オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・その7)
この項の(その3)で、音楽を聴く、という行為は本来孤独なものである、と書いた。
言うまでもないことだが、孤立と孤独は同じではない。
孤立した聴き手と孤独な聴き手の音楽への接し方は、
そのままオーディオへの接し方の違いとなって反映されよう。
この項の(その3)で、音楽を聴く、という行為は本来孤独なものである、と書いた。
言うまでもないことだが、孤立と孤独は同じではない。
孤立した聴き手と孤独な聴き手の音楽への接し方は、
そのままオーディオへの接し方の違いとなって反映されよう。
日本で、東京で暮していると、建物のすぐ隣に別の建物があり密集している。
住宅地でも一戸建ての家のとなりにはマンションが建ってたりする。
都心に行けば、さらに高層マンション、高層ビルが建っている。
足もとはたいていアスファルトかコンクリート、といった固い地面。
それらに囲まれながら、の、あらゆる音にとり囲まれている。
こういう環境もあれば、360度見渡すかぎり地平線という広大なところに住んでいる人とでは、
日常の雑多な音は、まったく異っている。
それに同じような環境下でも、気候、とくに湿度が大きく違うところでは、やはり違ってくる。
たとえばカリフォルニアの湿度の低さは、日本に住んでいる者には想像できないほどで、
静電気によってスピーカーのボイスコイルが焼き切れることもめずらしいことではない、と聞いている。
そこまでカラカラに乾いた空気のもとでは、反射してくる音も直接伝わってくる音も、
高温多湿の日本とでは、どれだけ違ってくるのだろうか。
そういうふうに、われわれの周りにある音は、
まざり合っているというよりも、絡み合って存在しているように思える。
スピーカーから出てくる音も、そういう音と絡み合うことになる。
だから、スピーカーの音は、環境と切り離すことのできない性質のもの、といえ、
音と風土の関連性が生れてくるのかもしれない。
結局のところ、音も人の営みによって生れ出てくるものだけに、
スピーカーから、ヘッドフォンから出てくる音だけを、
人の営みによって生み出されてくる音と隔絶してしまうことは、もっとも不自然なことであり、
それは音楽を「孤立」させてしまうことになる、そんな気がする。
音楽を孤立させてしまい、その孤立した音楽を聴いている者も、また孤立してしまう。
それは、自分が住んでいる世界に対して、耳を閉ざしている行為に見えてしまう。
ノイズキャンセリング付のヘッドフォンで音楽を聴くということ、
ヘッドフォンから鳴ってくる音楽以外のすべての音を消し去って聴きたいということであり、
このことは、音楽以外には耳を閉ざしてしまっている──、そういう聴き方だと思う。
周囲の音いっさいに煩わされずに、音楽のみに耳を傾けることができるノイズキャンセリング付のヘッドフォンこそ、
もっとも純粋な音楽の聴き方、といも言える、──とは思えない。
去年の週刊文春に載っていた、たしか市毛良枝さんの記事だったと記憶しているが、
高齢のお母様のためによかれと思ってバリアフリーのマンションにいっしょに住むことにしたら、
なぜだが元気を失われていった。
で、ある時、以前住んでいた一戸建ての家に市毛さんが戻った時に、
ご近所の方々に「お母様はどうなされています?」と訊ねられた。
結局、市毛さんのお母様が元気をなくされていったのは、
高層マンションで周りの雑多な音がまったく聞こえてこない。
そういう環境によって、だということだった。
マンションから出られて、一戸建ての家に戻られて元気になられた、とあった(そう記憶している)。
一戸建てだと、ご近時の音も聞こえている、それ以外にも人が営むことによって生じる雑多な音が聞こえてくる。
そういう音を騒音だと捉えて、まったく拒否してしまうことは、どこか不自然な行為ように感じる。
われわれはありとあらゆる音に囲まれてて生きている。
たとえば50年前、100年前に比べると、われわれの周りにある音の種類は増えているはず。
そのわれわれをとり囲んでいる音こそが、いちばん時代を反映している音だと思う。
なにも不快なほど大きな雑多音の中で、音楽を聴け、といいたいわけではない。
ただ、周りにある音をすべて拒否した中で音楽を聴くことは、ほんとうに音楽を聴くことといえるのだろうか、
そしてほんとうに純粋な音楽の聴き方といえるだろうか。
そういう疑問がわいてくる。
昨夜、1回目を行ないましたイルンゴ・オーディオ主宰者・楠本さんと私との公開対談、
次回は3月2日(水曜日)に、夜7時、場所は今回と同じ四谷三丁目の喫茶茶会記で行います。
毎月第1水曜日に行うことにしました。
ですから、4月は6日、5月は4日、6月は1日……となります。
いくつかの話から考えられるのは、
ボンジョルノの設計したアンプが故障しやすい、といわれるようになったのは、
GAS以降であること、そして日本において、とくにそうであることから、
回路そのものに原因がある、というよりも、むしろ作りに問題があったのかもしれない。
The Goldの中古を手に入れて、まずしたことは、バラせるところはすべてバラして、
丹念にクリーニングしたこと。
接点はもちろん、プリント基板も、行った。
そして、こわれても惜しくないスピーカーをつないで、一週間、その動作を見守っていた。
最初に電源を入れたとき、ボツッ、という音がした。
ファンの音も、けっこう耳障りだ。
でも、それ以外に、不安にさせる雑音は出てこない。
このとき接いでいたのは、けっこう能率が高いスピーカーだったけれど、問題はなさそうだ。
音を出す。
正直、すぐにでもメインのスピーカーシステム、このときはセレッションのSL600に接いで鳴らしたかった。
でもとにかく一週間は、サブスピーカーを鳴らして、様子をみることに決めていたので、がまん。
2日、3日と聴いていくうちに、SL600を鳴らしたい気持は高まっていく。
まったく安定している。
電源投入時のボツッ、という音も、ポツッにかわり、ポッになり、4日目ぐらいからはまったくしなくなった。
The Goldは出力にリレーがない。
保護回路といえば、電圧増幅段の入力のところにあるFETスイッチのみ。
出力段の温度が異常に高くなったときなどに、入力を遮断するくらい。
なのにまったく電源投入時の音がしなくなった。
ほぼ毎日使っていると、このノイズはしない。
プログラムソースは、モノーラルからステレオになってきた。
モノーラルは、モノ、と略すこともある。
このブログで物のことをモノ、と書いてきた。
モノ(モノーラル)とモノ(物)、方や英語、方や日本語だから、
このふたつの「モノ」にはなんら関係性はない、ということになるけれど、
どちらも「モノ」であることは、単なる偶然とも思えない。
モノーラル(モノ)からステレオ録音へとなり、
再生される音像は、いわば実像から虚像へとなっていった。
いうまでもないことだが、ここでいうモノーラル再生はスピーカー1本だけでの再生のことである。
実から虚、ということでは、いまプログラムソース(音源)がそうなりつつある。
SP、LP、CD、SACDといったパッケージメディア(モノ)から、配信へと、いま転換期を迎えている。
もうこれから先、プログラムソースを手にすることは、徐々に、か、もしくは急激に、か、
とにかく少なくなっていくはずだ。
パッケージメディアを実とすれば、配信によるものは虚となろう。
ステレオ再生がつくり出す音像(虚像)を、ときとして、聴き手であるわれわれは実像と感じることもある。
プログラムソースがパッケージメディアという形を捨てたとき、
「虚」という新しいかたちを手に入れるのかもしれない。
「音」と「言」については、川崎先生の書かれたもの、講演を、読み聴きされているかたならば、
目に、耳にされたことがあるはずだ。
何度か目にして耳にしている。
そしてやっと気がついたことは、
「心はかたちをもとめ、かたちは心をすすめる」という、この釈迦のことばと結びついていくことだ。
このことばについては、このブログをはじめたころに書いている。
このことばと、川崎先生の「いのち、きのち、かたち」は、心の中でくり返す。
「音」と「言」──、こじつけだといわれそうだが、こういえないだろうか。
「音は言をもとめ、言は音をすすめる」と。
オーディオにおいては、どうしてもふたつの音をくらべて、その違い(差)に対して敏感であろうとする。
だが、ここだけに敏感であろうとすればするほど、間違いも犯しやすくなる、といえる。
もうひとつ変化に対しても、敏感でありたい。
音は一時たりとも同じ表情はしていない。音楽も、一瞬たりとも同じ表情はしない。
同じフレーズをくり返すときでも、表情までがまったく同じことはない。
例外的にくり返しのフレーズにおいて、同じ録音を採用するときもあるが、
これとて、その直前に演奏されるフレーズによって、表情は結果として変化する、ともいえよう。
同じような表情はあっても、まったく同じ表情はない。
表情は変化している。
こういう表情の変化に敏感であることが、使いこなしにおいては重要である。
どこもいじらなくても、なにか変えなくても、音は聴いているうちに変化していく。
アンプがあたたまってくると、それでも音は変るし、
スピーカーも、とくにしばらく鳴らしていないスピーカーほど、鳴らしていくうちに変っていく。
そういうひとつの流れの中にある変化は、むしろ意識せずに聴いてる方が、敏感に感じとれる。
それは季節の変り目と同じようで、はっきりとした変り目が存在するわけではないけれど、
あきらかにはっきりと変った、と感じられるものだ。
DVDは、Digital Versatile Discの略だが、
最初はDigital Video Discとして企画されたものだったはず。
CDが、音楽のパッケージとして使われるだけでなく、
パソコン用のソフトのインストーラーや当時としては大容量のメディアとしても使われていったように、
DVDも、ビデオだけの利用にとどまらず、多用途なディスクとしての意味で、
videoが、versatile(多用途)へと変更された。
バーサタイル(versatile)と対比させることで、
ユニバーサル(universal)の意味がはっきりとしてくる気がする。
Ampzillaのキットが、どういう内容だったのか、その詳細は知らない。
すべての部品が未実装で、
トランジスター、コンデンサー、抵抗をひとつひとつプリント基板にハンダ付けしていく形だったのか、
それともプリント基板にそれらの部品はすでにハンダ付けされていて、電源トランス、平滑コンデンサー、
プリント基板、そういった大きなものをシャーシー内に配置して結線して形だったのか……。
おそらくハフラーのキットがそうだったように後者の形をとっていたのではなかろうか。
どちらしてもキット販売をするということは、かなりアンプの安定度に自信がないとできないことだ。
ひじょうにクリティカルな設計のアンプを、キットで売るようなことは、いかにボンジョルノでもやらないだろう。
それにThe Goldを買う前に、こんなことをきいたことがある。
The Gold、The Powerにしてもアンプそのものは非常に安定している。
問題があるのは、アンバランス/バランスの変換回路のところだ、ということだった。
この話の出どこは、海外アンプのメインテナンスでは、高い技術をもっていると評判の人から、である。
SUMOのアンプは、コンシュマー用パワーアンプとしては、完全にバランス構成となった最初のモノだ。
だからアンバランス入力とフォーンジャックによるバランス入力がある。
フォーンジャックからのバランス信号はそのままバランス構成の電圧増幅部にはいっていくが、
アンバランス信号は、OPアンプで反転信号をつくりバランス化して電圧増幅部へ、といく。
この変換回路を、トランスに置き換えてしまえば、アンバランス信号をバランス信号にでき、
動作に問題はなくなる、ということだ。
日本ではボンジョルノのアンプは、音は抜群にいいけど、それと同程度に不安定という評価が、一時期できあがった。
復活作となったAmpzilla2000以降は安定しているようで、以前のような噂は耳に入ってこない。
単に私のところに届いてこないだけ、の可能性もあるけれど、大きな問題はないようだ。
だが、ほんとうに以前のボンジョルノのアンプは、不安定だったのか。
不安定だったとして、その原因はどこにあったのか。
少なくとも、日本ではボンジョルノの設計そのものに問題があった、といわれていた。
だが、ほんとうだろうか。
GAS以前に、ボンジョルノが、SAEやダイナコ、マランツのアンプ開発に携わっていたことは書いた。
これらのアンプの不安定で、どうしようもない、という話はきいたことがない。
それにSAEのMark2500とAmpZillaの回路は似ている。
もっともアンプの安定度は回路構成だけで決定されるものではない。
使用部品のクォリティや部品配置、プリント基板・配線の引回し方、それに熱・振動の問題などを、
どう処理するかによっても大きく変ってくる。
ならばボンジョルノは回路設計屋であって、アンプの実装技術には未熟なところがあったのか、というと、
少なくともいくつかボンジョルノが携わったアンプをみてみると、どうもみても、そうは思えない。
時代ごとにみていくと、いかに才能豊かなアンプのエンジニアであることがわかってくる。
それにGAS時代のAmpzillaは、本国アメリカではキット版も売られていた。
瀬川先生の「本」づくりは、部屋にこもりっきりでやっていた。
部屋にはテレビもラジオもない。
特に用事もなければ出かけることもない。
つまり、しゃべる、ということが極端になくなった生活を送っていた。
心地よい季節のときだと窓を開けているから、外から人の声がしてくる。
でも、もうこんな寒い季節になると窓も開けない。人の声もほとんどはいってこない。
しゃべらない、人の声もほとんどきかない生活は、
無人島でひとりで生きているのに通じるところがあるような気がしてきた。
いまは見かけなくなったが、一時期、音楽雑誌では「無人島にもっていく一枚のレコード」とタイトルの記事を、
わりと定期的に、どこの雑誌もやっていた。
人によって、一枚のレコードはさまざま。
当時は、その記事を読みながら、私なら、何をもっていくだろうと考えても、
思い浮ぶものはなかった。無人島へ、という質問が、あまりにも漠然と感じられたためもあった。
いまこんな生活をしていると、無人島にひとりぽつんととり残されたら、
やっぱり無性に聴きたくなるのは、人の声だと思うようになってきた。
歌のレコードをもっていきたい。
まだ誰のレコードにするかは決めかねているけど、歌のレコードしかないと思っている。
意識の「意」は、「音」と「心」からできている。
以前から気づいてはいても、そこで止っていた。
川崎先生が、1月12日のブログに、この「意」について書かれている。
「自分の『意』を見つめることから」のなかで、「音」+「心」=心音、
つまり人が「生れてすぐに心拍となる心臓と鼓動」と書かれている。
翌13日のブログ「心を諳に、そうして意は巡る」、14日のブログ「意識とは生の認知であり良心」、
この3本の川崎先生のブログを読み、「音」と「心」からできていることに気づいただけの段階から、先に進め、
オーディオは、音楽を聴く「意識」だ、ということに気がついた。
オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。