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Date: 9月 29th, 2018
Cate: 真空管アンプ

現代真空管アンプ考(その24)

オルトフォンのSTA6600のトランスを流用して自作したモノは、
うまくいった。
トランスの取り付け方だけが工夫を凝らしたところではなく、
他にもいろいろやっているのだが、その音は、
誰もが中身はSTA6600のトランスとは見抜けないほど、音は違っている。

もっといえば立派な音になっている。
自画自賛と受けとられようが、
この自作トランスの音を聴いた人は、その場で、売ってほしい、といってくれた。

その人のところには、ずっと高価な昇圧トランスがあった。
当時で、20万円を超えていたモノで、世評も高かった。

だから、その人も、その高価なトランスを買ったわけだが、
私の自作トランスの方がいい、とその人は言ってくれた。

そうだろうと思う。
トランス自体の性能は、高価なトランスの方が上であろう。
ただ、その製品としてのトランスは、トランス自体の扱いがわかっていないように見えた。

この製品だけがそうなのではなく、ほとんど大半の昇圧トランスが、そうである。
インターネットには、高価で貴重なトランスをシャーシーに取り付けて──、というのがある。

それらを見ると、なぜこんな配線にしてしまうのか。
その配線が間違っているわけではない。
ほとんどのトランスでやられている配線である。

それを疑いもせずにそのまま採用している。
私にいわせれば、そんな配線をやっているから、
トランス嫌いの人がよくいうところの、トランス臭い音がしてしまう。

取り付けにしても配線にしても、ほんのちょっとだけ疑問をもって、
一工夫することを積み重ねていけば、トランスの音は電子回路では味わえぬ何かを聴かせてくれる。

MC型カートリッジの昇圧トランスと、真空管パワーアンプの出力トランスとでは、
扱う信号のレベルが違うし、信号だけでなく、真空管へ供給する電圧もかかる。

そういう違いはあるけれど、どちらもトランスであることには変りはない。
ということは、トランスの扱い方は、自ずと決ってくるところが共通項として存在する。

Date: 9月 28th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その11)

別項「音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その1)」に、
元同僚のグリーンピース嫌いのことを書いている。

徹底したグリーンピース嫌いの彼は、
交通事故のあと、グリーンピースをおいしそうに食べる。
事故のとき、頭を打ったこともあって、少し記憶がとんでいる、と彼は言っていた。

それまで絶対に食べなかったグリーンピースを、おいしい、と言いながら食べている。
彼自身、グリーンピース嫌いだったことも忘れてしまっている。

とんでしまった少しばかりの記憶に、グリーンピースに関することも含まれていたのか。
そもそも彼がどうしてグリーンピース嫌いになったのかは知らない。

本人がグリーンピース嫌いだったことすら忘れてしまっているから、
あれこれ訊ねても、何か期待できる答が返ってくることはないだろう。

それでも、答を知りたい。
人の好みとは、その程度のことなのか、とも思う。

ならば古い知人が、何かのきっかけで少しばかり記憶を失った、としたら……、
たとえば老人性痴呆症になったとしたら……、
嫌いな音に関する記憶もなくなってしまうのか。

グリーンピース嫌いだった元同僚が、いまではおいしそうに食べているのと同じように、
全体のバランスを大きく欠いてでも、嫌いな音を排除していたことすら忘れてしまい、
見事なバランスの音を鳴らすようになるのだろうか。

それも、ひとつの純化なのだろうか。

Date: 9月 28th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その10)

音でなくてもいい、味、匂いのほうがいいかもしれない。
好みの味、匂いが形成されるより前に、
嫌いな(苦手な)味、匂いが形成されているのではないだろうか。

「これ、好き」よりも「これ、嫌い」が先に立つのではないのか。
音もそうだ、と思っている。

ここでの音は、スピーカーから鳴ってくる音だけに限らない。
耳に入ってくるすべての音、
オーディオに関心のない人であっても、嫌いな(苦手な)音はある。

嫌いな音がどうやって形成されるのかは、知らない。
嫌いな音がある、ということが、ここでは重要なのだ。

古い知人は、嫌いな音がはっきりしていた。
それは古い知人と一緒に音を聴いたことのある人ならば、
ほとんどの人が、そう感じていたことでもある。

古い知人の嫌いな音は一貫していた。
その嫌いな音を徹底的に排除していくのが、彼の鳴らし方でもある。

それは少なくとも私の知る限り、ずっとそうだった。
古い知人は、嫌いな音に対して、人一倍敏感だったのかもしれない。

だから人一倍努力して、嫌いな音を排除していく。
その結果、バランスを大きく欠いたいびつな音を出すことになっても、
古い知人にとっては、嫌いな音が排除(抑えられた)ということで、いい音に聴こえていた。

古い知人が、そんな音をいい音と思うのは、しかたないことだし、
古い知人にとっては、いい音なのだから、周囲は黙っているしかない。

それでも、その音は、古い知人のほんとうに好きな音なのか、という疑問はずっとある。
嫌いな音を排除した音に、若いころからずっと聴いてきたことによる単純接触効果なのではないか、と。

古い知人の、ほんとうに好きな音は、
嫌いな音を排除してしまった音の陰に埋もれてしまっているのか、
それともまだ形成されていないのかもしれない。

Date: 9月 28th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その9)

facebookに、
聴きたい音楽、好みの鳴り方を求めれば、
結果として同じような音になってしまうのではないか……、
というコメントをいただいた。

それは、私もそう思っている。
聴きたい音楽がまずあって、
それをいい音(好きな音といいかえてもいい)で聴きたいからこそ、
オーディオに夢中になってきたのであれば、そうであろう。

そう思いながらも、私は「五味オーディオ教室」からオーディオの世界に入った。
そして「五味オーディオ教室」の少しあとに出た「コンポーネントステレオの世界 ’77」、
その巻頭の黒田先生の「風見鶏の示す道を」で出逢った黒田先生の文章。

このふたつのこと(二人の文章)は、
音楽の聴き手としてつよくありたい、と私に思わせた。

だからといって、聴きたい音楽を聴いている聴き手が、よわい、と思っているわけではない。
ただただ、聴き手としてつよくありたい、と思っている。
そうでなければ……、とおもうところもある。

同時に、少し違うことも考えているから、この項を書いている。
聴きたい音楽は、ほんとうに聴きたい音楽なのか、
そして、好みの鳴り方もそうだ。
それはほんとうに求めている好みの鳴り方なのか。

別項「戻っていく感覚(風見鶏の示す道を)」の(その12)に、
単純接触効果のことに触れた。

これがあるから、その人の好みは、ほんとうのところでの好みなのか、
単純接触効果によって形成された好みなのか、と疑いたくなるからだ。

Date: 9月 27th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その8)

古い知人だけのことではない、とおもう。

いま、オーディオ評論家と呼ばれている人たち、
オーディオ雑誌、それを編集している人たち、
彼らもみな自己模倣という純化の沼に浸かっているし、
浸かっていることに気づいていないのかもしれない。

こんなことを書いている私にしても、自己模倣から抜け出せていないのかもしれない。

自己模倣という純化の沼と書いたけれど、
本来、これは変化・進化・純化の「純化」とはいえない。

そこに進化もなく、変化すらないからだ。

Date: 9月 27th, 2018
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その7)

古い知人は、よくスピーカーを買い替えた。
つきあいがなくなって十年近く経つ。
古い知人の近況は、たまに耳にするぐらいだけれど、相変わらずのようだ。

スピーカーをあれこれ買い替えている。
けっこうなことだ。
スピーカーの買い替えは、誰に迷惑をかけるでもないし、
買って売る、また買う、また売る。
それをくり返す。

古い知人の楽しみなのだから、けっこうなことだ。

古い知人は、どんなスピーカーに買い替えても、
常に同じ音で鳴らす。

古い知人は、そのことを自慢気に話す。
どんなタイプのスピーカー、どんな音のスピーカーでも、自分の音にしてしまう、と。

私の耳には、ある時から、古い知人の音は、自己模倣になってしまった、と聴こえる。
自己模倣だから、どんなスピーカーであっても、同じ音で鳴るしかないのだ。

けれど古い知人は、それで満足している。
つきあいのなくなった私がとやかくいうことではない。
こうなってしまうと、自己模倣も純化なのかもしれない。

古い知人は、自己模倣という純化の沼にどっぷりと浸かっている。

Date: 9月 26th, 2018
Cate: audio wednesday

第93回audio wednesdayのお知らせ(ホーン周りと設置)

10月3日の次回のaudiowednesdayまで、ちょうど一週間。
テーマは、ホーン周りの見直しである。

具体的にはアルテックの811Bホーンにバッフルを取り付ける予定だ。
取り付ける、と書いてしまったが、本来ならば、取り付けた、とするところだが、
なかなか喫茶茶会記に行けずに、まだやっていない。

最悪、3日当日に取付作業を行うことになる。
その場合、音が出始めるのは20時ごろになる、と思う。
開始時間は、いつもと同じ19時だが、少しスタートは遅くなるかも……。

10月に入ってから、もう一度更新します。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 26th, 2018
Cate: アナログディスク再生

リマスターSACDを聴いていて(その2)

9月に、二つのD/Aコンバーターを聴いた。
メリディアンのULTRA DACとCHORDのMojoである。
偶然にも、ふたつともイギリスのD/Aコンバーター。

といっても価格はずいぶんと違う。
ULTRA DAC一台分の価格は、Mojo約五十台分である。

これだけの価格の違いがあれば、
ULTRA DACとMojoのクォリティにも大きな違いがあって当然──、
と思われる人もいるだろうが、私にはどちらも優秀なD/Aコンバーターであった。

聴いた日時、場所も違う。
直接比較試聴したわけではない。
そうやって聴いた印象だから、あてにならない、といわれてもしかたないけれど、
この二つのD/Aコンバーターの違いは、どう書いたらいいだろうか、と考えながら、
カートリッジにたとえるなら、どちらもMC型カートリッジであることは確かだ。

ULTRA DACは、オルトフォンのSPU的といえよう。
ご存知のようにSPUは、SPU-Gold以降、さまざまな種類が登場した。
発表された順番通りにすべてのSPUのヴァリエーションを、私は憶えていない。
間違えずにすらすらいえる人は、どのくらいいるのだろうか。

それにすべてのSPUを聴いているわけでもない。
まだまだ新しいSPUは出てくる、と思う。

ULTRA DACの音は、まだ聴いていない、
つまりまだ世に出ていないSPUの音なのかもしれない。

SPUの音を洗練していんた先のところにある音が、もしかするとULTRA DACの音なのかもしれない。

一方、Mojoは、SPUではない。
これははっきりと言える。

Mojoは、SPUと同じMC型であっても、もっと振動系が軽いタイプのMC型の音である。
だから針圧も軽い。
自重も軽い。

要求するトーンアームも、SPUとは違ってくる。
それにカートリッジの内部インピーダンスも、SPUよりも高め──、
こんなことを書いていて、ふと気づく。

こんなたとえは、もう通用しなくなりつつある、
というか、もう通用しない、といえよう。

その1)で、
良質のMM型カートリッジでの再生音に通ずるような鳴り方だった、と書いたが、
これだって、どれだけの人に通用するのだろうか。

Date: 9月 25th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その4)

その1)で、
耳の記憶の集積こそが、オーディオである、といまいおう、と書いた。

メリディアンのULTRA DACを聴いて、
そしてULTRA DACについて、関係してくることについて書いていて、
まさに、耳の記憶の集積こそが、オーディオである、といまいちど強くいおう。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その9)

一年ほど前に、CHORDからPolyが登場した。
Mojoとドッキングするオプションアクセサリーで、
マイクロSDカードからの再生を可能にする機能と、
ワイヤレスのネットワーク機能をMojoに追加する。

Mojoでのシンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”を聴いてから、
真剣にMojoをどう使うかを考えはじめている。

野上さんと同じようにパソコンとUSBで接続して、というのが、
Mojoの入力端子がUSB優先ということからして、一般的である。

それでもパソコン本体が、Mojoに較べてあまりにも大きすぎる。
できればコンパクトにまとめたい。
ノート型にする、という手もあるし、MacならばMac miniもあるな、と思う。

もっとコンパクトに、ということならば、Raspberry Piを使うという手もある。
そんなことを考えていたら、そういえばPolyというオプションがあったな、と思い出した。

一年前は、Polyにさほど興味はわかなかった。
いまは違う。
CHORDというメーカーは、Mojoの使い手のことをわかっているな、と思ったし、
彼らが欲しいモノをつくっているのだな、とも感じた。

PolyはMojoと同じくらいの価格である。
Raspberry Piならもっと安価にできる。
けれど、自分で勉強しなくてはならないところもあるし、
Polyほどスマートにまとめるのは、もっと難しい。

MojoとPolyはドッキングしてひとつのプレーヤーとなるし、
専用のケースも用意されている。
うまいところをついてくるな、と感心もする。

Poly+Mojo、そしてマイクロSDカードでの再生。
これでシンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”を、また聴きたい。

それほどMojoと“A CAPELLA”、
このふたつはがっしりと結びついて、強く印象に残っている。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その8)

(その7)で終りにしようと思っていたが、もう少し書きたいことが残っている。

CHORDのMojoは輸入品である。
これが日本製であったなら、もう少し安価にできるはずなのだが、
日本のメーカーからは、Mojoがなぜ登場してこないのか。

いま発売中のトランジスタ技術10月号に、1ページだが、Mojoの記事が載っている。
内部写真がカラーで載っている。

Mojoを製造することは日本のメーカーでもできるはずだ。
けれど、なぜ開発できないのか、とおもう。

Mojoには三つのデジタル入力端子があるが、入力セレクターはない。
三つの入力には優先順位があって、USBが最優先されている。
日本のメーカーだったら、間違いなく入力セレクターをつける。

Mojoの電源スイッチの色が、入力信号のサンプリング周波数を示す。
ここに関しても日本のメーカーだったら、どうするだろうか。
ディスプレイをつけるメーカーもあろう。

出力端子はどうしただろうか。
そんなふうに細部を検討していくと、
中身は同じだとしても、外観はずいぶんと違ってくると予想できる。

それでも同じ中身を、同等のクォリティの中身を、日本のオーディオメーカーは開発できただろうか。

このくらいモノ、できますよ、というメーカーの人がいるかもしれない。
ならば、つくってくれ、といいたい。

同じことは昔もあった。
ステレオサウンド 55号には書かれている。
     *
いくらローコストでも、たとえばKEFの303のように、クラシックのまともに鳴るスピーカーが作れるという実例がある。あの徹底したローコスト設計を日本のメーカーがやれば、おそろしく安く、しかしまともな音のスピーカーが作れるはずだと思う。
     *
瀬川先生が書かれている。
KEFのModel 303については別項で何度も書いているから、ここではもう書かない。

Model 303も、日本のメーカーは製造はできただろう。
もっと安価にできたはずだ。
けれど開発はできなかった。

日本のメーカーがやったのは、598戦争といわれるスピーカーの開発だった。

そのころから日本のメーカーはスピーカー開発においてはまだしもの感はあっても、
アンプ、チューナーなどの電子機器においては、優秀なモノをつくる、といわれていた。

D/Aコンバーターは、アンプと同じ電子機器であるにも関らず、
日本のオーディオメーカーからMojoに匹敵するモノは出てきていない。

弱体化している、とも感じている。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その7)

Mojoの意味については、Mojoが発表になったときに調べたことがある。
iPhoneアプリのGoogle翻訳でmojoと入力しても、こちらが求める意味は表示されなかった。

それにMobile Joyの略とも発表されていたから、それ以上調べることもしなかった。

野上さんはアメリカ暮しが長かった人である。
Mojoの音に驚いた私は、Mojoの意味について、野上さんに訊いた。
Mobile Joyの略だということは伝えずに、何か意味あるんですか、と訊いた。

意味はあった。
Google翻訳ではダメだったけれど、Googleで「mojp 意味」を検索してみると、
確かに意味がある。
野上さんが教えてくれた意味も、そこにはあった。

CHORDはイギリスの会社で、mojoの、その意味は、どうもアメリカでのもののようだから、
CHORDの人たちが、その意味を知っていたのかまだはなんともいえないが、
偶然なのかもしれないが、それにしてはできすぎの意味がある。

確かにCHORDのMojoは、その意味のとおりの製品である。
mojoとは、人やモノにもともと備わっている力、という意味である。

CHORDのD/Aコンバーターに備わっている力は、どのモデルも共通している。
Mojoも最上機種のDAVEも、核となる技術は同じである。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その6)

瀬川先生は「コンポーネントステレオの世界 ’79」では、こうも書かれていた。
     *
 35ミリカメラの一眼レフの流れをみても、最初はサブ機的なイメージでとらえられていたものが、数年のあいだに技術を競い合っていまや主流として、プロ用としても十分に信頼に応えている。オーディオもまた、こうした道を追って、小型が主流になるのだろうか? 必ずしもそうとは言いきれないと思う。
 たしかに、ICやLSIの技術によって、電子回路はおそろしく小型化できる。パーツ自体もこれに歩調を合わせて小型化の方向をとっている。けれど、オーディオをアナログ信号として扱うかぎり、針の先でも描けないようなミクロの回路を通すことは、やはり音質の向上にはならないだろう。プリント基板にエッチングされた回路では電流容量が不足して音質を劣化する、とされ、エッチング層を厚くするくふうをしたり、基板の上に銅線を手でハンダづけする手間をかけて、音質の向上をはかっている現状では、アンプの小型化は、やはり限度があるだろう。オーディオがディジタル信号として扱われる時代がくれば、手のひらに乗るアンプも不可能ではなくなるだろうが……。
     *
MojoはD/Aコンバーターだから、半分はアナログ信号を扱っているけれども、
それでもD/Aコンバーターとしての性能は、
デジタル信号のアナログ信号への変換部分にかかっているといえるし、Mojoというより、
CHORDのD/Aコンバーターの技術的特徴は、まさにこの部分にある。

Mojoがアナログ信号だけを扱うオーディオ機器であったら、
Mojoのサイズと価格で、Mojoに匹敵する音を実現するのは困難(というより無理)といえる。

別項「redundancy in digital」を書いていることと対極にあるデジタル機器が、Mojoともいえる。

Mojoは手軽に扱ってもそれなりの音は聴かせてくれる。
「Mojo、いいけれど、それでもこのサイズ、この価格を少し超えている程度だよね」
そんなふうに捉えている人がいても不思議ではない。

あのサイズ、あの重さだから、どこかにポンと置いて接続して鳴らす。
本来はそういう使い方をしてもいい製品なのだろう。

Mojoとは、Mobile Joyを略した型番である。
だから、9月21日の夜、野上さんのところであれこれやったようなことを、
Mojoは、ユーザーに要求していないのかもしれない。

それでも、あれこれやれば、しっかりは音は変化していく。
そうやって得られる音は、デジタル機器ゆえの進歩を実感させるとともに、
Mojoの、もうひとつの意味についても気づかされる。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その5)

「緻密なメカは、セクシーだ」ということでは、
われわれの世代、上の世代のオーディオマニアには、
ステラヴォックス、ナグラのオープンリールデッキがまさしくそうである。

どちらもスイス製、しかも高価だった。
熊本のオーディオ店では実物を見ることはなかった。
東京に来てからも、オーディオ店で見た記憶はない。

写真や映画に登場した、これらのメカを見ては、
使う目的はほとんどないにもかかわらず、欲しい、と思っていた。

この時代、小型でも優れた音ということになると、途端に高価になる。
国産の小型コンポーネントは、ナグラやステラヴォックスのような製品ではなかった。
比較的安価な製品だった。

このことは瀬川先生も、
《それが当り前で、パワーアンプに限らず、同じ時代に同じような内容のものを超小型化しようとしたとき、もし音質を少しも犠牲にしたくなければはるかに高価につくし、同程度の価格でおさえるなら音質は多少とも聴き劣りするはずだ。それでなければ大型機の方が間違っている》
と書かれている。

国産の小型コンポーネントのそれぞれの価格は、CHORDのMojoより少し高いくらいに抑えられていた。
当時の小型コンポーネント(その4)で引用した瀬川先生の文章にあるように、
音にこだほるオーディオマニアにとっては身構えせずに聴ける、いわばサブ的なシステムとして、
《音楽を、身構えて聴くことなど思ってもみない人たち》にとってはメインのシステムとして、
素直に受け止められる。

ではMojoはどうかといえば、
《音楽を、身構えて聴くことなど思ってもみない人たち》にとってのメインのシステムの一部となる。
オーディオマニアにとっても、そうなるだけの音を聴かせてくれる。

身構えて聴いても、というより、
シンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”では、身構えて聴きたくなる音を再現してくれたからだ。
これは、MojoがD/Aコンバーターという、デジタル機器のひとつだからかもしれない。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その4)

その1)で、iPhoneのカメラについて触れたのは、
初期のデジタルカメラからの進歩が、そのままCHORDのMojoにあてはまるからである。

40年前、瀬川先生が「コンポーネントステレオの世界 ’79」の巻頭で書かれていることも思い出す。
少し長いが引用しておく。
     *
 パイオニアがA2050(プリメイン)でまず横幅を38センチに縮めて小型化のトップを切ったのは78年の3月だった。この寸法自体は驚くにあたらないが、パイオニアの場合、これと同寸法のチューナーとカセットデッキを同時に発売し、小型スピーカーと、それに前年にすでに発売していた小型レコードプレーヤー(XL1350)を組んで、ミニコンポーネントシリーズとしてまとめたところがユニークだった。このシリーズは周到に計画されたらしく、随所に新しい構造上のくふうがみられ、しかもサイズに無理をしていないせいか音質も立派だと思うが、小型化という点では、なかなか可愛らしいね、という程度の評判にとどまったと思う。
 その意味で、6月にテクニクスとダイヤトーンから相次いで発表された小型アンプ・シリーズが、本格的な超小型化のあらわれで、その後はオーレックス、少し遅れてソニー、ビクター、アイワ……と同類が次々に出現しはじめた。
 これらの超小型アンプのおもしろさは、何よりもまず、実物を目の前に置いたときの意外性にある。こんなに小さくて! と、誰もが目を見張る。カメラなどでも同じことだが、従来一般化していた大きさのものを、そのまま小型化したのでは、どこか玩具的な印象を与えてしまう。その点はさすがに心得たもので、テクニクスもダイヤトーンも、そしてその後を追った各社の製品も(一部を除いては)、材質や仕上げに精巧な感じをそれぞれに表現していて、それがいっそう、ミニチュアとしてのおもしろさ、小型化されているにもかかわらず信頼感を抱かせる大切な要素になっている。
 ただ、前例のない製品であるだけに、細部でのコントロール類の機能や形態の整理に、まだ十分に消化しきれていない部分が各社とも散見されるのは、いまの段階では仕方のないことだろう。
 これまでに発売されたミニアンプを形態別に分類してみると、トップを切ったテクニクス、ダイヤトーン、オーレックス、アイワの四社がセパレートタイプ、あとを追ったビクター、ソニーの二社がインテグレイテッド(プリメイン)タイプというように(パイオニアは超小型とはいいにくいので別にすれば)同類で、このほかにテクニクスがレシーバーを一機種追加している(同社では「レシーバー」という呼び方のイメージのよくないことを嫌って、「チューナー・アンプリファイアー」と命名しているが)。
 ミニアンプとしてどういう形態が最も好ましいか、などということは簡単には結論づけられないが、しかし次のような見かたができる。
 こんにちの時点まで、アンプは大きさや重さの増加することなどいっさいかまわず、いわばなりふりかまわないやりかたで、音質の向上に務めてきた。電源部の強化、アイドリング電流を多くするために放熱板の面積を増加する……。すべて大型化の方向であった。
 パルス電源などの新しい技術の助けを借りたにせよ、例えばテクニクスのSE-C01(パワーアンプ)があの大きさ(W29・7×H4・9×D25cm)で42W×2の出力を得ていることは驚異だが、同じ40Wといっても、たとえばGASの〝グランドサン〟の鳴らすあの悠揚たる、まるで100W級ではないかとおもえるような音にくらべると、やはりどこか精一杯の感じがすることは否めない。ダイヤトーンやオーレックスの場合は、パワーアンプを(コントロールアンプの寸法に合わせないで)ひと廻り大型に作っているが、それでもやはり、同じパワーの大型機にくらべて同格の音がするという具合にはゆかない。
 それが当り前で、パワーアンプに限らず、同じ時代に同じような内容のものを超小型化しようとしたとき、もし音質を少しも犠牲にしたくなければはるかに高価につくし、同程度の価格でおさえるなら音質は多少とも聴き劣りするはずだ。それでなければ大型機の方が間違っている。
 改めて言うほどの問題ではなく当り前だと言われるかもしれない。が、私の言いたいのはこれから先だ。
 ミニアンプを実際に見た人は、誰でも、その可愛らしさに驚く。そのサイズから、これなら机の上に、書棚や食器棚の片隅に、また寝室のベッドのわきに……さりげなく置くことができそうだ、と感じる。またそれほどではない一般の人たちも、その点では変らない。
 言いかえればそれは、ことさらに身構えずに音楽が楽しめそうだ、という感じである。ミニアンプ(を含む超小型システム)は、誰の目にも、おそらくそう映る。実際に鳴ってくる音は、そうした予感よりもはるかに立派ではあるけれど、しかしすでに大型の音質本位のアンプを聴いているマニアには、視覚的なイメージを別として音だけ聴いてもやはり、これは構えて聴く音ではないことがわかる。そして、どんな凝り性のオーディオ(またはレコード)の愛好家でも、身構えないで何となく身をまかせる音楽や、そういう鳴り方あるいはそういうたたずまいをみせる装置を、心の片隅では求めている。ミニアンプは、オーディオやレコードに入れあげた人間の、そういう部分に訴えかけてくる魅力を持っている。
 では、いわゆるマニアでない人たちにはどうか。音楽を、身構えて聴くことなど思ってもみない人たち。生活の中で、どこからともなく美しい楽しい音楽がいつも流れていることを望んでいる、そんな聴き方の好きな人たちなら、ミニアンプは、マニアがときたま身を休めるためのいわゆるセカンドシステムやサブ装置(システム)でなく、そのままメインの再生装置として素直に受けとめられるはずだ。
 オーディオやレコードのマニアにとってはどこまでもサブ機であり、一般の人たちにとってはそのままメインの装置になる。
 これは一見矛盾しているようだがそうではなく、このことがミニアンプのありかたに大きな示唆を与える。
 マニアにとってのサブ機なら、あえて大仰にセパレートタイプなどと身構えなくても、インテグレーテッド型、あるいはいっそうまとめた形のレシーバータイプであるほうが、むしろ好ましい。テクニクスのSA-C02を目の前に置かれて、これ一台でチューナーからパワーアンプまで全部収まっている、と思うと、まるで、いままで背負っていた重いリュックサックを肩から下ろした瞬間のような、素敵に身軽な安堵感をおぼえる。これでいいじゃないか。十分じゃないか。何を好んで、いままでのあの図体の大きな、三つも四つも分割された場所ふさぎのアンプに何の疑いも抱かなかったのだろう……。
 マニアでない一般の愛好家にとってはどうなのだろうか。もしも、日常の暮しの中でさりげなく音楽を流しておきたい、という程度にオーディオセットを考える人なら、そして、正常な生活感覚を持っている人なら、やはり、チューナー、プリ、パワーと三つに分かれた大仰さよりも、せいぜいチューナーとプリメインの二つ、もし性能が同じなら一体型レシーバーの方を、とるはずだ。
 ──こう、考えてくると、ミニアンプをプリメイン+チューナー,さらにセパレートタイプに、あえて作る必然的な理由というものが、次第に薄れてくることがわかる。
 とは言っても、私は、こうあるべきというヤツが大嫌いだ。ミニアンプのいわば主流がこんな方向を目ざすのが本すじであることを言いたかっただけで、しかしそこに、セパレートあり、プリメインあり、また結構で、それぞれに個性を競い合わなくては、ものは面白くならない。いまはまだ製品としての例はないが、たとえばナカミチ630のような、チューナー+プリアンプという形が、ミニの中に生まれてもよさそうに思う。こちらを手もとに置いて、パワーアンプはスピーカーの近くに持っていってしまう。このほうが理想的でもあるはずだ。
 ミニアンプに触れたのだから、そのいわば元祖に敬意を表しておかなくてはならないだろう。いうまでもなくイギリスQUADだ。むろんQUADはミニアンプを作ろうとしていたわけではない。けれど、こんにちの新しい国産ミニアンプをみて驚いた目で、もういちどQUADのアンプ群やチューナーを眺めてみれば、それがもう十数年以前から(管球時代からの流れでみれば二十年以上に亘って)、このサイズを維持してきたことに驚かずにはいられない。
     *
1978年に、国産メーカーから小型化をはかったコンポーネントが登場した。
テクニクス、ダイヤトーン、オーレックス、アイワ、ビクター、ソニーらのなかで、
いまもオーディオマニアの記憶に残っているのは、テクニクスのコンサイスコンポのはすだ。

私もそうだ。
ダイヤトーン、オーレックスのミニコンポーネントも記憶に残っているが、
この時代の小型コンポーネントということですぐに思い出すのは、コンサイスコンポである。

オーレックスの場合、広告は、製品以上に記憶に残っている。
この広告のキャッチコピーは「緻密なメカは、セクシーだ。」であった。

確かに小型で緻密なメカは、セクシーといえる。