バックハウス「最後の演奏会」(その11)
書きながら、骨格のしっかりした音を説明することの難しさを感じている。
わかってくれる人が少なからずいる。
その人たちは、すぐに納得してくれている。
その一方で、骨格のしっかりした音がどういうものなのかまったくイメージできない人もいても不思議ではない。
私が勝手に推測するに、いまの時代は後者の人のほうが圧倒的に多いのではないだろうか……、
そんな気がしてならない。
そう思ってしまうのは、いま高い評価を得ているスピーカーシステムを聴いても、
私の耳には、それらのスピーカーシステムの音が、骨格のしっかりしたものとは思えないからである。
しっかりしたものと思えない、という表現よりも、
骨格を感じさせない音、意識させない音、といってほうがいい。
骨格を感じさせるのがいい音なのか、それとも感じさせない(意識させない)音がいいのか、
私にとっては、聴く音楽、聴く演奏家が骨格のしっかりしたものを要求しているように感じることもあって、
骨格のしっかりした音が、そうでない音よりも、いいと判断してしまう。
けれど聴く音楽が異り、
聴く音楽は私と同じクラシックが中心でも、聴く演奏家が大きく異るのであれば、
骨格のしっかりした音を求めない人もいるだろうし、
聴く音楽も聴く演奏家も私と同じでも、
これまで聴いてきた音が、骨格のない音ばかりであったとするならば、
もしかすると、その人は、再生される音のうちに骨格を感じとることができるのだろうか。
さらに思うのは、いまのオーディオ評論家を名乗っている人たちのなかに、
骨格のしっかりした音を求めている人、
求めていなくとも骨格のしっかりした音をきちんと聴き分けている人がいるだろうか。
そんなこともつい思ってしまう。
もう骨格のしっかりした音は、旧い世代の人間が求める音の要素かもしれない、
と思っていたところに、私よりもずっと若いジャズ好きの人は、
骨格のしっかりした音という表現にうなずいてくれている。
ということは世代はあまり関係のないことのようだ。
やはり聴く音楽、聴いてきた音が影響を与えているともいえるし、
そういう音楽を、そういう音を求めてきたのは、やはりその人自身であるわけだから、
ここでも「音は人なり」ということに行き着いてしまう。
そして、もうひとつ思い出すのは、この項の(その1)で引用した岡先生の文章のなかのフレーズである。
「演奏家が解釈や技巧をふりかざしてきき手を説得しようという姿勢はまったく見られない。」
骨格のしっかりした音とは、そういう音なのだ、といいたくなる一方で、
骨格のない音、骨格のいいかげんな音は、
解釈や技巧をふりかざしてきき手を説得しようとする音なのかもしれない、と。