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Date: 7月 25th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×二十八・原音→げんおん→減音)

オーディオの理想が現実となるとき、
いまわれわれが接しているオーディオというシステムとは、まったく異るシステムになっている可能性もある。

スピーカーは、そういう変化の中で、もっとも大きく変化をとげる、というよりも、
発音原理そのものから変ってしまうのかもしれない。

そういえばステレオサウンド 50号には、
長島先生が小説仕立てで「2016年オーディオの旅」という記事を書かれている。
50号が出たのは1979年3月。そのころは2016年はずっとずっと先のことだと思って読んでいた。

まだCDは登場していなかったけれど、各社からデジタルディスクの試作機は登場していて、
50号にも岡先生が記事を書かれている。
「2016年オーディオの旅」でもプログラムソースは、
すでにテープもディスクも存在せずに固体メモリーになっている、という予測をされている。

長島先生のスピーカーの予測は、個人的には面白く興味深いものだった。
空気を磁化する方法が発見され、スピーカーから振動板がなくなっている。
音響変換効率90%で、50mWの入力で100dB以上の音圧が得られる、というもの。

あのころ、夢物語として読んでいた、この記事の2016年まで、あと4年にまで近づいている。
おそらく4年後も、スピーカーから振動板がなくなっていることは、まずない、と予測できる。
スピーカーの能率も低いままだろう。

でも、いつの日か(私が生きているうちなのかどうかはなんともいえないけれど)、
きっと、長島先生が夢見られ予測された日がきっと訪れることだろう。

そこまで到達できれば、「索漠とした味気ない世界」なのかもしれない、オーディオの理想へと、
そうとうに近づくことだろう。
そして、さらに進歩することで、ほんとうに完璧なオーディオが登場することだろう。

この長島先生の記事を読んでいたからこそ、
ステレオサウンド 52号の瀬川先生の特集の巻頭言を読んだ際に、よけいに考えてしまったわけである。

Date: 7月 24th, 2012
Cate: ユニバーサルウーファー

スーパーウーファーについて(続×五・低音再生とは)

20Hzの低音は1秒間に20回の振幅をくりかえす、
20kHzの高音は1秒間に20000回の振幅をくりかえす。

つまり20Hzに対して20kHzは1000倍の振幅回数であり、その1波長に必要な時間は1/20000秒であり、
20Hzの1波長に必要な時間は1/20秒である、ということだ。

つまり波長が長いということは、
その1波長がスピーカーから出てくるまでにそれだけの時間がかかるということでもある。
20Hzの低音の1波長がスピーカーから放射される時間(1/20秒)あれば、
20kHzの音は、じつに1000波長放射できる。

つまり低音は高音に比べて、遅い。
もちろん音速は、どんな周波数においても同じであるのはいうまでもない。
だからこそ、低音は高音よりも遅い、ということになるわけだ。

20Hzと20kHzの比較は、それほどプログラムソースに含まれているわけでもないし、
20kHzの音といえば、楽器の基音ではなく、倍音、それも高次倍音やノイズてあったりする。
20Hzの基音も、実際にはそう多くはないだろう。

だから下は40Hz、上は基音の最高音域として、4kHzぐらいまでとしても、
40Hzは1/40秒、4kHzでは1/4000秒、それぞれ1波長が放射されるまでに必要とする時間である。
20Hzと20kHzの比較の1/10になったとはいえ、
低音が成り立つ時間がどのくらい必要か、ということでいえば、低音が遅いことには変りはない。

ただこれはあくまでもサインウェーヴの話であって、
実際の音楽の信号がスピーカーに加わり振動板が動き空気の振動へと変換されるときは、
実際にどうなのかは、正直、いまところうまく説明できない。

それでもオーケストラにおいて低音楽器の扱いは、
ほんのわずか、このタイムラグをうまく合わせるために早めに演奏するように指示できるのが一流の指揮者であり、
一流のオーケストラである、ということは昔からいわれている。

またマイルス・デイヴィスも、同じことを語っている、とジャズ好きの知人からきいたことがある。

あとピアノがある。
フェルトハンマーがミュージックワイヤーと呼ばれる鋼線(弦)を叩くことで音を発するわけだが、
低音域と高音域とでは弦の長さは異る。低音域は長い。しかも質量を増すために銅線を巻きつけてある。
この長くて重い低音域の弦と、短くて軽い高音域の弦が同時にハンマーで叩かれたとして、
それぞれの弦の振動の振幅が最大になる(つまり最大音量になる)のにかかる時間は、
低音域の弦のほうが、それはわずかであっても長い。

やはり、低音は遅い、といえよう。
そして、低音が音楽のベースになる。

Date: 7月 23rd, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×二十七・原音→げんおん→減音)

減音なんていう言葉をつくって、そのことについてまだ書いている。
この減音ということばを思いついたのは今年になってからだが、
この減音ということを考えるきっかけとなったことはなんだろう、とふりかえってみると、
それはひとつではなくいくつかのことが思い出されてくる。

そのひとつは、瀬川先生がステレオサウンド 52号の特集の巻頭言の最後のほうに書かれていることに関係している。
     *
しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがないなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
     *
ステレオサウンド 52号はアンプの特集号だから、アンプの理想像(それも極端な)について書かれているわけだが、
これがオーディオの再生系そのものだとしたら、どうなるだろうか、
と読み終ってしばらくしてのちに考えたことがある。

アンプだけではない、カートリッジもターンテーブルも、それにスピーカーも、さらにはケーブルにいたるまで、
完璧なものが世に登場したとする。
もちろん、再生系がそうなる前に、完璧な録音がなされて、その完璧なまま家庭に届けられる、という前提だ。

つまり録音の現場で鳴っていたものすべてを、家庭でそのままに再現できるようになった、とする。
部屋による再生音への影響もすべて取り除ける技術が開発されて、
同じプログラムソースであれば、どんな部屋でもまったく同じに再生される時代が来た──。

そうなってしまったら、それはオーディオの、果して理想が実現した、ということなのか、と考えたわけだ。

それは、瀬川先生がすでにステレオサウンド 52号に書かれているように、
「索漠とした味気ない世界」でもあるように思えてしまう。

オーディオの録音系も再生系も、いまとはまったく違う形態に行き着き、
音楽の聴き手は何の苦労もすることなく、いまの時代では想像できないほどのクォリティで音楽が鳴ってくる。

オーディオそのものに関心のない人にとって、それは素晴らしい、まさに理想のオーディオということになる。
けれど、いま、われわれが取り組んでいる趣味(ときにはその領域からも逸脱している)オーディオにとって、
そういう時代の到来は、やはり「索漠とした味気ない世界」でしかないのではなかろうか。

もし私が生きているあいだ、そういう時代になってしまったら、
オーディオマニアをやめるのか、それともオーディオマニアとして何をするのだろうか……、
いまから30年以上前に、そう考えたことが、いまここで長々と書き続けている「減音」につながっている。

Date: 7月 22nd, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(TVA1のこと)

マイケルソン&オースチンのTVA1という管球式のパワーアンプがある。
1979年に登場したイギリス生れの、KT88のプッシュプルで、70Wの出力をもつ。
シャーシーはクロームメッキが施されていることからも、
マッキントッシュのMC275の再来的なとらえ方もされていたアンプである。

TVA1の評価は、ステレオサウンドでも高かった。
MC275はすでに製造中止になってひさしかったから、
KT88のプッシュプルアンプとなると、
しかもステレオ仕様で70W程度の出力の得られるアンプとなると、TVA1しかなかった。

コントロールアンプは1年ほどおくれて登場したこともあって、
TVA1には他社製のコントロールアンプが組み合わされる。

瀬川先生はステレオサウンド 52号にも書かれているように、
アキュフェーズのC240を、TVA1にもっともよく合うコントロールアンプとして、その後も組合せで使われている。
マークレビンソンやその他のコントロールアンプとの組合せをいくつか試みても、
偶然にも最初にTVA1と組み合わせたC240が、
「水分をたっぷり含んで十分に熟した果実のような、香り高い」音を鳴らしてくれたわけだ。

菅野先生もTVA1への評価は高かった。
菅野先生はマッキントッシュのC29との組合せで、高く評価されている。

おそらく瀬川先生もC29との組合せを試みられたのではないか、と思っている。
ステレオサウンド 52号はアンプの特集号で、
その中にはマッキントッシュのC29とMC2205が登場しているし、
瀬川先生も特集の巻頭言「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」で、
C29、MC2205の組合せについてふれられている。

そこには「認識を新たにした」と書かれている。
すこし引用しておく。
     *
C28の時代のあのいくぶん反応の鈍さとひきかえに持っていた豊かさ、あるいはC32で鳴りはじめた絢爛豪華で享楽的なこってりした味わい。そうした明らかな個性の強さ、というよりアクの強さが、ほどほどに抑制されて、しかもおとに 繊細な味わいと、ひずみの十分に取り除かれた滑らかさが生かされはじめて、適度に鮮度の高くそして円満な美しさ、暖かさが感じられるようになってきた。
     *
C32はあまり高く評価されていなかったけれど、C29への評価はなかなかいい。
だからTVA1とC29の組合せも、おそらく試されたはず、と思ったわけだ。

試されていたと仮定しよう。
それでも瀬川先生は、好みからしてC240を選択されたわけで、
コントロールアンプの選択に菅野先生と瀬川先生の音の好みの違いがはっきりとあらわれていて興味深いのだが、
ここで私が思ったのは、それではマッキントッシュのC27は、どうなのだろうか、ということ。

C29、C27が登場する以前、つまりC28、C26時代、
瀬川先生はC28よりもC26を好ましい、とされていた。
ならばC29よりもC27を、より好ましい、と思われても不思議ではない。

井上先生はステレオサウンド 47号で、C27について、
「現代アンプの純度とは異なった、井戸水の自然さを感じさせる音だ」と書かれている。

こういう音こそTVA1の音の魅力を増してくれそうな気がする。
マッキントッシュC27とマイケルソン&オースチンTVA1の組合せ、
いますごく聴いてみたい組合せとなってしまった。

Date: 7月 21st, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×九・作業しながら思っていること)

測定データを、なによりも重視する人たちは、昔からいた。
試聴記よりも測定データを載せろ、という人たちである。

ずっと昔には、メーカーがカタログに載せている測定データにはいいかげんなものもあった、ときいている。
だから、その時代においてはオーディオ雑誌が測定データを載せる意味合いは大きかった。
それが基本的な項目、周波数特性、歪率、それに出力であっても、だ。

だがメーカーもいつまでもそんなことをやっていたわけではない。
ずいぶん以前から名のあるメーカーが発表するデータにいつわりはない、といえる。
そして各メーカーのデータにおける差も小さくなってきている。
測定データにおかしなところのあるオーディオ機器は(まったくない、とはいわないけれど)、ほとんどない。

そういう意味では、オーディオ雑誌がいま測定を行うには、
以前とは違う意味合いが求められるし、そこに難しさがあるわけだが、
それでも、ごく一部の人たちは測定データにまさるものはなし、とでもいいたげであって、
中には測定データに大きな差がないから、音の差はありえない、という不思議なことを言い出す。

すくなくとも1970年代には測定データにはあらわれない音の違いを、
耳は聴き取っていたことは当り前のことになっていた。
アンプを例にとれば、使用パーツの品種による音の違いケーブルによる音の違いなど、
そういったことがらによる、測定データにはあらわれないにも関わらず音は違ってくる。

トリオのKA7500とKA7300の測定データを比較しても、そう大きな差はないはず。
KA7300は電源トランスから左右チャンネルで独立させている分、
セパレーション特性ではKA7500よりも優れているだろうが、
あとの測定項目においては、KA7500とKA7300の音の違い──、
つまりKA7500の開発・設計担当者は恋に悩み、KA7300の開発・設計担当者は新婚ほやほやであったこと、
こういう違いは、これから先、どんなに測定技術が進歩したとしても測定データにあらわれることはない。

なのに、人の耳は、その違いを聴き分けることができる。
測定データ、測定データ、とあきることなくいい続けている人たちは、
KA7500とKA7300に関するエピソードを、どう受け止めるのだろうか。

オーディオの楽しみは広い。
だから測定データだけに捕らわれてしまうのも、オーディオのひとつの楽しみといえばそうなる。
それでも、ご本人たちが楽しければそれでいいのかもしれないし、
まわりがそういう楽しみ方に口をはさむべきではないにしても、
やはりオーディオは音楽を聴くために存在していることを忘れてはならない。

測定データをどんなに眺めても、音楽は鳴ってこない。

Date: 7月 21st, 2012
Cate: ユニバーサルウーファー

スーパーウーファーについて(続々続々・低音再生とは)

低音再生の難しさは、どこにあるのだろうか。

よくいわれることに低音は波長が長いから、ということがある。
音速を340mとした場合、20Hzの波長は340÷20だから17mにもなる。
40Hzでも8.5mという長さである。

これが周波数が高くなっていくと、100Hzでは3.4m、1kHzでは34cm、10kHzでは3.4cm、20kHzでは1.7cm。
20Hzと20kHzとでは、こんなにも違ってくる。

波長の長さは部屋の広さとは関係している、ともいわれている。
つまり20Hzの低音を完全に再生するには部屋の一辺が最低でも、半波長分(8.5m)は必要で、
できれば1波長分(17m)欲しい、ということになっている。

一辺が17mとれる部屋はそうとうに広い部屋で、
これだけの空間をオーディオのために用意できる人は、多くはない。

ただ、ほんとうに20Hzを再生するには最低でも半波長の一辺がとれる部屋が必要なのか、については、
たしかに20Hzのサインウェーヴを再現するには部屋の広さが深く関係してくるとは思っているが、
実際にわれわれがスピーカーから聴いているのは音楽であって、
音楽を構成している要素のひとつとしての低音再生となると、
必ずしも再生したい最低域の半波長(できれば1波長)の長さが要求されるわけではない、と思っている。

もちろん広い、十分な空間があればそれにこしたことはない。
けれど、それだけの広さがとれないからといって、低音再生をあきらめることはない、と思うのは、
そこまでの広さの部屋でなくとも、見事な低音を実現されている音を聴いてきた体験があるからだ。

低音は波長が長い。
このことが再生において重要になってくるのは、もうすこし違うところにある。
つまり低音が低音として鳴るためには、それだけの時間が必要だということである。

Date: 7月 20th, 2012
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その22)

グレン・グールドのピアノしか聴かない人がいる、という話は、
黒田先生の著書「音楽への礼状」のグールドの章のところに出てくる。

この、グールドについて書かれた章で、黒田先生は”A Glenn Gould Fantasy”について、ふれられている。
     *
戯れということになると、ぼくは、どうしても、『ザ・グレン・グールド・シルバー・ジュビリー・アルバム』の二枚目におさめられていた、あの「グレン・グールド・ファンタジー」のことを考えてしまいます。あの奇妙奇天烈(失礼!)なひとり芝居を録音しているときのあなたは、きっと、バッハの大作「ゴルドベルク変奏曲」をレコーディングしたときと同じように、真剣であったし、同時に、楽しんでおいでだったのではなかったでしょうか。もしかすると、あなたは、さまざまな人物を声で演じわけようと、声色をつかうことによって、子供っぽく、むきになっていたのかもしれません。
「グレン・グールド・ファンタジー」は、悪戯っ子グレンならではの作品です。ほんものの悪戯っ子は、「グレン・グールド・ファンタジー」のために変装して写真をとったときのあなたのように、真剣に戯れることができ、おまけに、自分で自分を茶化すことさえやってのけます。あなたには、遊ぶときの真剣さでピアノをひき、ピアノをひくときの戯れ心でひとり芝居を録音する余裕があった、と思います。そこがグレン・グールドならではのところといえるでしょうし、グールドさん、ぼくがあなたを好きなのも、あなたにそうそうところがあるからです。
     *
グレン・グールドのピアノしか聴かない人は、”A Glenn Gould Fantasy”は聴かない。
そうだとしたら、グールドしか聴かないグールドの聴き手には、真剣に戯れる余裕がないのかもしれない。

グレン・グールドのピアノしか聴かない──、
そう口にした人は、なぜわざわざ、こんなことをいってしまうのか。

グレン・グールドのピアノしか聴かない、ということで、
なにかをアピールしたいのだろうが、そのアピールしたいことは、
別の、グレン・グールドのピアノしか聴かない人にとって、
アピールしたいことはそのまま伝わり同意を得られるだろうが、
“A Glenn Gould Fantasy”を聴いて楽しみ、グルダのピアノも聴き、もちろんそれだけではない、
他のピアニストの演奏も聴いてきている人にとっては、
「グレン・グールドのピアノしか聴かない」によって、このことばを発した本人がアピールしたいことには、
同意はできないし、窮屈なものを感じてしまうのではないだろうか。

グレン・グールドのピアノしか聴かないことの窮屈さから、
「感情の自由」は追い出してしまうし、押し殺してしまうことにもなるのではないか。
そうやって、本人だけが気づかぬうちに、音楽の聴き手としての「感情の自由」をなくしてしまう。

Date: 7月 19th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その3)

「いまさらねぇ……」
これを口にするは、別に難しいことでもなんでもない。
誰でも、いおうと思えばいえる。

「いまさらLNP2ねぇ……」「いまさら4343ねぇ……」、
そんなことは懐古趣味だとばかりに短絡的判断を下す人がいる。
そう思いたければ、ずっとそう思っていればいい。

私だって、「いまさらLNP2ねぇ……」「いまさら4343ねぇ……」と誰かにいったりはしなかったものの、
私は私自身に対して、そんなことをつぶやいていた時期がある。

「いまさらねぇ……」を口にする人の中には、
LNP2や4343を実際に使ってきた人、憧れをもっていた人もいる。
そういう人の「いまさらLNP2ねぇ……」「いまさら4343ねぇ……」には、
自分はとっくに、それらのオーディオ機器から卒業した、
もしくはいまの自分にとっては、自分の要求するところからは、
力不足のオーディオ機器、さらにいえば役立たずのオーディオ機器、と暗にいいたいのかもしれない。

「いまさらねぇ……」の裏からは、
いまの自分は、もうそんなところにはいないよ、といった自負が臭ってくることがないわけではない。

「いまさらねぇ」のあとにオーディオ機器の型番を続ける人と話したことが、数回ある。
話してみれば、わかる。
自分にもそういう時期があったからこそ、わかるものがある。

ほんとうに、この人は「いまさらねぇ」の後に続けるオーディオ機器を、理解しているのだろうか。

私は、人でもオーディオ機器でも再会するということは、
再会する自分が、実は試されているところがあると、いまは感じている。

「いまさらねぇ……」は、その試されることから逃げるには、最適の言い草であるからだ。

Date: 7月 18th, 2012
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その20)

Standard Speaker System、
試作の3ウェイのスピーカーシステムにつけられた、この名称に、
このスピーカーシステムの開発にかかわった人たちのスピーカーとアンプについての考え方の、
その一部ではあるものの、推し量れることがある。

少なくとも、このStandard Speaker Systemを開発していた時点でビクターは、
スピーカーの駆動方法として、一般的な定電圧駆動ではなく定電流駆動が望ましい、
という判断を下していた、ということだ。

だからこそ一般的な定電圧駆動ではなく、定電流駆動を採用しながらも、
Standard Speaker Systemと、その名称に”standard”をつけている。
standardの意味はいうまでもなく、標準とか基準である。

標準となるべきスピーカーシステム、基準となるべきスピーカーシステムに、
1978年ごろのビクターの開発者たちは、定電流駆動を採用していることを強調しておきたい。

このころ、テクニクスも試作品のスピーカーシステムに、やはり定電流駆動を採用している。
リニアフォースドライブスピーカーと名付けられた、この方式は、スピーカーの徹底した低歪化を目指したもので、
スピーカーの歪をBl歪と電流歪にわけて考えられることから、
前者のBl歪(ボイスコイルに信号が流れることによって生じる磁束密度の変調によるもの)には、
外磁型マグネットの前後にプレートを配することで対称構造としたうえで、
このふたつのプレートの間に磁束コイルをおき、
ボイスコイルの両端に捲いてある制御コイルからの信号により、
磁束コイルに対し専用アンプによる磁束フィードバックをかけている。
電流歪(ボイスコイルがセンターポールやプレートなどのヒステリシスをもつ材質に囲まれているために発生)には、
対称構造としたプレートに対し、それぞれボイスコイルをおき(つまり2組ある)、
こちらも専用アンプでドライヴする、という仕組みである。

磁束フィードバック用アンプも、ボイスコイル用アンプも、定電圧出力ではなく定電流出力となっていることも、
リニアフォースドライブスピーカーの、大きな特徴といえる。

リニア(linear)は、直線の、直線的な、の意味をもつわけだから、
リニアフォース(直線的な力、言い換えれば非直線的な要素のない力)を実現するために、
テクニクスは定電流駆動を選択した、とも受け取れる。

Date: 7月 17th, 2012
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その19)

アンプとスピーカーの関係について考えてゆくにつれて感じているのは、
現状の、定電圧出力のパワーアンプと、定電圧駆動を前提としたスピーカーシステムの組合せだけでなく、
もういちど定電流出力のパワーアンプによるスピーカーの駆動を再検討してみるべきではないか、ということ。

電圧をパラメータとする電圧駆動、それに電圧伝送が、オーディオの世界では標準の方法として定着している。
それでも電流をパラメータとしたオーディオ機器が、これまでにも登場している。

私がオーディオに関心をもちはじめた1976年以降の製品だけにしぼってもいくつかある。
まずヤマハのヘッドアンプのHA2がそうだ。
ヘッドシェルにヘッドアンプの初段のFETをとりつけることで、
MC型カートリッジの出力電圧を電流変換してヘッドアンプ本体まで伝送していた。

その次には登場したのはビクターのコントロールアンプのP-L10がある。
P-L10は、ヤマハのHA2のように見た目ですぐに特徴的なところがあるアンプではない。
けれど、このコントロールアンプは内部では電流伝送を行っていた。
おそらくビクターではパワーアンプとの接続に関しても電流伝送を実験していた、と私は思っている。
けれどコントロールアンプとパワーアンプをペアで必ずしも購入されるわけではなく、
他社製のパワーアンプやコントロールアンプと組み合わされることのほうが実際には多いのかもしれない。
だからコントロールアンプ・パワーアンプ間に電流伝送を搭載するということは、
他社製のオーディオ機器との使用を考慮すると、そういう冒険はやりにくい。
だからP-L10内部だけの電流伝送にとどまったのではないだろうか。

そう考えるのには、ひとつ理由がある。
ビクターが1978年ごろに発表したスピーカーシステムの試作品が、それである。
試作品だから型番はなく、たしかStandard Speaker Systemと呼ばれていた。

卵形のエンクロージュア平面型のスピーカーユニットを納めた、この3ウェイのスピーカーシステムは、
3台のパワーアンプを内蔵したマルチアンプ駆動てある。
そしてそれぞれのアンプは、すべて定電流駆動となっている。
ウーファーに関しては、さらにMFBもかけられている。

このStandard Speaker Systemは市場に登場することはなかった。
このStandard Speaker Systemのコンセプトを受け継いだスピーカーシステムも現れなかった。
けれど、いまビクターのサブウーファーのSX-DW77はDクラスアンプによる定電流駆動となっている。

Date: 7月 16th, 2012
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その18)

アンプによってスピーカーは鳴り方を変える。
ときには、まるで別物のスピーカーに変ってしまったかのように錯覚するほどの音の変り方を示すことだってある。

D130は1948年に登場したスピーカーユニットだから、
64年のあいだ、さまざまな時代の、さまざまなアンプで鳴らされてきたことになる。

出力トランスの2次側からのNFBがかけられていない真空管によるパワーアンプ、
とうぜん出力インピーダンスは高い(ダンピングファクターが低い)。
それがNFBが積極的に使われるようになり、同じ真空管アンプでも出力インピーダンスは下り、
ダンピングファクターも高くなっていく。

そしてトランジスターが登場し回路技術が発展していくことで、
D130の登場の1948年では考えられないくらいのNFBが安定にかけられるようになり、
出力インピーダンスはさらに下っていく。
ダンピングファクターが100を超えるアンプは珍しくなくなったし、1000を超えるアンプも登場してきた。

あるジャンルの製品の多彩さをみていったとき、
パワーアンプの多彩さはコントロールアンプのそれをはるかに上回っている。
出力数Wの直熱三極管のシングルアンプもあれば、
1kWを超える出力をもつトランジスターアンプも存在している。
アンプの規模にしても、手のひらにのってしまうのに数10Wの出力をもつDクラスアンプもあるし、
モノーラル仕様で、さらには電源部と増幅部が別筐体で、
それぞれのシャーシー重量が50kgを超える規模のアンプも存在する。

こうしてみるパワーアンプの多彩さ、
いいかえるとパワーアンプという製品としてのダイナミックレンジの広さはなかなか凄いものがある。

実にさまざまなアンプにつながれてD130は鳴らされることで、
それまでのアンプではみせなかった一面を新たに聴かせてくれたりしたことだと思う。
新しいパワーアンプのすべてが、以前のパワーアンプよりもすべての面で上廻っているわけではないが、
それでも良質の、ほんとうによくできたパワーアンプであれば、
D130のような古典的なスピーカーから、新鮮な音を引き出してくれることは、そう珍しいことでもない。
いわばスピーカーそのものが若返ってしまうかのような、そういう音の変化をみせる。

だから高能率スピーカーだから大出力のパワーアンプで鳴らす必要はない、とはいわない。
D130のような非常に高能率のスピーカーを、数100Wの出力のパワーアンプで鳴らしてみる、とか、
D130が登場した時には考えられなかったほどの高いダンピングファクターのアンプで鳴らしてみる、とか、
高能率同士の組合せとしてDクラスのアンプで鳴らしてみる、とか、
固定観念にとらわれることなく、多彩なパワーアンプで鳴らしてみてもいい。

基本的にそう考えている私だけども、D130について考える時、
現代のアンプが、どれだけD130に寄り添うアンプかという観点から見た時に、
どうしても組み合わせてみたいパワーアンプとして、
別項でも取り上げているファースト・ワットのSIT1が頭から離れなくなっている。

Date: 7月 15th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その2)

1970年代後半のころのマークレビンソン・ブランドのアンプは、私にとっては憧れだった。
LNP2にしてもML2にしても、ML6も含めて、いつかは手に入れる、と思っていた。

LNP2、ML2は、そう思っていたためか、聴く機会はわりとはやく訪れたし、その後も何度となく聴く機会があった。
LNP2はステレオサウンドのリファレンスコントロールアンプとして使われていたこともあって、
聴こうと思えば、ステレオサウンドの試聴室で聴くことができた。

こういう環境は恵まれている、と思うと同時に、憧れを大切にしたいのであれば、どうかな、とも思う。
憧れのLNP2は、その後続々と登場するコントロールアンプによって、少しずつ旧型のアンプへと変りつつあった。

憧れはいつしか失せていた。
LNP2を「いつかは手に入れる」という気持はなくなっていたのか、忘れてしまっていたのか……、
どちらなのかは自分でもわからないものの、LNP2に関心をもつことはながいあいだなかった。

これは、なにもLNP2に対してだけのことではない。
ML2に関しても、ML6に関しても、いつしかそうなっていたし、
マークレビンソンのアンプに関してだけのことでもない。

実を言えばJBLの4343に対しても、4345に対しても……。
こうやってひとつひとつ挙げていくときりがないほど、10代のころに強く憧れ、
いつか必ず手に入れる、と思い込めていたオーディオ機器への関心がなくなっていた。

LNP2もML2も4343も、その時代の先端を走っていたオーディオ機器であっただけに、
時が経てば、色褪せて、どうしても旧さを感じてしまうようになるのは、しかたないことかもしれない。

そんなふうに感じていた20代の私は、もうLNP2や4343を欲しい、と思うことはない、と思っていた……。
なのに、いまは「再会」をつよく意識している自分に気がつく。

Date: 7月 15th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×八・作業しながら思っていること)

KA7500の開発・設計担当者が、誰のブラームスのレコードを聴いていたのか、
その手掛かりとなるものはほとんどないわけだが、
ひとつあげるとすれば、やはりKA7500とKA7300のコンストラクションの違いがある。

KA7500もKA7300も聴いたことがないから断言することはできないものの、
KA7300はKA7500と比較の上でも、さらに他社製の同時期のプリメインアンプと比較しても、
いわゆる音場感の再生能力は、10万円以下の製品としては、かなり高いものであったと判断できる。
そのKA7300と比較すると、KA7500はというと、
左右への音の拡がりにしても奥行き方向の再現性に関しても、旧型のアンプ的音場の展開であるはずだ。

だから音楽の見通しはKA7300の方が優れていよう。
前のめりにならなくとも、音楽の細部はKA7500よりも聴き取りやすいはず。

反面、KA7500の音場はその分、左右のスピーカーの中央附近に厚みが感じられよう。
この厚みが、ときとして、そして音楽の性格によって、
のめり込むような聴き方を聴き手に要求していくのかもしれない。
流麗なブラームスではなかったはず、これだけはいいきれる。

だとすれば、KA7500の担当者がのめり込むように聴いていたブラームスは、
意外にもモノーラルのレコードが多かったのかもしれない、と、そんな気がしてくる。
たとえばフルトヴェングラーのレコードがある。
ヨッフムがベルリン・フィルハーモニーを振っていれたグラモフォン盤もある。
トスカニーニはNBC交響楽団によるものとフィルハーモニアによるものの2種がある。

ステレオ録音になってからのもので、1974年ごろまでのものとなると、
ベーム/ベルリン・フィルハーモニー、カラヤン/ウィーン・フィルハーモニー(デッカ録音)、
セル/クリーヴランド管弦楽団などは、1番から4番まで揃っている。

1番だけ、2番だけ……、となっていくと、ここで挙げていくときりがなくなる。

誰かのブラームスだけにのめり込まれていたわけでもないだろうから、
ここで誰の演奏だったのかをあれこれ想像したところで、意味がないといえばそうだろう。

でもKA7500の担当者が、
この時聴いていたのはヨッフム/ベルリン・フィルハーモニーによる演奏だったのではなかろうか、
そんな気がしている。
それからヴァイオリン・ソナタは、シェリング/ルービンシュタインか、
デ・ヴィート/フィッシャー(1番と3番)、アプレア(2番)のレコードが、頭から消えない。

これは、私の勝手な想像でしかない。
意外にも若きバーンスタインとニューヨークフィルとのレコードだったのかもしれない。

Date: 7月 14th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×七・作業しながら思っていること)

KA7500とKA7300の内部写真を見ていると、
このふたつのアンプが、同時期に同じ会社から出た、
価格的にも大きな差のないプリメインアンプとは思えぬほど多く異っている。

KA7300は、デュアルモノーラルコンストラクションのパワーアンプかと思える造りである。
シャーシーのほぼ中央に左右独立した電源トランスをふたつ配してその両端にパワーアンプ部、ヒートシンクがある。
KA7500はというと電源トランスは1つで、
いかにもこの時代のプリメインアンプといえるコンストラクションである。

KA7500とKA7300の音は聴いたことがない。
KA7300Dの音は聴いているけれど、その前身のKA7300は聴く機会がなかった。
KA7300Dは型番末尾のDからわかるように、KA7300をDCアンプ化したものである。

KA7300を開発・設計担当者と同じ人がKA7300Dを手がけたのかは知らない。
仮に同じ人だとしても、KA7300のときには新婚ほやほやだった人も、
KA7300Dの時には、そうではなくなっている。
そう考えると、KA7300DよりもKA7300の音が好き、という人がいることも、
なんとなくではあるけれど理解できる。
アンプとしての完成度はKA7500よりもKA7300のほうが、
さらにKA7300よりもKA7300Dのほうが上、といえる。

それでも、音の魅力ということに関しては、
アンプの完成度が増しているからといって、音の魅力度も増している、とはいえないから、
中野英男氏の「音楽 オーディオ 人びと」にもあるように、
KA7300の音を酷評しKA7500の鳴らすブラームスやブルックナーの音楽に精神性の深味を感じとっている人が、
少数とはいえ、いるということ。

この人たちはKA7300Dの音は、さらに酷評されただろうか、
それとも新婚ほやほやの幸せ気分が抜けているであろうから、KA7300よりも高く評価されたかもしれない。

こんなことを考えつつ、
KA7500の開発・設計担当者がのめり込むように聴いていたブラームスのレコードは何だったか、をおもうわけだ。

Date: 7月 14th, 2012
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その1)

オーディオ機器の買替えが頻繁な人は、それこそ1年ごとにスピーカーを買い替えない人もいる。
頻繁でない人でも、いままでずっと1つのスピーカーシステムだけを使ってきている人は、ほとんどいないと思う。
少なくとも、自分にとって理想と思えるスピーカーシステム、
永くつきあえるスピーカーシステムと出合うまでには、何度かの買替えを体験している、はず。

買替えが頻繁な人が経済的に必ずしも裕福とは限らないし、
ほとんど買い替えない人が経済的にめぐまれていないわけでもない。
これは、もうその人の性格的なものでもあろうし、
たまたま理想的なスピーカーシステムと早くにめぐり合える幸運に恵まれていただけかもしれない。

スピーカーはほとんど替えない人でも、アンプやプレーヤー、
それにケーブルなどのアクセサリーは割と買い替えている人もいよう。

買替えの頻度は、いろんな事柄が関係してのことだから、
まわりがとやかくいうことではない、と思っている。
買替えが頻繁な人を浮気性ということもできるし、積極的な人ということできる。
買い替えない人を、じっくりと物事に取り組む人ともいえれば、消極的な人という見方もできなくはない。

だから買替えの頻度は、ある時期からぴたっと止る人もいる。
かと思えば、いきなり買替えの頻度が増す人もいて不思議ではない。

ただ、どちらにしても買替えは、基本的に新しい出合いを求めての行為である。
よりよい音を求めての選択であり、新鮮な感覚を求めての選択でもある。

だから、われわれは新製品の登場に、多かれ少なかれ、なんらかの期待をし、わくわくするわけだ。
新製品でなくてもいい、その人にとって未知のオーディオ機器であれば、新製品となんら変らない。

そういうオーディオ機器との出合いを求める気持とともに、
私の裡で「再会」という選択が日々大きくなってきている。