月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その8)
(その7)に、facebookでコメントがあった。
「ぼくのオーディオ回想」がつまらないのは、脚色がされていないからではないか、
とあった。
私は逆で、予定調和という脚色があるからこそ、つまらないのではないか、
そんなふうに捉えている。
小野寺弘滋氏のように、毎号の連載を楽しみに読んでいた人は、
まったく別の捉え方をしているのだろう。
楽しんでいる人たちも、みなが同じように感じていたわけではないはずだ。
脚色がないから楽しい、という人もいたかもしれないし、
脚色があるからこそ、という人もいるであろう。
ここでの脚色は、オーディオの色づけの問題と似ていて、
オーディオを介することで、独自の色づけがなされるだけでなく、
本来あった音色が損われるという色づけもある。
色づけは、色をつけることだから、色ぬきというべきだろうが、
そんな色づけは、音楽を素っ気ない表情にしてしまいがちだ。
脚色も、そうかもしれない。
一人の人生、オーディオについてだけであっても、それが何十年にわたっていれば、
たとえすべてをことこまかに記憶していたとしても、すべてを文字にできるわけではない。
書くことがあれば、書かないこともあって、当然書かないことの方が多い。
何を書いて、何を書かないかに、その人の何かが浮び上ってくる。
その浮び上ってきたものを、私はつまらない、と感じた。