Date: 1月 27th, 2011
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(グラモフォン誌について)

つい最近のことらしいが、英グラモフォン誌のサイトで、
1923年の創刊号からすべてのバックナンバーを読めるようになった。

それも、ただページをスキャンした画像をそのまま載せるだけでなく、
当然のことだが、検索もできる。
素晴らしいことだ。

1923年といえば約90年前。
そういう時代にグラモフォン誌に記事・評論を書いていた人たちは、
まさかこういう時代がくるとは、まったく想像できなかったことだろう。

イギリス国内だけで読まれるのではなく、インターネットに接続できる国・環境であれば、
どこからでも読むことができる。

グラモフォン誌の創刊号がどれだけ発売されていたのかは知らない。
発行部数はそれほど多くはなかったはず。
そのころグラモフォン誌を読んでいた人たちの数と、
いまインターネットを通して読んでいる人の数は、いったいどれだけ違うのか。

1923年の創刊号からいままで発行されてきたグラモフォン誌を集めると、どれだけの量になるのか。
いまではiPadとネット環境があれば、手で持てるサイズ・重さに、収まってしまう、ともいえる。

探したい記事も、記憶に頼ることなく、検索機能で簡単に、確実に見つかる。

当時の筆者・編集者の人たちにとっては非日常であり、夢のような時代に、
われわれは生きている、手にしている。

グラモフォン誌が素晴らしいのは、ここにあると思う。
当時の夢物語・非日常を、きちんと日常にしてくれたことだ。

そして、なぜ日本では……と思ってしまう。

Date: 1月 26th, 2011
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(続々・余談)

日本では、SUMO以降のボンジョルノの消息については、パタッととだえてしまった。

なにをやっていたのか、は、やっぱりThe Goldの愛用者としてはひじょうに気になって、
関係者の方数人にきいたことがある。

ある人の話では、SUMOが日本から撤退した後も、新型のパワーアンプをつくっていた、らしい。
SUMOでだったのか、それとも新しい会社だったのかははっきりしなかったが、
ボンジョルノにとって、かなりの自信作だったそうだ。

それは音だけでなく、安定性・信頼性においても、かなりの自信作で、
とにかくこわれやすいという日本での汚名をはらうためのモノでもあったらしい。

ただボンジョルノとしては、ここで心機一転する意味もあってだろうか、輸入元を変えたかったそうで、
ある輸入商社の社長に相談をもちかけた、ということだ。

その社長いわく、
「日本において、輸入元を変えることは、むしろ良くはとられない。
私のところで扱うよりも、以前からのつきあいのある輸入元でやったほうがいい」
と説得したそうだが、ボンジョルノの情熱に押し切られて、とにかく新型のアンプを聴いてみることになった。

社長の自宅のリスニングルームで、試聴は行われたそうだ。

スピーカーは、名器といわれているモノだ。
ここで、スピーカーの型番を書いてしまうと、詳細がはっきりするのであえて書かない。

とにかく、そのスピーカーの、その社長が所有されていた極上のコンディションのものは、
もうすでに手に入れるがきわめて難しいものであったが、
ボンジョルノの自信にみちた、安定度に対する言葉を信じて、そのスピーカーにアンプは接がれた。

電源スイッチを入れた瞬間、ウーファーのコーン紙が燃えてしまった、ときいた。

だから、新型アンプの輸入の話は、ここで終ってしまう。

そのあとはというと、ボンジョルノは肝臓を壊したときいている。
それも肝臓癌だった、という話だ。
しかもボートピープルだったそうだ。

SUMOのThe Goldの出力段の回路構成は特許を取得していたが、
これも日本のクラウン・ラジオに売ってしまった、という話も、また別のところからきいた。

治療費を捻出するためだったのだろうか。

これらの話は、みな、信頼できる人からきいたものばかりだ。
だからボンジョルノの復活は、もうないな……と思っていた。

事実、ボンジョルノのことは、少なくとも日本のオーディオ界ではずっと忘れられていたといっていいだろう。

だからAmpzilla2000で、ボンジョルノが復活したときは、うれしい、という気持以上に、
やっぱり不思議な男だな、というほうが強かった。

マーク・レヴィンソンは、絶対にボンジョルノのようなことにはならないだろう。
マークレビンソンのあとにチェロ、つづいてレッドローズミュージック。
現在はいくつかの会社のコンサルタント的な仕事をこなしながら、Daniel Hertzという会社もやっている。
あと香水もつくっている。
そんなレヴィンソンは、ボンジョルノのような状況に陥りそうになっても、
うまく回避して、次のステップになんなく進んでしまう人物かもしれない。

そんな器用さ・要領のよさは、ボンジョルノには、ない、と言い切っていい。
だからこそ、ふたりのつくる、どちらのアンプに惚れるか、は人によって違う。

私も、学生時代はレヴィンソンのアンプにつよく憧れてきた。
でもいまは、ボンジョルノのアンプ(ボンジョルノの人柄をふくめて)をとる。

とはいうものの、それでも片足の小指の先っぽぐらいは、LNP2の魅力にまだ浸かったまま。

Date: 1月 26th, 2011
Cate: audio wednesday

公開対談のお知らせ(二度目)

1週間後の2月2日(水曜日)、イルンゴ・オーディオの主宰者、楠本恒隆さんと私の公開対談を行います。

やはり多くの方に来ていただきたいので、二度目の告知でした。

Date: 1月 26th, 2011
Cate: 五味康祐

「いい音いい音楽」

以前読売新聞社から出ていた五味先生の「いい音いい音楽」が、昨年末に中公文庫として復刊された。

五味先生の本が、また世に出てくるのは、それだけで嬉しい。
所有している本なので購入はしなかったが、それでも書店に並んでいるとつい手にとる。

今回の文庫化にあって、山本一力氏のあとがきが加わっている。
山本氏がオーディオマニアだとは知らなかった。

このあとがきが、なかなかいい。
ひとつだけ氏に、異論を唱えたいところがあるけれど、それは措いとくとして、
「いい音いい音楽」をすでにお持ちの方は、このあとがきだけでも読んでほしい、と思う。

Date: 1月 25th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その4)

人間にとっての音の入口となる耳の穴は、真正面からは見えない。
斜め後ろからでない、見えてこない。

外耳がある、というものの、耳は目と違い、前面に対してのみ感知器官ではない。
人間の視野はそれほど広いものではない。
横にあるものを見たいときには、横を向く必要がある。

耳は360度、どの方向からでも、どちらを向いていても感知できる。

人間の得る情報量の大半は視覚から、ということになっているが、
その視覚が対応できる範囲は広くない。
それに目は閉じられる。

耳にはまぶたはない。寝ているときも、音を感知している。
つねに広い範囲の音を感知しているからこそ、人は察知することができるのではないだろうか。

そうやって生きてきている、その中で音楽を聴いてきている。

ところがノイズキャンセリング付のヘッドフォンばかりでの音楽の聴き方は、
その意味でまったく別もののではないかと思うわけだ。

スピーカーを通して聴くのと、ノイズキャンセリング付のヘッドフォンで聴くのと、
もしかすると、後者のほうが純粋に音楽を聴いていることになる、といえるのかもしれない。
どちらが優れた聴き方、という区別はつけるものではないのかもしれない。

それでも、前者と後者では、マーラーが作品に書きこんだ景色は、同じに観得るのか、という疑問は残る。

そして、マルチチャンネルと、これまでの2チャンネルとの違いも、
ここに書いたことと近いものがあるのではないだろうか。

2つのスピーカーのあいだにある「窓」は、マルチチャンネルではなくなってしまうのか、
それとも360度すべて窓になってしまうのか(そうなったら、それは窓ではなくなってしまう気もする)。

Date: 1月 25th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その3)

オーストリアのある山荘にて作曲に没頭していたマーラーを訪ねてきたブルーノ・ワルターが、
まわりの景色に見とれていたので、
「その景色は私の音楽の中にすべて入っている」とマーラーは言った、というエピソードがある。

このマーラーの言葉どおりであるならば、聴き手は、マーラーの音楽をとおして、
彼が眺めてきた景色、だけでなく、彼が生きてきた時代の空気、ほかにもいろいろあるだろうが、
そういったことまでも、真に優れた演奏からは感じとれる道理になる。

その意味で、聴き手の目の前にあるふたつのスピーカー間の空間は、
まさしく世界・社会に通じている「窓」といえるのかもしれない。

音楽を聴く、という行為は本来孤独なものである、と同時に、
その「窓」によって、なにかとつながっている。

その「窓」が、ヘッドフォンのみで、さらにノイズキャンセリング付のもので、
雑多な音に耳を閉ざすような聴き方をしていると、存在しなくなる──、そんな気がする。
どこにも通じなくなっている。

聴き手は、その「窓」をとおして、いろいろなものを見てきている。

Date: 1月 25th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その2)

外で、電車内とかで、音楽を聴く習慣は全くない。

iPodは割とはやい時期に購入した。
ソニーのウォークマンも初代は持っていなかったけど、2代目のモデルは持っていた。
でも、歩きながら、とか、電車の中で一、二度使ってみたことはあっても、結局それっきり。
あとは、家で気が向いたときに使う、という程度である。

だから、正直、歩くときも電車の中でもずっとヘッドフォン(イヤフォン)をして、
長時間音楽を耳にしている人に対しては、音楽を聴いているのか、という疑問は湧いてくる。

「聴いている」という答えが返ってくるだろう。
そこで、音楽を聴く、ということについて議論する気はない。

でも、ノイズキャンセリング付のヘッドフォンをかけている人が、電車の中でも増えてきているを目にして、
「聴いている」にしても、ずいぶん違う聴き方であるだけでなく、
もしかすると、まるっきり対極にある聴き方をしているのではないか、と考えるようになってきた。

電車の中では、雑多な音がしている。走行音やまわりの人の発する声や雑音、
それらを耳にするのが嫌で、音楽で遮断したい、という人がいるという話を、誰かから聞いたことがある。

好きな音楽を耳もとで、ある程度の音量で鳴らせば、たしかにまわりの、そういった雑音は聞こえにくくなる。
そこにノイズキャンセリング機能が加わると、さらにまわりの雑音はより徹底的に遮断される。
そのうえで、音楽で、音のカーテンをつくる──そんな印象を、私は受ける。

そういう音楽の聴き方を日常的になってしまった場合、スピーカーを通して聴くのとでは違ってくるし、
ヘッドフォンでの音楽の聴き方についても、そういうことが当り前になった人と、
スピーカーと併用してヘッドフォンでも音楽を聴く、という人とでは、まるっきり違うはず。

Date: 1月 24th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その1)

どの新聞だったのかは忘れてしまったけど、
日本でiPhoneが発売されてしばらく経ったころ、「iPhone、日本市場で苦戦」といった記事があった。
iPadが登場したときも、似たような記事を見かけた。

でも、それらの記事が出るすこし前に、電車に乗っていると、iPhone、iPadを使っている人を、
毎日、必ず見かけるようになっていた。
iPhoneに関していえば、一車両に、ひとりということはなく、
複数の人が使っていることが多く見かけていただけに、なんと間の抜けた記事なんだろう、と思った。

こういう記事を書く人は、電車に乗らないのだろうか。
少なくとも、東京に住んでいて、電車に乗ってまわりを見渡せば、それが流行りつつあるのかどうかは、
なんとなく感じとれる。

その例でいえば、最近電車でよく見かけることが多くなったのが、
ノイズキャンセリング機能付きのヘッドフォンで音楽を聴いている人だ。

ヘッドフォン、イヤフォンで聴く人は、増えているのだろう。
若い人のなかには、スピーカーに関心をもたずに、ヘッドフォン、イヤフォンだという話も耳にする。
そういう人たちのなかからスピーカーに移る人も、少ないような話も聞く。

スピーカーで聴くのがメインの私でも、ときにはヘッドフォンで音楽を聴く。
思うのは、スピーカーとヘッドフォンを併用している人の音楽への接し方と、
ヘッドフォンだけという人では、もしかすると違うのかもしれない、と、
電車の中でのノイズキャンセリングのヘッドフォンを見て、思う。

ノイズキャンセリングにするのは、雑音を打ち消して、
いい音をそれほど音量をあげずに聴けるという効果が認められてきたのだろう、と昨年までは思っていた。

でも、今年になって思うのは、耳を閉ざしているのではないか、ということだ。

Date: 1月 23rd, 2011
Cate: 「本」

瀬川冬樹氏の「本」(思っていること)

今年になり、2度、見聞きしたことがある。
そこで語られている言葉には多少の違いはあっても、内容はまったく同じことだった。

紙の本(いわばこれまでの「本」)をつくるのは真剣な行為であって、
ネットや電子書籍には、その真剣さがない、お気楽にやっているもの、ということだった。
しかも、これを発言しているのが、オーディオ業界にいる人だった、というのに、
正直がっくりした。この程度の認識なのか……、と思う。

目で捉えることのできない音に向かい合うオーディオなのに、
そこで働いている人たちが、こんな表面的なものの考え方・捉え方をしているところに、
オーディオの将来が、これから先どうなっていくのかが、暗に語られている。
(こんな人たちは、ごく少数だと信じてもいる……)

紙の本、という従来からの形にするという行為は、「残す」ということである。
少なくとも私には、そういう感覚がある。

いま電子書籍の形で、瀬川先生の「本」づくりをしているから、いえることがある。
電子書籍には、紙の本をつくっていたころには感じなかったものが、確実にある。
それは「運ぶ」という感覚。

この「運ぶ」ということは、いうまでもないけれど、
書き手・作り手から読み手へ、という意味ではない。
もっと深い意味で、肯定的な意味での「運ぶ」である。

「残す」という感覚ももちろんあるけれど、この「運ぶ」という感覚がはるかに強い。

何を、どこからどこへ、と運ぶのか、を考えたときに、やはり浮んでくるの「運命」ということばだ。

Date: 1月 23rd, 2011
Cate: 4343, JBL

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その8)

4ウェイ構成のスピーカーシステムで、もっとも重要、と昔からいわれているのは、ミッドバスである。

あえていうことでもないと思うが、ここで言う「4ウェイ」とは、
瀬川先生の提唱されたもの、
JBLの4343、4350などの同じもの、
岡先生のいわれる2ウェイの両端の帯域を拡張したもの、のこと。

スペンドールのBCIIIのように、3ウェイのBCIIIにさらにウーファーを足したもの、とか、
3ウェイにスーパートゥイーターを足したものではなく、ミッドバス帯域に専用のユニットのもつモノのこと。

この種の4ウェイで、なぜミッドバス(中低域)のユニットが重要となるのか。
もちろん、音楽のメロディ帯域を受け持つ、ということもある。
でも、オーディオ的にいえば、
それ以上に、このミッドバスのユニットのみが、40万の法則に従っている、ということだ。

このことはふしぎと誰も指摘していないことだが、他のどんな構成のスピーカーでは、
ウーファーやトゥイーターはもちろん、スコーカーでも、40万の法則を満たすことは、まずできない。
4ウェイのスピーカーシステムにおいて、ミッドバスだけが、そうである。

40万をミッドバスの下のカットオフ周波数300Hzで割れば、上限は約1.3kHzになる。
ほぼ4343のミッドバス(2121)の受持帯域に重なる。

このことに気がつけば、瀬川先生がフルレンジからスタートされ、ユニットを段階的に足していくことで、
帯域の拡大を実現されてきたことを、少し違う視点から眺められるようになる。

Date: 1月 22nd, 2011
Cate: 4343, JBL

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その7)

スピーカーシステムとして完成させるときに、4ウェイという形態はそうとうに難しいことなのだろうか。

井上先生はマルチウェイのスピーカーは、方程式を解くのに似ている。
2ウェイなら二次方程式、3ウェイなら三次方程式、4ウェイなら四次方程式で、
次数が増えてゆくにつれて、解くのは難しくなるのと同じだ、とよく言われていた。

一方で、岡先生はすこし違う意見だった。
4ウェイよりも、むしろ3ウェイのほうがクロスオーバー周波数を、
どこにとるかによって、かえって難しくなることもある。
4ウェイ、それも2ウェイをベースにして、
それの低域と高域を拡張するためにユニットを2つ足すかたちの4ウェイであれば、
むしろ3ウェイよりもシステムとしてまとめやすい、といったことを言われていた。

井上先生と岡先生の意見のどちらが正しいか、ということではなくて、
4ウェイにすることによって生じる難しさもあり、
4ウェイにすることによってかえって簡単に解決できることもある、ということだろう。

私の中には、4ウェイ絶対論、とまで書くと大げさすぎるけれど、
それでも4ウェイ構成に対しては、負の印象はほとんどない。

それはやはりJBLの4343の存在があり、瀬川先生のフルレンジから始まる4ウェイ構想を読んできたからだ。

なにがなんでも4ウェイでなければならない、とは言わない。
それでも、十分につくりこまれたモノであれば、4ウェイの優位性を認めたい、という気持は残っている。

でも、いまや4343のJBLからも、4ウェイが消えていく時代だ。

Date: 1月 22nd, 2011
Cate: 4343, JBL

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その6)

JBLのカタログには、4348はまだ残っている。

センタースピーカー用のLC2CHと4348だけが、JBLのラインナップで4ウェイ構成だ。
つまり実質的に4348、1機種のみ、といってもいいだろう。
その4348も、いまオーディオ雑誌で取り上げられることも極端に少なくなっている。

4365、その前に登場したS9900、それにDD66000の取り扱われ方と比較すると、
残っている、という表現が、かなしいかな、ぴったりという感じだ。
(いましがたハーマン・インターナショナルのサイトを見たら、生産完了品につき流通在庫のみ、とあった)

バイアンプ仕様の4350を別格とすれば、4341から始まったJBLのスタジオモニターにおける4ウェイ・システムは、
4343でピークを迎え、そのあとはゆっくりと消えていくような印象すら受ける。

4348のスタイルを見ると、あきらかに4343を意識している、と思う。
スラントプレートの音響レンズを、JBLはもう採用することはないはず。
ゆうえに4343の、インパクトあるデザインは、もうJBLのスピーカーには望めないだろう。

それでも4348は、バスレフダクトの数と位置、そしてインラインのユニット配置、
それにミッドバスフレームの形、こういうところに4343を、わずかとはいえ感じさせる。

だからかえって、4343と、頭の中でつい比較してしまう。

そういうデザインのことは措いて、音に関していえば、
以前も書いたように4343の後継機は4348だろう。
4344よりも、ずっと4343をうまくリファインしたところがあって、
鳴らそうと思えば、1970年代後半の、あの時代の音の片鱗を確実に聴かせてくれる。

4348が、さらに4365の技術をベースにして、
4368といった型番のスピーカーシステムとして再登場したら……、そういったことも考えたくなる。

けれど、現実には、もうJBLから4ウェイのスタジオモニターは、出ない気がしてならない。

Date: 1月 21st, 2011
Cate: 4343, JBL

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その5)

昨秋登場したJBLの3ウェイ・スタジオモニターの4365の評価は高い。

見た目のプロポーションは決していいとは思っていないが、音は、うまくまとめられている。

オーディオ機器のプロボーションは、とても大事であって、ときに仕上げよりも気になることがある。
たとえば、最近の製品でいえば、ラックスのSQ38uと同じくラックスの新しいアナログプレーヤーのPD171。

この2機種に関しては、デザインが、というよりも、プロポーションがおかしい、と思う。
どちらもずんぐりして、鈍重な感じが漂っている。
プリメインアンプとアナログプレーヤーという、どちらも必ず頻繁に手をふれるもの。
目につくところに、どちらも置くモノにも関わらず、
なぜあえて、こういうプロポーションにしたのだろう……。

しかもどちらも型番からわかるように、以前のラックスを代表してきたモノである。
とくにPD121は、木村準二氏による素晴らしいデザイン(瀬川先生のデザインと勘違いされている方が多いけれど)。

テクニクスのSP10と同じモーターを使いながら、SP10のすこし野暮ったいデザインと正反対の、
あれだけ洗練されたデザインに仕上げたのと較べると、
同じメーカーのアナログプレーヤーとは思えないほど、
あえていえば、あの艶めいた漆黒のレコード盤を演奏するものとは思えない野暮さである。
PD121の洒落気は、みじんもない。

SQ38uについても同じだ。
なぜ同じ型番で、ああいうふうにしてしまったのだろうか。
まだ別の型番、それもSQ38をまったく連想させないような型番だったら、まだしもなのに。

その、大切なプロポーションで不満を感じる4365だが、音を聴くと、
もうJBLは4ウェイをつくることはないんだろうな、と感じてしまう。

Date: 1月 21st, 2011
Cate: 4343, JBL

4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その4)

瀬川先生の「本」づくりで、けっこうな量の文章を入力したが、
意外にもJBLのユニットの音質そのものについて書かれているものは、少ない。

スイングジャーナル、1971年8月号とステレオサウンド 35号、ベストバイの特集の中に見つかるくらいだ。

ステレオサウンドのベストバイは、いまと違い、スピーカーユニットも選ばれている。
フルレンジ、トゥイーター、スコーカー、ウーファー、ドライバー、ホーンと分けられ、
それぞれの中から選ぶという形だが、
フルレンジ、トゥイーター、スコーカー、ウーファーではJBL以外のユニットも瀬川先生は選ばれているが、
ことドライバーに関してはJBLだけ、である。
ウーファーではアルテックの515Bについて書かれているのに、アルテックのドライバーは選ばれていない。
エレクトロボイスもヴァイタヴォックスのドライバーについても、同じだ。

だから当然ホーンも、JBLだけの選択となっている。
しかもJBLのドライバーも、プロ用の2400シリーズのみの選択だ。
(ウーファー、トゥイーターに関しては、JBLのコンシュマー用も選ばれている)
242024402410の3機種だけ。

おもしろいことに、この3機種は、岩崎先生も選ばれている。

この3機種については、それぞれ瀬川先生の書かれたものを読んでいただきたいが、
2440のところには、やはり「2420より中〜低域が充実する」と書かれている。
反面、2420よりも「中〜高域」で少しやかましい傾向」とある。

Date: 1月 20th, 2011
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(四季を通じて・その3)

季節の変り目の息吹を感じとることは、
日常を発見していく行為にもつながっていると思う。

そしてこの「日常を発見して行為」が、音を良くしていく行為へ、とつながっていく。

日常をしっかりと見つけ、感じとることができること、こそが使いこなしにおいて大事ことであり、
これができない人は、結局は、
目先を変える──つまり器材やアクセサリーを頻繁に変えていく──ことに終始してしまう。

これはなにも使いこなしについてだけいえることではない。

オーディオ評論についてもいえよう。
批評・評論は非日常のなかでは成り立たない気がする。
日常をしっかり見つめられる人でなければならないのは、使いこなしと同じ。

ここでも、このことができない人は、何かを書くために、器材を変えていく、
新しい製品を聴いていくことのみにとらわれてしまう。

結果として目先を変えなければ、何も書けないことになってしまう……。