Archive for category ステレオサウンド

Date: 3月 3rd, 2022
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 222号

今日(3月3日)が、ステレオサウンド 222号の発売日だった。
通常、ステレオサウンドの発売日は、12月の冬号以外は、
3月、6月、9月の2日ごろである。

確かに2日に、これまで発売されていた、と記憶している。
なのに今回3日だったのは、編集作業の遅れというよりも、
意図してのことなのか、とちょっと思ってしまった。

今年は2022年である。
今号のステレオサウンドは222号である。
だからぞろ目の今日を発売日にしたのか。

どうでもいいことなのだが、ちょっと気になっている。

Date: 11月 13th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その12)

十年前、「確信していること(その20)」で書いたことを、くり返す。

瀬川先生のオーディオ評論家としての活動の柱となっているものは四つある。
これは本のタイトルでいったほうがわかりやすい。

「コンポーネントステレオのすすめ」(ステレオサウンド)
「虚構世界の狩人」(共同通信社)
「オーディオABC」(共同通信社)
「オーディオの系譜」(酣燈社)

それぞれのタイトルが本の内容をそのまま表わしている、といえる。

「コンポーネントステレオのすすめ」は、
オーディオがプレーヤー、アンプ、スピーカーをそれぞれ自由に選んで組み合わせることが当り前のことになって、
その世界の広さ、深さ、面白さを伝えてくれる。

組合せは、他のオーディオ評論家もやっているのでは? といわれそうだが、
組合せに関して、瀬川先生ほど積極的に取り組まれていた人はいなかった、と私は感じている。
それに瀬川先生の組合せは、興味深いものが多かった。
それは単に読み物として興味深いだけでなく、
実際に自分で自分にとっての組合せを考えていく上でのヒントにつながっていくものがちりばめられていた。

瀬川先生の組合せのセンスは、他の方々とはあきらかに違う。
この違いを感じているのかどうかは、読み手次第としかいいようがない。

「虚構世界の狩人」には説明は要らないだろう。

「オーディオABC」はタイトルからいえばオーディオの入門書ということになるが、
瀬川先生の平易な言葉で書かれた文章は、決して表面的な入門書にはとどまらず、
確か岡先生が書評に書かれていたように「オーディオXYZ」的な内容でもある。
オーディオを構成しているものについて学んでいくには最適の本のひとつである。

「オーディオの系譜」は、オーディオの歴史を実際の製品にそって語られている。

もちろんこの四つ以外に、オーディオ雑誌での製品評価、新製品紹介もあるのだが、
これはオーディオ評論家として誰もがやっている柱であるから、あえて加えない。

でも、オーディオ評論家と呼ばれている人が誰でもやっている柱、
とつい書いてしまったが、この一本の柱すら、まともにやれていない人もいる。

そういう人は、オーディオ評論家としての柱はない、ということになるのか。
それとも私には見えていない柱を持っているだろうか。

Date: 10月 8th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その11)

FM fanの記事は、一回目が長岡鉄男、上杉佳郎、
二回目が瀬川冬樹、菅野沖彦、
この四氏のリスニングルームを傅 信幸氏が訪問というものだった。

おもしろかったのはだんぜん二回目である。
当時、何度も読み返し、グラビアのリスニングルームのカラー写真を、
それこそ穴が開くほどに見ていた。

この記事のあとに、ステレオサウンドの記事も読み返した。
でも、やっぱりおもしろくない、というよりも、最後まで読み通すのがしんどいのは、
まったく同じままだった。

いまにして思えば、この時に気づいていたのかもしれない。
傅 信幸氏は狂言まわしの才能がある、ということに。

こんなふうに書いてしまうと誤解する人がいるかもしれない。
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちで、
傅 信幸氏と柳沢功力氏が、オーディオ漫談家もしくは狂言まわしである、というだけのことだ。

ほかのオーディオ評論家と呼ばれている人たちと比較してどうのこうという話ではない。
ほかのオーディオ評論家と呼ばれている人たちには、
オーディオ漫談家、狂言まわしとしての才能もない、ということである。

そして月刊ステレオサウンドというものが本当に登場してくれるのであれば、
傅 信幸氏、柳沢功力氏のオーディオ漫談家、狂言まわしといった、
よいところを読みたいのである。

Date: 10月 7th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その10)

傅 信幸氏の名前を知ったのは、1970年代後半の無線と実験においてだった。
ハンダによる音の違いの実験記事だった。

それ以前も無線と実験に記事を書かれていたのかもしれないが、
このハンダの記事は、ここまでやるのか、と意味で印象に残っている。

ハンダ付けがどういう現象なのかを理解していれば、
この試聴方法が必ずしも、実際のハンダの音を聴くこととイコールなのか、
疑問がないわけではないが、とにかく記事のおもしろさ、
それだけでなく試聴用のケーブル作りまで、自身でやるというところも、
無線と実験の記事のようでいて、それまでの記事とは違うところも感じさせていた。

その傅 信幸氏は少ししてからステレオサウンドの誌面に登場。
カセットデッキのノイズリダクション、dbxの一連の製品の試聴など、である。

一機種ごとの、いわゆる試聴記という形ではなく、
巻末に地階ところでの掲載ではあったが、かなり力の入った記事(文章)であった。

あのハンダの人が、ステレオサウンドに登場なのか、と期待して読み始めた。
けれど何度か読み返しても、最後までスムーズに読み通せない。

手抜きの文章だったからではない。
じっくり時間をかけての文章だった、と感じられる。

けれど読んで行くと、流れにのれないとでもいおうか、
もういいや、という感じになってしまった。

最初は聴く音楽のジャンルが違うからなのか、と思った。
けれど、どうもそうではないようだ。

当時は高校生で、周りにステレオサウンドを読んでいる友人はいなかった。
ほかの人がどうだったのかは、わからなかった。

いま読み返すと、はっきりとなぜだったのか、わかるのだが、
それはここで書くことではない。

その傅 信幸氏の文章を、おもしろいと感じたのは、
FM fanに二号連続掲載の記事だった。

Date: 9月 8th, 2021
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その9)

柳沢功力氏の「ぼくのオーディオ回想」がつまらない。
以前、そう書いた。

けれど柳沢功力氏が書かれるものすべてをつまらない、と思っているわけではない。
ステレオサウンド 200号掲載の「ステレオサウンド誌の基礎を築いた人たち」、
これはおもしろかった。

以前、私は柳沢功力氏と傅 信幸氏は、なかなかのオーディオ漫談家である、と書いた。
このことに変りはない。

オーディオ漫談家、狂言まわしとしての良さが、
「ステレオサウンド誌の基礎を築いた人たち」の面白さを支えている。

いまオーディオ雑誌になんらかを書いている人たちのなかには、
オーディオ評論家と呼ばれるのを嫌がっている人がいる、と聞いている。

オーディオ漫談家、オーディオ狂言まわし、
そんなふうに呼ばれたくはない、という人もいるだろう。

でも、オーディオの読み物として、
オーディオ漫談、オーディオ狂言まわしはあればおもしろいではなく、
それが良質であれば、なければならないものである。

Date: 8月 2nd, 2021
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドと幕の内弁当の関係(その2)

ステレオサウンドの幕の内弁当化について、これまで何度か書いてきている。

弁当といえば、弁当箱が必要になる。
弁当箱があるから、弁当といえる。

弁当箱という器である。
器ということで思い出すのは、菅野先生の「仕出し弁当の器」である。
     *
さて、六本木に「正直屋」というめし屋がある。近くに私が仕事の関係でこの十年来出入りしている出版社があるが、食事時になるとこの正直屋の仕出し弁当を出前してもらう。とてもアットホームな味付けで、ご飯もよく焚けており、惣菜にも細かい気配りがしてあって私は大いに気にいっていた。料理も美味しいが、お重がまた何ともいえない情緒があり、料理の味をいっそう引き立てていた。
 ところが、あるとき例によって出前を頼むと、お重の表面がいやに光っているし重量感がない。つまり、木のお重から姿かたちは同じようだがプラスティック系の器にかわっていたわけだ。幸い中身はかわっていなかったが、食べながら何となく寒々しい気持になってきたことを覚えている(最近はさらに、持ち帰り用の寿司などに用いられているペラペラの容器に入って、表面を紙で巻いて届けられる)。
 以来、私はこの弁当を、正直屋の〝うそつき弁当〟と名付けて呼んでいるが、考えてみればこれは、出前する方としてはワンウェィなので回収の手間が省けるし、こちらも食べ終ったらそのまま屑籠に捨てればいいのだから、便利といえば便利だ。
 しかし、以前のお重に入っていたときのお弁当の味と、現在の味気ない容器に入っているお弁当の味は、味付けは同じであるが、見た目も、舌での感じかたにも残念ながら大きな違いがあることは否めないのだ。先刻申しあげたように、TPOという観点で言えば、出前のお弁当なんだから使い捨ての容器に入っていても容認はできよう。しかし、実質は同じでも、容器が違えば味も違ってくるということのひとつの見本ではある。
     *
六本木にある出版社とはステレオサウンドのことであり、
私が勤めていたころのステレオサウンドである。

正直屋の弁当は、だから何度も食べている。
私がいたころは、すでにペラペラの容器になっていた。

菅野先生は、うそつき弁当と名付けられていた。

料理はなにがしかの器に盛られている。
弁当では、弁当箱という器である。

弁当箱は、皿や椀とは、同じ器であっても、包んでいる、という点での違いがある。

Date: 6月 5th, 2021
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その7)

昨年12月、別項「2020年をふりかえって」で、
ステレオサウンド 217号の表紙がひどい、と書いた。

いま219号が書店に並んでいる。
手に取ることはしていないが、その表紙を見て、おっ、とおもった。
いままでのステレオサウンド表紙とは、違ってきているからだ。

手放しで褒めたくなるほどではないが、
217号の表紙からすれば、ずいぶんとよくなってきた。

217号の表紙がひどすぎた、ともいえるのだが、
それでも、今後のステレオサウンドは、いままでの表紙とは違う路線で行くのかと、
少しは期待している。

それでも一言だけいわせてもらうならば、季節感がそこにはない。
ない、というよりも無視している、と感じた。

219号は夏号である。
私は219号の表紙をみて、秋号? と感じていた。

家具の選択、背景の選択などで、夏号らしいの印象は実現できたはずだ。
もう、そんなことを、いまの編集部は考えもしないのか。

Date: 4月 18th, 2021
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その24)

編集者の悪意とは、その編集者が自覚的なときもあれば、まったくそうでないときもある。

これまで書いてきたステレオサウンド 87号でのKHさんの場合、
自覚的ではないにしろ、直接的でもないにしろ、
マッキントッシュのXRT18という特定のスピーカーを、
ほかのブランドの、ほかのスピーカーよりもよく鳴らしたい、という気持は、
無自覚で間接的な悪意、
それも反転しての皮肉な事象になってしまったように、いまはおもう。

公平に扱う、という気持をどこかに置き忘れてしまった。
ただそれだけのことであるのだろう。
でも、このことは本人がどう思っていようと、編集者の悪意である。
(もっともKHさん本人は否定されるだろうが……。)

KHさんのそれにくらべて、いまのステレオサウンド編集部の黛 健司氏の扱いには、
陰湿っぽい悪意を、私は感じとっている。

別項「オーディオ評論をどう読むか」の(その8)と(その9)で指摘したように、
いまのステレオサウンド編集部(編集長といったほうがいいのか)の黛 健司氏の扱いは、
はっきりとおかしさを感じる。

悪意か、それに近いものを感じている。

編集部は、そんなことはない、と否定するはずだ。
だが私を含めて一部の読者は、そうは思っていない。

私一人ならば、私がステレオサウンドに対して悪意をもって読んでいるから──、
という指摘もされよう。
けれど実際はそうではない。

一ヵ月ほど前の「オーディオ評論をどう読むか」を公開したあと、
そんなふうに感じています、という声が数人からあった。

Date: 1月 1st, 2021
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その6)

(その5)を読んで、同感だ、という人もいれば、
そう思わない、という人もいることだろう。

そう思わない人が、どういう人なのかはまったく私にはわからない。
私の友人で、古くからステレオサウンドを読んできた人は、
217号の表紙は、ひどい、と感じている。

彼らは、中学、高校時代のステレオサウンドを誇らしく感じていたのだろう。
だから217号の表紙をひどい、と感じる。

217号の表紙を、そんなふうには感じない人たちは、
書店で手に取ること、
なけなしの小遣いで購入することに誇らしさを感じてなかった人たちなのだろう。

そんな人たちにとっては、当時のステレオサウンドの表紙も、
217号の表紙も同じに見えているのだろう。

たかが雑誌じゃないか、
そんなものに誇らしさを感じるなんて……、
そんな意見もあるはずだ。

坂野さんも私も、学生時代、なけなしの小遣いをやりくりして、
ステレオサウンドを買って読んでいた。

そのころのステレオサウンドを、すでに社会人になっていて、
何の苦もなく買えていた人もいるのはわかっている。

そういう人のなかには、誇らしさを感じたり、
ステレオサウンドに特別な思い入れをもったりすることはなかったのかもしれない。

最近感じていることは、ステレオサウンド編集部は、
思い入れをもっている読者は要らない、と思っているのではないか、である。

Date: 1月 1st, 2021
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その5)

別項「2020年をふりかえって」で、
ステレオサウンド 217号の表紙のひどさについて書いた。

(その18)に、デザイナーの坂野さんからコメントが、facebookであった。
そこには、こう書かれていた。
     *
田舎に住む中学生が、書店で手に取ること、なけなしの小遣いで購入すること、そこに『誇らしさ』をも感じさせてされる表紙でした。(もちろん全内容も)
     *
坂野さんは私よりも少し年上だが、近い世代である。
だから、よくわかる。
坂野さんが書かれているとおりだったのだ、当時のステレオサウンドは。

中学生でステレオサウンドを読むことは、誇らしさを感じさせくれた。
だからこそ、ステレオサウンド編集部で働くようになり、
62号の編集後記が載ったのをみたときは、感慨ひとしおであった。

別項で触れているが、
若い世代のオーディオマニアが、周りの人たちにオーディオを趣味としている、
オーディオマニアだ、ということは、カミングアウトに近い感覚なのだそうだ。

その人、一人のことなのかもしれないが、
少なくとも、その人は、いまのステレオサウンドを、
書店で手に取ったり、人前で読んだりすることに誇らしさは感じていないはずだ。

いまでは電車で、ステレオサウンドを読んでいる人は皆無といっていい。
私が上京した、約四十年前は、読んでいる人をたまにではあるがみかけたものだった。

私も電車のなかでひろげて読んでいた。

いまのステレオサウンド編集部は、みな、217号の表紙を誇らしく思っているのだろうか。
ステレオサウンドに書いている人たちは、どうなのだろうか。

Date: 8月 14th, 2020
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その23)

編集者も人の子であるから、好き嫌いはあって当然。
しかもオーディオという趣味の世界の編集者なのだから、
すべてのブランド、すべてのモデルに公平な意識をもっていられる人は、いるのだろうか。

もちろん試聴においては、公平に扱う。
これはオーディオ雑誌の編集者として、絶対なことだ。

たとえばアンプの試聴で、
好きなブランド、好きなモデルの場合は、ACの極性を合せ、接点もきちんとクリーニングする。
嫌いなブランド、モデルの場合には、ACの極性をわざと反対にする、接点もクリーニングしない。
そんなことは、絶対にしない。

どちらであっても、ACの極性は合せ、接点もクリーニングしておく。
試聴条件は公平でなければならない。

ステレオサウンド 87号のスピーカーシステムの総テストは、
その意味で公平であったのだろうか。

マッキントッシュのXRT18のヴォイシングのことはすでに書いている。
ここでのヴォイシングは、編集見習いのKHさん立会いのもと、
エレクトリのスタッフの方に来てもらい、午前中じっくりと時間をかけてやってもらった。

このヴォイシング、そのことを公平でない、と考えない。
XRTシリーズのスピーカーの形態上、必要なことである。
けれど、もう少し突っ込んで考えると、
KHさんは、マッキントッシュへの思い入れが、そうとうに強い。

それは別にかまわないのだが、
KHさんの心の中には、XRT18だけが特別にうまく鳴ってくれればいい──、
という気持があったのかもしれない。

それは、ほかのスピーカーシステムに対しての間接的な悪意といえる。
そう考えることもできるし、そうでないとしても、
その時点で、KHさんの心の中では公平のバランスが大きく崩れてしまったようにも思う。

ほかのスピーカーシステムを悪く鳴らそうとは、KHさんも考えていなかったはずだ。
けれど、XRT18だけが特別に鳴ってくれれば、という気持は多少なりともあった、と私はみている。

Date: 4月 19th, 2020
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その8)

(その7)に、facebookでコメントがあった。
「ぼくのオーディオ回想」がつまらないのは、脚色がされていないからではないか、
とあった。

私は逆で、予定調和という脚色があるからこそ、つまらないのではないか、
そんなふうに捉えている。

小野寺弘滋氏のように、毎号の連載を楽しみに読んでいた人は、
まったく別の捉え方をしているのだろう。

楽しんでいる人たちも、みなが同じように感じていたわけではないはずだ。
脚色がないから楽しい、という人もいたかもしれないし、
脚色があるからこそ、という人もいるであろう。

ここでの脚色は、オーディオの色づけの問題と似ていて、
オーディオを介することで、独自の色づけがなされるだけでなく、
本来あった音色が損われるという色づけもある。

色づけは、色をつけることだから、色ぬきというべきだろうが、
そんな色づけは、音楽を素っ気ない表情にしてしまいがちだ。

脚色も、そうかもしれない。
一人の人生、オーディオについてだけであっても、それが何十年にわたっていれば、
たとえすべてをことこまかに記憶していたとしても、すべてを文字にできるわけではない。

書くことがあれば、書かないこともあって、当然書かないことの方が多い。
何を書いて、何を書かないかに、その人の何かが浮び上ってくる。

その浮び上ってきたものを、私はつまらない、と感じた。

Date: 4月 18th, 2020
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その7)

ステレオサウンド 214号には、
小野寺弘滋氏による柳沢功力氏の「再生悦楽」の書評が載っている。
といっても、読んでいない。

どんなことが書かれているのはよくは知らないが、
前回の(その6)のあとに、
「小野寺氏は柳沢氏の連載を楽しみに読んでいた、そうだよ」という連絡が友人からあった。

書評にそう書いてある、とのこと。
私のように、「ぼくのオーディオ回想」はつまらないと思う者もいれば、
小野寺弘滋氏のように、連載を毎号楽しみに待って読んでいた人もいるわけだ。

類は友を呼ぶ、という。
ほんとうにそうなんだ、と最近思うことが多い。

前々回の(その5)で、
私は、「ぼくのオーディオ回想」はつまらない、と感じていた。
私だけではなく、周りの友人、オーディオ仲間で、
誰一人として「ぼくのオーディオ回想」をおもしろい、といっていた者はいない──、
そんなことを書いたが、
これは私がそうだから、私の周りの人も「類は友を呼ぶ」でそうなのだろうか。

おそらく小野寺弘滋氏の周りの人たちは、
小野寺氏と同じように「ぼくのオーディオ回想」を毎号楽しみにしていたのだろうし、
「再生悦楽」も買って読むんだろう。

そのことを否定する気はないけれど、
でもいまのステレオサウンドも「類は友を呼ぶ」的に偏りすぎているのか……、
そんな見方もできなくはない。

八年ほど前に別項で、
「同じ部屋の空気を吸うのもイヤ!! そういう相手と一緒につくっていかないと面白い本はつくれない」
気の合う者同士で本をつくっていても、それでは絶対におもしろいものはつくれっこない、
ということを、当時の編集顧問のKさんにいわれたことを書いている。

そういうことだな、と思っている。

Date: 3月 9th, 2020
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その6)

(その5)へのコメントがfacebookであった。
(その5)で、私は「ぼくのオーディオ回想」はつまらない、と書いている。

コメントの方は、そこはいい、
けれど続く、
私の周りに「ぼくのオーディオ回想」をおもしろい、といっていた者はいない、
と付け加えるのは余計とあった。
読者には検証できない事例を挙げて客観性を装う一文、ともあった。

客観性を装うつもりはさらさらない。
おもしろい、おもしろくないは、主観でしかないからだ。

ここで私が「ぼくのオーディオ回想」は、
まったく役に立たない記事だ、とか、ページのムダでしかない、
そんなことを書いて、私の周りも同じことをいっていた──、
そんなことを書いていたのであれば、客観性を装う一文といわれてもかまわない。

でもくり返すが、私はつまらない、と書いている。
つまりおもしろくなかったわけで、ここには客観性など、どこにもない──、
というのが私の認識である。

「ぼくのオーディオ回想」は、始まったころは少しは楽しみにしていた。
回を追うにつれ、なんだかなぁ……、と感じ始めてきた。

「ぼくのオーディオ回想」に感じたことは、
菅野先生が亡くなられたときの柳沢功力氏の文章にも感じていたことだ。

どう感じたのかは、ここでのテーマとは関係ないので省くが、
二つの文章に共通する何かを感じるか感じないのか、それも人によって違ってくる。

何も感じていない人に、どれだけ言葉を費やしても伝わらない。

Date: 3月 8th, 2020
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その5)

文章だけの、月刊ステレオサウンドの創刊という提案は、
オーディオ評論家に連載を持たせろ、ということである。

いまステレオサウンドに書いている人で、
連載を持っている、持っていた、という人はどれぐらいいるだろうか。

しかも読者の記憶に残るような連載を持っていた、という人はいるのか。

ここでの連載とは、試聴に頼る記事ではない。
試聴によりかかったところでかかれる文章ではないものを、毎号書いていく。

ステレオサウンド 213号で終りとなった柳沢功力氏の「ぼくのオーディオ回想」は、
その意味で連載といえるのか、と私は思っている。

毎号毎号書かれたものでなく、短期間で書き上げたものを、
毎号毎号掲載していったものであるからだ。

それも連載じゃないのか、と思うのは勝手だが、
こうやって毎日ブログを書いていて感じているのは、
毎日書くことによる気づきがあるからだ。

「ぼくのオーディオ回想」はタイトル通りの内容だから、
そこに気づきなんてものは必要ない、ということなのかもしれない。

でも、ほんとうにそうなのだろうか。
回想であるからこそ、気づきがあってのものなのではないのか。

私は、「ぼくのオーディオ回想」はつまらない、と感じていた。
私だけではなく、周りの友人、オーディオ仲間で、
誰一人として「ぼくのオーディオ回想」をおもしろい、といっていた者はいない。