Date: 3月 22nd, 2018
Cate: ハイエンドオーディオ
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ハイエンドオーディオ考を書くにあたって

ハイエンドオーディオについては、いつか書こうと、
このブログを始めた時から考えている。

必ずしも否定的なことばかりを書こうとは考えていない。
ハイエンドオーディオの存在を否定する気もない。

それでも、ハイエンドオーディオについて書き始めると、
書きたいことは次々と出てくるような気もしている。

いつから書き始めるかも決めていない。
ただ書く前に読んでおきたい文章を、今日やっと思い出した。

黒田先生が書かれていたものだ。
かなり以前のステレオサウンドに書かれていたことは憶えていたが、
はっきりと、どの号なのかまでは思い出せていなかったし、
先延ばしにしていたから、探していたわけでもなかった。

その文章は、27号に載っている。
ラサール弦楽四重奏団のドビュッシーとラヴェルの弦楽四重奏曲についての文章である。
     *
 ひどく素朴ないい方になってしまうんだが、この弦楽四重奏団による演奏には、四人の奏者によるものとは考えにくいところがある。ダイナミックスが変化するとき、たとえばクレッシェンドしたり、ディミヌエンドしたりするとき、それは特にきわだつ。こういう演奏をきいていると、弦楽四重奏もついにここまできたかと思ってしまう。いや、ここまできたか──といういい方は、正しくない。これは明らかに、今までの4人の弦楽器奏者があわせてひくことによってなりたった弦楽四重奏とは、別のところから出発してのものと考えなければいけないようだ。
 すでにここでは、あわせることが目的たりえていない、そのすごさがある。だからこの演奏を、ありきたりの言葉で、もし、見事なアンサンブルなどといったとすると、この演奏がもっている力の、きわめて重要な部分を伝えないで終ることになる。たとえばそのようなことはありえないといわれようと、この演奏、ドビュッシーにしろラヴェルにしろ、あわせようとしてあわせた演奏ではないのようにきこえる。たとえばジュリアードカルテットの演奏が、あわせようとしてあわせたぎりぎりのところでのものだとすれば、このラサールカルテットのものは、あたかもまったく別のところから出発してその先に到達してしまったかのようるきこえる。
 その意味でこの演奏には、いささか信じがたいところがある。文字通りの意味で、これは戦慄的だ。それがいいかわるいかは、ひとまず聴者の判断にまかせるとして、この演奏がどういう演奏家、もう少し別の言葉でいっておかねばならないだろう。ここで、ドビュッシーにしろラヴェルにしろ、いずれの音も、かつてなかったほどに無機的にひびく。もし無機的という言葉が誤解をまねくとすれば、ぎりぎりのところまで追いこまれた後の音が、音としての主体性を強く主張している──といいなおしてもいい。しかもそれは、感覚の尋常ならざる鋭利さによってなされているかのようだ。
 その鋭さは、まったくいたさを感じさせないで骨までとどかんとするところまで切りこみうる刃物のそれに似る。当然のことに、雰囲気的なものが入りこむすきまは、まったくない。しかし、俗にいわれる冷徹さは、むしろ表だっていない。そこにこの演奏の、不思議さとすさまじさがあるように思える。
 ただしかし、そういう演奏の性格が、たとえば彼らがウェーベルンをひいた時のように、聴者に有無をいわせぬ力となりえているかというと、そうはいえないようだ。たしかにぼくはこの演奏をきいて、おどろき、心うごかされた。すごい演奏だと思った。このように演奏されてもなお、その音楽的魅力を誇示しえているということで、かならずしもぼくがきくにあたり得意な作品とはいえない(演奏家にだって、得手な作品もあれば不得手な作品があるんだから、聴者にだってそれがあって不思議はない)ドビュッシーとラヴェルのカルテットを、妙ないい方になるが、見なおした。
 これは、一種の、一糸まとわぬものの美だ。分析のメスのあとはない。演奏という行為にどうしてもついてまわる、ある種のおぼつかなさとあいまいさをきれいにとり去って、敢えていえば演奏のあとを残さぬ演奏になっている。しかし一般的な意味での名演奏とは、基本的なところで違っているようだ。
「音楽」における「音」が、これほど「もの」として存在を主張することは、やはり稀といっていい。しかしくりかえすが、数式の非情さは、ここにはない。ただ、「もの」と化した「音」によるドビュッシーやラヴェルの「音楽」を、聴者がいかように受けとるかということになると、これははなはだむずかしい。この、文字どおりのたぐいまれな演奏をきいて心うごかされながら、たとえば親しい友人に、いい演奏だからきいてごらんよというには、いささかの勇気が必要になる。ただものすごい演奏なのはまちがいないんだが。
 その意味で、このラサールの演奏は、一種の踏絵だ。これは演奏じゃないということは、そんなにむずかしくない。しかしそういったが最後、演奏という行為にのこされた可能性の、もっとも聴者に対して挑発的な部分を否定することになり、それはやはりどう考えても、つまらない。だからということではなく、この戦慄的な演奏に戦慄をおぼえたことに正直になって、ぼくはこのラサールの演奏にくらいつき、勉強したいと、今、むきになっているところだ。
     *
ラサール弦楽四重奏団による演奏を、ハイエンドオーディオ、
それもスピーカーが出す音におきかえて読んでみてほしい。

ハイエンドオーディオの世界が、
ここでのラサール弦楽四重奏団のレベルにあるとはいわないが、
もしかするとハイエンドオーディオがめざす世界は、ここに書かれているところ(もしくは近い)のか、
いくつかのキーワードが、こちらの心にひっかかってくる。

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