Archive for category 音楽家

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その2)

グレン・グールドはコンサート・アーティスト、スタジオ・アーティストと言っていた。
無論グールドは後者である。

前者がコンサートホールでの演奏を録音したものと、
後者が、studio productを理解しているスタッフと録音したもの。

後者の録音は、デザインであるはずだ。

Date: 10月 9th, 2014
Cate: Glenn Gould, 録音

録音は未来/recoding = studio product(その1)

別項「オーディオマニアとして」で、グレン・グールドの「感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」について触れている。

ここでの録音、つまりグレン・グールドが指している録音とは、studio productである。

studio productといっても、何も録音場所がスタジオでなければならない、ということではもちろんない。
ホールで録音しても、教会で録音しようとも、studio productといえる録音もある。

スタジオで録音したから、すべてがstudio productというわけでもない。
studio productとは、録音によって解釈を組み上げる行為、その行為によってつくられるモノであり、
録音をstudio productと考えていたのはグレン・グールドだけでなく、
カラヤンもそうであるし、ショルティもそうだ。

studio productだから、生れてくる「モノ」がある。

Date: 10月 8th, 2014
Cate: Kathleen Ferrier

Kathleen Ferrier (22 April 1912 – 8 October 1953)

いつごろからなのか、Kathleen Ferrierをキャスリーン・フェリアと表記するようになったようだ。
私がKathleen Ferrierを聴きはじめたころは、カスリーン・フェリアーだった。

だからいまでもカスリーン・フェリアーと言っている。

初めて聴いたのは、バッハ/ヘンデルのアリア集のCDだった。
入荷したばかりの輸入盤。1985年に買った。

このときのスピーカーはセレッションのSL600だった。
イギリスのスピーカーでよかった、と思っている。

フェリアーの声は柔らかくあたたかく、しっとりしている。
どこにも刺々しさはない。
とりすました表情はどこにもない。

そういう声・表情で歌われたバッハとヘンデルは、心に沁みた。
それまで聴いたどんな音楽よりも、そうだった。

フェリアーの歌が心に沁みてこなくなったら、もう終りだとおもっている。

Date: 8月 24th, 2014
Cate: Glenn Gould, オーディオマニア

オーディオマニアとして(グレン・グールドからの課題)

グレン・グールドの、この文章を引用するのは、これで三回目。
一回目は「快感か幸福か(その1)」、二回目は「ベートーヴェン(動的平衡・その4)」。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
     *
濁った水がある。
水に混じってしまった不純物は、ゆっくりと水の底に沈殿していく。
水は透明度をとり戻していく、落ち着いた静けさの心的状態によって。

心も同じのはず。
落ち着いた静けさの心的状態では、まじってしまった不純物も底へと沈殿していく。

アドレナリンを瞬間的に射出してしまえば、不純物はまいあがり濁る。

わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくために、
オーディオの働きを借りるのがオーディオマニアではないのか。

グールドは、積極的な意味で使っている、とことわったうえで、
美的ナルシシズムの諸要素を評価するようになってきている、としている。

美的ナルシシズム、美的ナルシシズムの諸要素。
オーディオではナルシシズムは決していい意味では使われない。

ナルシシズム、ナルシシスト。
これらが音について語るとき使われるのは、いい意味であったことはない。

オーディオマニアとしての美的ナルシシズム、
自分自身の神性の創造、
グールドからのオーディオマニアへの課題だと私は受けとっている。

Date: 8月 17th, 2014
Cate: Frans Brüggen

Frans Brüggen(その1)

フランス・ブリュッヘンの名前を知ったのは、「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。

読者からの手紙にオーディオ評論家が組合せをつくるという企画で、
15人の読者のなかでただひとり女性がよく聴くレコードとして挙げられていた中の一枚が、
ブリュッヘンの「涙のパヴァーヌ」だった。

このレコードのジャケットをみると、リコーダーがうつっている。
リコーダーのレコードなんだ、とだけ思った。

13歳の私は、ブリュッヘンの名前も知らなかったし、
リコーダーという楽器は小学校の音楽の授業で習うものという認識しか持っていなかった。

だからそれほど注目していたわけではなかった。
それでも記事中で黒田先生が「センスのよいレコード」と話されていたから、
なんとなくではあったが、気にはしていた。

ブリュッヘンのリコーダーのレコードを聴いたのは、その数年後、東京に出てからだった。
そのころにはブリュッヘンのリコーダーはすごい、ということは文字によって知ってはいた。
でもすぐには手が伸びなかった。他にも聴きたい(買いたい)レコードがたまっていたからだ。

ずるずると後回しにしていたブリュッヘンのレコード。
いまでは何がきっかけで手にして聴いたのかも曖昧だが、
はじめて聴いた衝撃だけははっきりと憶えている。

聴き終って思ったのは、小学校でリコーダーを習う前に、
ブリュッヘンのレコードを聴かせられていたら、
リコーダーという楽器をなめてかかることはなかった、ということだ。

小学生の私は、リコーダーで出せる音なんてたかが知れている、と思い込んでしまった。
こんなにも豊かな音(表情)を生み出せる楽器とは露ほども思っていなかった。

ブリュッヘンのリコーダーを聴いた後にリコーダーを渡されていたら──。
私はそれでもリコーダー奏者の道を選ぶことはなかったと思うが、
進む道が変ったかもしれない者はいたのではないか。

Date: 2月 4th, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その8)

アバドが、フルトヴェングラー/スカラ座の「ニーベルングの指環」のことを話したのか、
その前後に関してはまったく忘れてしまっている。

私にとって、このときのアバドのインタヴュー記事で、
このことがとても意外であり、だからこそいまも憶えている。

アバドもいつかはワーグナーを録音するだろうな、
どういうワーグナーになるんだろうか、
そんなことをぼんやりと想像していたところに、
フルトヴェングラーの「ニーベルングの指環」に熱狂している、という、
いわばアバドの告白のように感じられた、この発言は、だから意外だったのだ。

フルトヴェングラーの「ニーベルングの指環」に熱狂しているからといって、
アバドが「指環」を録音することになっても、同じような演奏をするとは思えない。

アバドが亡くなったのを知った時に、
アバドとアルゲリッチがピアノをはさんで坐っている写真を見つけた。
Googleで画像検索すれば、すぐに見つかる。

1970年代に撮られたであろう、この写真のふたりは若い。
そして、この写真は青を基調としている。
そのことが、この時代の、若いふたりの雰囲気にぴったりとあっている。

アバドは、そういう演奏をしてきた人である。
それにフルトヴェングラーの「指環」について語っていた記事を読んだのは、1980年代だったはず。

そういうアバドと、フルトヴェングラーのスカラ座との「指環」がうまく結びつかなかった。

Date: 1月 28th, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その7)

1989年に、オーチャードホールが開館した。
こけら落しは「バイロイト音楽祭日本公演」だった。

この「バイロイト音楽祭」でブーイングがあった、ときいている。
なぜブーイングをしたのか、その理由を何かで読んだ。

「フルトヴェングラーの演奏と違うから」ブーイングをした、ということだった。
この人は、フルトヴェングラーの「ニーベルングの指環」をかなりの回数聴いていて、
それは記憶してしまうほどで、フルトヴェングラーの「指環」こそが「指環」であるから、
それと違うのは認められない──、
そうとうに極端な聴き方であり、意見(主張)でもあった。

記事には、確かフルトヴェングラーの「指環」を聴いた回数も書いてあった、と記憶している。
その回数を見て、この人はどれだけの時間を音楽を聴くことに費やしているのかと、
そして、その費やした時間のうち、フルトヴェングラーの「指環」以外を聴く時間はどのくらいなのか、
そんなことを考えてしまうほどの回数だったことは、はっきりと憶えている。

世の中にはいろんな人がいる──、
これで片付けられるといえばそうなのかもしれないけれど、
この記事を読みながら、この人は、フルトヴェングラーの「指環」は、
RAIローマ交響楽団の方ではなく、
きっとミラノ・スカラ座の方を何度も何度もくり返し聴いたのだろうな、と思っていた。

フルトヴェングラー/ミラノ・スカラ座による「ニーベルングの指環」は、そういうレコードである。
アバドが熱狂したのも、このミラノ・スカラ座との「ニーベルングの指環」である。

Date: 1月 28th, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その6)

フルトヴェングラーとミラノ・スカラ座による「ニーベルングの指環」は、
イタリア・チェトラから、ステレオ録音で発売される、ということで、話題になった。

発売(輸入)されてみると、モノーラル録音だった。
なぜチェトラはステレオ録音だと発表したのだろうか。
もしかすると、ほんとうはステレオ録音だったのかもしれない。
けれど、なんらかの事情によりモノーラルでの発売になったのかもしれない……。

このフルトヴェングラーの「指環」は私も買った。
立派なボックスにおさめられていた。かなり無理して買ったものだった。

ステレオ録音ということがアナウンスされていたくらいだから、
モノーラルとはいえ、かなりいい録音なのではないか、とも期待していた。

演奏はすごい、けれど、音は……だった。

フルトヴェングラーの「ニーベルングの指環」全曲盤は、
RAIローマ交響楽団を指揮しての、コンサート型式のライヴ録音がある。

レコードとしてみれば、RAIローマ交響楽団のほうが、いわゆるレコードとしてのキズが少ない、といえる。
ミラノ・スカラ座のほうは、レコードとしてのキズが多い、といえる。
けれど、どちらをとるかといえば、私はミラノ・スカラ座のほうである。

ミラノ・スカラ座との「ニーベルングの指環」は、ほんとうにすごい。

Date: 1月 23rd, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その5)

何で読んだのかは忘れてしまっているが、
たしか黒田先生が、アバドの「幻想」には、
「幻想」が作曲された時代におけるベルリオーズの前衛性がはっきりと浮び上っている──、
そんなことを書かれていたことを、いま思い出している。

アバドの「幻想」のそういう面は、ミュンシュの「幻想」と比較することで、よりはっきりとしてくる。
そうなるとふたつのディスクのジャケットの違い、
アバドの「幻想」にベルリオーズが大きく描かれていることにも、
あのジャケットのデザインが優れているかどうかは別として、納得できることになる。

その意味では、アバドは、作品(曲)に対して、いくぶん距離をとる指揮者といえるところはある。

こんなことを考えていたら、そういえばアバドのディスコグラフィにワーグナーがあまりないことに気づく。

アバドは積極的にレコーディングを行なった指揮者であろうに、
またオペラも数多く振っているにも関わらず、ワーグナーはローエングリンの全曲盤の他に、
ベルリンフィルハーモニーの芸術監督の退任直前に録音したディスクがあるくらいか。

アバドにとって、ワーグナーはどうだったんだろう、と思う。

これも何で読んだのかは忘れてしまっているし、
ずいぶん以前に読んだもので、
フルトヴェングラーがミラノ・スカラ座を振った「ニーベルングの指環」を、
アバドが絶賛していたことを思い出しているところだ。

Date: 1月 22nd, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その4)

広島の「平和の鐘」の音色について、岡先生は、
「明るく澄んでいて、いかにもアバド好みでもある」と書かれている。

この一節があらわしているようにアバドの「幻想」には、
日本でも評価の高いミュンシュ/パリ管弦楽団の演奏に感じられる激情さ、熱気といったものは、
感じられない。
それだけにアバドの「幻想」は精緻であるともいえよう。

そのことはジャケットのイラストにもあらわれている。
ミュンシュ/パリ管弦楽団のイラストは、どう説明したらいいのか迷ってしまう。
「ミュンシュ 幻想」で検索すれば、ジャケットはすぐに見られるので、そちらをご覧いただきたい。

アバド/シカゴ交響楽団に使われているイラストは、ベルリオーズの胸像であり、
はっきりいえばあまりいいジャケット・デザインとは思えない。

「幻想」の名演ディスクということになれば、ミュンシュ盤を支持する人が多いかもしれない。
たしかにミュンシュ盤には凄味があり、
その凄味はアバド盤には稀薄でもあるが、録音の進歩もあいまって新鮮さがあるともいえる。

もしミュンシュ盤が、アバド盤と同程度の録音クォリティだったとしても、
試聴用ディスクとしてはアバド盤が選ばれると思う。

試聴用ディスクは同じ箇所を何度も何度もくり返し聴く。
10回、20回ではない。アバドの「幻想」に関しては、ほんとうに多かった。

これがミュンシュ盤だったら、そうとうにヘヴィーな試聴になったであろうからだ。

Date: 1月 22nd, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その3)

アバド/シカゴ交響楽団とによるマーラーの第一交響曲は、ステレオサウンドの試聴室でよく聴いた。
といっても、それはあくまでもステレオサウンド別冊Sound Connoisseurでの試聴において、であった。

他の試聴の時にアバドのマーラーの第一交響曲を使ったことはなかった。

ステレオサウンドの試聴室でもっとも多く聴いたアバドのディスクといえば、
ベルリオーズの幻想交響曲である。
1984年にドイツ・グラモフォンから出ている。

ステレオサウンド 71号の巻頭対談(菅野沖彦・山中敬三)でも、
「アバドの『幻想』をきっかけにコンサートフィデリティについて考える」と題して、
このアバドの「幻想」がとりあげられている。

同じ号の岡先生のクラシック・ベスト・レコードも、最初に取り上げられているのは、
このアバドの「幻想」である。

岡先生の原稿に詳しいが、
このアバドの「幻想」はシカゴ交響楽団の本拠地のオーケストラホールで録音されている。

シカゴ交響楽団といえば、この当時デッカでのショルティによる録音が多かったけれど、
こちらはオーケストラホールがデッドすぎるということで、
メデナテンプルやイリノイ大学のクレナートセンターを使っている。

ドイツ・グラモフォンの録音スタッフは、オーケストラホールの客席全面に板を敷きつめ、
音の反響をよくするとともに、PZM(Pressure Zone Microphone)を、
メインマイクの他にバルコニーの先端におくことで、全体のバランス、パースペクティヴを、
できるだけ自然な感じにするとともに、細部の明瞭度も保つための工夫がなされている。

そして、終楽章での鐘に、広島の「平和の鐘」が使われていることも話題になっていた。

とにかくアバドの「幻想」は、よく聴いた。いったい何度聴いたのだろうか。

Date: 1月 21st, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その2)

KAJIMOTOのサイトに「マエストロ・クラウディオ・アバドの訃報に寄せて」に、
これまでのアバドの来日公演の記録がある。

1987年にウィーンフィルハーモニーと来たアバドは、
翌88年にヨーロッパ室内管弦楽団と来ている。

このときの話を黒田先生から聞いている。
ウィーンフィルハーモニーとの公演はチケットもすぐに売切れで、当日の会場も満員だった、とのこと。
ヨーロッパ室内管弦楽団との公演においては、空席のほうが多かった、そうだ。

この話をされているとき、黒田先生の表情には怒りがあったように感じていた。

私はどちらの公演にも行っていないけれど、
黒田先生によればヨーロッパ室内管弦楽団との公演も素晴らしかったらしい。

素晴らしい、と同じ言葉で表現しても、
ウィーンフィルハーモニーとの素晴らしいとヨーロッパ室内管弦楽団との素晴らしい、とには、
共通する素晴らしさもあればそうでない素晴らしさもある。
比較するようなことではない。

その素晴らしいヨーロッパ室内管弦楽団の公演に空席が目立っていたことに、
コンサートのチケットを購入する人たちが、何を目安にしているのか。
そのことに怒りを持たれていたようだった。

いまではどうなんだろう、アバドの知名度はクラシックに関心のない人でも知っているのだろうか。
カラヤンの名前は、いわば誰でも知っている。
聴いたことがなくても、カラヤンの名前だけは知っている人はいても、
アバドとなると、当時はどうだったのか。

ウィーンフィルハーモニーの名前も、
クラシックに関心のない人にとっては、カラヤンの名前と同じなのだろう。

1980年代、そういう人たちにとってカラヤンとアバドの知名度、
ウィーンフィルハーモニーとヨーロッパ室内管弦楽団の知名度の差だけで、
チケットの売行きに差が大きく出ただけのことで、
そこでの演奏が劣っているわけではなかった。

だが現実にはヨーロッパ室内管弦楽団とアバドの公演では空席が多かった。

このことを思い出していた。
そして黒田先生なら、アバドのことをどう書かれるんだろう……、とおもっていた。

Date: 1月 21st, 2014
Cate: Claudio Abbado

アバドのこと(その1)

昨日の午後から、facebookとtwitterに表示されていたのは、アバドが亡くなったことだった。

バーンスタインが亡くなったことをテレビのニュースで知った時、
それは膝の骨折のリハビリで通っていた病院のテレビだったのだが、ほんとうにショックだった。
バーンスタインで聴きたい(録音してほしい)曲がいくつもあった。

ジュリーニが亡くなったこともショックだった。
すでに引退していたとはいえ、喪失感は大きかった。

アバドが亡くなったことをfacebookやtwitterといったSNSで知ると、
亡くなったという事実に、フォローしている人がどう感じているのかも、一緒に知ることになる。

テレビ、ラジオ、新聞などで人の死を知ることと、ここが微妙なところで違っていると感じる。

アバド、亡くなったんだ……。
大きなショックはなかった。

アバドは多くの録音を残している。
すべてを聴いてきたわけではないし、これから先すべてを聴いていこうとは思っていないけれど、
以前書いたようにベートーヴェンの第三交響曲でのこともあるし、
ステレオサウンドの試聴室で何度も聴いたマーラーの第一交響曲が、頭に浮ぶ。

これだけではない。シカゴ交響楽団とのマーラーは、いま聴いても輝きを失っていない。
シューベルトのミサ曲は、CDを買ったばかりの菅野先生のリスニングルームで聴いている。

ポリーニとのバルトークのピアノ協奏曲の再生にある時期夢中になったこともある。
ベルクの「ヴォツェック」は、それまでベームの、世評の高い演奏を聴いてもピンと来なかったけれど、
アバドの演奏(CD)で聴いて、この曲のおもしろさと美しさを感じることができた。

まだまだあるけれど、すべてを書こうとは思っていない。
これからもアバドのディスクは聴きつづけていくのが、ある。

バーンスタインの時と私にとって違うのは、
アバドに、これを録音してほしい、という個人的な思い入れがなかった、というだけである。
なぜなんだろう、とぼんやり思っていた。

それに黒田先生はなんと書かれるんだろう、ともおもっていた。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: Glenn Gould

9月25日(その1)

9月25日は、グレン・グールドの誕生日である。

グレン・グールドが生きていれば81歳になるわけだが、
グールドの81歳の姿は想像できない。
70歳の姿も想像できない。

60歳の姿も想像し難い。

それは黒田先生が「音楽への礼状」で書かれていることと同じ理由である。
     *
 これは彼の悪戯にちがいない。
 あなたの急逝を知らせる新聞の記事を目にしたときに、まず、そう思いました。困ったもんだ、新聞までかつがれてしまって。あまりに急なことだったので、まさかという思いがありましたし、それに、いかになんでも、あなたは、亡くなるには、若すぎた。それだけではありません。そのとき、ぼくの頭を「グレン・グールド・ファンタジー」のことがかすめました。
 あの「グレン・グールド・ファンタジー」のような悪戯をぬけぬけとやってのけたあなたのことですから、周囲のひとたちすべてをだまして自分が死んだことにするぐらい、朝飯前でしょう。彼は、きっと、十年ほど姿を消していて、その間に、ベートーヴェンの録音しのこしたソナタとか、ぼくらがまさかと思っているショパンやシューマンの作品とか、あるいは新作のピアノ曲とか、あれこれレコーディングしておいて、突如、「グレン・グールドの冥土からの土産」などとタイトルのつけられたアルバムを発表するにちがいない。ぼくは、ひとりひそかに、そう確信していました。
 あなたが亡くなったのは一九八二年ですから、ぼくはまだあなたのよみがえりに対して希望を捨ててはいませんが、しかし、あなたの二度目の「ゴルトベルク変奏曲」のディスクにのっていた写真をみて、ぼくの確信は、ぐらっとよろけました。もし、あの椅子に腰かけているあなたの写真をみてから、あなたの訃報にふれたのであったら、ぼくは、あなたが悪戯で姿を消したなどとは考えなかったにちがいありません。あの写真は暗い予感を感じさせる、ぼくにとってはつらい写真でした。
     *
ゴールドベルグ変奏曲のジャケットのグールドの顔、なによりもその目は、そう思わせる。
ジャケットの撮影が行われたのは50歳の誕生日を迎える前だろうから、
まだグールド49歳のときのものであるはず。

にも関わらず、こういう目をグールドはしていた。
こういう目をしている者が、70、80歳まで生きていられるとは思えない。

Date: 8月 2nd, 2013
Cate: Edward Benjamin Britten

BRITTEN THE PERFORMER(その4)

“BRITTEN THE PERFORMER”のCD BOXを購入し聴いた人のすべてが、
「美しい演奏」と感じるかどうかは、なんともいえない。

どこが美しいのか、どこがいいのか、さっぱりわからない、と感じてしまう人もいよう。

反感をもたれることはわかっているけれど、
ベンジャミン・ブリテンのモーツァルトを「美しい演奏」と感じさせない音は、
どこかが間違っている。

音楽として正しい音で鳴っていれば、
オーディオ機器のグレードにはさほど関係なく(まったく関係ない、とはいえないけれど)、
「美しい演奏」と感じることができる。

どんなに高価で、世評の高いオーディオ機器を揃え、
セッティング、チューニングに手抜きすることなく、
オーディオ仲間に聴いてもらっても、皆が素晴らしい音だといってくれる音であっても、
ブリテンのモーツァルトを「美しい演奏」ではなく、美演にしてしまったり、
「美しい演奏」とは感じさせないのであれば、
そのシステムから鳴っている音は、「美しい音」ではない。

川崎先生が数日前、facebookに書かれていた。
《「正しいかどうかは、美しいかどうか」の自問自答で判断が可能だと、プラトンは言っていた。》

「正しいかどうかは、美しいかどうか」の自問自答で判断が可能であっても、
美しいかどうかは、どうやって判断するのか、と問う人はいる。

結局「美しいかどうかは、正しいかどうか」の自問自答で判断するしかない、
と私はおもっている。

答になっていないじゃないか──、
そういわれようが、「正しいかどうかは、美しいかどうか」の自問自答で、
「美しいかどうかは、正しいかどうか」の自問自答で判断していくものだ。

ベンジャミン・ブリテンの演奏は、だから正しい。