ハイ・フィデリティ再考(続×二十七・原音→げんおん→減音)
減音なんていう言葉をつくって、そのことについてまだ書いている。
この減音ということばを思いついたのは今年になってからだが、
この減音ということを考えるきっかけとなったことはなんだろう、とふりかえってみると、
それはひとつではなくいくつかのことが思い出されてくる。
そのひとつは、瀬川先生がステレオサウンド 52号の特集の巻頭言の最後のほうに書かれていることに関係している。
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しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがないなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
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ステレオサウンド 52号はアンプの特集号だから、アンプの理想像(それも極端な)について書かれているわけだが、
これがオーディオの再生系そのものだとしたら、どうなるだろうか、
と読み終ってしばらくしてのちに考えたことがある。
アンプだけではない、カートリッジもターンテーブルも、それにスピーカーも、さらにはケーブルにいたるまで、
完璧なものが世に登場したとする。
もちろん、再生系がそうなる前に、完璧な録音がなされて、その完璧なまま家庭に届けられる、という前提だ。
つまり録音の現場で鳴っていたものすべてを、家庭でそのままに再現できるようになった、とする。
部屋による再生音への影響もすべて取り除ける技術が開発されて、
同じプログラムソースであれば、どんな部屋でもまったく同じに再生される時代が来た──。
そうなってしまったら、それはオーディオの、果して理想が実現した、ということなのか、と考えたわけだ。
それは、瀬川先生がすでにステレオサウンド 52号に書かれているように、
「索漠とした味気ない世界」でもあるように思えてしまう。
オーディオの録音系も再生系も、いまとはまったく違う形態に行き着き、
音楽の聴き手は何の苦労もすることなく、いまの時代では想像できないほどのクォリティで音楽が鳴ってくる。
オーディオそのものに関心のない人にとって、それは素晴らしい、まさに理想のオーディオということになる。
けれど、いま、われわれが取り組んでいる趣味(ときにはその領域からも逸脱している)オーディオにとって、
そういう時代の到来は、やはり「索漠とした味気ない世界」でしかないのではなかろうか。
もし私が生きているあいだ、そういう時代になってしまったら、
オーディオマニアをやめるのか、それともオーディオマニアとして何をするのだろうか……、
いまから30年以上前に、そう考えたことが、いまここで長々と書き続けている「減音」につながっている。