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Date: 4月 18th, 2017
Cate: 所有と存在

所有と存在(その12)

私は、音も音楽も所有できない、と何度も書いてきている。
他の人が、そんなことはない、現実に所有できる、と思われていようと、
それはそれでいい、と思っている。

人は人である。

といいながらも、やはり気になる人がいる。
瀬川先生は、どうだったのだろうか、
五味先生は……、と考えてしまう。

ステレオサウンド 24号「良い音とは、良いスピーカーとは?」で、こんなことを書かれている。
     *
 レコードにはしかし、読書よりもさらに呪術的な要素がある。それは、レコードから音を抽出する再生装置の介在である。レコードは、それが再生装置によって《音》に変換されないかぎり、何の値打もない一枚のビニール平円盤にすぎないのである。それが、個人個人の再生装置を通って音になり、その結果、レコードの主体の側への転位はさらに完璧なものとなる。再生音は即原音であり、一方、それは観念の中に抽象化された《原音のイメージ》と比較され調整される。こうしたプロセスで、《原音を聴いたと同じ感覚》を、わたくしたちは現実にわがものとする。
 言いかえるなら、レコードに《原音》は、もともと実在せず、再生音という虚像のみが実在するのである。つまり、レコードの音は、仮構の、虚構の世界のものなのだ。映画も同じ、小説もまた同じである。
     *
瀬川先生は、著書の「虚構世界の狩人」というタイトルを気に入られていた、ときいている。
上の文章にも、レコードには、再生音という虚構のみが実在する、と書かれている。

はっきりと、どこかに音は所有できない、音楽は所有できない、と書かれているわけではない。
少なくとも私がこれまで読んできた中には、なかった。

けれど、少なくとも音は所有できない、と思われていたのではないだろうか。

Date: 4月 17th, 2017
Cate: デザイン

「貌」としてのスピーカーのデザイン(その3)

4350とDD66000は、同口径のダブルウーファーとはいえ、
ユニット構成で違うところがある。

4350は4ウェイで、12インチ口径のミッドバスがあり、
中高域のホーンも音響レンズ付きで、大きさもそれほどではない。
DD66000にはミッドバスはなく、中域ホーンも大きく横に長い。

だからDD66000全体が、何かの顔に見えてくるわけではない。
DD66000と同じといえるユニット構成のスピーカーは、昔からあった。

横にウーファーを二基並べ、その上に大型のホーンという構成は、
むしろ以前のほうが多かった、といえる。

それらのスピーカーシステムをすべて聴いているわけではないが、
いくつかは音を聴いているし、大半は実物を見えてもいる。

つまりDD66000以前、それらのスピーカーシステムを見ても、
何かの顔をイメージすることは一度もなかった。

なのに、なぜDD66000は違うのか。

ユニット構成、ユニット配置に起因することではなく、
デザインに起因する。

DD66000以前の同種のスピーカーシステムは、
フラットなフロントバッフルにスピーカーユニットが取り付けられていた。

ウーファーだけがエンクロージュアにおさめられ、
ホーンはエンクロージュア上部に置かれているシステムでも、
フロントバッフルはフラットである。

DD66000の二基のウーファーが取り付けられているバッフルは、
一枚のフラットな板ではない。

それぞれのウーファーを取り付けた板が、角度をもって接合されている。
それだけでなく、DD66000のフロントは、全体的にフラットとはいえない。

中高域のホーンも、ホーン単体で構成されているのではなく、
ホーンの左右は、エンクロージュアの一部でもある。

エンクロージュア下部は、中央が奥に曲線を描いて引っ込んでいる。
ウーファーバッフルの中央が、同一線上にあり、前に出ているのと対照的である。

DD66000のデザインをわかりやすくいうなら、
凹凸のあるデザインであり、私には成功しているとは到底思えないのだ。

Date: 4月 17th, 2017
Cate: デザイン

「貌」としてのスピーカーのデザイン(その2)

私が小学生のころ、テレビではゲゲゲの鬼太郎のアニメが放送されていた。
その影響もあるのかもしれない……、と自分でも思っているのだが、
DD66000は、ゲゲゲの鬼太郎に登場するぬりかべに近い、別種のいきもののように見えてくる。

ぬりかべの顔は、ほぼ全身といえるし、
目は小さい、鼻も口もない。
ぬりかべは丈夫で大きな体を活かして活躍する妖怪で、
手足は短く、のそのそとある。

その歩くイメージがDD66000に重なってくる。

つまりDD66000の15インチ口径のウーファー二基が、
目として認識してしまう。
ウーファーの上にある中域ホーンは、左右が一本につながってしまった眉、
もしくは深く太い皺のようにも見えてしまう。

巨大な顔が、目の前にある。
それも左右で二基のDD66000だから、至近距離にふたつの、得体の知れないいきものの大きな顔がある。

それがこちらに向って、のそのそと近づいてくる──。

言葉にする上で、省略しているところもあるが、
そんな感じを受けてしまい、聴いていて気持悪くなってきた。

これまでにも15インチ口径のダブルウーファーのスピーカーシステムは、
いくつも聴いてきている。

DD66000と同じJBLの4350、4355は何度も聴いているし、
サランネットを外して、かなり長時間聴いてもいる。
それでも、そんな印象はまったく受けなかった。

DD66000の写真をみた時から、何か顔みたいだな、とは薄々感じていた。
でも、すぐにはなぜ、そう感じるのかはつかめなかった。
実際に目の前にDD66000が二基ある状態で音を聴いて、つかめたといいえるところがある。

Date: 4月 16th, 2017
Cate: デザイン

鍵盤のデザイン(その1)

インターネットで検索、
検索結果のURLをクリック。
そのウェブサイトで、またリンク先をクリック……。

こんなふうに書かなくともネットサーフィンと書けばすむのはわかっていても、
死語ともいえそうな言葉を使うのは、ちょっと抵抗がある。

つまりはネットサーフィンをしていたわけだ。
それで見つけたのが、「ピアノ300年の歴史を変える──未来鍵盤が音もデザインする」。

こういうタイトルの記事は、読むとたいてはがっかりする。
記事の冒頭には、こうある。
     *
ピアノの鍵盤は、白鍵と黒鍵が互い違いに組み合わさったものだ。だが、ひとりの天才ピアニストがその常識に真っ向から挑み、新しい鍵盤を生み出した。白鍵と黒鍵が段差なく一直線に並ぶ、その新しい鍵盤は、究極の音を求めた結果だ。
     *
天才ピアニスト、いったい誰だよ? という感じで読みはじめた。
新しい鍵盤の写真が、まず目に入る。

見慣れたピアノの鍵盤とは、違う。
ただ段差がなくなっているだけではない。
記事を読んでいくと、天才ピアニストが誰なのかが、わかる。
菅野邦彦氏だった。

もうこれだけで十分なはずだ。
GQ JAPANの元記事を読んでいただきたい。

聴いてみたい、と思う。
それも菅野先生の録音によって聴いてみたい、とおもう。

Date: 4月 16th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その4)

私が長岡鉄男という名前を知ったのは、電波科学でだった。
1976年ごろ、長岡鉄男氏は電波科学に二ページのコラムを連載されていた。

肩の凝らない、漫談的内容だった、と記憶している。
まだ中学生だった私は、けっこう楽しく読んでいた。
そのころは、まだ長岡鉄男氏のオーディオ機器の試聴記事、評論は読んでいなかった。

FM誌のはずだ、最初に長岡鉄男氏の試聴記事を読んだのは。
正直、あまり面白く感じなかった。
電波科学の連載コラムの面白さは、感じなかった、というか、
そこには微塵もなかった。

コラムと試聴記事という違いはあっても、
その落差にがっかりしたのかもしれない。

一本や二本くらいの試聴記事でそう感じたわけではなかった。
FM誌は、ほぼ毎号買っていたから、そこそこ読むことになる。
その他に、ステレオサウンドをはじめオーディオ雑誌はそこそこ講読していたから、
長岡鉄男氏の書かれたものは、読んでいた。

小遣いをやりくりして買った雑誌だから、すみずみまで読んでいた。
それでも長岡鉄男氏の書かれたものは、必ず読むというわけではなくなってきた。

ラジオ技術の1997年1月号では、
長岡鉄男氏は、自身のことを「常識人」と書かれている。

この「常識人」をどう受け取るかは、人によって違うのだろうか。
私は、すんなりそうだな、と受けとめた。

私が長岡鉄男氏の書かれたものを読まなくなってきたのは、
結局のところ、長岡鉄男氏は常識人だったから、といえる。

Date: 4月 16th, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(その5)

二つのモダリティが満たされていると、人の認識は本物と錯覚する、ものらしい。
ある人の声をスピーカーから再生しても、その人本人がしゃべっているとは勘違いしないが、
そこにもうひとつのモダリティ、たとえばその人の匂いが加わると、
その人本人がしゃべっていると勘違いする、とのこと。

話している人を実際に知っているという前提が、ここにあるわけだが、
「攻殻機動隊」のハリウッド・実写版「GHOST IN THE SHELL」を観ていて、
ここにスカーレット・ヨハンセンの匂いが加わったら……、と想像していた。

スカーレット・ヨハンセンと会ったことはないから、
匂いが加わったとして、それが本人の匂いかどうかは判断できないし、
それにスクリーンに映し出されているのは、スカーレット・ヨハンセンか演じている少佐であり、
その少佐の匂いは、どう設定されているのか。

MX4Dは匂いもつくようだ。
IMAXで観ながら、MX4Dだとどうなんだろうか。
匂いが加えられているのか──、
と思いつつも、「GHOST IN THE SHELL」の少佐は全身義体(脳だけが本人のものである)。

匂いなど、そこにはないのかもしれない。
そう思わせるシーンもあった。

字幕版を観たから、こんなことを考えたのかもしれない。
吹替え版では、ひとつめのモダリティからして違ってくるわけだから。

Date: 4月 15th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その35)

私の手元には、長岡鉄男氏の文章が載っているオーディオ雑誌はほとんどない。
それでも数冊はある。

その中の一冊、別冊FM fanの17号(1978年春号)、
特集記事は「プレイヤーはこうあるべきだ マイ・プレイヤーを語る」と
「最新カートリッジ26機種フルテスト」である。
つまりアナログプレーヤーの特集である。

巻頭の、カラーの見開きページには、
江川三郎、大木恵嗣、高城重躬、山中敬三、瀬川冬樹、飯島徹、長岡鉄男、石田善之、
八氏の愛用プレーヤーが紹介されている。

この記事で、長岡鉄男氏は、冒頭にこう書かれている。
     *
 プレイヤー・システムについての考え方も、プレイヤーそのものも、この十年間あまり変わってはいない。基本的には、動くものは丈夫で軽く、それを支えるものは丈夫で重く。そしてトータルバランスを重視するということである。
     *
トータルバランスという単語は、二ページの文章中四回登場する。
見出しにも、「トータルバランスを狙うこと」とある。

もう一冊、ラジオ技術の1997年1月号、
アンケート特集「ケーブルについてこう考える」でも、
長岡鉄男氏はバランスということについて触れられている。
     *
 金があり、あまっている人は別として、一般のユーザーは装置とのバランスで適当なケーブルを使うべきだ。ちなみに筆者の使用ケーブルは、価格的には一般ユーザーの水準をはるかに下回るものである。
     *
まっとうなことを書かれている。
その33)で引用したところにも、
598のスピーカーのアンバランスであることを指摘されているのは、
その流れで考えれば、ごく当り前のことであるわけだが、
ならばなぜ、598のスピーカー全盛のころ、
スピーカーシステムもトータルバランスが重要である、と書かれなかったのか、
そして実際の598のスピーカーのアンバランスさを指摘されなかったのかが、
疑問として残る。

おそらくというか、間違いなく、
長岡鉄男氏はスピーカーシステムもトータルバランスが重要であると考えられていたはずだ。

Date: 4月 14th, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(その4)

GHOST IN THE SHELL」の公開から一週間。
インターネットには、さまざまな人によるさまざまな評価が、けっこうある。

映画を観た後で読むと、
高く評価している意見についても、そうでない意見についても、納得できるところがある。

原作としてのマンガがあり、
同名のアニメ映画があるのだから。

それらの映画評を読んで思うことは、
この人は、どのフォーマットで「GHOST IN THE SHELL」を観たのだろうか、だ。

配給会社の試写室は、おそらく通常の2Dなのだと思う。
2Dの字幕版なのか、3Dの字幕版か。
IMAX版、MX4D版なのか。

どの版で観ても、映画そのものの評価は本質的に変らない。
けれど、テクノロジーが生み出す官能性ということに関しては、
大きく違ってくるばずだ(2D版で観てないので断言はできないけれど)。

今回は字幕版を観たわけだが、これがこのことに関しては良かったように思われる。
吹替え版も観たいと思っているが、
スカーレット・ヨハンソンの声が吹替えであったなら、官能性を感じただろうか。

昨晩は、その官能性にしばらくは圧倒されていた。
同時に、昨年度のKK塾での石黒浩氏の話も思い出していた。

モダリティと、その数についてである。

Date: 4月 14th, 2017
Cate:

いい音、よい音(続あるアルバムから)

グッド・ミュージックとバッド・ミュージック。
ミュージックのところを別の単語に置き換える。

そうすると、
バッド・ミュージシャンのミュージシャンも、別の単語に置き換えられる。

バッド・ミュージシャンをバッド・リスナーとしてみると、
グッド・ミュージックは、何に置き換えられるのか。

グッド・ミュージックのままでもいいし、
グッド・サウンドでもいいような気がする。

ミュージックもミュージシャン、
どちらもリスナーに置き換えられる。

けれど、
オーネット・コールマンの
「音楽はすべてグッド・ミージックだ、ただしバッド・ミュージシャンがいる」は、
ジャッキー・マクリーンの
「音楽にはグッド・ミュージックとバッド・ミュージックの二つしかない」を受けてのものである。

このことを前提として置き換えるのなら、
グッド・リスナーとバッド・リスナーとして場合に、
バッド・ミュージシャンのところは、どう置き換えるのか。

バッド・リスニング(悪い聴き方)になるのだろうか。

Date: 4月 13th, 2017
Cate: 再生音

実写映画を望む気持と再生音(その3)

観たい映画があっても、昔と違い、いまは場合によっては選ばなくてはならない。
字幕なのか吹替えなのか。
映画によっては3Dにするのかどうか。

さらにはドルビーアトモスを選べるものもあるし、
IMAX、MX4Dまである場合も。

昔のように2D、字幕しか選択肢がなかった時代とは違う。

GHOST IN THE SHELL」には、
字幕、吹替えがあって、2Dと3D、さらに3DはIMAX、MX4Dがあって、
当然、料金は違ってきて、3D、MX4Dでは三千円をこえる。

シネコンでは、時間帯によって、どれを上映しているかが加わる。
結局、IMAXの3D、字幕版の「GHOST IN THE SHELL」を観た。

IMAXの3Dは、今回が初めての体験である。
今日まで3D用のメガネが、通常の3DとIMAXとでは違うことも知らなかった。

私はどちらかといえば前寄りの席で観る。
今日は前から五列目。
入って、スクリーンの大きさからすると、前過ぎたかな、と思った。
シネコンだから席は、もう変えられない。

でも、このくらい前で良かった。

「GHOST IN THE SHELL」の映画としての出来が格段優れているとはいわない。
それでも、この映画は、再生音について考えさせられる。

再生音といっても映画館の音についてではなく、
オーディオの再生音についてである。
その再生音の官能性ということについて、である。

スカーレット・ヨハンソン演じる少佐が映るたびに、
映画のテクノロジーがここまで進化したことによる官能性の描写を感じていた。

これまでも映画の中に官能性といったことを感じなかったわけではない。
でも今回の「GHOST IN THE SHELL」で感じた官能性は、
これまでの映画(つまり映画の基本フォーマット、2Dでの上映)では再現できない──、
そう思わせる類の官能性である。

Date: 4月 12th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの「本」(ある出版社の買収・その2)

カルチュア・コンビニエンス・クラブによる徳間書店の買収のニュースのあとに、
KK適塾の五回目はあった。

KK適塾で対話について、
ビッグデータをベースにした対話、
ストーリーをベースにした対話、
という話があった。

ビッグデータをベースにした対話の代表的な例は、
iPhone(iOS)に搭載されているSiriである。
Siriはインターネットという環境があるからこそ成立する技術である。
そして、そこでの対話は一問一答が基本である。

ここがストーリーをベースにした、いわゆる対話との大きな違いでもある。

雑誌は対話なのか。
そんなことをKK適塾五回目で思っていた。

ビッグデータをベースにした雑誌編集は、
そういうことになっていくように予想できる。

雑誌が面白かったのは、ストーリーをベースにしていた、
ストーリーの共有が、編集者と読者とのあいだにあったからなのかもしれない──、
このことも思っていた。

Date: 4月 12th, 2017
Cate: デザイン

「貌」としてのスピーカーのデザイン(その1)

スピーカーの風貌は、他のオーディオコンポーネント以上に気になる。
サランネットをつけて聴けば、そんなこと気にならないだろう──、
そうとも思うけれど、そうでもないこともある。

例えばスペンドールのBCII。
サランネットをつけて聴くことを前提としたフロントバッフルの仕上げである。
サランネットを外した状態をすぐにイメージできるけれど、
その音を聴いていると、サランネット付きの姿しか目に入らない。

その一方で、サランネットをつけた状態で聴いていても、
サランネットを外した姿に気になってしまうスピーカーがいくつもある。

自分でもなぜだろう? と思い続けている。
しかもサランネットなしの姿が気になって仕方ないスピーカーに限って、
サランネットを外した状態の音が標準と思われる。
フロントバッフルもきちんと仕上げがなされたりしている。

サランネットがあろうとなかろうと、その姿が気になるスピーカーの代表格が、
私にとってはJBLのDD66000である。

60周年記念モデルとして発表された写真を見た時から、
優れたデザインとは少しも思えなかった。

1998年にAppleからiMac(ボンダイブルーの最初のモデル)に感じたこと、
それに近いことを感じていた。

しばらくして知人宅でじっくりと聴く機会があった。
きちんとセッティングをつめていけば、なるほどいいスピーカーだ、と感じた。

その感じは聴き進むにつれて強くなる。
と同時に、DD66000の姿が耐えられなくなってもきた。

DD66000はサランネットありとなしの音の違いは、かなり大きい。
一度外した音を聴いてしまうと、つけた音は聴きたくない。

ならば目をつぶって聴けば? となる。
たいてい目を瞑って聴いている。
それでもDD66000の姿が浮んできて、
DD66000がのそのそと前に歩き出しそうな感じすらしてきた。

ここまでくると、聴いているのが気持悪くなってきた。
初めての体験だった。

Date: 4月 11th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その2)

オーディオ評論と呼ばれる仕事もしていた知人は、小説も書いていた。
何本かは読ませてもらった、というか、読まされたことがある。

彼は芥川賞が欲しい、とストレートに語っていた。
そのための努力といえることは熱心にやっていたように見えた。

でも、どこか的外れの努力にしか見えなかったけれど、
彼は芥川賞が欲しいから小説を書いているのか、
小説を書くことが彼にとって、なんらかの意味を持つことだからなのか、が、
いつのころからか曖昧になっていたように思う。

彼は才能ある男だ、と自分でも思っているし、
少なからぬ周りの人たちもそう思っていたようだ。

私は、彼は周りの人たちの才能を部分的にトレースするのが得意な人と見ていた。
それもひとつの才能であろう。

彼がトレースしたものを知らない人にとっては、
彼は才能ある男ということになるが、
その元を知っている人たちは、彼のことをそうは見なかった。

彼がその後どうなったのかは良くは知らない。
小説を出版できたのだろうか。

小説家になっていたとして、彼は何かを生み出したといえるのだろうか。

Date: 4月 11th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの「本」(ある出版社の買収・その1)

3月下旬に、徳間書店が、
TUTAYAを運営しているカルチュア・コンビニエンス・クラブの子会社になった、
というニュースがあった。

いまコンビニエンスストアだけでなく、かなりの業種の小売店で、
「Tポイントカードは……」と会計の度にきかれる。

私はもっていないけれど、それだけTポイントカードは多くの人が持っているのだろう。
Tポイントカードが使われるごとにカルチュア・コンビニエンス・クラブが得られる情報は、
いわゆるビッグデータなのだろう。

そのデータの活用方法のひとつとして、出版を考えているのだろうか。
データに基づいた本づくりを行えば、うまくいくのだろうか。

そうやって新雑誌が創刊されるのだろうか。
新雑誌とまでいかなくとも、既存雑誌のリニューアルが行われるのだろうか。

出版不況といわれているだけに、そういうやり方で雑誌がつくられていくかもしれない。
大当りするかどうかはわからないが、少なくとも大きく外してしまう、
極端に売行きの悪い雑誌にはならない──、のかもしれない。

でも、そうやってつくられた雑誌は、面白いだろうか。
雑誌好きの読み手を満足させるのだろうか。

オーディオ雑誌もそうやってつくられるようになるのだろうか。

Date: 4月 11th, 2017
Cate:

いい音、よい音(あるアルバムから)

「音楽にはグッド・ミージックとバッド・ミュージックという二つのジャンルしかない」、
いいまわしは微妙に違っていても、わりとみかけることがある。

あの人がいっていたとか、
自分で思いついたように書いてあったりするが、
グッド・ミージックとバッド・ミュージックについて語っているのは、
ジャッキー・マクリーンが、私の知っている範囲ではもっとも古い。

ジャズに明るくない私だから、詳しいことは知らないが、
オーネット・コールマンを迎えたアルバムのライナーノートに、
この言葉は載っている、とのこと。

となると”NEW AND OLD GOSPEL”ということになるのか。
このディスクを持っていないから、確かめようがないが、
そうだとすれば、1968年のこととなる。

どこかで見たことを、自分で思いついたようにいうことを書きたいわけではなく、
そのライナーノートで、オーネット・コールマンは、それを否定していた、ということ。

オーネット・コールマンは、
「音楽はすべてグッド・ミージックだ、ただしバッド・ミュージシャンがいる」と。

そうかも、と思うだけでなく、
ふたりの言葉は、音楽だけでなく、他の分野にもあてはまる。