バックハウス「最後の演奏会」(その8)
バックハウスは、もういない。
バックハウス的といえるピアニストも、いま誰かいるかと考えても、すぐには思い浮ばない。
バックハウスのピアノ演奏がすべてではないし、
時代によって新しいピアニストが登場してくる。
同じピアニストはひとりもいないのだから、それは当然すぎることであり、
時代によって録音技術も変化・進歩していく。
演奏スタイルも、すくなくとも録音される演奏においては、
録音技術の変化・進歩とはまったく無関係でいることは無理なのかもしれない。
一度録音された演奏は、ずっと残っていく。
バックハウスの演奏も残っていくし、その他のピアニストの演奏も残っていく。
同じ演奏は、だから時代が求めていない、ともいえるのかもしれない。
時代はくり返す、ともいわれる。
だから、またバックハウス的なピアニストが登場するのかもしれない。
私は登場しないように思っている。
人がいちどに聴ける演奏は、ひとつだけである。
バックハウスのベートーヴェンを聴きながら、別の誰かのピアニストの演奏でバッハを聴く、ということは、
ただ鳴らしておくだけなら可能でも、実際にはできない。
人の時間は限られていて、録音されていくものは増えていく。
個人のコレクションも増えていく。
新しいものが登場していく陰で、注目されなくなるものも出てくる。
スピーカーの音も同じである。
技術が変化・進歩していくことで、それまでのスピーカーでは出し得なかった音が聴けるようになってきている。
だからといって、それまで聴けていた音がすべて出た上で、新しい音がそこに築かれているわけではない。
残念なことに、技術がまだまだ未完成・未熟なこともあり、何かを得れば何かを失っていく。
失うものが少なく、得るものが多ければ、それは進歩と呼ばれるのだろうが、
わずかでも失われるもののなかに、その人にとって大切なものが含まれていれば、
いくら得るものが多かろうと、それは進歩とはいえなくなる。
バックハウスの「最後の演奏会」は私に、
失われていく音、忘れられていく音がある、ということを考えさせる。