オーディオマニアとしての「純度」(カザルスを聴いておもうこと)
今年は、コロナ禍が始まった春から、
カザルスの演奏をよく聴くようになった。
チェリストとしてのカザルスも聴いた。
指揮者としてのカザルスは、もっと聴いている。
カザルスのモーツァルトにしてもベートーヴェンの交響曲にしても、
燃焼するとは、こういうことなのか、と思わざるをえない。
燃焼こそ純度だ、と思いたくなる。
今年は、コロナ禍が始まった春から、
カザルスの演奏をよく聴くようになった。
チェリストとしてのカザルスも聴いた。
指揮者としてのカザルスは、もっと聴いている。
カザルスのモーツァルトにしてもベートーヴェンの交響曲にしても、
燃焼するとは、こういうことなのか、と思わざるをえない。
燃焼こそ純度だ、と思いたくなる。
「オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、という聖域)」、
「オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、でいる聖域)」を、2018年11月に書いた。
書いた時から、あと一本、同様のタイトルで書こう、と考えていた。
一年半ほどかけて、このタイトルにした。
タイトルを決めてから、内容を考えているところでもある。
無理矢理という感も拭えないかも……、と自分でも思いながらも書いているのは、なぜだろう。
わがまま、になる聖域とは、どこなのか、なんなのか。
オーディオマニアなのだから、即座に己のリスニングルームという答が浮ぶ。
続けて、私にとっては、この場(ブログ)もそうだ、と思う。
不特定多数の人に向けての場をわざわざつくって、そこで書くということには、
覚悟が必要だ。
なんと大袈裟なと思う人もいるだろう。
ブログなんて日記のようなものだから、気軽に好きなことを書いていけばいいんだから、と。
そういう捉え方もあっていいけれど、私の捉え方は違う。
周りの目を気にしながら、
相手の機嫌を伺うようにして書いていくつもりはさらさらないわけで、
人によっては、好き勝手なことばかり書きやがって、と思うかもしれない。
好き勝手なことを書いて、誰かに嫌われる。
そのことに傷つき嘆く──、
そんな人は「ぼく(私)、ナイーヴですから」といっていればいい。
それも、どこか自慢気にいっていればいい。
覚悟なしに書いているのだから。
そんな人はこれから先もずっと自分のヘソだけを見つめていればいい。
「ぼく(私)、ナイーヴですから」と、なぜか自慢気にいう人たちがいる。
私は繊細だから傷つきやすい、とでもいいたいのだろう。
けれどナイーヴ(naive)とセンシティヴ(sensitive)とは違う。
繊細とは、ナイーヴではなくセンシティヴのほうである。
繊細であるためには、強くなくてはならない。
「ぼく、ナイーヴですから」といっているようでは、
繊細でいるための強さにはほど遠い。
別項で「オーディオ入門・考(いつまでも初心者なのか)」を書いている。
ほんとうの意味での初心者は嫌いではない。
どんな人にでも、初心者のときはある。
けれど、どんなにキャリアを積んでも、「私は初心者ですから」という人が、
はっきりいって嫌いである。大嫌い、といってもいい。
そんな人は、どんなにオーディオを長いことやっていても、
聖域を築けなかった(持てなかった)のだから。
手塚治虫はいじめられっ子だったことは知られている。
手塚治虫が子供のころには、戦争もあった。
手塚治虫記念館に行けば、小さいころからマンガを描いていたことを、
しっかりと見せつけられる。
そういうことは、一通りは文字情報だけで知ってはいた。
知ってはいた、と、そのころの手塚治虫が描いたものを目にするのとでは、
受けることは大きく違ってくるし、そうしないと気づかないことがあることもわかる。
手塚治虫にとってマンガとは、手塚治虫自身の居場所だったんだ、と気づく。
その居場所は、手塚治虫にとって聖域であったのかもしれない、とおもう。
そして正直の純度を高めていくことだ、と実感できた。
未熟なものを新鮮と感じるほど、バカではない。
オーディオマニアとして熟度が足りない人を、
オーディオマニアとして純度が高い人と勘違いしたりもしない。
「オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、ということ)」、
「オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、でいること)」を三年前に書いた。
オーディオマニアとしての資質で大事なのは、大切にしなければならないことは、「わがまま」だと思っている。
この二本を書いた三年前よりも、強くそう思っている。
もっともっとわがままになろう、と思っている。
オーディオマニアとしてわがままでいること、貫き通すということは、
好き勝手なことをやることではない。
苦手なこと、嫌いなことを避けて通ることでもない。
オーディオを趣味としている人の中に、
「私は文系だから……」、「機械オンチですから……」、こういった言い訳をする人がいる。
文系だからオーディオマニアに向いていない、とか、
機械オンチの人はオーディオを趣味としないほうがいい──、
そんな低次元のことではない。
理系だからオーディオが得意なわけではない(そう思い込んでいる人もいるけれど)。
オーディオマニアとして「純度」をわがままとする私は、
わがままでいるということは、そんな言い訳をしないことだと考えている。
わがままでいるよりも、わがままをやめたほうが楽なはずだ。
より硬度のあるものを磨くには、さらに硬度のあるもので磨かなければならない。
ダイアモンド以外の物質はダイアモンドよりも硬度が低いから、ダイアモンドで磨くことができる。
けれどダイアモンドを磨くには、地球上にはダイアモンドよりも硬度のある物質は存在しないから、
ダイアモンドで磨くしかない。
こんなことを書いていて思い出していたのは、
五味先生の「喪神」である。
「オーディオと人生」の中に書かれてあることを思い出していた。
*
『喪神』のモチーフになったのは、西田幾太郎氏の哲学用語を借りれば、純粋経験ということになるだろうか。ピアニストが楽譜を見た瞬間にキイを叩く、この間の速度というのは非常に早いはずである。習練すればするほどこの速度は増してゆき、ついには楽譜を見るのとキイを叩くのが同時になってしまう。経験が積み重なってゆくと、こういう状態になる。それを純粋経験という。
ルビンスティンもグールドも純粋経験でピアノを叩いている。それでいて、あんなに演奏がちがうのはなぜか。そこに前々から疑問を抱いていた。純粋経験というのは、意志が働く以前のところで処理されているはずなのに、と。そのときふと思ったのは、これは戦場で考えつづけていたことだが、人を斬ったらどういう感じがするだろうか、ということだった。
一方、私はキリスト教神学を学んだときのことを思いあわせた。キリスト教が、我々人間に禁じている唯一のものは、自殺である。なぜそれがいけないか。誰にでもできるからにちがいない。私は、かつて貧乏のどん底にいて、俺にいますぐできることはなんだろうか、と考えたことがある。そのとき即座に頭に浮んだのが、自殺だった。名古屋へ行きたいと思っても旅費がない。徒歩で行くとしても、その間の食料を考えなくてはならない。パチンコをはじいてみても、玉はこちらの思うとおりにころがってはくれない。つまり世の中で、貧乏のどん底にいる人の自由になるものは何もない。しかし死のうと思えば、いつでも、誰でも人は自殺することだけはできる。それでキリスト教は自殺を禁じたのだろうと考えていた。そこで、自殺のできない男をいうものを想いえがいた。
わが身を護るために、人を斬ってきた男が、やがて純粋経験で人を斬るようになる。これはもう、己の意思で斬るのではないから寝ているときに背後から襲われても、顔にとまった蝿を無意識に払いのける調子で、迫った刃を防禦本能でかわし、反射的に相手を仆してしまう。しかも本人は仆したことさえ気がつかない。ここに私は目をつけた。どんな強敵が襲いかかってきても、相手を倒すことのできる男、そこまで習練を積んだ男が、もし、おのれに愛想をつかして、自殺を思い立ったら、どうしたらよいか。自分の腹に短刀を当てようとした瞬間、純粋経験が働いて、夢遊病者のように短刀を抛り出してしまうだろう。そのことを自分で気がつかずにいるだろう。そんな男が死ぬには、どうすればよいか。自分を殺せるだけの人間を、もう一人造りあげて、その男に斬らせるよりほかない。このシュチュエーションを一人の剣豪に托して描いたのが『喪神』であった。チャンバラ小説のように大方には見られたようだが、作者の私としては、あくまで自殺をあつかったので、小説の結末の場面を〝西風の見たもの〟をきいていて、思いついたのである。念のために言っておくと、この時のスピーカーはグッドマンの十二吋、6L6の真空管をつかったアンプに、カートリッジはGEのものだ。カサドジュの演奏だった。
*
純粋経験で人を斬るようになった男は、いわばダイアモンドである。
この男が死ぬには、
つまり自殺するには、自分を殺せるだけの人間(もうひとつのダイアモンド)を造りあげなければならない。
ということは「喪神」で五味先生が扱った男は、もっとも純化した男なのか。
それが純化の果てなのか……。
オーディオマニアとして「純化」と「喪神」が重なってきた。
ダイアモンドがそうであるように、高い硬度があるから磨かれる。
磨かれることで表面を、きわめて滑らかにすることができる。
レコード針がそうである。
竹針は柔らかい。
柔らかい素材を磨いていっても、ダイアモンドのような滑らかさは得られない。
レコード針として、
アクースティック蓄音器では鉄針よりも竹針が使われていた。
高価であったSP盤を傷つけないためにも、柔らかい針(竹針)のようがいいだろうということでもあった。
だが音質的なことを抜きにすれば、竹針の表面は磨いたところで、けば立っている。
もしかするとよく研磨され、表面がきわめて滑らかな鉄針であったら、
竹針よりもSP盤を傷つけることはなかったのではないか。
そうであるならば竹針よりも鉄針、鉄針よりもダイアモンド針ということになる。
オーディオマニアとしての「純度」に硬度が必要だとしたら、
オーディオマニアとしての「純度」とは磨かれていくものなのか。
磨いていくには、磨かれるものよりも硬度の高いものが必要となる。
その意味でも、硬度が必要なのかもしれない。
恥という漢字は、耳に心と書く。
なぜなのか。
辞書をひくと、耳はやわらかい耳、つまり耳たぶのことで、
恥は心が柔らかくいじけること、とある。
やはりオーディオマニアとしての「純度」には硬度が必要なのか。
硬度と書いて気づいたことがある。
水のことだ。
スーパーに行けば、いろいろなミネラルウォーターが並んでいる。
日本のミネラルウォーターだけでなく、世界各国のミネラルウォーターが並んでいる。
どのミネラルウォーターにも硬度が表示されている。
一般的に日本の水の硬度は低い。
いわゆる軟水である。
フランスの水は硬度が高い。硬水である。
エビアンも日本の水よりも硬いけれど、
ヴィッテルはもっと硬いし、コントレックスはさらに硬い。
ミネラル成分の違いによって、水の硬度が違ってくる。
ということは、いわゆる純水は不純物(ミネラルも不純物である)を含まないのだから、
日本のミネラルウォーターよりも、もっと軟水ということになるのだろうか。
だとすれば、水に関しては純度が高くなればなるほど硬度は低くなる。
水の純度とオーディオマニアとしての「純度」は同じには語れないことはわかっている。
それでも純度と硬度の関係について考えていると、
ミネラルにあたるものはなんなのか、となる。
(その1)の冒頭に書いているように、
書きたい内容があって書き始めたわけではない。
オーディオマニアとしての「純度」というタイトルが思い浮んで書き始めた。
それだけに、ここから先、どんなことを書いていくのかまだ見えてきていない。
それでもオーディオマニアとしての「純度」とは、
どこまでオーディオマニアとしてのわがままを貫き通せるかどうかではないだろうか。
そして、この「純度」とは、オーディオマニアに共通するものなのか、
共通する何かがあるものだろうか、
オーディオマニアひとりひとりまったく違うものなのか。
オーディオを趣味として長くやっているから、
オーディオマニアとしての「純度」が高いということになるのだろうか。
オーディオマニアとしての「純度」が高いとは、そもそもどういうことなのか。
音は人なりというのだから、
オーディオマニアとしての「純度」が高くなれば、純度の高い音を鳴らしているのか。
純度の高い音は透明度の高い音とイコールではないはず。
純潔という言葉がある。
純潔なオーディオマニアとはどういうことなのか。
ただひとつのスピーカーだけ、他のスピーカーにはまったく関心をもたずに、
そのスピーカー一筋で鳴らしてきた人を純潔なオーディオマニアと呼べるのか。
呼べるとしたら、その人はオーディオマニアとしての「純度」が高いのか──、
私にはそうは思えない。
オーディオマニアとしての「純度」とは、なんなのか。
「わがまま」なのだろうか。
純度が増すということは硬度が増すということでもある。
ならばオーディオマニアとしての「硬度」が増すということは、
やはり「わがまま」ということなのか、硬度があるから「わがまま」を貫き通せるのか。
オーディオマニアを揶揄するのに、絶対音感がないのに……、というのがある。
そう多くみかけるわけではないが、これまでに数度目にしたことがある。
これを言う人は楽器を演奏する人で、絶対音感を持っている人であった。
オーディオで音を追求する上で、絶対音感はあればあったほうがいいくらいにしか、私は思っていない。
それよりも必要なのは、絶対音色感だと思っている。
この絶対音色感、あるミュージシャンが言っていたのを、何かでみかけた。
この人も絶対音感は持っていない、ということだった。
けれど、絶対音感を持っている人以上に、自分は絶対音色感を持っている、と。
絶対音感と絶対音色感。
どちらも高いレベルでもっているのがいいのはわかっているが、
どちらかひとつということになれば、絶対音色感であろう。
それほどに音色は重要であり、ここで言っている音色は、オーディオ機器固有の音色も含まれるが、
それ以上に重要なのは楽器の音色である。
いつごろからか「音色より音場」といわれるようになってきた。
音色を大事にする聴き方は、いかにも古い聴き方であるかのようにいう人がいる。
オーディオ機器固有の音色だけの話であれば、同意できなくはないが、
楽器の音色となると、「音色より音場」に同意できない、というより、
理屈としておかしいことに気がつかないのか、と返したくなる。
そのころブラームスの交響曲第四番をよく聴いていた。
だからワルターのデジタルリマスターのLPも、ブラームスの四番を買った。
五味先生、瀬川先生の書かれたものを読んできた私にとって、
クラシックのLP=輸入盤ということになる。
国内盤は海外盤が廃盤になっているもの以外は買わないことにしていた。
買わない、ということは、クラシックのLPとして認めていない、ということに近かった。
そのくらい国内盤の音と輸入盤の音は、当時違っていた。
楽器の音色が特に違う。ここで失われた「音色」は、ほとんどとり戻せないことはわかっているから、
輸入盤にこだわっていた。
そういえば、と、トリオの会長であった中野氏の著書「音楽・オーディオ・人びと」に出てくる話を思い出す。
*
デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
*
デュ・プレの国内盤は聴いたことがない。
聴こうとも思っていない。
でも、よくわかる。
デュ・プレのエルガーの協奏曲を聴いたことがある人ならば、
EMIの英国盤できいたことがあるならば。
日本では、昔から、余計なことをするな、余分なものを加えるな、というのが、
オーディオにおけるピュアリストアプローチだったような気がする。
たとえばアナログディスクの製作過程においても、
マスターテープのままカッティングしろ、というのが以前からある。
カッティング時に音をいじるのはけしからん、というやつである。
これはCDが登場してからも同じである。
何もいじらずにマスターテープのままCDにしろ、と主張する人たちがいる。
いまCDの規格(16ビット、44.1kHz)よりもハイビット、ハイサンプリングのソースが増えはじめている。
ハイレゾと呼ばれている。
ここでも、せっかくの器の大きな規格なのだから、
その良さを最大限に活かすためにも何もいじるな、という人たちが表れている。
そういう人たちからすれば、アナログ録音のものをアナログディスクにする際に、
デジタルリマスターするなど、もってのほかとなる。
CDが登場してから、CD化のためにデジタルリマスターが行なわれるものがあった。
そのデジタルリマスターをアナログディスクのマスターとして使ったレコードが出ていた。
CBSソニーから出ていたブルーノ・ワルターえコロムビア交響楽団がそうだった。
頭だけで考えれば、アナログ録音をアナログディスクで供給するのに、
途中でデジタル処理(デジタル機器)を通すのは、音を悪くするだけのことにしか思えない。
それでも買って聴いてみた。
ステレオサウンド 74号の拍子はチェロのAudio Paletteである。
プロトタイプの撮影だった。
74号には、チェロを興したマーク・レヴィンソンのインタヴュー記事が載っている。
レヴィンソンはMLAS(マークレビンソン)時代のアプローチ、
つまりモノーラル構成のコントロールアンプで、入力セレクターとレベルコントロールだけのML6、
消費電力が片チャンネルで400Wながら出力25WのAクラス・パワーアンプのML2を、
非常にピュアリストのオーディオマニアのための製品、と呼んでいる。
確かにそうだった。
これらのアンプに憧れた時期が私にもあった。
そして、これがピュアリストのオーディオマニアのためのモノだと思い込んでいた。
けれど、Audio Paletteは6バンドのイコライザーである。
Audio Paletteがなくとも音は再生できる。
いわばピュアリストのオーディオマニアからみれば、非常に高価な不要物ということになる。
けれどレヴィンソンは「ピュアリストアプローチを忘れたわけではない」ともいっている。
ML6、ML2を開発したのもピュアリストアプローチからであって、
Audio Paletteを開発したのもAudio Paletteからである。
矛盾ではないか、詭弁ではないか、と思われるかもしれない。
だがピュアリストアプローチとは、いったいどういうことなのか。