老いとオーディオ(その2)
オーディオについて語るさいに、性的なことを極端に拒否する人がいるのを、
ステレオサウンドにいたときに知った。
菅野先生がある座談会で、射精という言葉を使われた。
そのことに関して、編集部に手紙が届いた。
30年ほど前のことだから正確に記憶しているわけではないが、
その手紙には、ステレオサウンドはオーディオマニアにとっての聖書である、とまず書いてあった。
聖書に性的なことをイメージさせる言葉が載っているのは許し難い、
そういうことだった。
この手紙は意外だった。
いまこうやって書いていると、そのころ意外と感じた理由以外でも意外と感じてしまう。
ステレオサウンドの作り手であったころに、そのステレオサウンドを聖書として読まれることは、
喜んでいいことなのだろうか、とも考えさせられる。
ステレオサウンドを聖書と捉える人が他にもいるのかどうかはわからないけれど、
ひとりいたということは、そう思っている人は他にもいて不思議ではない。
音楽を聴くという行為は、官能的な行為でもある。
人によって、いろいろな聴き方があるけれど、
音楽を聴く際に、まったく官能的なものを拒否している(できている)人はいるのだろうか。
ステレオサウンドを聖書と捉えていた人からすれば、
この項で書いていこうとしていることは、オーディオを侮辱するものだ、ということになるのかもしれない。
それでも「老化とオーディオ」は書いていきたいテーマである。