Date: 3月 28th, 2018
Cate: audio wednesday

第87回audio wednesdayのお知らせ(YUME DE AETARA)

一週間後(4月4日)のaudio wednesdayのテーマは、
「ネットワークの試み」と「YUME DE AETARA」である。

前半は3月に時間の都合でできなかったネットワークの実験を、
後半は3月21日に発売された
EIICHI OHTAKI Song Book Ⅲ 大瀧詠一作品集Vol.3 「夢で逢えたら」(1976~2018)』を聴く。

それから今回はこれまで試みなかったセッティングも予定している。
喫茶茶会記にずっと以前からあるものを利用してのセッティングである。
よい方向へと変るか、それとも逆の方向へと変るのか──、
私はかなりよい方向への変化するとみているが、
こればかりは実際に音を鳴らしてみないことにはわからない。

どちらの方向へと変化しても、その変化量はけっこう大きいであろうし、
はっきりとした音の違いが聴きとれるはずだ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 3月 27th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その3)

石黒浩氏のアンドロイドに関しての話を聞くたびに毎回思っているのは、
High Fidelity Reproduction(ハイ・フィデリティ・リプロダクション)のことだ。

日本では昔からHigh Fidelity Reproductionイコール原音再生、
もしくは限りなく原音に近い音の再生、というふうに捉えられている。

これは誤解といえる。
この点に関しては、瀬川先生がステレオサウンド 24号(1972年)、
「良い音は、良いスピーカーとは?(3)」で書かれている。
     *
それよりも、まず、ハイ・フィデリティをイコール《原音の再生》と定義してよいのだろうか。原音そっくりが、即、ハイ・フィデリティなのだろうか。
 ハイ・フィデリティを定義したM・G・スクロギイもH・F・オルソンも、そうは言っていない。彼らは口を揃えていう。ハイ・フィデリティ・リプロダクションとは「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」である、と。要するにハイ・フィデリティとは、物理的であるよりもむしろ心理的な命題だということになる。ここは非常に重要なところだ。
     *
「原音を直接聴いたと同じ感覚を人に与えること」こそが、High Fidelity Reproductionである。
瀬川先生も書かれているように、ここは非常に重要なところだ。

昨年秋から何回にわたって波形再現について書いてきた。
波形再現を否定するつもりはないが、私がSNSで見かけた波形再現は、ひとりよがりだった。
取り組んでいる本人は、客観的に追求しているつもりてあっても、
いくつもの大事なところが抜け落ちている。

石黒浩氏の話で興味深く感じたのは、
アンドロイドの皮膚を剥ぐときの現実感について、である。
おそらく来場者のほとんどが、このところには強い関心をもたれたのではないだろうか。

皮膚を剥ぐという、現実ではほぼありえないシチュエーションでの現実感というか、
アンドロイドの人としての実在感があるということは、
オーディオマニアならば、再生音において、同様のことがあるのではないか、と思うだろうし、
思いあたることがあるはずだ。

KK適塾の終りには、質問の時間がある。
石黒浩氏にひとつ訊きたいことがあった。
でも、KK適塾での話とは直接関係のないことであり、
他の人にとってはどうでもいいことであろうから、
石黒浩氏に、オーディオマニアではないことを確かめたかったけど、しなかった。

おそらくオーディオマニアではないだろう。
けれど石黒浩氏の話をきくたびに、
この人がオーディオマニアだったら……、と思う。

Date: 3月 27th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その2)

石黒浩氏の話に、美人は左右対称だ、ということが出た。
美男美女といわれ、テレビ、映画に登場する人の顔をみていれば、
完全な左右対称ではもちろんないが、
美男美女といわれない人と比較すれば、かなり左右対称の顔であることは、
以前から気づいている人はけっこう多いはずだ。

とはいえ、美人の定義として左右対称、そう客観的なことといえるのだろうか。
来場者からも、そのことについて質問があった。

石黒浩氏と質問者のやりとりを聞いていて私が思っていたのは、
美人イコール美しい人ではない、ということである。

美男美女でもいい、
美男が美しい男、美女が美しい女とは、私は思っていない。

美人は、左右対称の顔ということが如実にあらわしているように、
きれいな人という域でしかない。

きれいな男、きれいな女、左右対称の顔なのであって、
美しい人が左右対称の顔なのではない。

ではなぜ石黒浩氏がアンドロイドの顔を左右対称にされるのかについては、
ここでは触れない。

これは私のなかだけの定義すぎない。
美人はきれいな人であって、必ずしも美しい人というわけではない。
美人でなくとも、美しい人はいる。
少なくとも、私はそう捉えているし、主観である。

音も同じだ。
美音イコール美しい音ではない。

Date: 3月 27th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

潰えさろうとするものの所在(その2)

これまでにどれだけの数のオーディオ雑誌が創刊されただろうか。
1970年代後半、書店に行けば、いまよりも多くのオーディオ雑誌が並んでいた。
そのほとんどがいまはもうない。

オーディオ雑誌に限らない、他のジャンルの雑誌は、
オーディオ雑誌以上に創刊され、消え去っていっている。

雑誌を創刊する理由は、いったいなんなのか。
オーディオがブームになっている。
オーディオを取り上げれば、雑誌が売れる、広告が入る。
それならばオーディオ雑誌を創刊しよう──、
そういうオーディオ雑誌は、きっとあったはずだ。

その程度の創刊理由であっても、
オーディオがブームであれば売れただろうし、広告もとれて、利益が出る。
けれどブームが終ってしまえば、そううまくはいかなくなっていく。

消え去っていった雑誌と生き残っている雑誌。
生き残っている雑誌でも、創刊当時、創刊から十年、二十年……と経っていくうちに、
変化・変質してしまうことがある。

ステレオサウンドが創刊された1966年は、私はまだ三歳だから、
その時代を直に肌で感じとっていたわけではない。
あくまでもその後、その当時を振り返った記事を読んで知っているだけである。

それでも瀬川先生、菅野先生に書かれたものを読んでいれば、当時の空気感は伝わってくる。
当時の状況もわかってくる。

それを把握した上でステレオサウンドの創刊を考え直してみれば、
いまのステレオサウンドはすっかり変質してしまった、としかいいようがない。

二週間ほど前に「音を聴くということ(グルジェフの言葉・その3)」を書いた。
良心回路と服従回路のことを書いた。

これは暗にステレオサウンドの変質についてのことでもある。

Date: 3月 26th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その3)

いまも“Hotel California”のディスクは持っていない。
そんな私にとっての、記憶の中にある“Hotel California”の音は、
つまりはJBLの4343で聴いた“Hotel California”である。

黒田先生の文章には、
《ハットシンバルの音が、乾いてきこえてほしい》、
それから《ドラムスが乾いた音でつっこんでくる》、
《声もまた乾いた声だ》とある。

それに《12弦ギターのハイ・コードが、少し固めに示されないと》とも書かれている。
音が重く引きずらずに、乾いて爽やかに鳴ってくれるのが、
私のなかにある“Hotel California”の音のイメージであり、
それは一般的な4343の音のイメージとも重なってくるだけに、
よけいに“Hotel California”の、そんなイメージを相乗効果で植え付けられた、ともいえる。

それに曲名が“Hotel California”である。
カリフォルニアに行ったことはないが、湿った空気のするところではない。

それがこの二年のあいだに聴いた“Hotel California”は、ずいぶんと印象が違ってくる。
もちろんスピーカーは、JBLの4343ではない。
けれど、そのことだけが、“Hotel California”の音の印象が違ってくる理由にはならない。

昔4343で聴いたことのある他のレコードを、
いま別のスピーカーで聴いても、音のイメージはそう大きくは変らない。
ところが“Hotel California”は、そうではない。

自分のCDではないので、こまかなところまで見ているわけではないが、
私が耳にした“Hotel California”は、2000年ごろにリマスタリングされたもののようだ。

Date: 3月 26th, 2018
Cate: 欲する

偶然は続く(その1)

昨晩、風呂に入りながら、なんとなくThe Nineだな、と考えていた。
The Nineを探し出して買おう、ということではなく、
いま半導体アンプを自作するなら、The Nineだな、という意味においてだ。

The Nineは、SUMOのThe Goldの弟分にあたるパワーアンプで、
A級動作で、出力はThe Goldの約半分。
奥行きもずっと浅い。

電圧増幅はディスクリート構成ではなくOPアンプを、
片チャンネルあたり二個使い、ひとつは非反転増幅、もうひとつを反転増幅して、
アンバランス信号をバランス信号へと変換してブリッジ出力を得ている。

The Goldをそうとうに簡略化したモデルだ。
自作するのにそれほど困難なわけではないが、
The Nineだな、と思いながらも、電源トランスを特注する必要があるな、とも思っていた。

両チャンネルで、出力段用にフローティング電源が四組必要になる。
ここが自作する上でのネックになる。
市販の電源トランスで、The Nineの仕様に見合うものはない。

今日、横浜方面にいた。
オーディオ店でもないし、ジャズ喫茶とか、そういう場にいたわけではないが、
偶然にもThe Nineに出合えた。

KEFのModel 104aB、Model 105.2もひさしぶりの再会だったが、
The Nineも同じくらい、ひさしぶりの再会だった。

偶然は、まだ続くのか。

Date: 3月 25th, 2018
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(余談・その5)

104の次は105だ。
そう思っていたわけではないが、
下北沢の次の日、お茶の水のオーディオユニオンにたまたま行った。

なんと偶然にも、Model 105 SeriesII(105.2)が、そこにあった。
すこしくたびれた感じもしていたが、
Model 105も、ずいぶんとひさしぶりに見た。

そして、こんなに小さかったっけ、と思っていた。
Model 105は決して大型のフロアー型ではないが、
30cm口径のウーファーをもつ中型フロアー型である。

高校生のとき、瀬川先生がセッティングされた105を聴いたとき、
もっと大きく感じていただけに、少々、そのサイズの感覚的な違いにとまどいもあった。

105の登場から40年が経ち、かなり大型のスピーカーシステムがけっこうな数あらわれてきている。
それらの大きさに、こちらが慣れてしまっているからなのか、
それとも毎日、Model 107を見ているからなのか。

どちらにしろ、Model 105.2をひさしぶりに見て、
かわいらしいサイズ、と感じていたし、どことなく犬みたいだな、とも思っていた。

Date: 3月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その2)

それまで耳にしたことがなかったわけではないが、
“Hotel California”を聴いて、なるほど、たしかにそうだ、と感じたのは、
1982年になっていた。

録音が必ずしもモニタースピーカーの音と逆の傾向に仕上がるわけではないことは知っている。
モニタースピーカーの性格を熟知しているレコーディングエンジニアならば、
そのへんのことも自動的に補正しての録音を行う。

おそらくゲーリー・マルゴリスもそのへんのことはわかったうえでの、
ステレオサウンド 51号の発言なのだろうし、
確かにハイ上りといえばそうだし、
黒田先生が指摘されているように重低音を切りおとした、とも聴こえる。

重低音がそうだから、ハイ上りに聴こえるのかもしれない。
といって、いまとなっては確認のしようがない。
“Hotel California”は、何度か試聴室で聴いていたけれど、
自分でレコードを買うことはしなかった。

“Hotel California”を聴いたのは、もう36年ほど前であり、
“Hotel California”の音がどうだったのか、なんとなくの全体の印象は残っていても、
細部がどんなふうだったのか、そこまで記憶が残っているわけではない。

audio wednesdayで音を出すようになって、
“Hotel California”を聴く機会が、これまでに何度もあった。
別の場所で、ヘッドフォンでも聴いている。
つい先日もそうだった。

そこで疑問が湧いた。
こんな音だったかな? と。

私の中にかすかに残っている“Hotel California”の印象は、
当時のLPによるものである。
そのディスクが国内盤だったか、輸入盤だったかも、記憶は定かではない。

それでも聴いていると、かすかとはいえ記憶はよみがえってくる。

Date: 3月 25th, 2018
Cate: ディスク/ブック

Hotel California(その1)

イーグルスの“Hotel California”のことを知ったのは、
ステレオサウンド 44号だった。

ロック小僧でなかった私は、イーグルスの名前は知っていても、
どのレコードもきいたことはなかった。

ステレオサウンド 44号の特集はスピーカーシステムの総テストで、
黒田先生が使われた十枚の試聴レコードの一枚が、“Hotel California”だった。

なので、当り前のように優れた録音のレコードだ、と思うようになっていた。
黒田先生は、こう書かれていた。
     *
 イーグルスの、レコードできける音は、重低音を切りおとした独特のものだ。そのために、ベース・ドラムなどにしても、決して重くはひびかない。そういう特徴のあるサウンドが、あいまいになっては、やはり困る。そして、ここでとりあげた2分の、前半の50秒は、インストルメンタルのみによっているが、その後、ヴォーカルが参加するが、そこで肝腎なのは、うたっている言葉が、どれだけ鮮明にききとれるかだ。なぜなら、「ホテル・カリフォルニア」はまぎれもない歌なのだから。
     *
さらに試聴ポイントして、五つあげられてもいた。

冒頭:左から12弦ギターが奏しはじめるが、この12弦ギターのハイ・コードが、少し固めに示されないと、イーグルスのサウンドが充分にたのしめないだろう。

冒頭から025秒:ツィン・ギターによって、サウンドに厚みをもたせているが、その効果がききとれるかどうか。イーグルスの音楽的工夫を実感できるかどうかが問題だ。

冒頭から37秒:ハットシンバルの音が、乾いてきこえてほしい。ギターによるひびきの中から、すっきりとハットシンバルの音がぬけでてきた時に、さわやかさが感じられる。

冒頭から51秒:ドラムスが乾いた音でつっこんでくる。重くひきずった音ではない。ドン・ヘンリーのヴォーカルがそれにつづく。声もまた、乾いた声だ。

冒頭から1分44秒:バック・コーラスが加わる。その効果がどれだけ示されるか。”Such a lovely place, such a lovely face” とうたう際の、言葉のたち方も問題になる。

“Hotel California”は、ステレオサウンド 51号にも登場している。
この号から始まった#4343研究で、
JBLプロフェッショナル・ディヴィジョンのゲーリー・マルゴリスとブルース・スクローガンが、
ステレオサウンド試聴室にて4343をセッティングしていく際に使ったレコードの一枚でもある。

“Hotel California”についてのマルゴリスの発言が載っている。
     *
イーグルスのホテル・カリフォルニアについては「このレコードはアルテックの604でモニターした音がしていますね。データは書いてありませんが、おそらくそうでしょう。」という。どうしてわかるのかと尋ねると「アルテックは帯域を少し狭めて、なおかつ中域が少し盛り上がり気味の周波数特性をしていますから、ミキシングのバランスとしては中域が引っ込みがちになることがあります。モニターの音と逆の傾向になることがあるのです。その分、高域が盛り上って聴こえます」と教えてくれた。そう思って聴くとたしかにハイ上りの音に思えてくる。
     *
私が“Hotel California”をきちんとしたかたちで聴くのは、
ステレオサウンドで働くようになってからだった。

Date: 3月 24th, 2018
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(余談・その4)

その2)で書いているように、
予想しない場所で、予想しないスピーカーと出合えると、意外と思うとともに、嬉しいものである。

(その2)ではレコード店にあったKEFのModel 303だった。
数日前の火曜日、十数年ぶりに下北沢に行った。
夜の下北沢は、さらにひさしぶりである。

下北沢にあるライヴハウスに行ってきた。
ライヴハウスに前回行ったのはいつだったか、もう正確に思い出せないほど以前、
というより昔のことだ。
友人に連れられて行った記憶が、ぼんやりとあるくらいだ。

今回の下北沢のライヴハウスも、だからひとりではなく誘われてのことだった。
THE SUZANのライヴに行ってきた。

ライヴが始まるのは20時過ぎ、その前に腹ごしらえをしようということで、カレー屋に入った。
店の外からもわかるように、マッキントッシュのプリメインアンプとJBLのスピーカー4312SEがある。
そのことが意外だったわけではない。

店に入って気がついたのは、カウンター席の上にある棚にも、
ブックシェルフ型スピーカーが置いてあった。
私が坐った席からは、スピーカーのわずかなところしか見えないけれど、
それがすぐにKEFのModel 104であることはわかる。

立ち上って確かめたら、104aBだった。
ほんとうにひさしぶりに見た(対面した)104aBである。

最初は意外な感じもしたけれど、しばらくすると4312SEよりも、
104aBのほうがしっくりくるような感じもしてきた。
残念ながら音は鳴っていなかった。

アンプに接がれているのかどうかもはっりきしない。
それでも、意外なところで予期しないタイミングで出合えるのは、
104aBにも憧れをもっていた中学生時代を思い出させてくれて嬉しくなっていた。

ひさしぶりがいくつも重なっての、104aBとの再会だった。

Date: 3月 24th, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(四回目・その1)

3月23日は、KK適塾 2017の四回目だった。
2月に予定されていた二回目と三回目は中止だった。
一回目が12月22日だったから、三ヵ月ぶりのKK適塾だった。

三ヵ月のあいだに、暖かくなっていた。
桜も咲いている。
なのでずいぶんとひさしぶりの感じもしていた。

四回目の講師は、石黒浩氏。
石黒浩氏の講演はKK塾、KK適塾での二回に加えて、
2015年秋に六本木にある国際文化会館でもきいている。

石黒浩氏の話をききながら考えていたのは、
前日(22日)に書いた「ハイエンドオーディオ考を書くにあたって」だったし、
黒田先生の文章も思い出していた。

石黒浩氏のアンドロイド(人型ロボット)には、
人間に酷似しているタイプ(ジェミノイド)と、
テレノイドと呼ばれているタイプとがある。

ジェミノイドが酷似型であるために、性別や年齢、背格好など、見る人に意識させるのに対し、
テレノイドは性別も年齢も特定される外観を持たず、
見る人によって男にも女にも、子供にも大人にも見える、外観を簡略化したタイプである。

いわば観察(ジェミノイド)と想像(テレノイド)である。
このふたつのことは、これまでの石黒浩氏の話で知っていたけれど、
前日に黒田先生の文章を書き写したこともあって、
いままで以上に、このふたつのアンドロイドの対比が、
ほぼそのままオーディオの世界、音にもあてはまりそうな気がしていた。

Date: 3月 24th, 2018
Cate:

音の色と構図の関係(その1)

別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較)」で、音の構図について触れている。

音の構図が崩れてしまっている音には、魅力を感じない。
これまでも音の構図には注意深くありたい、と思っていた。
けれど、いままで気づかなかったことがあるのに、昨晩気づかされた。

昨晩、写真家の野上眞宏さんと会っていた。
野上さんとの会話のなかで、最近ニュースになったAl(人工知能)も錯視することが出てきた。
ここでのAIがほんとうの意味でのAIなのかは、ここでは問わないが、
この実験の結果通りだとして、ほんとうにAIは錯視したのか、という捉え方もできる。

つまり錯視ではなく、現象として、それは起っている、と考えることだってできる。

もう20年以上前になると思う。
当時の週刊文春のカラー広告に、NTTが毎号出していたことがある。
NTTの研究所で、どんなことを研究しているのかを伝える広告だった。

すべてを憶えているわけではないが、錯視についての研究の回もあった。
錯視を現象として捉えた上で、アインシュタインの相対性理論にあてはめてみれば、
説明がつく──、そんな内容だったと記憶している。

たとえば同じ大きさのふたつの円がある。
色が塗られていない、もしくは同じ色であれば、ふたつの円は同じ大きさに見える。
ところがひとつを薄い色、もうひとつを濃い色にすると、ふたつの円の大きさは違って見える。

多くの人が小学生のころに体験されているはずだ。
これをNTTの研究者たちは錯視と捉えずに、実際に大きさが変っているのではないか。
つまり濃い色は、薄い色よりも色の質量がある。
そこに相対性理論が成り立ち、色の薄い円は、濃い色の円の影響を受ける、という内容だった。

色の質量という言葉が、その広告で使われていたのかどうかは定かではないが、
感覚的にも重い色、軽い色は確かにある。

そのことを思い出していたから、
もしかするとAIも錯視ではないのかもしれない──、
そんなことを話していた。

そこで野上さんが、非常に興味深いことをいわれた。

Date: 3月 23rd, 2018
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その18)

すべてのコーン型ユニットが、平面バッフルで鳴らす音が最良の結果を生むとは限らない。
それでも5.5畳ほどのワンルームマンションに、
シーメンスのコアキシャルを1.9mw(縦)×1m(横)の平面バッフルにとりつけて押し込んで鳴らしていた。

そんな経験をしてきた私は、まずは平面バッフルという意識が強い。
それだけのスペースが用意できれば、2m×2mという、
平面バッフルのサイズとしては、ひとつの到達点といえるサイズにしたいけれど、
それだけのスペースは無理である。

となるとサイズを小さくするしかない。
平面バッフルのサイズが小さくなるということは、低音の再生限界が上へと移動してくることでもある。

昔のスピーカーの教科書には、平面バッフルの説明があり、
次に後面開放型の説明があった。
平面バッフルの左右を後に折り曲げるようなかっこうにすることで、
奥行き方向には長くなるものの、横幅はぐんと狭くできるのが後面開放型という説明だった。

それで後面開放型から平面バッフルそのままの音が出てくればいいわけだが、
世の中そううまい話はなく、後面開放型には平面バッフルにはない問題点が生じる。

ならば平面バッフルのサイズとともに、形状を工夫することで、
コンパクト化はできないのか──、思い続けている。

セレッションのSL600のことは、これまで何回か書いている。
SL600には、System 6000という専用ウーファーがのちに登場した。

System 6000は、いわゆるエンクロージュアをもたないサブウーファーだ。
必要最小限のサイズのバッフルにウーファーが取り付けられている。
これだけではどんなにやっても低音再生は無理だから、前後に一基ずつ配置されている。

この方式の場合、平面バッフルのサイズは前面(後面)から見たサイズだけでなく、
ユニットが取り付けられているバッフルの厚み(これが二基分)と、
前後のバッフルの間隔、これらがすべてサイズとして含まれる。

平面バッフルにとって、バッフルの厚みもサイズのうちである。

Date: 3月 22nd, 2018
Cate: オーディオのプロフェッショナル

オーディオのプロフェッショナルの条件(その2)

オーディオ店の前を通った際、気が向けばふらっと入る。
特に目的があるわけではなく、店内を一周して出てくるわけだが、
時々だが、客と店員の会話が耳に入ってくる。

先日もそうだった。
棚に並んでいるアンプを見ていたら、後から、あるオーディオ機器についての会話が聞こえてきた。

それから別の製品との比較の話になり、動作方式への話は移っていった。
製品の比較の時から、少し誤解があるよな、と思いつつ聞いてきたが、
動作方式に関しては、明らかに店員の説明は間違っている。

けれど客は、いつの間にか、店員の説に完全に同意してしまっている。
これでいいのか、と思う。
横から口を出したくもなったが、我慢した。

こうやって間違った知識が広まっていくのか。
そういえば、瀬川先生も同じようなことを書かれていた。
     *
 ある若い人が私のところにへ相談に来た。新しい装置を入れたところ、低音が全然出ないどこが悪いのだろうか、という内容だ。月に四回、あるデパートでオーディオ・コンサルタントをしている一日のことである。
 話を聞いてみると、JBLのプロ用のユニットを特製のキャビネット(この〝特製〟というのも少し怪しいのだが)に収めて大型のスピーカー・システムを作ってもらった、という。その人は自分では知識がないので、信頼している販売店の店員の言うなりらしい。アンプもそれ相応に、マークレビンソンその他でかなりお金がかかっている。それなのに低音が出ないというその出なさかげんは相当にひどいもので、たとえば別のプリアンプを持ってきてトーンコントロールで(マークレビンソンJCー2はトーンコントロールがないので)低音をいっぱいまで上げてみてもまだ出てこない、というのだ。これは異常である。
 こういう場合、まず疑ってみるのは低音用スピーカーの接続のあやまちだが、その点は厳重にチェックしているという。むろん話だけで、ほんとうに合っているかどうか確認できないが、それよりもその人が、興味ある話をし始めた。
 というのは、低音がどのくらい出ていないかということをチェックしてもらったら、七〇ヘルツまでしか出ていないことがわかった、というのだ。この辺から私は、この話はどこかおかしい、と気がつきはじめた。
 七〇ヘルツという低音は、決して本当に低い低音とは言えないかもしれないが、聴感上は相当に「低い感じ」の音であって、たいていのブックシェルフ型スピーカーなら、六〇ないし八〇ヘルツぐらいまでしか出ていないものだし、それでも「けっこう低音がよく出ている」と感じるものなのだ。JBLのプロ用の三八センチ・ウーファーを二本ずつ収めた大型キャビネットで、もしも七〇ヘルツまで出ればもう圧倒的な低音が聴こえて不思議はない。それが出ないというのはどこかに大きなミスがある。
 しかし私は、七〇ヘルツまで出ているというチェックの仕方に、まず興味を持った。ふつうの場合こういうチェックは、オーディオ・オシレーターか周波数レコードで低音をスイープ発振して、スピーカー・システムのインピーダンス特性を測定しながら、場合によってはマイクロフォンやオシログラフ、あるいはせめてサウンドレベルメーターを併用してチェックする。そうでなくては、七〇ヘルツぐらいとはいえても、七〇ヘルツまでしか出ていない、などと断定はできない。
 しかしそういうめんどうな理屈をこねるような話ではなかった。なんと、その人の信頼している店員氏が、よく聴き馴れた歌謡曲のレコードを持ってきて、しばらく耳を傾けたのちに、「ウン! 七〇ヘルツ……」をやったのだという。気の毒だがやはり本当のことを言ってあげた方がよいと思った。「あなた、相当に程度の悪い人に引っかかってますよ」と。
(「新《サイクリスト》教祖」より)
     *
ここまで程度の悪い店員ではなかったけれど、
その口調はかなり断定的で、否定的でもあった。
それでも動作方式の技術的解説に間違いがなければまだいいが、そうではない。
あきらかに間違っての認識である。

店の名前を書かないのは、その店の店員ひとりのことであり、
おそらく他の多くの店員はそうではないであろうからだ。

Date: 3月 22nd, 2018
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考を書くにあたって

ハイエンドオーディオについては、いつか書こうと、
このブログを始めた時から考えている。

必ずしも否定的なことばかりを書こうとは考えていない。
ハイエンドオーディオの存在を否定する気もない。

それでも、ハイエンドオーディオについて書き始めると、
書きたいことは次々と出てくるような気もしている。

いつから書き始めるかも決めていない。
ただ書く前に読んでおきたい文章を、今日やっと思い出した。

黒田先生が書かれていたものだ。
かなり以前のステレオサウンドに書かれていたことは憶えていたが、
はっきりと、どの号なのかまでは思い出せていなかったし、
先延ばしにしていたから、探していたわけでもなかった。

その文章は、27号に載っている。
ラサール弦楽四重奏団のドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏曲についての文章である。
     *
 ひどく素朴ないい方になってしまうんだが、この弦楽四重奏団による演奏には、四人の奏者によるものとは考えにくいところがある。ダイナミックスが変化するとき、たとえばクレッシェンドしたり、ディミヌエンドしたりするとき、それは特にきわだつ。こういう演奏をきいていると、弦楽四重奏もついにここまできたかと思ってしまう。いや、ここまできたか──といういい方は、正しくない。これは明らかに、今までの4人の弦楽器奏者があわせてひくことによってなりたった弦楽四重奏とは、別のところから出発してのものと考えなければいけないようだ。
 すでにここでは、あわせることが目的たりえていない、そのすごさがある。だからこの演奏を、ありきたりの言葉で、もし、見事なアンサンブルなどといったとすると、この演奏がもっている力の、きわめて重要な部分を伝えないで終ることになる。たとえばそのようなことはありえないといわれようと、この演奏、ドビュッシーにしろラヴェルにしろ、あわせようとしてあわせた演奏ではないのようにきこえる。たとえばジュリアードカルテットの演奏が、あわせようとしてあわせたぎりぎりのところでのものだとすれば、このラサールカルテットのものは、あたかもまったく別のところから出発してその先に到達してしまったかのようるきこえる。
 その意味でこの演奏には、いささか信じがたいところがある。文字通りの意味で、これは戦慄的だ。それがいいかわるいかは、ひとまず聴者の判断にまかせるとして、この演奏がどういう演奏家、もう少し別の言葉でいっておかねばならないだろう。ここで、ドビュッシーにしろラヴェルにしろ、いずれの音も、かつてなかったほどに無機的にひびく。もし無機的という言葉が誤解をまねくとすれば、ぎりぎりのところまで追いこまれた後の音が、音としての主体性を強く主張している──といいなおしてもいい。しかもそれは、感覚の尋常ならざる鋭利さによってなされているかのようだ。
 その鋭さは、まったくいたさを感じさせないで骨までとどかんとするところまで切りこみうる刃物のそれに似る。当然のことに、雰囲気的なものが入りこむすきまは、まったくない。しかし、俗にいわれる冷徹さは、むしろ表だっていない。そこにこの演奏の、不思議さとすさまじさがあるように思える。
 ただしかし、そういう演奏の性格が、たとえば彼らがウェーベルンをひいた時のように、聴者に有無をいわせぬ力となりえているかというと、そうはいえないようだ。たしかにぼくはこの演奏をきいて、おどろき、心うごかされた。すごい演奏だと思った。このように演奏されてもなお、その音楽的魅力を誇示しえているということで、かならずしもぼくがきくにあたり得意な作品とはいえない(演奏家にだって、得手な作品もあれば不得手な作品があるんだから、聴者にだってそれがあって不思議はない)ドビュッシーとラヴェルのカルテットを、妙ないい方になるが、見なおした。
 これは、一種の、一糸まとわぬものの美だ。分析のメスのあとはない。演奏という行為にどうしてもついてまわる、ある種のおぼつかなさとあいまいさをきれいにとり去って、敢えていえば演奏のあとを残さぬ演奏になっている。しかし一般的な意味での名演奏とは、基本的なところで違っているようだ。
「音楽」における「音」が、これほど「もの」として存在を主張することは、やはり稀といっていい。しかしくりかえすが、数式の非情さは、ここにはない。ただ、「もの」と化した「音」によるドビュッシーやラヴェルの「音楽」を、聴者がいかように受けとるかということになると、これははなはだむずかしい。この、文字どおりのたぐいまれな演奏をきいて心うごかされながら、たとえば親しい友人に、いい演奏だからきいてごらんよというには、いささかの勇気が必要になる。ただものすごい演奏なのはまちがいないんだが。
 その意味で、このラサールの演奏は、一種の踏絵だ。これは演奏じゃないということは、そんなにむずかしくない。しかしそういったが最後、演奏という行為にのこされた可能性の、もっとも聴者に対して挑発的な部分を否定することになり、それはやはりどう考えても、つまらない。だからということではなく、この戦慄的な演奏に戦慄をおぼえたことに正直になって、ぼくはこのラサールの演奏にくらいつき、勉強したいと、今、むきになっているところだ。
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ラサール弦楽四重奏団による演奏を、ハイエンドオーディオ、
それもスピーカーが出す音におきかえて読んでみてほしい。

ハイエンドオーディオの世界が、
ここでのラサール弦楽四重奏団のレベルにあるとはいわないが、
もしかするとハイエンドオーディオがめざす世界は、ここに書かれているところ(もしくは近い)のか、
いくつかのキーワードが、こちらの心にひっかかってくる。