私的イコライザー考(音の純度とピュアリストアプローチ・その3)
そのころブラームスの交響曲第四番をよく聴いていた。
だからワルターのデジタルリマスターのLPも、ブラームスの四番を買った。
五味先生、瀬川先生の書かれたものを読んできた私にとって、
クラシックのLP=輸入盤ということになる。
国内盤は海外盤が廃盤になっているもの以外は買わないことにしていた。
買わない、ということは、クラシックのLPとして認めていない、ということに近かった。
そのくらい国内盤の音と輸入盤の音は、当時違っていた。
楽器の音色が特に違う。ここで失われた「音色」は、ほとんどとり戻せないことはわかっているから、
輸入盤にこだわっていた。
そういえば、と、トリオの会長であった中野氏の著書「音楽・オーディオ・人びと」に出てくる話を思い出す。
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デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
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デュ・プレの国内盤は聴いたことがない。
聴こうとも思っていない。
でも、よくわかる。
デュ・プレのエルガーの協奏曲を聴いたことがある人ならば、
EMIの英国盤できいたことがあるならば。