Date: 3月 18th, 2018
Cate: Jazz Spirit
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ジャズ喫茶が生んだもの(その5)

ジャズ喫茶、名曲喫茶が日本独自の文化といえるのならば、
レコードコンサートもまた日本独自の文化である。

レコードコンサートといっても、もう通じなくなった世代の方が多くなっているかもしれない。
こう書いている私だって、レコードコンサートには行ったことはない。

私がオーディオ雑誌を読みはじめたころは、まだレコードコンサートは残っていた。
でも、それは大都市でのことであって、地方に住んでいる者、
それも学生にとっては、都会への憧れを募らせるものでしかなかった。

レコードコンサートについて、瀬川先生がステレオサウンド 25号に書かれている。
     *
 レコード・コンサートという形式がいつごろ生まれたのかは知らないが、LPレコード以降に話を限れば、昭和26年に雑誌『ディスク』(現在は廃刊)が主催した《ディスク・LPコンサート》がそのはしりといえようか。この年は国産のLPレコードが日本コロムビアから発売された年でもあるが、まだレパートリーも狭かったし、それにも増して盤質も録音も粗悪で、公開の場で鳴らすには貧弱すぎた。だからコンサートはすべて輸入盤に頼っていた。外貨の割当が制限されていた時代、しかも当時の一枚三千円から四千円近い価格は現在の感覚でいえば十倍ぐらいになるだろうか。誰もが入手できるというわけにはゆかず、したがってディスクのコンサートも、誌上で批評の対象になるレコードを実際に読者に聴かせたいという意図から出たのだろうと思う。いまではバロックの通俗名曲の代表になってしまったヴィヴァルディの「四季」を、ミュンヒンガーのロンドン盤で本邦初演したのが、このディスクの第二回のコンサート(読売ホール、昭和26年暮)であった。
 これを皮切りに、その後、ブリヂストン美術館の主催(松下秀雄氏=現在のオーディオテクニカ社長)による土曜コンサートや、日本楽器・銀座店によるヤマハLPコンサートが続々と名乗りを上げた。これらのコンサートは、輸入新譜の紹介の場であると同時に、それを再生する最新のオーディオ機器とその技術の発表の場でもあった。富田嘉和氏、岡山好直氏、高城重躬氏らが、それぞれに装置を競い合った時代である。
 やがて音楽喫茶ブームが来る。そこでは、上記のコンサートで使われるような、個人では所有できない最高の再生装置が常設され、毎日のプログラムのほかにリクェストに応じ、レコード・ファンのたまり場のような形で全国的に広まっていった。そうしたコンサートや音楽喫茶については、『レコード芸術』誌の3・4・5月号に小史の形ですでにくわしく書いたが、LPの再生装置が単に珍しかったり高価なだけでなく、高度の技術がともなわなくては、それを作ることもまして使いこなしてゆくことも難しかったこの時代に、コンサートと喫茶店の果した役割は大きい。
     *
ステレオサウンド 25号は1972年に出ている。
レコードコンサートはオーディオメーカーの主催によるものが多かったようだが、
レコード会社によるものもあったようだ。

この時代までの日本では、レコードと聴き手の関係は、一対一とはいえない面があった。

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