Date: 12月 12th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(ある対談記事を読んで)

twitterを見ていたら、ある記事の見出しが目に留った。

岡村詩野と田中宗一郎が語る“音楽ライターのあり方” 「自覚と見極めがないまま文字だけが増え続けている」

毎日ブログを書いている。
いわば文字を増やしている作業を毎日やっている。
紙の本とは違い、ウェブにはページ数の制約はないに等しいから、
過去に書いたものを削除することなく、毎日書いたものが追加され、文字は増えていく。

私のブログだけではない、オーディオだけにかぎってもプロアマ問わず、
多くの人の書く文章によって、文字は増えていっている。
日本語だけにかぎっても、一日あたりどれだけの文字が増えていっているのか、まったく見当がつかない。

見出しだけでなく、リンク先の対談記事は音楽ライターの世界もそうなのか、と思いつつ、最後まで読んだ。
読みながら、考えることはいくつかあった。

中見出しには、こうあった。
「批評性とは無縁の、自らのテイスト自慢みたいなものになってしまいがち」

この対談記事はすこし手をいれれば、そのままオーディオについての対談記事にもなる。
「自覚と見極めがないまま文字だけが増え続けている」のは、ネットの世界だけではない。
「批評性と無縁の、自らのテイスト自慢みたいなものになってしまいがち」なのも、ネットの世界だけではない。

Date: 12月 12th, 2014
Cate: plus / unplus

plus(その13)

その12)で、ステレオ化は分割によるプラスだと書いた。
では4チャンネルはどうだろうか。

モノーラルを分割してもうひとつ同じモノをプラスしたのが2チャンネル・ステレオならば、
2チャンネル・ステレオをさらに分割してチャンネルをプラスしたものが4チャンネルということになるのか。

4チャンネル・ステレオには、まず二つにわけられる。
ひとつはディスクリート方式、もうひとつはマトリックス方式で、それぞれがまた細かくわかれていく。

4チャンネル・ステレオのブームは、私がオーディオに興味を持つ以前のことで、
4チャンネル・ステレオを聴いたという記憶は、ブームの走りの頃に親戚のところで、
シスコン・クラスのものを聴いたぐらいである。

なので、4チャンネル・ステレオについては、技術についてはある程度語れても、
音についてはまったく語れない。

なので想像するしかないのだが、2チャンネル・ステレオと同じには捉えることはできないように感じている。

なぜなのかといえば、スピーカーのマルチウェイ、ステレオという、分割によるプラスの場合、
ふたたび合成されなければならない。
その合成はスピーカーから音として発せられ空間での合成であり、いわば音響合成である。

4チャンネル・ステレオはその点において、
マルチウェイ、2チャンネル・ステレオと同じなのか、と疑問に感じている。

とはいうものの4チャンネル・ステレオの実体験がないので、これ以上のことは触れない。

Date: 12月 12th, 2014
Cate: コントロールアンプ像

ミキサーはコントロールアンプたり得るのか(その2)

マーク・レヴィンソンが送り出したコントロールアンプといえば、
まずマークレビンソン・ブランドのLNP2があり、それから機能を絞った薄型のJC2(ML1)、ML6、ML7が続き、
チェロ・ブランドのAudio Suitがある。

チェロ時代にはEncoreも出しているけれど、
機能的に捉えた場合、EncoreはML1、ML7的位置づけになるので割愛する。
その後のレッドローズ・ミュージック、現在のダニエル・ヘルツに関して、あえて取り上げない。

これら三つのコントロールアンプの形態で、
私がミキサー的なだなと感じるのは、LNP2よりもAudio Suitのほうである。

これら三つのコントロールアンプは、いずれもモジュール構成をとっているが、
そのモジュールの考え方は同じとはいえないところがある。

LNP2、JC2のころのモジュールは、いわばOPアンプ的モジュールである。
プラスチックの比較的小さなケースに回路基板をおさめ、ピッチで固めている。
ICタイプのOPアンプが、大きくなりディスクリート構成になったものといえる。

ML7、ML6A以降のモジュールはプラスチックのケースはなくなり、基板もかなり大型になっている。
モジュールといえばそうなのだが、視覚的にはメイン基板の上にサブ基板がコネクターを介して取り付けられている。

LNP2にはモジュールを追加することができた。JC2ではMCヘッドアンプを追加できた。
ML7以降になると、追加することはできなくなっている。
フォノイコライザー用の基板がMM型カートリッジ用とMC型カートリッジ用が用意されていたくらいだ。

これらとAudio Suitは、
モジュールの考え方・使い方が違っていて、その点がLNP2よりもミキサー的と感じるところへつながっている。

Date: 12月 11th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その6)

つづけて思い出したのは、
「虚構世界の狩人」におさめられている「いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論」に出てくる。
     *
 ブランデー・グラスについてはひとつの理想があって、それはしかし空想の中のものではなく、実際に手にしながら逃してしまった体験がある。もう十年近い昔になるだろうか。銀座のある店で何気なく手にとった大ぶりのブランデー・グラス。その感触が、まるで豊かに熟れた乳房そっくりで、思わずどきっとして頬に血が上った。乱暴に扱ったら粉々に砕けてしまいそうに脆い薄手のガラスでありながら、怖ろしいほど軽く柔らかく、しかも豊かに官能的な肌ざわりだった。あんなすばらしいグラスはめったに無いものであることは今にして思い知るのだが、それよりも、当時、一個六千円のグラスはわたくしには買えなかった。ああいうとりすました店で一個だけ売ってくれは、いまなら言えるが、懐中が乏しいときにはかえって言い出せないものである。いまでもあの感触は、まるで手のひらに張りついたように記憶に残っている。
     *
このブランデー・グラスがどういうものであったかは、もう想像するしかない。
形・大きさを想像し、感触を想像する。
その官能的な肌ざわりを想像する。

この文章を読んだのが先だったか、
臍下三寸の話をきいたのが先だったのか、もうはっきりとはおぼえていないが、ほぼ同時期のことだった。

オーディオを趣味とする人のあいだでは、ストイックであること、
ストイックな音を出すことが、カッコよさみたいなところが以前からあった。
いまもあるように感じている。

ストイックな音が悪いわけではない。
ただストイックな音を、より上位におこうとしている人がいることがおかしいといいたいだけである。

Date: 12月 11th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その5)

美味しいものを食べたとしよう。
この幸福感をまず感じているのは舌であり、このとき舌の存在を意識する。

空腹の時、胃の存在を意識する。
美味しいものをたらふく食べたあと、満腹感で胃の存在を意識する。

瀬川先生は、こういう例えもされた。
われわれには臍下三寸にあるもので、快感を感じる。
その時に、ふだんはあまり意識することのない、臍下三寸にあるものの存在を意識する。

快感、幸福感を味わっている、満たされている時にも、存在を意識するわけだから、
ほんとうにいい音というのは、装置の存在を意識するのではないだろうか。

そういう趣旨のことを話された。

いうまでもなく臍下三寸にあるものとは、いわゆる性器である。
この部分が快感を感じるときといえば、そういう行為に及んでいるときである。

この話をすると、瀬川先生のイメージと異る、といった感じの顔をする人がいる。
だが、そうだろうか。

瀬川先生は、いい音とは、について考え続けられていた。
いい音とはなにか、について考えられてきたからこそ、こういう例えをされたのだと私は受けとめ理解している。

それにオーディオを介して音・音楽を聴くという行為は、どこかに官能的な要素がある、
と思われていたのではないだろうか。

Date: 12月 11th, 2014
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(その2)

二年前に、「毎日書くということ(オーディオを語る、とは)」を書いた。

オーディオを語ることは難しい。
オーディオを語っているつもりでも、そこで語られているのは個々のオーディオ機器についてだったり、
そこで鳴っていた音の良し悪し、特徴だったするからだ。

そのことに気づかずに、オレはオーディオを語れる、と豪語する人もいるけれど、
そんな人が語っているのは、オーディオのことでは決してない。

オーディオを語る、とは、を意識すればするほど、難しくなっていく。
同じことがオーディオの「美」にもいえる。

音の美について語るのは難しい。
音を語ることが難しいことだし、そのうえに「美」を語っていくことの難しさが重なってくる。

それでも、まだオーディオの「美」を語るよりは、少しは難しさも和らぐように感じている。

Date: 12月 11th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その4)

この項の(その1)を書いてから、
瀬川先生のことをあれこれおもい出している。

私がまだ学生で熊本に住んでいたころ、瀬川先生は熊本のオーディオ店に定期的に来られた。
そのとき語られたことがある。

音を健康状態に例えられた。
体のどこかが悪くなる。怪我をすれば痛い。痛いことで、怪我したところを意識する。
手を怪我していたければ、そこに手があるのを意識してしまう。
だが怪我をしていなくて傷みがなければ、ふだんは手があることをことさら意識することはない。

病気も同じである。
具合が悪いところがあるから、その存在を意識してしまう。
腹痛がすることで、体の中の内蔵を意識する。
病気とまでいかなくとも食べ過ぎ呑みすぎで胃もたれすれば、胃がどこにあるのかを意識する。
健康であれば、そんなことはない。

そういう意味で悪い音を出すシステムは、その存在を聴き手に意識させてしまう。
装置の存在を意識させない音は、つりは健康な状態の体と同じで、いい音ということになる。

たしかにそうである。
だが瀬川先生の話はつづく。

Date: 12月 11th, 2014
Cate: 異相の木

「異相の木」(好きな音と正しい音・その1)

facebookで、オーディオについて語り合われているものを見ていると、
オーディオには正しい音はなく、あるのは好きな音か嫌いな音である、といったことに出会すのが、増えた。
私が今年目にしたそれらの発言のほとんどは10代、20代の若い人たちではなく、
40代より上、私よりも上の世代も含めて、オーディオをやってきた時間の長い人たちが、そう言っている。

つい先日見かけた発言には、こんなことが書かれていた。
気に入ったオーディオ機器で、好きな音楽をかけつづけていれば、音は自分好みになっていく、とあった。

好きな、とか、好みの、とかいったものこそが個人において優先されることなのといっていいのだろうか。
たしかに気に入ったオーディオ機器(デザインも音も含めて)を手に入れ、
時間をかけて好きな音楽をかけて鳴らしこんでいくことで、そこから得られる音は好みに寄り添ってくれる。

だがそんな音楽の聴き方をしていれば、狭いところにいつづけることになっていく。

だから、こんなオーディオのやり方、音楽の聴き方はだめだとはいわないけれど、
それだけでいいともいわない。

それに、正しい音はオーディオには存在しない、ともいわない。

はっきりいう。
正しい音はある。

Date: 12月 10th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その3)

こういうタイトルをつけると、
短絡的に老いていくことで高域が聞こえ難くなることだと捉える人がいる。

歳をとれば、個人差は多少あっても高域は聞こえ難くなる。
だが聴覚検査で使われる信号音はあくまでもサイン波であって、
スピーカーからわれわれオーディオマニアがいい音で聴きたいと願っているのは、
音楽であってもサイン波ではない。

おそらくわれわれは一瞬一瞬のパルスを聴いて、音として音楽として判断しているとは思えない。
少なくともある一定の時間というスパン(それがどのくらいの長さなのかは人によっても違ってくるだろう)という、
ある種の複合体としての音を捉えているのだと考えている。

だとすれば、その複合体としての音の波形を、ある瞬間にはひじょうに短いスパンで、
同じ曲であってももう少し長いスパンで捉えたりしているようにも思える。

若い人が、インターネットの匿名の掲示板で、年寄りは高域が聞こえないから……、といったことを書いている。
確かにサイン波は聞こえ難くなる。
だが、そういって彼らもまた歳をとればそうなるのである。

彼らがいうようにサイン波の高音が聞こえ難くなれば、音を聴き分けることもできなくなるのであれば、
音楽家はどうなるのか。
10代の音楽家がいちばん優れているということになる。
20代、30代、40代、さらには70代ともなれば、ひどく劣化することになるわけだが、実際にはそうではない。

だから、ここではそんな老いについて書くつもりはない。
もっと肉体的で、本能的なところでの老い、
そのことがオーディオにどう関係してくるのかについて書いていきたい。

Date: 12月 10th, 2014
Cate: audio wednesday

第48回audio sharing例会のお知らせ

来年1月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。

テーマについて、後日書く予定です。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 12月 10th, 2014
Cate: コントロールアンプ像

ミキサーはコントロールアンプたり得るのか(その1)

私がオーディオに興味を持ち始めた1970年代後半には、ミキサーの一部がコントロールアンプとして存在していた。

岩崎先生が愛用されていたクワドエイト(QUADEIGHT)のLM6200Rがその筆頭だし、
イタリアのギャラクトロン(Galactron、輸入元:成川商会)のMK16、
ベルギーのロデック(Rodec、輸入元:今井商事)のMixmaster、
それにマークレビンソンのLNP2は、もともとミキサーとして開発されたLNP1がベースとなっているし、
LNP2をミキサーとして作りかえたモノが、当時のチック・コリアのコンサートでは使用されている。

1970年代のステレオサウンド別冊HI-FI STEREO GUIDEには、ミキサー/ノイズリダクションのページがあった。
当時は生録もブームだったこともあり、据置型だけでなく可搬型のミキサーもいくつかあった。
可搬型のモノはAC電源だけでなくDC電源パックが用意されていた。

この時代はまだCDは登場していなかったから、アナログディスクがプログラムソースの中心であり、
上記のモデルはすべてフォノイコライザーを搭載していた。
つまりフォノイコライザーがなければコントロールアンプとしてみなされなかった、ともいえる。

いまならば単体のフォノイコライザーアンプがいくつも登場してきているし、
アナログディスクを聴かない人もいるから、
フォノイコライザーを搭載していないミキサーでも、コントロールアンプとして使える、といえる。

ミキサーによってはパラメトリックイコライザーを搭載している機種もある。
ギャラクトロンのMK16は10バンドのグラフィックイコライザーを搭載していた。
クワドエイトのLM6200Rにはない。
ロデックのMixmasterには、いわゆるBASS・TREBLEのトーンコントロールがついていた。

コントロールアンプとミキサーとをわけるものといえば、ミキシング機能の有無なのだが、
それ以外にコントロールアンプとミキサーの共通するところ、そうでないところ、はっきりと違うところ、
これからのコントロールアンプ像を考えていく上で、ミキサーの存在は無視できないのではないか。

Date: 12月 9th, 2014
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(その1)

ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記。

オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生──、
五味先生のことをそう書かれている。

17歳のときにこれを読んだ。
たしかにそうだ、と「五味オーディオ教室」でオーディオにはいってきた私は思った。

だが、このときは、原田勲氏が「音の〝美〟」ではなく「オーディオの〝美〟」とされたことを、
深くは考えはしなかった。

けれど、いまは違う。
確かに五味先生はオーディオの「美」について、多くの示唆を与えつづけられていた。
いま強く実感している。

だからこそ、オーディオの「美」について書いていかねば、とおもう。

Date: 12月 9th, 2014
Cate: 無形の空気

いま、空気が無形のピアノを……(その3)

どれほどつきあいがながくても、その人が出している音に対して、
ほんとうに感じたことを話してはいけない、という体験を私もしている。

彼とは20年以上のつきあいだった。
彼の音はことあるごとに聴いている。
彼がどういう音を好むのかも知っている。

ある時、自信たっぷりに聴いてほしい、と連絡があった。
だが、そこで鳴っていた音は、彼自身の好みを知っている私が聴いても、間違っている音であった。

いくつかのディスクを聴いた。
彼が自信たっぷりに鳴らすディスクも聴いた。
持参したディスクも聴いた。

あきらかに間違っている音だった。
とはいえ、さすがに「間違っている音ですよ」とはいわなかった。
彼は遠慮なく言ってくれ、という。

だからそうとうオブラートに包んだつもりで、「ちょっとおかしい」と答えた。
これが彼のプライドをそうとうに傷つけたようで、
彼は後日、自身のブログで、私のことを書いていた。

どんなことを書いていたのかは、ここではどうでもいい。
ただ、どんなにつきあいが長かろうと、かなり遠慮気味に言ったとしても、
ネガティヴな表現を使ってしまうと、相手を傷つけてしまう。

そんなことはわかりきったことだろう──、
たしかにそうなのだが、彼は悪いところはそういってくれ、と日頃から私にいっていた。
そういう人でも、そうではなかった、というだけの話である。

そういうこともあって、聴かせていただいても、音の形については、聴かせてくれた人に言ったことはなかった。

Date: 12月 9th, 2014
Cate: 無形の空気

いま、空気が無形のピアノを……(その2)

音を聴きに来ませんか、と誘いがあれば、時間の都合がつくかぎりは行くようにしている。
一ヶ月前から決められているよりも、前日、当日に誘いがあったほうが都合がつきやすいことが多いので、
当日でも行けるのであれば行く。

そんなふうにして、決して多くはないけれど、オーディオマニアの方たちの音を聴かせてもらっている。
聴いたあとには、どうでしたか、ときかれることが多い。

そんなとき、感じていながらもいままで言わなかったことがある。
それは、音の形のことだ。

意外にも、というか、ほとんどの人が、音の形ということに無関心・無頓着なように感じている。
これは音像定位が悪い、といったことではない。

そこでピアノが鳴っているとする。
どんなにいい音で鳴っていたとしても、
目をつぶれば、すぐそこにグランドピアノがあり、そこから音が発せられているという感じがない。

これは音場感がよく再現されている、といったことともまた違う。

私は「五味オーディオ教室」からオーディオに入ってきた人間だから、
そこに書かれていた「いま、空気が無形のピアノを……」ということがまず気になる。

そう書いているけれど、私もまだまだではある。
けれど、音の形に、他のことよりも重きをおいている。

重きがおかれていない音に出あうと、
音の形について語りたくなるけれど、いままでは黙っていた。
それは失望を語ることに近いわけで、そうとうに親しい人であっても、そんなことをいえば角が立つ。

よく、忌憚なき意見を聞きたい、といわれる。
けれど、実際はそうではない。

Date: 12月 9th, 2014
Cate: 老い

老いとオーディオ(その2)

オーディオについて語るさいに、性的なことを極端に拒否する人がいるのを、
ステレオサウンドにいたときに知った。

菅野先生がある座談会で、射精という言葉を使われた。
そのことに関して、編集部に手紙が届いた。

30年ほど前のことだから正確に記憶しているわけではないが、
その手紙には、ステレオサウンドはオーディオマニアにとっての聖書である、とまず書いてあった。
聖書に性的なことをイメージさせる言葉が載っているのは許し難い、
そういうことだった。

この手紙は意外だった。
いまこうやって書いていると、そのころ意外と感じた理由以外でも意外と感じてしまう。

ステレオサウンドの作り手であったころに、そのステレオサウンドを聖書として読まれることは、
喜んでいいことなのだろうか、とも考えさせられる。

ステレオサウンドを聖書と捉える人が他にもいるのかどうかはわからないけれど、
ひとりいたということは、そう思っている人は他にもいて不思議ではない。

音楽を聴くという行為は、官能的な行為でもある。
人によって、いろいろな聴き方があるけれど、
音楽を聴く際に、まったく官能的なものを拒否している(できている)人はいるのだろうか。

ステレオサウンドを聖書と捉えていた人からすれば、
この項で書いていこうとしていることは、オーディオを侮辱するものだ、ということになるのかもしれない。

それでも「老化とオーディオ」は書いていきたいテーマである。