ステレオサウンドの表紙に感じること(その5)
別項「2020年をふりかえって」で、
ステレオサウンド 217号の表紙のひどさについて書いた。
(その18)に、デザイナーの坂野さんからコメントが、facebookであった。
そこには、こう書かれていた。
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田舎に住む中学生が、書店で手に取ること、なけなしの小遣いで購入すること、そこに『誇らしさ』をも感じさせてされる表紙でした。(もちろん全内容も)
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坂野さんは私よりも少し年上だが、近い世代である。
だから、よくわかる。
坂野さんが書かれているとおりだったのだ、当時のステレオサウンドは。
中学生でステレオサウンドを読むことは、誇らしさを感じさせくれた。
だからこそ、ステレオサウンド編集部で働くようになり、
62号の編集後記が載ったのをみたときは、感慨ひとしおであった。
別項で触れているが、
若い世代のオーディオマニアが、周りの人たちにオーディオを趣味としている、
オーディオマニアだ、ということは、カミングアウトに近い感覚なのだそうだ。
その人、一人のことなのかもしれないが、
少なくとも、その人は、いまのステレオサウンドを、
書店で手に取ったり、人前で読んだりすることに誇らしさは感じていないはずだ。
いまでは電車で、ステレオサウンドを読んでいる人は皆無といっていい。
私が上京した、約四十年前は、読んでいる人をたまにではあるがみかけたものだった。
私も電車のなかでひろげて読んでいた。
いまのステレオサウンド編集部は、みな、217号の表紙を誇らしく思っているのだろうか。
ステレオサウンドに書いている人たちは、どうなのだろうか。