バルトークと「美」という漢字
十日ほど前に「アーノンクールのマタイ受難曲」でも、
「美」という漢字について書いた。
もう何度も書いているから、くり返しはしない。
「美」という漢字のもつ残酷な一面と、
バルトークの写真とが、重なってくる。
バルトークのモノクロの写真。
初めてみたのは、高校生のころだったか。
美しい人だな、と感じた。
いまもバルトークの写真をみると、そう思うが、
その美しいには、「美」という漢字のもつ残酷な一面を、いまは感じてしまう。
十日ほど前に「アーノンクールのマタイ受難曲」でも、
「美」という漢字について書いた。
もう何度も書いているから、くり返しはしない。
「美」という漢字のもつ残酷な一面と、
バルトークの写真とが、重なってくる。
バルトークのモノクロの写真。
初めてみたのは、高校生のころだったか。
美しい人だな、と感じた。
いまもバルトークの写真をみると、そう思うが、
その美しいには、「美」という漢字のもつ残酷な一面を、いまは感じてしまう。
2008年9月から始めた。
つまり十年以上書いている。
十年という月日は、独り暮しと家族とともに暮らしている人とでは、
けっこう違うように、最近になって感じている。
以前会った時は小学生だった子供が、大学受験を迎えている、
ハタチになった、
結婚した、
そんなことを友人、知人からきくと、
十年という月日の変化の大きさを実感することになる。
独り暮しでも、鏡をみれば白髪が増えてきたなぁ、とか、
それから坐りっ放しから立ち上ろうとすると、身体がかたくなっていることを感じたりする。
これも十年の月日における変化なのだが、
子供の成長とくらべれば、小さい変化でしかないようにも思えてくるし、
どこか取り残されているような感覚もないとはいいきれない。
108回目のaudio wednesdayは、1月1日。
なのでニューイヤーコンサートということで、
クナッパーツブッシュ/ウィーンフィルハーモニーによる「ウィーンの休日」をかける。
当然MQA-CDである。
1月1日のaudio wednesdayは、「ウィーンの休日」を皮切りに、
MQAのみをかける予定でいる。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
ステレオサウンド 72号(1984年9月)の特集、
「いま、聴きたい、聴かせたい、とっておきの音」で、
菅野先生がスタックスのSR-Λ Proのことを書かれている。
*
私が人知れず、便利に使っている、とっておきの音を聴かせてくれるのが、このSRΛプロである。そして、ヘッドフォンとスピーカーの音の相違を通して、実に多くの音響的ファクターを類推することも面白くいろいろなことを学ぶことも可能である。
*
SR-Λ Proが欲しかった、というより、
偶然にも野上さんが使われていたスタックスも、SR-Λ Proだった、ということだ。
火曜日の夜に、だから野上さんのところに行ってきた。
前回とは違いがあった。
音楽用のパソコンが、違っていた。
小型のパソコンで、音楽再生用にチューニングしてあるモノ、とのこと。
野上さんは、このパソコンが来て、音がまろやかになった、といわれた。
たしかに、第一印象はそのとおりだった。
まろやかになっていた。
ずいぶんまろやかになった、と思いつつも、
音の冴えのような要素が薄れてしまっているようにも感じていた。
何曲か聴いても、その印象は変化しない。
これはこれでいい、とは思うけれど、
私個人としては、まろやかさよりも音の冴えのほうを重視したい。
野上さんに「まろやかになっているけど……」と伝えると、
野上さんも同じように感じられていた。
どちらがいい音なのかは、聴く人によって判断が違ってこよう。
聴く音楽によっても違ってくる。
それでも私には、まろやかすぎるように感じる。
そんなことを話していたら、野上さんが「Aさんはヘッドフォンだから」といわれた。
小型のオーディオ専用パソコンを持ち込んだのは、Aさんである。
火曜日の夜から、ヘッドフォンで聴くようになった。
ここ数年、ヘッドフォン、イヤフォンといえば、
iPhoneに付属の白いイヤフォンだけだったが、
写真家の野上さんから、スタックスのコンデンサー型を格安で譲ってもらった。
最新型のスタックスではない。
1980年代のSR-Λ Pro + SRM-1/MK2 Proである。
SR-Λ Proの振動ユニットは一年ちょっと前に新品に交換されている。
火曜日の晩、帰宅後セットアップ。
といってもヘッドフォンアンプとヘッドフォンだから、楽である。
メリディアンの218の出力をSRM-1/MK2 Proに接ぐ。
SRM-1/MK2 Proに電源を入れた直後の音から聴きはじめる。
よくオーディオマニアのなかには、
電源を入れてすぐの音は、ウォームアップ以前の音だから、聴かないようにしている──、
そんなことをいう人がいる。
リスニングルームに、新しいオーディオ機器を導入したときも、
すぐには音を聴かずにウォームアップが進むまで、他のことをしているらしい。
でも、私は電源を入れた直後の音からしっかりと聴きたい。
自分で使うオーディオ機器のことである。
試聴室で聴くのであれば、時間的制約があるのであれば、そういう聴き方もいいが、
自分で使うのであれば、そのオーディオ機器のすべてを、
できるかぎり知っておきたい、と思うからだ。
電源を入れた直後の音から、
聴き続けることで、どのくらいの時間で、どのような変化をしていくのか。
筐体が冷えきった状態の音は、芳しくないことも多い。
そういう音をみない(きかない)ようにするのが、
オーディオへの愛情なのか──、と思う。
私は、そうではない、と思っている。
そういう人は、愛する人の寝起きの顔や、くたびれた表情はみない人なのだろう。
アース線を口にくわえるかどうかは別としても、
アンプのアース端子に1mか、それ以上のアース線を接続するだけでも音は変る。
ただ単に金属線を接ぐだけである。
アンプに接続しいてる側の反対側はどこにも接続されていない。
宙ぶらりんなアース線となるわけだが、
東京だと山手線の内側では、これだけでも顕著に音は変る。
悪くなる──、と書きたいところだが、
実際に音を聴いてみると、そうともいえないところもあって、
仮想アースに興味をもっている人は、
その前に試しにアース線を接続するだけでもやってみてほしい。
アース線の長さによっても音の変化は違う。
さらにアース線をとぐろに巻いても音は変化するし、
まっすぐにしても、アース線をどの方向に向けるかによっても、
たとえば水平方向だけでなく、垂直方向にしてみたりすると、
こんなことで音は変らなくてもいいのに……、と正直思うのだが、
現実には少なからぬ変化がある。
このアース線の先に金属板を電気的に接続する。
するとまた音は変る。
私は金属板の種類を、同しか試したことがないが、
おそらくアルミニウム、真鍮、鉄など、種類を変えていけば音も変化するはずだ。
また厚みを変えても、大きさを変えても変化すると思う。
さらにこの金属板の置き方、向きによっても変化するのは確かめている。
ベタ置きするのか、垂直に立ててみるのか、
それからアンプ、CDプレーヤーの下に接触しないように置くのか。
音は、やはり変っていく。
「百年の孤独」で検索してみたら、
上位に表示されるのは麦焼酎の「百年の孤独」ばかりだった。
ガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」が最上位に表示されるものと思い込んでいただけに、
この結果は意外というよりも、時代を反映してのものなのか、と受け止めた。
こんなことを書いている私も、ガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」は知っているだけで、
読んではいない。
六年前、岩崎先生のお宅に伺った時に、そこの書棚に「百年の孤独」があった。
岩崎先生が読まれていた「百年の孤独」である。
その日から、読もう読もうと思いながら、つい遠ざけてきた。
ようやく今日、読みはじめた。
「百年の孤独」を読み終っても、
岩崎先生と同じ音楽の聴き方、音の聴き方ができるようになるわけではないし、
岩崎先生のような表現ができるようになるわけではないのはわかっていても、
そろそろ「百年の孤独」を読んでおかないと、
なにか手遅れになってしまいそうな気がした。
読み終ったら、少なくとも岩崎先生に関するなんらかの気づきはあるはず、と思っている。
ステレオサウンド 50号といえば、1979年春号。
もう40年前のステレオサウンドということになる。
50号を記念しての巻頭座談会、
この最後に出てくる瀬川先生の発言は、別項でも引用している。
*
瀬川 「ステレオサウンド」のこの十三年の歩みの、いわば評価ということで、プラス面ではいまお二方がおっしゃったことに、ぼくはほとんどつけたすことはないと思うんです。ただ、同時に、多少の反省が、そこにはあると思う。というのは「ステレオサウンド」をとおして、メーカーの製品作りの姿勢にわれわれなりの提示を行なってきたし、それをメーカー側が受け入れたということはいえるでしょう。ただし、それをあまり過大に考えてはいけないようにも想うんですよ。それほど直接的な影響は及ぼしていないのではないのか。
それからもうひとつ、新製品をはじめとするオーディオの最新情報が、創刊号当時にくらべて、一般のオーディオファンのごく身近に氾濫していて、だれもがかんたんに入手できる時代になったということも、これからのオーディオ・ジャーナリズムのありかたを考えるうえで、忘れてはならないと思うんです。つまり初期の時代、あるいは、少し前までは、海外の新製品、そして国産の高級品などは、東京とか大阪のごく一部の場所でしか一般のユーザーは手にふれることができなかったわけで、したがって「ステレオサウンド」のテストリポートは、現実の製品知識を仕入れるニュースソースでもありえたわけです。
ところが現在では、そういった新製品を置いている販売店が、各地に急激にふえたので、ほとんどだれもが、かんたんに目にしたり、手にふれてみたりすることができます。「ステレオサウンド」に紹介されるよりも前に、ユーザーが実際の音を耳にしているということは、けっして珍しくはないわですね。
そういう状況になっているから、もちろんこれからは「ステレオサウンド」だけの問題ではなくて、オーディオ・ジャーナリズム全体の問題ですけれども、これからの試聴テスト、それから新製品紹介といったものは、より詳細な、より深い内容のものにしないと、読者つまりユーザーから、ソッポを向かれることになりかねないと思うんですよ。その意味で、今後の「ステレオサウンド」のテストは、いままでの実績にとどまらず、ますます内容を濃くしていってほしい、そう思います。
オーディオ界は、ここ数年、予想ほどの伸長をみせていません。そのことを、いま業界は深刻に受け止めているわけだけれど、オーディオ・ジャーナリズムの世界にも、そろそろ同じような傾向がみられるのではないかという気がするんです。それだけに、ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには、これを機に、われわれを含めて、関係者は考えてみる必要があるのではないでしょうか。
*
41号から読みはじめた私にとって、50号はちょうど10冊目のステレオサウンドにあたる。
二年半読んできて、熱っぽく読んでいた時期でもある。
だから瀬川先生の《ユーザーにもういちど「ステレオサウンド」を熱っぽく読んでもらうためには》に、
完全に同意できなかったことを憶えている。
《熱っぽく読んでもらう》とは、どういうことなのか。
なぜ、それまでのステレオサウンドを、読者は《熱っぽく読んで》いたのか。
いくつかの理由らしきことが考えられる。
その一つとして、不器用ゆえの熱があったからだ、と、いまは思っている。
一年前に「メリディアン ULTRA DACを聴いた(ステレオサウンド 209号)」を書いた。
ベストバイが特集のステレオサウンド 209号で、
メリディアンのULTRA DACは、黛健司氏の星一つだけだった。
それからの一年、
218が登場し、210号の新製品紹介で、山本浩司氏が担当されていた。
なかなかの高評価だ、と私は読んだ。
けれど山本浩司氏は、ベストバイの選考者ではない。
なので、218はベストバイで、星一つもとれない可能性がある──、
そう予想していたけれど、外れてほしい、とも思っていた。
結果は、218はベストバイとして選ばれていない。
ULTRA DACは、今年も黛健司氏の星一つだけである。
こちらも予想通りの結果でしかない。
いまはどうなっているのだろうか。
私がいたころは、ベストバイに選ばれなかった製品は、翌年の候補から外れてしまう。
いまもそのままだとしたら、
メリディアンの218は、今後ベストバイに選ばれることはないことになる。
昨晩のaudio sharingの忘年会には、
50代二人、60代二人、70代一人が集まって、あれこれ話していた。
話していて、そういえば、と思ったことをきいてみた。
昔、高校に合格したときに、親にステレオを買ってもらった、というのは、
われわれの世代では珍しいことではなかった。
中学入学の時には万年筆を買ってもらった。
高価な万年筆ではなかったけれど、それでも一つ大人へのステップをあがったように感じた。
それまでの筆記具、鉛筆、シャープペンシル、ボールペンなどとは明らかに違う。
手入れも必要となる、その筆記具は小学生が使うモノではない、とその時感じていた。
いまはそのへんどのなのだろう。
中学生になったら、万年筆なのだろうか。
そうでないような気もする。
高校に合格したら、オーディオ?
これこそ、どうなのだろうか。
昨晩、集まった人たちも、みな知らなかった。
高校に合格したら、スマートフォンなのか。
でも、いまでは中学生でも使ってそうだから、
スマートフォンを貰って喜ぶのだろうか。
それこそヘッドフォンとヘッドフォンアンプ、D/Aコンバーターなのか。
高校に合格した祝いに、という発想そのものが、
いまではなくなっているのか、古いのか。
e☆イヤホンの活気ある店内から出て、
しばらく歩いていて、音元出版が秋葉原にあることを思い出していた。
音元出版は確か最初から秋葉原に会社があったはずだ。
いまも秋葉原にある。これから先もそうなのかもしれない。
ステレオサウンドは何度か引っ越ししている。
六本木周辺の時代が長かったが、今年、世田谷に移っている。
こんなことを書いているのは、オーディオの現場は? ということを考えるからだ。
十年前に「オーディオにおけるジャーナリズム(その33)」で、
オーディオの「現場」は、どこなのだろうか、と書いた。
十年経っても、はっきりと答を出せずにいるが、
秋葉原は、いまでも、オーディオの現場といえるのかもしれない──、
e☆イヤホンから出て、そう思っていた。
秋葉原はずいぶん変ってきた。
オーディオの街だったこともある。
ずいぶん昔のことではあるが、それでもオーディオの現場の一つなのだろう、と思う。
音元出版の人たちが、そんなことを考えているのかどうかはわからない。
けれどずっと秋葉原に音元出版はある。
オーディオの現場の一つといえる秋葉原に、音元出版があることは事実だ。
オーディオをずっとやってきて、
温故知新の「古き」と「新しき」には、
「古き己」、「新しき己」という意味も含まれている──、そう思うようになった。
別項「2,500,000円と125,000円(その7)」で、
なかば冗談で、ULTRA DACには届かなくても、SUPER DACと呼べるレベルには達した──、
そんなことをつい言ってしまった、と書いているし、
「2019年をふりかえって(その14)」でも、SUPER DACを使っている。
思いつきで言ってしまったSUPER DACは、けっこう気に入っていた。
でも、ULTRA DACとSUPER DACとでは、
ULTRA DACが上で、SUPER DACはその下に位置するような印象もある。
218にどれだけ手を加えたところで、ULTRA DACに化けるわけではない。
それにULTRA DACとはコンセプトが違うのが218ともいえる。
となると、SUPER DACではなく、もっと218にぴったりとくる表現があるような気もしていた。
昨晩は、audio sharingの忘年会だった。
いろんな話をしていて、ふと気づいた。
SUPER DACではなく、WONDER DACこそが、218にぴったりだ、と。
私にとってのメリディアンの218は、WONDER DACをめざす。
コンサート会場に行き、そこで音楽を聴くのであれば、
それもクラシックのコンサートであれば、
演奏者と聴き手のあいだに、誰かが介在するということはない。
フルトヴェングラーの「感動とは人間の中にではなく、人と人の間にあるものだ」、
音楽においては、この「人と人」とは演奏者と聴き手ということになる。
けれど同じコンサートでも、PAを使っているとなると、話は微妙に違ってこよう。
演奏者と聴き手のあいだには、何人かの人たちが介在することになる。
そこにはマイクロフォンがありミキシングコンソールがあるのだから、
それをコントロールするミキサーの存在があり、
スピーカーからの音を聴き手は聴くわけだから、
ミキサーという人がまず介在する。
となると「人と人」とは、この場合、どう変化するのか。
演奏者と聴き手のあいだに、うっすらとミキサーがいる。
演奏者とミキサーは、いわば送り手側、聴き手は受け手側なのははっきりしている。
それでもミキサーは、聴き手でもある。
聴き手という送り側でもある。
こう捉えると、レコード(録音物)で音楽を聴く場合と似ている、
というか、同じだということに気づく。
今日、秋葉原に行っていた。
いくつかの用事をすませて、上野まで歩いていこうと思い立ち、
てくてく細い道を選んで歩いていた。
e☆イヤホンが入っているビルの前を通った。
たまに寄ってみよう、とエレベーターで上の階まで行く。
平日の昼間、一度だけe☆イヤホンに寄ったことはあるが、
土日は初めてだった。
こんなに人が溢れているのか。
そう思わずにいられなかった。
オーディオがブームだったころでさえ、
オーディオ店にこれだけの人は集まらなかったのではないか。
ヘッドフォン祭にはここ数年毎年行っているから、
人は多いだろうな、ぐらいは思っていたが、
ヘッドフォン祭以上の込み具合にも感じられた。
活気がある。
ヘッドフォン祭の会場よりも、こちらのほうがそう感じた。
あとで気づいたのが、秋葉原近くでポタフェスがやっている。
それもあってのことで、人が多かった可能性はあるのだろうが、
それでも人が多いだけでは、ああいう活気は出ないようにも感じる。