オーディオマニアとしての「純度」(その16)
より硬度のあるものを磨くには、さらに硬度のあるもので磨かなければならない。
ダイアモンド以外の物質はダイアモンドよりも硬度が低いから、ダイアモンドで磨くことができる。
けれどダイアモンドを磨くには、地球上にはダイアモンドよりも硬度のある物質は存在しないから、
ダイアモンドで磨くしかない。
こんなことを書いていて思い出していたのは、
五味先生の「喪神」である。
「オーディオと人生」の中に書かれてあることを思い出していた。
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『喪神』のモチーフになったのは、西田幾太郎氏の哲学用語を借りれば、純粋経験ということになるだろうか。ピアニストが楽譜を見た瞬間にキイを叩く、この間の速度というのは非常に早いはずである。習練すればするほどこの速度は増してゆき、ついには楽譜を見るのとキイを叩くのが同時になってしまう。経験が積み重なってゆくと、こういう状態になる。それを純粋経験という。
ルビンスティンもグールドも純粋経験でピアノを叩いている。それでいて、あんなに演奏がちがうのはなぜか。そこに前々から疑問を抱いていた。純粋経験というのは、意志が働く以前のところで処理されているはずなのに、と。そのときふと思ったのは、これは戦場で考えつづけていたことだが、人を斬ったらどういう感じがするだろうか、ということだった。
一方、私はキリスト教神学を学んだときのことを思いあわせた。キリスト教が、我々人間に禁じている唯一のものは、自殺である。なぜそれがいけないか。誰にでもできるからにちがいない。私は、かつて貧乏のどん底にいて、俺にいますぐできることはなんだろうか、と考えたことがある。そのとき即座に頭に浮んだのが、自殺だった。名古屋へ行きたいと思っても旅費がない。徒歩で行くとしても、その間の食料を考えなくてはならない。パチンコをはじいてみても、玉はこちらの思うとおりにころがってはくれない。つまり世の中で、貧乏のどん底にいる人の自由になるものは何もない。しかし死のうと思えば、いつでも、誰でも人は自殺することだけはできる。それでキリスト教は自殺を禁じたのだろうと考えていた。そこで、自殺のできない男をいうものを想いえがいた。
わが身を護るために、人を斬ってきた男が、やがて純粋経験で人を斬るようになる。これはもう、己の意思で斬るのではないから寝ているときに背後から襲われても、顔にとまった蝿を無意識に払いのける調子で、迫った刃を防禦本能でかわし、反射的に相手を仆してしまう。しかも本人は仆したことさえ気がつかない。ここに私は目をつけた。どんな強敵が襲いかかってきても、相手を倒すことのできる男、そこまで習練を積んだ男が、もし、おのれに愛想をつかして、自殺を思い立ったら、どうしたらよいか。自分の腹に短刀を当てようとした瞬間、純粋経験が働いて、夢遊病者のように短刀を抛り出してしまうだろう。そのことを自分で気がつかずにいるだろう。そんな男が死ぬには、どうすればよいか。自分を殺せるだけの人間を、もう一人造りあげて、その男に斬らせるよりほかない。このシュチュエーションを一人の剣豪に托して描いたのが『喪神』であった。チャンバラ小説のように大方には見られたようだが、作者の私としては、あくまで自殺をあつかったので、小説の結末の場面を〝西風の見たもの〟をきいていて、思いついたのである。念のために言っておくと、この時のスピーカーはグッドマンの十二吋、6L6の真空管をつかったアンプに、カートリッジはGEのものだ。カサドジュの演奏だった。
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純粋経験で人を斬るようになった男は、いわばダイアモンドである。
この男が死ぬには、
つまり自殺するには、自分を殺せるだけの人間(もうひとつのダイアモンド)を造りあげなければならない。
ということは「喪神」で五味先生が扱った男は、もっとも純化した男なのか。
それが純化の果てなのか……。
オーディオマニアとして「純化」と「喪神」が重なってきた。