評論と評価/「表」論と「表」価(その3)
別項「時代の軽量化(その22)で、知識だけでは教養を持てるわけではない、と書いた。
評論が「表」論に、評価が「表」価に成り下ったのも、そこに教養が存在しなくなったからだろう。
別項「時代の軽量化(その22)で、知識だけでは教養を持てるわけではない、と書いた。
評論が「表」論に、評価が「表」価に成り下ったのも、そこに教養が存在しなくなったからだろう。
別項で何度か書いたことを、ここでも書く。
「私のオーディオの才能は、私のためだけに使う。」
三十年ほど前の私は、こんなことをいっていた。
そんな私に、
「せっかくの才能なんだからオーディオの仕事をしたらどうですか」
「何か書いたらどうですか」、「書いてくださいよ」
そういってくれていた。
しつこいくらい言われていた。
それでも「私のオーディオの才能は、私のためだけに使う。」と返していた。嘯いていたのかもしれない、といまは思う。
くり返しそう言ってくれたのは早瀬文雄(舘 一男)さんだ。
1985年からのつきあいの中で、疎遠となった時期もある。お互いに、なんだ、こいつは、とおもったこともある。
それでも舘さんは、私のオーディオの才能を認めてくれていた。
今頃になって、そのありがたさを噛み締めている。
今年10月から、the re:View (in the past)で、早瀬さんの文章を、だから公開している。
生成AIで、画像も動画もつくれる時代。
私が知らないだけかもしれないが、オーディオ機器の試聴用音源も、生成AIによるものが出てくるのか。
すでに出ていてもおかしくないと思っている。
高音質音源として生成AIがつくり出すだけでなく、
オーディオ機器のそれぞれの違いが、誰の耳でもはっきりわかるような音源もつくれるはず。
そんな音源が登場したとしよう。
その音源で高い評価を得るオーディオ機器が、
市販されている音源(録音された音楽)を聴いて、どう評価されるのか。
同じ評価となるのか、まったく違ってくるのか。
違ってきたとしても、なぜ違いが生じるのかをフィードバックしていくことで、
生成AIがつくり出す音源は改良されていくだろうし、音質評価の深いところに光が当てられていくかもしれない。
「東島丹三郎は仮面ライダーになりたい」というマンガがある。ことしからアニメも放送されている。
主人公の東島丹三郎だけでなく、彼の周りの人たちの仮面ライダーへの愛情は、はっきりと異常である。
いい歳した大人が仮面ライダー、それも昭和の初期の仮面ライダーに夢中になって、それを引きずったまま生きている──、滑稽だと笑う以前に、
なぜ、そこまで仮面ライダーなのか、と若い世代の人は疑問に思うだろう。
仮面ライダーは、シリーズとしてずっと続いている。
昭和の仮面ライダー・シリーズがあり、平成の仮面ライダー・シリーズがあり、
いまは令和の仮面ライダー・シリーズがある。
世代によって子供の頃、見ていた仮面ライダーは、それぞれ違う。
仮面ライダーの最初の放送は、1971年。私は8歳、小学生だった。
前回書いたように、当時の熊本の民放テレビ局はわずかだった。
そんな状況での仮面ライダーだけに、クラスの男子はほぼ全員見ていたといってもいい。
カード付きの仮面ライダー・スナックも売り出されていて、こちらもほぼみんな集めていた。
当たりのカードが出ると、専用のカードアルバムがもらえた。みんな夢中だった。
そんな時代の小学生だったからこそ、「東島丹三郎は仮面ライダーになりたい」の主人公たちの気持がわかる、と言いたくなる。
もし、あの時代、テレビのチャンネルが東京のようにいくつもあったら、どうだったろうか。
仮面ライダーはそれでも人気番組だったろうが、クラスの男子ほぼ全員が見ていたとはならなかったはずだ。
昨春、この項で、DBシステムズのDB1+DB2のことを書いた。
他の人はどうなのかは関係なく、私はDB1+DB2をハイエンドオーディオ機器の一つとして認識しているし、
その理由として、可能性について書いている。
可能性とは、ワクワクする(させてくれる)ものだし、
それは何かを変えてくれる(くれそうな)パワー(活力)であるせん、と。
デザイナーのミルトン・グレイザーの言葉がある。
“There are three responses to a piece of design—yes, no, and WOW! Wow is the one to aim for.”
DeepLによる訳をコピーしておく。
デザインに対する反応は三つある——「はい」「いいえ」、そして「すごい!」だ。目指すべきは「すごい!」である。
Wowを、あの時代、私はDB1+DB2から感じた。
別項で、パイオニアのExclusive M4との組合せについても書いている。
Exclusive M4は、ハイエンドオーディオ機器なのか。
私の答は、Exclusive M4もそうである。
DB1+DB2とExclusive M4が現行製品だった時代は、そう感じた。
Exclusive M4の音には、DB1+DB2とは違った意味でのWowを感じた。
音楽の知識が豊富な人、オーディオの知識が豊富な人は意外と多かったりする。
キャリアが長いから、知識が豊富とは限らないのだが、それでも豊富な人はけっこういるものだ。
けれどそれらの人全員が、音楽の教養がある、オーディオの教養がある、と感じさせるわけではない。
むしろ教養があるな、と感じさせる人は、かなり少ないと感じている。
知識だけはあるのに教養はない──、とでも言ったらいいのか。
以前どこかで目にしたのは、知識だけではだめで、愛があってこそ教養となる、というものだった。
検索してみると、愛を経てこそ、愛を触媒として、が表示される。
誰が言い出したことなのかは知らない。
それはどうでもいいことで、知識が豊富でも教養がない人は、確かに愛が欠けている人といえよう。
反論があるのはわかっている。
オーディオ愛なんて言っていて恥ずかしくないのか、そんなことを言う人もいる。
オーディオに教養? という人もいよう。
そういう時代なのか。
瀬川先生が、熊本のオーディオ店に定期的に来られていた試聴会の名称は、オーディオ・ティーチイン(audio teach-in)だった。
先日、ある方からのメールに、《宮﨑さんのナレッジを基礎的な部分だけでも講義してくれませんか》とあった。
そう思ってくれる人は少数だろうが、来年のaudio wednesdayでは、audio teach-in的なことを含めてやっていければと考えている。
ステレオサウンドのオーディオ評論家で、ホームシアターに積極的に取り組まれていた山中先生。
記憶違いでなければ、ホームシアター用のスピーカーとして、チェロのSTRADIVARI GRAND MASTERを鳴らされていた。
チェロのスピーカーシステムは、ARのLSTをベースにしたAmatiだけしか聴いたことがない。
STRADIVARI GRAND MASTERを始め、STRADIVARIシリーズは、どれも聴いてないのだが、
それでも山中先生が、STRADIVARI GRAND MASTERを選ばれ、そしてホームシアター用のスピーカーとしても鳴らされていたのは、
なんとなくでしかないが、わかる気がする。
ホームシアター用のスピーカーに求めるものは、人によって違ってきて当然だから、このスピーカーこそが最適とは、誰にも言えないはず。
好きなスピーカーでホームシアターを楽しむ。
それでいいと思いながらも、もし私がこれからホームシアターに、のめり込むまではいかなくとも、
ある程度、こだわってみたいとなると、スピーカーはBOSEの901を、まず試してみたい、と考える。
十数年前に書いた「妄想組合せの楽しみ(その16)」。
そこで、DBシステムズのDB1+DB2とパイオニアのExclusive M4の組合せについて触れている。
この組合せは、
瀬川先生の、熊本のオーディオ店での講演のときにリクエストしたものだ。
「なかなか思いつかない面白い組合せだね」と言ってくださった。
別項で書いているスペンドールのBCIIとラックスのLX38、それにピカリングのXUV/4500Q、
この組合せも、瀬川先生に褒められている。
「玄人の組合せだね」と。
当時、高校生だった私は、そのことがすごく嬉しかった。
このことをまた思い出して書いているのは、先日会ったFさんのサブシステムのアンプが、
DB1+DB2とExclusive M4の組合せだということを、Fさんからのメールで知ったばかりだからだ。
わかるなぁ、とメールを読んでいて思う。Fさんのところに行けば、この組合せの音を再び聴けるのか。
自分で程度のいいモノを手に入れない限り、もう聴けないと思っていた組合せを聴ける。
人と会う。
そのことで生じるコト。
今年もそうだった、といえる。
とにかく目の前にあるスピーカーが嘆くことがないように、
スピーカーを泣かせないように、
そうやって鳴らすことを大切に思えるのならば、鳴らし手として大丈夫だ。
(その1)は、十年前の12月に書いている。
公開してすぐに、音影について、中国ではいい意味ではない、という連絡があった。
そういうことがあったので続きを書くことなく、年月だけ経った。
最近の音を聴いて感じることがあって、十年ぶりに書いている。
音像にも音場にも、光が当たるところがあれば影となるところができる。
影がつくことによって、音像も音場も立体感を増していくはずだ。
BOSEの901がやって来て、丸四日。
これまで私が見てきた(聴いてきた)901が置かれていた空間で、私の部屋がいちばん狭い。
そんな空間に置かれた901を見て、家庭用スピーカーとして、なかなかいいモノじゃないかと感じている。
別項でも家庭用スピーカーについて書いているところだが、
家庭用スピーカーの、はっきりした定義のようなものはない。
1970年代のJBLは、家庭用スピーカーとスタジオ用(プロ用)とを、はっきり分けていた。
L200、L300といった家庭用モデルには、4331、4333というスタジオモニターが存在していた。
スピーカーユニットに関しても、家庭用(コンシューマー用)とプロ用とに分かれていた。
とはいえ、そこでなんらかのはっきりとした定義が提示されていたとは言えない。
これらのJBLのモデルと同時期のセレッションのDitton 66は、どう見ても(聴いても)、家庭用スピーカーである。
けれど、Ditton 66の銘板には“Studio Monitor”とある。Ditton 66をスタジオモニターとするのか。
当時のセレッションの人たちに、その理由を訊いてみたい。
こうやって具体例を挙げていくことはできるが、挙げればあげるほど、家庭用スピーカーの定義がはっきりしてくるとは言い難い。
それでも901を数日とはいえ、毎日眺めていると、はっきりと家庭用スピーカーと言いたくなる。
大きさも形もいい。
独自の放射パターンを持つ901は、家庭用スピーカーの理想形を目指した一つの実例と言いたくなってくる。
選択と代償。
どんな選択であれ、代償をともなう。
選択時にわかる代償もあれば、しかるべき年月が経ってからわかる代償もある。
わからないままの代償もあるはず。
代償なしの選択はない。
いまの時代、誰かの訃報はニュースサイトよりも早くソーシャルメディアで知ることの方が多くなった。
オルネラ・ヴァノーニ(Ornella Vanoni)の訃報はニュースサイトでだった。
こんなこともあるのか、このニュースサイトの記者の人の中に、オルネラ・ヴァノーニのファンの人がいたのか。
オルネラ・ヴァノーニは、まさしくイタリアを代表する歌手なのだが、日本ではイタリアでの知名度はない。
オルネラ・ヴァノーニがお好きだった黒田先生。
私などは、オルネラ・ヴァノーニ聴きとは言えないし、たまらなく好きなわけでもない。
それでもTIDALで音楽を聴くようになってからは、割と聴くようになっていた。
新譜も出ていた。90歳をこえていての新譜である。過去の人(歌手)ではない。
HMVで、以前オルネラ・ヴァノーニのCDを購入したことが何度かあるため、
HMVからのメールの中には、オルネラ・ヴァノーニの新譜の案内があったりする。
それでTIDALで検索して聴く。そんなことをここ数年間やっていた。
おそらく、もう新譜は出ないだろう。
昨年12月のaudio wednesdayでは、BOSEの901の上にエラックのリボン型トゥイーター、4PI PLUS.2を置いて鳴らした。
901単体で鳴らしても、もちろん興味深いスピーカーなのだけども、
井上先生もステレオサウンドでの組合せでやられているように、ウーファーとトゥイーターを足すというのもありだ。
井上先生は901の四段スタックの上に、
ウーファーはエレクトロボイスの30W、トゥイーターはピラミッドのリボン型T1を足しての、
相当に大掛かりなシステムをやられている。
901のスタックは私もやってみたいのだが、すでに901は製造中止だし、
同等のコンディションの901を揃えるとこまでは、正直やる気はない。
でもウーファーとトゥイーターに関しては、手持ちのモノでできる。
トゥイーターはエラックがあるし、ウーファーはサーロジックがある。
ここまでやるとなると、901の設置場所をメインスピーカーの場所とするしかないし、
それは大変だなぁ、と思いつつも、もうひとつ考えているのは、
ジャーマン・フィジックスのTroubadour 40のウーファーとしての試用を考えている。
これで、いい感じの手応えを得られたら、20cm口径のウーファーで、901的スピーカーを作り──、という手がある。