Date: 3月 21st, 2018
Cate: デザイン

プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン(その3)

現行製品のなかで、コントロールアンプとプリメインアンプのデザインが共通なのは、
イギリスのCHORDがある。

CHORDの製品ではD/Aコンバーターは話題になることが多いが、
アンプは、その実力のわりには、あまり話題にのぼることはない──、そんな印象がある。

パワーアンプは、そうとうに優秀だと思っているが、
なんとなく地味に受け止められるのか、それとも他に理由があるのか。

少なくとも私の周りでは、CHORDのパワーアンプの音を聴いている人は、
いいパワーアンプのにねぇ……、もっと注目されていいのに……、という。

そして続くのが、「コントロールアンプのデザインがねぇ……」である。
私も、そう思うひとりである。

CHORDのコントロールアンプは、プリメインアンプと同じデザインである。
これが不思議なことに、プリメインアンプとしてみれば、
優れたデザインとは決して思わないが、こういうのもあって楽しいかも……、と思う。

なのにそれがコントロールアンプとなると、ダメなところが非常に気になってくる。
プリメインアンプであろうと、コントロールアンプであろうと、
操作そのものが変ってくるわけではない。

にもかかわらず、プリメインアンプとして同じデザインが目の前にあると、
ダメなところも、愛矯だよね、と思えたりするのに、
コントロールアンプとしてのデザインと捉えると、好意的に受け取る気持がなくなっている。

「あばたもえくぼ」(プリメインアンプの場合)が、
「あばたはあばた」(コントロールアンプの場合)となる。

Date: 3月 21st, 2018
Cate: 川崎和男

KK適塾 2017(3月30日)

グレン・グールドの演奏は「解答」だ。

「解答」だからこそ、グレン・グールドはコンサート・ドロップアウトした。

「解答」のために必要な場は、コンサートホールではなくスタジオであり、録音である──。

KK適塾を聴くことで、強くそう確信するようになった。

23日はKK適塾四回目、30日は五回目が行われる。
五回目の受付も始まっている。

Date: 3月 20th, 2018
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・その1)

昨年11月と12月に、
オーディオを特集した「音のいい部屋。A ROOM WITH SOUND」とSWITCH Vol.36を紹介した。

この二冊には、何人かのリスニングルームが紹介されている。
その人たちのシステムを見ながら、
セレッションのDittonシリーズを、いまも使っている人がいるのを見つけて、
やっぱりセレッションはDittonシリーズなんだよね、と思っていた。

セレッションからSL6が登場し、
アルミハニカムエンクロージュアのSL600、SL700が続いて、
これらのスピーカーを高く評価する人の中には、
それ以前のセレッション、つまりDittonシリーズが主力だったころのセレッションを、
終ってしまったメーカーのように書いている人がいた。

SL6の開発リーダーのグラハム・バンク、
彼がいなかったころのセレッションは、絞り切った雑巾のようだ、という表現もあった。

SL6は優れたスピーカーではあったし、SL6の音には驚くこともあった。
そしてSL600が登場して、私は買った。

けれど、私の心のなかでは、Dittonシリーズも、いいスピーカーなのに……、という気持がつねにあった。
古くさい音と、SL6以降のセレッションの音を高く評価する人は、そういっていた。

ほんとうにそうだったのだろうか。

「音のいい部屋。A ROOM WITH SOUND」、SWITCH Vol.36を見て、
Dittonシリーズに興味をもった人がいるのかいないのか──、
それは知りようがないが、
Dittonシリーズと同系統の音を聴かせてくれるスピーカーは、
いまやなくなってしまっていることも気づかせてくれる。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その7)

3月のaudio wednesdayで、075用のネットワークの準備をしていた時に、
常連のTさんにいわれたのは、ここで鳴っている音は宮﨑さんの音と思っている、ということだった。

ことさら自分の音を、喫茶茶会記で鳴らしているつもりは、実はまったくない。
だから、否定してしまったわけだが、
それでも私が鳴らしている音にはかわりないわけで、
私の音といえば、そういうことになる。

私の音ではない、とつい否定してしまったのは、
セッティングし、時には鳴らしながらチューニングしていっていても、
常に、来ている人からのリクエストがあれば、
そちらへとチューニングの方向を変えていけるだけの領域を残しているからなのかもしれない。

むしろ毎回心掛けているのは、
いかに目の前にあるスピーカーを気持良く鳴らせるか、である。

表現を変えれば、そのスピーカーらしく鳴らすか、である。
どんなスピーカーも、そのスピーカー固有の特性(音)を持つ。

それを無視するかのように、強引に自分の音で鳴らす、というアプローチをとる人がいる。
それを自慢する人もいるが、ほんとうに自慢できることだろうか。
そういう鳴らし方(つまりワンパターンな鳴らし方)しかできないからではないのか。

そんな鳴らし方は絶対にしないように心掛けている。
そのために必要なことは、目の前にあるスピーカーから鳴ってくる音を、
きちんと聴くことである。

そうすることで、目の前にあるスピーカーとコミュニケーションが始まる。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その37)

598のスピーカーについて、ここまで書いてきて考えているのは、
なぜ598だったか、である。

698でもなく、498でもなく、598(一本59,800円)のスピーカーが、
これほどメーカーがコストパフォーマンスを競うようになったのか。

それを煽ったのは、長岡鉄男氏であり、
598のスピーカーにおける異常な物量投入の最初はオンキョーのスピーカーだったことは確かだ。

とはいえ、どのメーカーもこれほど598に集中しすぎたのか。

ステレオサウンド 44号(1977年)の新製品紹介の記事で、
井上先生と山中先生が語られていることが、いま読み返してみると、ひじょうに興味深い。
     *
井上 海外製品を含めて、いわゆる名器とか高級スピーカーといわれているものは、「好み」という次元でいえば得てして幅の狭いものではないかと思いますね。むしろ五、六万円のスピーカーの方がいろいな人の「好み」を満足させることができる。より「一般的な音」を持っているのではないかと思うんです。大型になってくるとそんなにオールマイティというわけにはいかなくなる。「いいスピーカーシステムなんだけれども」ということを前提にして、一人一人の人がそれでは自分に応わしいかどうかを聴くことが本来の趣味になってくると思います。それをはっきり認識する必要があります。
山中 趣味っていうのはみんなそうですね。非常に多様なものがあって、その中で自分に合った対応の仕方がいろいろできるというのでないと、また趣味にはならないでしょうね。
     *
この発言から数年後に、598戦争といわれるものが始まり、
十年後の1987年にはたいへんなことになっていた。

「一般的な音」を持っていたであろう、この価格帯のスピーカーの音は、
よほど鳴らしこなしの腕がないと、ひどくアンバランスに鳴りがちで、
とても「一般的な音」からはある意味遠ざかったにも関らず、
数は売れていただけに、その音が「一般的な音」と受け止められていくようにもなっていった。

Date: 3月 19th, 2018
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(つくる・その29)

1996年のステレオサウンド別冊に「MY HANDICRAFT」がある。
副題として「マイ・サウンドをつくろう」とある。

オーディオにおける自作の楽しみは、マイ・サウンドをつくれること──、
とは思っていない。

瀬川先生がステレオサウンド 17号(1970年)に書かれている。
     *
 大げさな言い方に聴こえるかもしれないが、オーディオのたのしさの中には、ものを創造する喜びがあるからだ、と言いたい。たとえば文筆家が言葉を選び構成してひとつの文体を創造するように、音楽家が音や音色を選びリズムやハーモニーを与えて作曲するように、わたくしたちは素材としてスピーカーやアンプやカートリッジを選ぶのではないだろうか。求める音に真剣であるほど、素材を探し求める態度も真摯なものになる。それは立派に創造行為といえるのだ。
 ずっと以前ある本の座談会で、そういう意味の発言をしたところが、同席したこの道の先輩にはそのことがわかってもらえないとみえて、その人は、創造、というからには、たとえばアンプを作ったりするのでなくては創造ではない、既製品を選び組み合せるだけで、どうしてものを創造できるのかと、反論された。そのときは自分の考えをうまく説明できなかったが、いまならこういえる。求める姿勢が真剣であれば、求める素材に対する要求もおのずからきびしくなる。その結果、既製のアンプに理想を見出せなければ、アンプを自作することになるのかもしれないが、そうしたところで真空管やトランジスターやコンデンサーから作るわけでなく、やはり既製パーツを組み合せるという点に於て、質的には何ら相違があるわけではなく、単に、素材をどこまで細かく求めるかという量の問題にすぎないのではないか、と。
(「コンポーネントステレオの楽しみ」より)
     *
スピーカーを自作した、アンプを自作した、
それでマイ・サウンドがつくれるわけではないし、
既製品を組み合わせたからといって、
マイ・サウンドがつくれないわけではない。

「MY HANDICRAFT」に、わざわざ「マイ・サウンドをつくろう」とつけた人は、
どういう意図があったのだろうか。
本気で、自作しなければ……、と思っている人なのか、
瀬川先生の文章を読んでいなかった、
もしくは読んでいたしとても……ことだけは確かだろう。

Date: 3月 18th, 2018
Cate: Jazz Spirit

ジャズ喫茶が生んだもの(その5)

ジャズ喫茶、名曲喫茶が日本独自の文化といえるのならば、
レコードコンサートもまた日本独自の文化である。

レコードコンサートといっても、もう通じなくなった世代の方が多くなっているかもしれない。
こう書いている私だって、レコードコンサートには行ったことはない。

私がオーディオ雑誌を読みはじめたころは、まだレコードコンサートは残っていた。
でも、それは大都市でのことであって、地方に住んでいる者、
それも学生にとっては、都会への憧れを募らせるものでしかなかった。

レコードコンサートについて、瀬川先生がステレオサウンド 25号に書かれている。
     *
 レコード・コンサートという形式がいつごろ生まれたのかは知らないが、LPレコード以降に話を限れば、昭和26年に雑誌『ディスク』(現在は廃刊)が主催した《ディスク・LPコンサート》がそのはしりといえようか。この年は国産のLPレコードが日本コロムビアから発売された年でもあるが、まだレパートリーも狭かったし、それにも増して盤質も録音も粗悪で、公開の場で鳴らすには貧弱すぎた。だからコンサートはすべて輸入盤に頼っていた。外貨の割当が制限されていた時代、しかも当時の一枚三千円から四千円近い価格は現在の感覚でいえば十倍ぐらいになるだろうか。誰もが入手できるというわけにはゆかず、したがってディスクのコンサートも、誌上で批評の対象になるレコードを実際に読者に聴かせたいという意図から出たのだろうと思う。いまではバロックの通俗名曲の代表になってしまったヴィヴァルディの「四季」を、ミュンヒンガーのロンドン盤で本邦初演したのが、このディスクの第二回のコンサート(読売ホール、昭和26年暮)であった。
 これを皮切りに、その後、ブリヂストン美術館の主催(松下秀雄氏=現在のオーディオテクニカ社長)による土曜コンサートや、日本楽器・銀座店によるヤマハLPコンサートが続々と名乗りを上げた。これらのコンサートは、輸入新譜の紹介の場であると同時に、それを再生する最新のオーディオ機器とその技術の発表の場でもあった。富田嘉和氏、岡山好直氏、高城重躬氏らが、それぞれに装置を競い合った時代である。
 やがて音楽喫茶ブームが来る。そこでは、上記のコンサートで使われるような、個人では所有できない最高の再生装置が常設され、毎日のプログラムのほかにリクェストに応じ、レコード・ファンのたまり場のような形で全国的に広まっていった。そうしたコンサートや音楽喫茶については、『レコード芸術』誌の3・4・5月号に小史の形ですでにくわしく書いたが、LPの再生装置が単に珍しかったり高価なだけでなく、高度の技術がともなわなくては、それを作ることもまして使いこなしてゆくことも難しかったこの時代に、コンサートと喫茶店の果した役割は大きい。
     *
ステレオサウンド 25号は1972年に出ている。
レコードコンサートはオーディオメーカーの主催によるものが多かったようだが、
レコード会社によるものもあったようだ。

この時代までの日本では、レコードと聴き手の関係は、一対一とはいえない面があった。

Date: 3月 18th, 2018
Cate: ロマン

オーディオのロマン(ソニー SS-R10・その1)

1996年だったか、ソニーからコンデンサー型スピーカーシステムSS-R10が登場した。
ペアで300万円という価格もそうだったが、それ以上にソニーからコンデンサー型、ということでも、
驚いた記憶があるし、ながくオーディオをやっている人ならば、
ソニーとコンデンサー型スピーカーとが結びつきにくかっただろう。

唐突に登場してきた感があった。
ソニーはコンデンサー型マイクロフォンは、それ以前から手がけていたのだから、
それほど唐突でもないだろう、といわれるかもしれないが、
ソニーのスピーカーの流れを知っていれば、唐突といえたし、
SS-R10の技術を活かした普及クラスの製品や、後継機種が登場したわけでもない。

唐突だな、は、いつしか唐突だったな……、に私の中では変っていた。

2010年秋、瀬川先生の文章を集中的に入力していた数ヵ月がある。
そのとき気づいた。
ステレオサウンド 5号、瀬川先生の「スピーカーシステムの選び方まとめ方」、
その中に、こう書いてあった。
     *
 コンデンサー型スピーカーについては、中〜高域の透明な美しさにくらべて、低音域の厚みが不足したり、力強さがないなどという意見がよく聞かれる。その当否は別として、QUADのスピーカーを中域から上で使うようにして、低域をふつうのコーン型のウーファーに分担させるという、ソニーの大賀氏のアイデアを実際に聴かせて頂いて仲々よい音質だったので、使いこなしのひとつのヒントとしてご紹介させて頂く。
     *
聴かせて頂いて、とあるから、大賀典雄氏のシステムだったのだろう。
つまり大賀氏は、この時期(1967年ごろ)、QUADのESLを鳴らされていたことになる。

これがSS-R10と結びついた。
私のなかでむすびついただけであって、事実かどうかはわからない。
けれど、SS-R10開発のゴーサインは、大賀氏が出されたのではないだろうか。

SS-R10はコンデンサー型とは思えない重量である。
スピーカー本体が78kg、別筐体のネットワークが18kg、100kg近い。
QUADのESLはネットワークは内蔵されていて、18kg。
ずいぶんと違う。
どちらも3ウェイである。

ソニーという会社とQUADという会社の規模の違いともいえそうな、
この重量の違い、いいかえれば物量投入の違いは、
QUADのESLを鳴らしながらも、
低音をコーン型ウーファーで補っていた大賀氏の不満から生じたもののような気もする。

Date: 3月 17th, 2018
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その2)

三年前に「オーディオマニアとして(圧倒的であれ)」を書いた。
昨年暮にも「二度目の「20年」(オーディオ少年よ、圧倒的であれ)」を書いた。

圧倒的であれ、といまも強くおもう。
同時に圧倒的な何か、についてもおもう。

50をこえたから、よけいにそうおもうのかもしれない──、
圧倒的な破壊衝動が、オーディオ少年だったころにはあった(もっていた)ような気がする。

「THE DIALOGUE」が呼び起こしてくれた感覚だ。

Date: 3月 17th, 2018
Cate: ディスク/ブック

ソング・オブ・サマー

ソング・オブ・サマー」が出ていたのを、
つい先日知った。

エリック・フェンビーによるディーリアスの本だ。
ディーリアスの名前だけは知っていた。
けれど、まだきいたことがなかった高校生のころ、
ケイト・ブッシュの三枚目のアルバムに「Delius」があった。

その歌詞に、フェンビーの名が出てくる。
フェンビーの名前を初めて知ったのは、ケイト・ブッシュの「Delius」のおかげだ。

とはいえフェンビーのことについて、すぐに何かを知ることができたわけではない。
二、三年して、やっとフェンビーのとディーリアスの関係について知った。

それでもフェンビーによるディーリアスを聴けたわけではない。
そのころの日本では、ビーチャム、バルビローリによる演奏が、
ディーリアスの定番となっていた。

どちらも聴いた。
でも、私は、ビーチャム、バルビローリによるディーリアスの音楽を聴く前に、
ケイト・ブッシュの「Delius」を聴いている。
その影響があるのは自分でもわかっている。

もっと違うディーリアスがあっていいのではないか──、
そんなふうに感じるところがあった。
何かもどかしさを感じていたともいえる。

フェンビーによるディーリアスのCDが出たのはいつだった。
1985年、もう少し前だったか、
六本木のWAVEで見つけたときは、嬉しかった。
やっとフェンビーの演奏でディーリアスが聴ける。

一方的な期待を持ちすぎて、初めてのディスクを聴いてしまうのは、おすすめしない。
フェンビーのディーリアスは、よかった。

ケイト・ブッシュの「Delius」で、私の中になにかが出来上っていたディーリアス像、
それにぴったりとはまるような感じを受けた。

正直にいおう、フェンビーのディーリアスを聴いて、
初めてディーリアスの音楽がいい、と思えた。

フェンビーの「ソング・オブ・サマー」は、評価も高いようだが、
残念なことにフェンビーによるディーリアスのCDはほとんどないのが現状だ。

CD-Rの七枚組を見つけた。
20代前半に聴いたフェンビーのディーリアス、
30年後に、もう一度聴けるだろうか、どう感じるのだろうか。

Date: 3月 17th, 2018
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(山下達郎と中島みゆき)

「山下達郎 ハイレゾ」で検索すれば、
DSD、SACDには興味がない、という発言をFM放送でした、という記述が見つかる。
ロックンロールは、48kHz、24ビットで十分で、ハイサンプリングにすれば、
ロックンロールの疾走感が失われる、とのこと。

だから山下達郎のSACDがないのはわかる。
けれど中島みゆきがないのはどうしてだろうか。

CDの保護層の新素材が出ると、中島みゆきのCDは採用が早い。
ガラスCDまで出している。
3月にはHQCDも発売である。
にも関らずSACDは、ライヴ盤一枚だけである。
これもマルチチャンネル再生のためのSACDのようである。

SACDを出さないのはヤマハミュージックの方針なのか、
それとも中島みゆきも、山下達郎と同じように感じているのか、
それとも別の理由があるからなのか。

Date: 3月 16th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その51)

バッファーアンプをつけ加えることは、
ノイズ的に考えれば、ゲイン0dBのノイズをつけ加えることである。

ゲイン0dBだからノイズのレベルは低いはずだが、それでもゼロというわけではない。
LNP2を測定してみれば、バッファーの有り無しでは、ノイズに違いがあるはず。

このゲイン0dBのノイズだけが、バッファーがあったほうが、
LNP2の表現力が増す理由のすべてではないと考えているが、重要な要素だと捉えている。

バッファーをつけなくとも、LNP2にはゲイン0dBにできる機能がある。
INPUT AMPのゲインは、どの時代のLNP2であっても0dBのポジションがある。

ここを0dBにしておけば、高価なモジュールLD2を二個追加する必要はなくなるのか。
別項「LNP2になぜこだわるのか」の(その5)、(その6)、(その7)、(その8)に書いているが、
このdB GAINの切り替えは、音に大きく影響する。

瀬川先生も書かれていたし、私も何度も試してみたが、ゲインは高くしたほうがいい。
鳴らすスピーカーの出力音圧レベル、パワーアンプのゲインによっては、
ゲインを高くすると、やや使いづらくなる面は確かにあるが、それでも音のよさにはかえられない。

矛盾しているではないか。
そういわれるかもしれない。
INPUT AMPのゲインの0dBの音は認めてなくて、
バッファーの0dBはいいのか、と。

Date: 3月 15th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その50)

瀬川先生が、LNP2はバッファーアンプ付きの音で評価されていたのは、
瀬川先生がLNP2について書かれた文章を読んできた者には、いわば常識である。

バッファーアンプ付きということは、LD2モジュールを追加することである。
PHONO入力からライン出力まで、LNP2は三つのLD2を経由しているわけで、
バッファーアンプを付けるということは、四つめのLD2を経由して、信号は出力される。

バッファーアンプのゲインは0dBである。
バッファーアンプがあろうとなかろうと機能的には変りはない。

通常のオーディオの捉え方では、余分なアンプ(モジュール)をひとつ通るわけだから、
それで音が良くなるわけはない──、そうなる。

そんなことは瀬川先生も承知のうえで、バッファーアンプについて書かれていた。
口の悪い人、なんでも色眼鏡で見てしまう人などは、
瀬川冬樹の耳もあてにならない、とか、
瀬川冬樹も輸入元からの鼻薬で、そんなことを書いていた、とかいう。

バッファー付きのLNP2の音を聴かずに、そんなことをいう短絡思考の人がいる。
まず、なぜなのか、と考えないのか。

私は、LNP2のバッファーのことは、ずっと頭の隅にあった。
直接、瀬川先生に訊けるのであれば、その理由を知りたい。
おそらく、瀬川先生は、理屈なんてどうでもいいから、音を聴いてごらん、といわれるだろう。

それで音が良ければ、それでいいのである。
そう思って、私としては、納得のいく理由を、長いこと考えてきた。
別項で、そのことについても書いている。

そしてその理由のひとつが、バッファー追加で加わる新たなノイズである。

Date: 3月 14th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(仮説・その8)

BYBEEを試したことはない。
BYBEEが謳っていることが事実だとして、
量子ノイズを取り除いてくれたとして、それがどういう音になるのかは、だから知らない。

ただBYBEEの中に無誘導巻線抵抗が使われていたという事実だけで、
メーカーも抵抗値も違う無誘導巻線抵抗を、電源ラインに挿入して実験しただけである。

結果は、1月に3Wのモノを作ったあとに、
アンプにも使えるように5Wのモノを作ったことで、察しがつくと思う。

さまざまな条件で試してみた上で、こまかいことについて書くつもりでいるが、
電源ラインとはいえ、直列に挿入される抵抗は、いわは余分な素子である。
通常ならば、デメリットしか考えられないが、
実際の音は、デメリットはあるが、メリットもある。

ほんとうに量子ノイズが取り除かれるのだろうか。
そうだとしたら、量子ノイズとは、いったいどういう性質のノイズなのだろうか。

わからないことだらけである。
それでも音は変る。
確かになんらかの効果がある変化も聴ける。

今度はラインラインに挿入してみようか、と考えている。
電源ラインへの挿入と同じ変化が得られるのか、
それとも変化の仕方に違いが見られるのか。

抵抗の値は、一桁大きい値にしてみたほうがいいのか、
同じように0.22とか0.1Ωがいいのか。

audio wednesdayで実験してみる予定である。

Date: 3月 14th, 2018
Cate: マルチアンプ

マルチアンプのすすめ(自動補正がもたらすもの・その2)

先日、非常に興味深い話を聞いた。
いま数社から発売されている自動補正機能をもつプロセッサーについて、だった。

どのメーカーなのかは、書かない。
この種の器材はソフトウェアのヴァージョンアップで、その問題点が解決されることがあるし、
他社製の同種の製品も、同じ問題点を抱えている可能性もあるからだ。

マッキントッシュのスピーカーシステム、XRT20に対して自動補正をしようとすると、
途中でフリーズしてしまうとのことだった。

自分の目で確認したわけではないから、
それがほんとうにフリーズといっていい現象なのか、はっきりとしたことはいえないが、
とにかく考え込んでしまっているかのように、動作が止ってしまう、らしい。

XRT20は3ウェイとはいえ、
トゥイーターは24個のソフトドーム型を直列・並列接続して使っている。
どうもXRT20のようなスピーカーシステムは、
自動補正機能にとって、想定の範囲外の存在のようなのだ。

想定の範囲内のスピーカーシステムであれば、
初対面のスピーカーであっても、きちんと動作するけれど、
そうでないスピーカーシステムが相手だと、対処できない。

これはXRT20のようなスピーカーに対してだけなのか。
BOSEの901に対しては、どうなんだろうか。
他にもいくつか、試してみたいスピーカーは浮ぶ。

おそらくXRT20にしてもトゥイーターセクションが、
ソフトドーム型24個ではなく、リボン型、コンデンサー型だったりしたら、
きちんと動作するのかもしれない。