれど、私自身、4350でショルティのマーラーは聴く機会はなかった──。

Date: 5月 20th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その6)

西暦は0年からではなく1年から始まっているのだから、
1970年代となると1970年から1979年ではなく、1971年から1980年ということになる。

1970年代の最後の年に、ふたつのマーラーが録音され、翌年(1980年代の最初の年)に出た。
ひとつはショルティ/シカゴ交響楽団によるマーラーの第二交響曲。
デッカでの、ショルティ二度目の録音である。

最初の録音はロンドン交響楽団。
このときの録音もそうなのだが、シカゴ交響楽団との二度目の録音でも、
第一楽章の冒頭の低弦の鳴り方は凄まじいものがある。

この凄まじさに支えられたオーケストラの響きは凄まじくもあり、威圧的でもある。
こういう音は、実際のコンサートでは、ショルティ/シカゴ交響楽団であっても聴けない、と思う。
他の指揮者、他のオーケストラの組合せであっても、
ショルティ/シカゴ交響楽団が録音でのみ聴かせる強烈なバランス(決して不自然だとは感じない)は、
絶対に聴くことはできないのではないか。

その意味ではショルティの第二交響曲に関して、
その録音アプローチに否定的なことをいう人はいるだろう。

こんな音はナマのコンサートでは聴けない。
録音でつくられた音、響きだ、と。

確かにそうである。
録音のみが達成できる音と響きである。

Date: 5月 19th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その5)

四畳半、六畳といった空間に4350。
それがいかにアンバランスなことであるか、はやっている当人がいちばんよくわかっている。
わかっていても、無理矢理にでも4350を入れて鳴らしたい、という衝動があったから、
そういう人たちは、あえて4350を鳴らす。

20代の若造に4350は分不相応だ、ともいわれたかもしれない。
未熟な鳴らし手に4350が鳴らせるわけはない、ともいわれたかもしれない。
20代ならば、レコードの枚数もものすごい数をもっていたわけでもないだろう。
ならば4350のような高価なオーディオをそろえる前に、
まずレコードを揃える、もっと音楽を聴くことだ、と説教された人もいる、と思う。

そういった良識的なことはわかったうえで、それでも4350という無理に挑戦した人は、いる。

彼らを冷ややかな目で見るのは、誰にでもできることだ。
ああだこうだと説教することも難しいことではない。

けれど、あの時代、4350の「狂気をはらんだ物凄さ」を体験したことのある人、
そこまでいかなくともその片鱗だけでも体験したことのある人ならば、
いつまでも四畳半、六畳で鳴らし続けるわけではない、いつかはもっと広い部屋で……、
ならば、いまは4350には狭すぎる部屋だけど……、と、あえての選択をした人がいる。

そんな想いを抱かせ、その想いを実行に移させるだけの「熱量」みたいなものを4350は、あの時代聴かせてくれた。

Date: 5月 19th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その4)

JBLの4350は1974年当時993800円(一本、サテングレー。ウォールナットは1107000円)していた。
4350Aは1977年当時940000円(ウォールナットは1000000円)。
このころから円高になりつつあり、一年後には800000円(ウォールナットは850000円)になっている。

現在の天井知らずのスピーカーシステムに比べれば良心的な価格とはいえ、
高価なスピーカーではあった。
けれど働いている人であれば無理すれば、決して手の届かない存在だったわけではない。

このころには分割払いの回数も48回とか60回というのもぼちぼち出て来ていた。
60回といえば五年払い続けることになるが、4350クラスのスピーカーシステムならば、
五年くらいは最低でも使いつづけるモノだから、
払い終るころには次のスピーカーに替えているということはまずない。

そうやって買った人もいる、と思う。
ステレオサウンドにいたときにきいた話では四畳半に4350をいれている人がいる、らしい。
四畳半は、たぶん4350がおさめられた部屋ではもっとも狭い空間だろう。

四畳半に4350という人はほとんどいなかっただろうが、
六畳、八畳に4350という人はもう少しいた、と思う。

そんな狭い部屋に15インチ・ウーファー、しかもダブル・ウーファーの4350を入れるなんて……、
と揶揄する人は、当時よりもいまの方が多くいるように感じる。

すぐ、スピーカーの大きさに見合った空間、
空間に見合ったスピーカーの大きさ、などと、したり顔でいう。
もっともこういう人はインターネットで匿名での発言で目にすることが多いから、
したり顔かどうかはわからないけれども。

Date: 5月 18th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その3)

狂気をはらんだ物凄さ──、
こういう音は1970年代後半に存在した、いわば時代の音だったのかもしれない、といまは思う。

1980年代にはいり、そういう時代ではなくなってきたようにも思える。
だからJBLの1980年代のスピーカーシステムは、4345、4344もそうだし、
4350の後継機4355にも、狂気をはらんだ物凄さは影をひそめていた、というべきか、
そこにはもう存在しなくなりつつあった、というべきか、
とにかく4350Aと4355との音の違いには、そういうことを私は感じる。

そうだとしたら、いまの時代に4350を鳴らすことは、どういうことなのか。
狂気をはらんだ物凄さなど、どこにもありませんよ、といった風情で鳴らすのが、いまの時代なのだろうか。

4350の、狂気をはらんだ物凄さをいささかもおさえることなく、
かといってあからさまにすることなく、そうやって鳴らすのはいまの時代にそぐわないのか。

だとしたら、私が角を矯めて牛を殺すのたとえのように4350を鳴らすのも、
いまの時代のひとつの鳴らし方なのか。

そんなことを思いながらも、違うだろう、と私はいうわけだ。
ならば、ほかのスピーカーでいいじゃないか。
むしろ、ほかのスピーカーのほうがいいはずだ。

4350が登場してもう40年経っている。
40年前のスピーカーを、いまも鳴らしている理由(わけ)はなんなのか。

私がいま4350を鳴らすのであれば、はっきりという、
あの時代の「狂気をはらんだ物凄さ」を聴きたいからであり、
角を矯めて牛を殺すような音を、4350からは聴きたくない。

Date: 5月 18th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その2)

角を矯めて牛を殺す、というたとえがある。
JBL・4350について書こうとおもったときに、このたとえがまず浮んできた。

ウーファーがアルニコマグネットの2231Aから2235Hになり、
ミッドバスは同じくフェライト仕様の2202H、
ミッドハイは2440から、ダイアフラムのエッジが大きく変更になった2441へと変った4355は、
そういう傾向は抑えられているけれど、
4350Aには瀬川先生が指摘されているように「手のつけられないじゃじゃ馬」的なところがあった。

4350Aほどのスピーカーが、日本家屋のあまり広くない空間で、
そういうふうになったら、まず聴けたものじゃない。

となると人は抑え込もうとする。

購入したスピーカーはその人のモノであるから、どう鳴らそうとその人の自由であり、
まわりが口をだすことではないとわかっていても、それでも「角を矯めて……」のたとえが浮ぶ。

「どこか狂気さえはらんでいる」と瀬川先生は書かれている。

こう書かれたステレオサウンド 43号のセクエラのModel 1のところには、こうも書かれている。
     *
 スピーカーならJBLの4350A、アンプならマークレビンソンのLNP2LやSAE2500、あるいはスレッショールド800A、そしてプレーヤーはEMT950等々、現代の最先端をゆく最高クラスの製品には、どこか狂気をはらんだ物凄さが感じられる。チューナーではむろんセクエラだ。
     *
4350Aは、確かに1970年代後半において「時代の最先端」をゆくスピーカーシステムであったし、
「狂気をはらんだ物凄さ」を、その音に感じさせてくれるスピーカーシステムでもある。

Date: 5月 6th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その1)

JBLにとって最初の4ウェイ・システムが、4350であるにも関わらず、
4350と同じコンセプトで、同じ設計者(パット・エヴァリッジ)によるスケールダウンモデルの4341(4340)が、
その後4343、4345、4344、さらに4348まで続いていってたのに対して、
4350から4355だけと、いささかさびしい感じがしないでもない。

4350はバイアンプ仕様である。
15インチ口径のウーファーを二発搭載し、ウーファーだけは専用アンプで駆動する。

4350というシステムそのものも4343よりも大がかりであるだけでなく、
アンプに関してもパワーアンプはもう一組必要となるし、チャンネルデヴァイダーもいる。
システム全体がどうしても大がかりとなり、それだけ調整の手間・面倒なことも増していく。

オーディオに興味を持ちはじめて、JBLのスタジオモニターの存在を知り、
4343に憧れを持ち始めたばかりのころに出たステレオサウンド 43号。
そこに瀬川先生は書かれていた。
     *
 4343が、きわめて節度を保った完成度の高さ、いわば破綻のないまとまりを見せるのに対して、4350Aになると、どこか狂気さえはらんでいる。とうぜんのことながら、使い手がよほど巧みなコントロールを加えないかぎり、4350Aは、わめき、鳴きさけび、手のつけられないじゃじゃ馬にもなる。それだけに、何とかこれをこなしてやろうと全力でぶつかりたくなる魔力を秘めている。
     *
当時中学三年。
4343にしても4350にしてもまったく手が届かない存在であったけれど、
4350(正確には4350A)には憧れを抱くことはなかった。

ただ凄いスピーカーなんだな、というおもいだけであった。

Date: 2月 13th, 2013
Cate: 4343, 4350, JBL

4343と4350(その13)

こういう考え方もできるのではないだろうか。
つまり、ウーファーの口径を小さくしたからこそ、
LS3/5Aとのクロスオーバー周波数を300Hz近辺からさげることが可能になった、と。

瀬川先生の話で重要となるのは、くり返しているように聴感上のエネルギーバランスである。
ウーファーならば、20cm口径よりも30cm口径のもの、
30cm口径よりも38cm口径のもののほうが、低音域のエネルギーの再現においては有利である。

口径が小さくなければ高域の再生周波数はのびるけれど、
低音域の、聴感上のエネルギー量は減っていく、といえよう。

38cm口径のウーファーのエネルギーに対して、20cmであろうと25cmであろうと、
充分につながるには300Hzあたりまでクロスオーバー周波数をもってこなければならない。
だとしたらウーファーの口径が小さくなれば、
一般的にはスコーカー(もしくはミッドバス)とのクロスオーバー周波数を上にもってきがちになるが、
考えようによっては、スコーカー(ミッドバス)が充分に下までのびているユニットであれば、
ウーファーの口径を小さくすることでエネルギーがおさえられることによって、
300Hzあたりより低い周波数でも、聴感上のエネルギーバランスがとれる、ということだって考えられる。

仮にそうだとしたら、ロジャースがReference Systemのウーファーに33cmという、
やや中途半端な感じのする口径を採用したのは、
できるだけLS3/5Aの持味を生かした上で(できるだけ低いところまで受け持たせた上で)、
サブウーファーによって低音の再生領域をできるだけひろげようとしたことからうまれた、
絶妙な口径である──、そんなことも考えられる。

ほんとうのところはどうなのかは、やはり音を聴いてみるしかないのだが、
いままでReference Systemの実物は中古でもみたことがないし、
このReference Systemを鳴らしている人を、オーディオ雑誌上でもみかけたことがないから、
Reference Systemの、LS3/5Aとのクロスオーバー周波数が150Hzが妥当な値なのかどうかは、
これからさきも結論が出せないままになるかもしれない。