所有と存在(その12)
私は、音も音楽も所有できない、と何度も書いてきている。
他の人が、そんなことはない、現実に所有できる、と思われていようと、
それはそれでいい、と思っている。
人は人である。
といいながらも、やはり気になる人がいる。
瀬川先生は、どうだったのだろうか、
五味先生は……、と考えてしまう。
ステレオサウンド 24号「良い音とは、良いスピーカーとは?」で、こんなことを書かれている。
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レコードにはしかし、読書よりもさらに呪術的な要素がある。それは、レコードから音を抽出する再生装置の介在である。レコードは、それが再生装置によって《音》に変換されないかぎり、何の値打もない一枚のビニール平円盤にすぎないのである。それが、個人個人の再生装置を通って音になり、その結果、レコードの主体の側への転位はさらに完璧なものとなる。再生音は即原音であり、一方、それは観念の中に抽象化された《原音のイメージ》と比較され調整される。こうしたプロセスで、《原音を聴いたと同じ感覚》を、わたくしたちは現実にわがものとする。
言いかえるなら、レコードに《原音》は、もともと実在せず、再生音という虚像のみが実在するのである。つまり、レコードの音は、仮構の、虚構の世界のものなのだ。映画も同じ、小説もまた同じである。
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瀬川先生は、著書の「虚構世界の狩人」というタイトルを気に入られていた、ときいている。
上の文章にも、レコードには、再生音という虚構のみが実在する、と書かれている。
はっきりと、どこかに音は所有できない、音楽は所有できない、と書かれているわけではない。
少なくとも私がこれまで読んできた中には、なかった。
けれど、少なくとも音は所有できない、と思われていたのではないだろうか。