JBL 4350(その10)
JBLの4350Aで、1981年に出たふたつのマーラー、
ショルティ/シカゴ交響楽団による第二交響曲とカラヤン/ベルリンフィルハーモニーによる第九交響曲を聴きたい。
けれど、角を矯めて牛を殺す、というたとえのような音で聴きたいわけではない。
4350Aをそんな音で鳴らしところで、私がここであげたふたつのマーラーから聴き取りたいものはきこえてこない。
どんな音で聴きたいのか。
瀬川先生がスイングジャーナルで4350Aの組合せをやられたときの文章がいまも記憶に残っている。
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本誌試聴室で鳴ったこの夜の音を、いったいなんと形容したら良いのだろうか。それは、もはや、生々しい、とか、凄味のある、などという範疇を越えた、そう……劇的なひとつの体験とでもしか、いいようのない、怖ろしいような音、だった。
急いでお断りしておくが、怖ろしい、といっても決して、耳をふさぎたくなるような大きな音がしたわけではない。もちろん、あとでくわしく書くように、マークレビンソンのAクラス・アンプの25Wという出力にしては、信じられないような大きな音量を出すこともできた。しかしその反面、ピアニシモでまさに消え入るほどの小さな音量に絞ったときでさえ、音のあくまでくっきりと、ディテールでも輪郭を失わずにしかも空間の隅々までひろがって溶け合う響きの見事なこと。やはりそれは、繰り返すが劇的な体験、にほかならなかった。
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私にとってJBL・4350Aの音、それも最良の音とはこういう音のことである。
こういう音で鳴った時、4350Aは角を矯めることなく鳴ってくれる(はずだ)。
カラヤンのマーラーの第九は、一言で表せば精緻ということになる。
ショルティのマーラーの第二は、精確とでもいおうか。
マーラーの交響曲といっても、第二番と第九番とでは、曲そのものがずいぶん違う。
そんなふたつのマーラーの、ふたりの演奏を比較することに無理があるのはわかっているが、
カラヤンのマーラーにはショルティのマーラーにはない要素があるし、
ショルティのマーラーにはカラヤンのマーラーにはない予想がある。
にも関わらず、このふたつのマーラーを4350Aで聴きたい。
4350Aならば、劇的なひとつの体験としてショルティの第二交響曲もカラヤンの第九交響曲も聴ける、
という確信が私にはあるからだ。