Archive for category Wilhelm Backhaus

Date: 1月 3rd, 2013
Cate: VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(VITAVOXの復活)

ヴァイタヴォックスのスピーカーが、また輸入されることになったのを昨夜知った。
以前の輸入元だった今井商事のサイトに、ヴァイタヴォックスのページができている。

そこには「再びお届け出来るようになりました」とあるから、
日本への輸入がある時期とまっていたのか、
それともヴァイタヴォックスがHi-Fi用のスピーカーから徹底していたのか、
もしかするとヴァイタヴォックスという会社そのものになにかあったのか、
そのへんの詳しいことはいまのところわからない。

けれど1990年代の後半以降、いつしかヴァイタヴォックスの名前を聞くことはなくなったし、
インターネットが普及して今井商事のサイトができたときには、
すでにヴァイタヴォックスの名前はなかったように記憶している。

ヴァイタヴォックスは1931年創立の、歴史の長いメーカーではあっても、
イギリス本国でもその著名度はそう高くはなかったようだ。

瀬川先生によるステレオサウンド 49号掲載のヴァイタヴォックスのCN191の文章の冒頭には、
次のようなことが書かれている。
     *
つい最近、面白い話を耳にした。ロンドン市内のある場所で、イギリスのオーディオ関係者が数人集まっている席上、ひとりの日本人がヴァイタヴォックスの名を口にしたところが、皆が首をかしげて、あい、そんなメーカーがあったか? と考え込んだ、というのである。しばらくして誰かが、そうだPA用のスピーカーを作っていた古い会社じゃなかったか? と言い出して、そうだそうだということになった──。どうも誇張されているような気がしてならないが、しかし興味深い話だ。
     *
ステレオサウンド 49号は1978年に発行されている。
つまり上の話が事実であるなら、1970年代の終りには、
イギリスのオーディオ関係者でも忘れかけられていたヴァイタヴォックスではあるけれど、
ことに日本においては注文して届くまで1年近く待たされるという状態が続いていたスピーカーでもあった。

Date: 12月 16th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その13)

骨格のしっかりした音、骨格のある音がうまく説明できないのであれば、
骨格のばらばらな音、骨格のない音をその対比としてうまく説明できればいいのだが、
これもまた難しい……、と、書きあぐねていたら、
別項「ちいさな結論(その3)」にて引用した丸山健二氏の「新・作庭記」が、
まさにそうだということに、さきほど気づいた。

こういう文章は書けない。
いつか書ける日が、ただ一回でもいいから来てほしいのだが……。

ここで、もういちど丸山氏の文章を引用しておく。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして行きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にない。
     *
「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心」を「ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった音」とすれば、
それこそが骨格のばらばらになってしまった音であり、骨格のない音でもある。

そして、そういう音を出すスピーカーこそが、
私が幾度となく、しつこく書いている「欠陥」スピーカーの音でもある。

Date: 12月 10th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その12)

何百回、音について書かれた文章を読もうとも、実際に一回でも音を聴けば、
それによって多くのことが得られる──、
こういったことが昔からいわれ続けてきている。

オーディオにはそういう面が、たしかにある。
だが、ここで聴く音とは、どういう音でもいいわけではない。
すくなくとも音について書いた本人が、ある責任を持って鳴らした音に関して、
音を聴くことによってわかることがある、そのことは私も否定はしない。

だから五味先生がオートグラフをについて、瀬川先生が4343について書かれた文章を読んで、
まったく別のひとが鳴らすオートグラフや4343、
オーディオ販売店でのオートグラフや4343を聴いても、
わかることもある反面、誤解してしまう危険性もまた大きい。

聴けばわかる──、
これはひじょうに危険なことでもある。

まずどんな音を聴くのか、が重要となる。
そして、同じくらいに、それ以上に聴いた人が問題となる。

ここで私が「骨格のしっかり音」について書いていることを、
例えば私が「骨格のしっかりした音」と感じ思っている、その音を聴いても、
まったく理解してくれない人がいることも、また事実である。

これは、音の「大きさ」を表しているのではないだろうか。
念のため書いておくが、ここでの音の「大きさ」は、音量の大きさではない。

だからこそ「音は言をもとめ、言は音をすすめる」のではないだろうか。
オーディオ評論家は、そのためにいるのではないだろうか。

Date: 12月 5th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その11)

書きながら、骨格のしっかりした音を説明することの難しさを感じている。
わかってくれる人が少なからずいる。
その人たちは、すぐに納得してくれている。

その一方で、骨格のしっかりした音がどういうものなのかまったくイメージできない人もいても不思議ではない。
私が勝手に推測するに、いまの時代は後者の人のほうが圧倒的に多いのではないだろうか……、
そんな気がしてならない。

そう思ってしまうのは、いま高い評価を得ているスピーカーシステムを聴いても、
私の耳には、それらのスピーカーシステムの音が、骨格のしっかりしたものとは思えないからである。

しっかりしたものと思えない、という表現よりも、
骨格を感じさせない音、意識させない音、といってほうがいい。

骨格を感じさせるのがいい音なのか、それとも感じさせない(意識させない)音がいいのか、
私にとっては、聴く音楽、聴く演奏家が骨格のしっかりしたものを要求しているように感じることもあって、
骨格のしっかりした音が、そうでない音よりも、いいと判断してしまう。

けれど聴く音楽が異り、
聴く音楽は私と同じクラシックが中心でも、聴く演奏家が大きく異るのであれば、
骨格のしっかりした音を求めない人もいるだろうし、
聴く音楽も聴く演奏家も私と同じでも、
これまで聴いてきた音が、骨格のない音ばかりであったとするならば、
もしかすると、その人は、再生される音のうちに骨格を感じとることができるのだろうか。

さらに思うのは、いまのオーディオ評論家を名乗っている人たちのなかに、
骨格のしっかりした音を求めている人、
求めていなくとも骨格のしっかりした音をきちんと聴き分けている人がいるだろうか。
そんなこともつい思ってしまう。

もう骨格のしっかりした音は、旧い世代の人間が求める音の要素かもしれない、
と思っていたところに、私よりもずっと若いジャズ好きの人は、
骨格のしっかりした音という表現にうなずいてくれている。

ということは世代はあまり関係のないことのようだ。
やはり聴く音楽、聴いてきた音が影響を与えているともいえるし、
そういう音楽を、そういう音を求めてきたのは、やはりその人自身であるわけだから、
ここでも「音は人なり」ということに行き着いてしまう。

そして、もうひとつ思い出すのは、この項の(その1)で引用した岡先生の文章のなかのフレーズである。
「演奏家が解釈や技巧をふりかざしてきき手を説得しようという姿勢はまったく見られない。」

骨格のしっかりした音とは、そういう音なのだ、といいたくなる一方で、
骨格のない音、骨格のいいかげんな音は、
解釈や技巧をふりかざしてきき手を説得しようとする音なのかもしれない、と。

Date: 12月 1st, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その10)

関節があるから、人の身体は身体として機能している。
関節がまったくなかったら、大きな骨がただひとつだけあって、
それがたとえ人間の骨格と同じ形をしていようと、関節がなければ人形と同じことになる。

関節は骨と骨を結合させている。

私はまだないけれど、身体のどこかの関節がはずれてしまうと、
たとえば肩が脱臼すると腕はだらりとなってしまう。
関節によって結合しているから、人はあらゆる動きを行える。

関節があってもそれが機能としているから骨格が成り立っているし、
身体も機能しているわけである。

骨があり関節があり、骨格はある。

骨格のしっかりした音、
スピーカーの骨格とはなにか、について考えていて、次に浮んできたのが関節である。

音に骨格がなければ、音は軟体動物のようになってしまう。
骨格があっても関節がなければ、あっても関節として機能(可動)していなければ、
人の身体は動けなくなるように、音もただそこにあるだけとなってしまう──、
骨格のしっかりした音をうまく表現できないから、
逆に骨格のない音、骨格のくずれてしまった音はどういうものかを考えてみた。

やはり関節が重要なキーワードに思えてくる。

関節は人の身体に無数にあるわけではない。
腕にしても肩にあり、肘にあり、手首にあり、指にもある。
だが、肩と肘の間に、肘と手首の間に関節があるわけではない。
それに関節には可動領域がある。
360度、どの方向にも自由自在に動かせるわけではない。方向と範囲がある。

そのため人間にはできない動きが生じる。
関節があるために動きが制限される。

スピーカーはあらゆる音楽を鳴らせるものであってほしい、
とすれば、スピーカーに骨格なんて存在しない方がいい、という考えもできる。
軟体動物のようにどんな動きでも、どんなポーズでもできるのほうが、
骨格のある、骨格のしっかりしたスピーカーよりも、音の自由度は広い──、
果して、そういえるのだろうか。

私には、どうしてもそうは思えない。
骨格のあるほうが、音楽を聴く上では自由度がある、と感じているし、
その点が、自分の音にもってこれるスピーカーとそうでないスピーカーとにわけることにもなっていく。

Date: 11月 26th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その9)

この項を書き始めて考え続けているのは(ずーっと考えているわけでもないけれど)、
骨格のしっかりした音を、具体的に説明するにはどうしたらいいのか、ということ。

バックハウスのベートーヴェンを愛聴盤とされている人ならば、
なんとなくかもしれないが、私がいいたいことをわかってくださっている、そんな気もする。

でもいまバックハウスのベートーヴェンを愛聴盤としている人は、そう多くないだろう。
それにクラシックを聴く人ばかりとは限らない。
バックハウスのベートーヴェンをまったく聴いたこともない人も少なくないと思う。

そしてスピーカーに関しても、現在市販されているモノで、
骨格のしっかりした音までは求めないものの、
すくなくとも、その音を聴いたときに、音の骨格を意識させるスピーカー、
骨格をいう表現を思いつかせる音のスピーカーでもいいのだが、
はたしてあるのだろうか。

そういう時代にあって、そういう音楽、そういう音しか聴いたことのない人に、
骨格のしっかりした音を説明するのは、どうしたらいいのか、正直わからない。

そういえば、瀬川先生が、読者から「品位のある音というのがわからない」と相談された、という話がある。
そういうものか、と思うし、そうなんだ、とも思う。

どんな音楽を聴いてきたのか、どんなスピーカーを聴いてきたのかによっても、
理解できない(しにくい)音が確かにある。
この問題は、それでは品位のある音を聴かせたり、骨格のしっかりした音を聴かせればすむことじゃないか、
と思われるかもしれない。

けれど人はみなスピーカーから出てきているすべての音を聴き取っているわけではないし、
感じとっているわけでもない。

音の品位に、音の骨格に対する感知能力が聴き手側になければ、
そこで品位の高い音が鳴っていても、骨格のしっかりした音が鳴っていても、理解されることは難しい。

それでも言葉で説明していくとなると、どうしたらいいのか。
骨格のしっかりした音──、とはどういう音なのか。

ひとつ浮んできたことがある。
骨格は文字通り骨から構成されている。
だが骨がただひとつあるだけでは骨格とはなりえない。
骨格には関節がある。

Date: 11月 23rd, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その8)

バックハウスは、もういない。
バックハウス的といえるピアニストも、いま誰かいるかと考えても、すぐには思い浮ばない。

バックハウスのピアノ演奏がすべてではないし、
時代によって新しいピアニストが登場してくる。

同じピアニストはひとりもいないのだから、それは当然すぎることであり、
時代によって録音技術も変化・進歩していく。
演奏スタイルも、すくなくとも録音される演奏においては、
録音技術の変化・進歩とはまったく無関係でいることは無理なのかもしれない。

一度録音された演奏は、ずっと残っていく。
バックハウスの演奏も残っていくし、その他のピアニストの演奏も残っていく。
同じ演奏は、だから時代が求めていない、ともいえるのかもしれない。

時代はくり返す、ともいわれる。
だから、またバックハウス的なピアニストが登場するのかもしれない。
私は登場しないように思っている。

人がいちどに聴ける演奏は、ひとつだけである。
バックハウスのベートーヴェンを聴きながら、別の誰かのピアニストの演奏でバッハを聴く、ということは、
ただ鳴らしておくだけなら可能でも、実際にはできない。

人の時間は限られていて、録音されていくものは増えていく。
個人のコレクションも増えていく。

新しいものが登場していく陰で、注目されなくなるものも出てくる。
スピーカーの音も同じである。

技術が変化・進歩していくことで、それまでのスピーカーでは出し得なかった音が聴けるようになってきている。
だからといって、それまで聴けていた音がすべて出た上で、新しい音がそこに築かれているわけではない。
残念なことに、技術がまだまだ未完成・未熟なこともあり、何かを得れば何かを失っていく。

失うものが少なく、得るものが多ければ、それは進歩と呼ばれるのだろうが、
わずかでも失われるもののなかに、その人にとって大切なものが含まれていれば、
いくら得るものが多かろうと、それは進歩とはいえなくなる。

バックハウスの「最後の演奏会」は私に、
失われていく音、忘れられていく音がある、ということを考えさせる。

Date: 11月 23rd, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その7)

練馬区役所での、五味先生が生前愛用されていたシステムでバックハウスの「最後の演奏会」を聴いてから、
当然自分のシステムでも聴いてみるわけである。

五味先生の愛用システムではLPで、自分のシステムではCDである。
出てきた音に、ある程度想像できていたこととはいえ、がっくりした。
バックハウスが、あのように鳴ってくれない。

音が悪い、ということではない。
バックハウスがバックハウスとして鳴っていない、ということころでがっくりしていた。
なにかが根本的に違う、なにか違うのだろうか……。
そのことをしばらく考え続けていた。

五味先生のシステムと私のシステムとでは、スピーカーシステムの大きさも形式も大きく異る。
アンプもトランジスター型だし、部屋の大きさも条件も異っている。
そういうことが影響しての音の違いではない。

そこをはっきりさせなければ、バックハウスの「最後の演奏会」が、
バックハウスの「最後の演奏会」にならない。それでは困る。

それは、結局言葉で表せば、骨格のしっかりした音かそうでないかの違いだと思う。

骨格のしっかりした音とは、バランスのとれた音とは違う。
ピラミッド状の音のバランスがとれているからといって、それが骨格のしっかりした音ではない。
また肉づきのよい音とも違う。

骨格のしっかりした音は、骨格のしっかりした音としか、ほかにいいようがない。
うまく説明できないことにもどかしさを感じているけれど、
これはもう想像していただくしかない。

とはいえ、私自身も、骨格のしっかりした音、という表現そのものをずいぶん忘れていたことを、
バックハウスの「最後の演奏会」を練馬区役所で聴き、自分のところで聴き、
その違いをはっきりと自覚することで思い出したぐらいである。

骨格のしっかりした音は、骨格のしっかりした音を聴くまで、
なかなか意識の上にのぼってこない性格のものかもしれない。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その6)

私が聴くことのできた2回目のとき、レコードをかけ装置を操作された方は、練馬区役所の担当者の方ではなく、
ステレオサウンドの編集部の人だった。

バックハウスの「最後の演奏会」のレコードについて、すこし語られた。
ベートーヴェンのピアノソナタ18番の演奏途中でバックハウスが心臓発作を起して、ということについてだった。
だからこの18番は途中までの演奏です、といわれ、レコードをかけC22のボリュウムを操作された。

当然鳴ってくるのはピアノソナタ18番だと思っていたら、
「最後の演奏会」は二日間の演奏会を収録したもので、LPもCDも2枚組。
1枚目が1969年6月26日の演奏であり、そのときの1曲目のベートーヴェンのピアノソナタ21番が鳴りだした。

あれっと思っていたけれど、かけ直されなかったから、
おそらくクラシックはあまり聴かれない編集者の方なんだな、と思いながら聴いていた。

この日はアンプの調子が万全ではなかった。
片チャンネルのゲインが安定せず、音量が変動することもあった。モノーラルになることもあった。

そんなことはあったけれど、鳴ってきたバックハウスの演奏は堂々としていた。
これみよがしなところはない。
それは岡先生が語られているように、この項の(その1)で引用したように、
演奏家が解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しようとすることから受ける堂々さではもちろんなく、
そういう姿勢のまったく見られない堂々としたベートーヴェンだった。

聴いていて思っていた、私はまだこんなふうにバックハウスを鳴らせていない、と。

練馬区役所でのオートグラフの設置は、私が聴いた時はコーナーに置かれていなかった。
いまはどうなのかわからない。そのままなのかもしれないし、
コーナーに設置されているかもしれない。

そのことひとつとっても、アンプの状態にしても、
レコードをかけられた人は(おそらく)クラシックには興味のない人──、
これだけの決していいとはいえない状況が重なっていても、
五味先生がバックハウスのベートーヴェンを、どう聴かれていたのか、
それを想像するだけの「音」で鳴っていたことは確かである。

この日、来られた人みながそう感じおもわれたのかどうかは私にはわからない。
それでも私にとっては、実感できるものがあった。
行ってよかった、とおもう、聴くことができてよかった、とおもっている。

Date: 11月 18th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その5)

2009年1月から続いていてる「五味康祐氏のオーディオで聴く名盤レコードコンサート」。

今年も3回催され、来年もまた開催される。
毎回抽選になるほど申込まれる方が、いまも多い、ときいている。

私は初回に応募したけれど無理で、2回目に行くことができた。
ほぼまる4年開催されているから、私が聴いたときの音といま鳴っている音は変っているところもあるはず。
いいコンディションで鳴っている、ともきいている。

また機会があれば行きたいと思うけれど、いまだ行っていない方も少なくないようだから、
一度行った者がふたたび行くのはもう少し先でもいい、と思っている。

練馬区役所の担当の方が丁寧に、五味先生のオーディオ機器を取り扱われている、とのこと。
そういう人がいてくれるから、単なる催し物、試聴会の域にとどまることなく、
音もよくなってきているのだろう。いいことだと思う。

でも、一部の方は誤解されているようだが、
練馬区役所の一室で鳴っているのは、五味先生が使われてきたオーディオ機器が鳴っているのであり、
その音が良くなってきていても、それは五味先生の音が、そこで再現されているわけではない。

ただ単にタンノイのオートグラフ、マッキントッシュのC22、MC275、EMT930stをバラバラに集めてきて、
それらを結線して音を出すことに比べれば、ずっと五味先生の音に近い、とは言えても、
あくまでも片鱗を感じさせる、であり、4年間鳴らされてきたことによって音が良くなってきているとすれば、
それは担当された方の人となりが音となってあらわれてきたから、と受けとめた方がいい。

それこそが、音は人なり、ではないだろうか。

話がそれてしまったが、
私が行った2回目のとき、最初にかけられたレコードが、このバックハウスの「最後の演奏会」だった。

Date: 11月 13th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その4)

骨格のしっかりした音、
いまでは、こういう表現は、見かけなくなっているように感じている。

正直、最近のオーディオ雑誌を丹念に読んでいないから、感じている、としか書けないのだが、
以前は、といっても20年以上前は、骨格のしっかりした音という表現は、そう珍しくはなかった。

音を表現する言葉の使われ方も、また時代によって変化していく。
だから次第に使われなくなっていく表現もあれば、徐々に使われはじめてきて、
いまや一般的に使われている表現だってある。

音を表現する言葉はそうやって増えていっているはずなのに、
使われている言葉の数は、いまも昔もそう変らないのかもしれない。
新しくつかわれる表現・言葉がある一方で、使われなくなっていく表現・言葉があるのだから。

骨格のしっかりした音も、そうやって使われなくなっていく(いった)表現なのかもしれない。

でも、なぜそうなっていたのだろうか。

私の、それもなんとなくの印象でしかないのだが、
クラシックの世界でヴィルトゥオーゾと呼ばれる演奏家が逝去していくのにつれて、
骨格のしっかりした音も、また活字になることが減っていっているような気もする。

このことはスピーカーが提示する音の世界ともリンクしているのではないだろうか。
骨格のしっかりした音のスピーカーが、こちらもまた減ってきているような気がする。

ハイエンド志向(このハイエンドというのが、都合のいい言葉のように思える)のマニアの間で、
高い評価を受けているスピーカーシステムが、
何かを得たかわりに稀薄になっているひとつが、骨格のしっかりした音のようにも思う。

Date: 11月 10th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その3)

バックハウスの演奏の再生に必要なこととはなんだろうか、と具体的に考えてみると、
骨格のしっかりした音、という結論になってしまう。

骨格のしっかりした音、とは、どういう音なのか、というと、
これが説明しにくい。

骨格のしっかりした音、ということで、音をイメージできる人もいれば、
まったくできない人もいる、と思っている。

イメージできる人でも、私がイメージしている骨格のしっかりした音とは、
違う骨格のしっかりした音である可能性もあるわけだが、
それでもイメージできる人は、音の骨格ということに対して、なんらかの意識が働いていることになる。

でもまったくイメージできない人は、
スピーカーからの音を聴いているとき、音の骨格ということを意識していない、ということだと思う。

音の聴き方はさまざまである。
なにを重要視するのかは人によって異ってくるし、
ひとりの人間がすべての音を、すべての音の要素を聴き取っているわけではない。

ある人にとって重要な音の要素が、別のひとによってはそれほどでもなかったりするし、
それは聴く音楽によって変ってくることでもあるし、
同じ音楽を聴いていても、人によって違う。

人の耳には、その人なりのクセ、と呼びたくなる性質がある。
ある音には敏感である人が、別の音には鈍感であったりする。
これは歳を重ねるごとに、自分の音の聴き方のクセに気がつき、ある程度は克服できることでもある。

これは人に指摘されて気がついて、どうにかなるものではない。
自分で気がついて、どうにかしていくものである。
そこに気がつくかどうか。

自分の耳が完全な球体のような鋭敏さを持っている、と信じ込める人は、ある意味、シアワセだろう。
でも、オーディオを介して音楽を聴くという行為は、それでいいとは思っていない。
やはり、厳しさが自ずともとめられるし、
その厳しさのないところにはバックハウスはやってこない、といっていい。

Date: 11月 7th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その2)

バックハウスの「最後の演奏会」におさめられているのは、
1969年6月25日、28日のオーストリア・オシアッハにある修道院教会の再建記念コンサートの演奏である。

デッカがステレオ録音で残していてくれている。
最新のスタジオ録音のピアノの音を聴きなれている耳には、
これといって特色のない録音に聴こえるだろう。

バックハウスの、このCDをもち歩くことは少ない。
そういうディスクではないからだ。
誰かのシステムで聴いたことは、だからほんの数えるほどしかない。

そのわずかな体験だけでいえば、ときとして、つまらないディスクにしか思えない音で鳴ることがある。
バックハウスの最後の演奏会のライヴ録音だとか、
6月28日のコンサートでのベートーヴェンのピアノソナタ第18番の演奏途中において心臓発作を起し、
いちどステージ裏にひきさがったあと、プログラムを変更してステージに戻っている。

この日の録音には、そのことをつげる男性のアナウンスもはいっている。

バックハウスが最後に弾いているのはシューベルトである。
即興曲D935第2曲。

岡先生が書かれているように、
ここでの演奏でもバックハウスは「解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しよう」とはしていない。
だからなのか、「解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しよう」としている音で鳴らされたとき、
バックハウスの演奏は、ひどく変質してしまうような気がしてならない。

バックハウスの演奏を聴くことにって感じているのは、
バックハウスの演奏を聴くということは、聴き手にも厳しさが求められている、ということである。

バックハウスの演奏がつまらなく聴こえるのであれば、
その装置の音には、そういう厳しさが稀薄なのか、まったく存在していないのかもしれない。

オーディオという世界は、あらゆるところに、聴き手がよりかかれる要素がある。
聴き手は知らず知らずのうちに、どこかによりかかっていることがある。

それは人によって違うところでもあるし、自分では気がつくにくい。
誰かに聴いてもらったとしても、指摘してもらえるとはかぎらない。

それでもひとつたしかにいえるのは、
バックハウスの演奏がつまらなくきこえたり、どうでもいいとしかきこえなかったら、
どこかによりかかったところで音楽が鳴っている、と思っていい。

Date: 11月 6th, 2012
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その1)

CDではブレンデルとグルダが揃っているし、LPではアシュケナージ、バレンボイムと、現役のトップクラスの全集はそれぞれいいのだが、バックハウスの描きだしたベートーヴェンの世界は、これら四人とはまったくちがうもので、演奏家が解釈と技巧をふりかざしてきき手を説得しようという姿勢はまったく見られない。バックハウスは鍵盤の獅子王という異名を与えられてずいぶん損をした人ではないかと思う。豪毅なピアニズムはそういう一面をもっているが、彼はあくまでも音楽そのものに語らせる。したがって、きき手はそこから何を読みとるかということで彼の解釈・表現の評価がわかれるのではあるまいか。後期の作品においてはとくにその感をふかくする。
     *
岡先生がステレオサウンドで連載されていたクラシック・ベストレコードで、
バックハウスのベートーヴェン・ピアノソナタ全集がCD化されたときに書かれたものである。
1986年6月に発行されたステレオサウンド 79号で読める。

ちょうど、このころ、岡先生のクラシック・ベストレコードは私が担当していた。
いまみたいにメールで原稿が送られている時代ではない、
手書きの原稿を鵠沼の岡先生の自宅に取りにうかがったことも何度もある。

岡先生の原稿は読みにくかった。
最初のうちは朱を入れる(文字を読みやすく書き直す)だけでもかなりの時間を要した。
馴れてきてからも、苦労する文字が必ずあった。

岡先生は、アシュケナージとショルティを高く評価されることが多かった。
私は、というと、1986年といえば23だった、若造だった。

ショルティもアシュケナージも、岡先生がいわれるほどいいとは思えなかった。
そんなところが私にはあったけれど、岡先生の原稿は楽しみだった。

このバックハウスのベートーヴェンについて書かれた原稿を読んだ時も、
ふかく頷いてしまった。

とはいっても、岡先生のようにバックハウスを聴きえていたわけではない。
それでも、岡先生の音楽の聴き方を、さすがだ、と思い、
バックハウスの音楽を、いかに聴き得ていなかったことに気づいての頷きであった。

「彼はあくまでも音楽そのものに語らせる」
いまは、ほんとうにそう思えて、頷いている。

12月にバックハウスのCDがユニバーサルミュージックから発売になる。
その中に「最後の演奏会」が含まれている。

この「最後の演奏会」のCDはいつも限定盤で発売される。
数年に一回の割合で、廉価盤としての値段がついての発売である。
市場からなくなって数年たつと、また思い出したように限定盤で出してくれる。

海外盤は手に入らないから、こういう発売のやり方でも、待てば買えるわけで有難いことではある。

バックハウスの「最後の演奏会」は文字通りの内容である。
そこでのバックハウスの演奏を、感傷的に聴くことだってできる。

けれど、そういう聴き方をしてしまったら、
バックハウスの演奏から「何を読みとるか」ということが、あやふやになってしまわないだろうか。

Date: 6月 13th, 2009
Cate: Wilhelm Backhaus, 五味康祐

ケンプだったのかバックハウスだったのか(補足・6)

余計なお世話だと言われようが、
五味先生が、作品111を「初めてこころで聴いて以来」と書かれていることを、
くれぐれも読み落とさないでほしい。