Piano Lessons(その2)
クリストフ・エッシェンバッハの「バイエル」や「ツェルニー」のことを書いた。
他のピアニストも録音しているだろうな、と思ってTIDALで検索していて、ちょっと驚いた。
宮沢明子の、これらの録音が表示されたからだ。
オーディオ・ラボから出ていたアルバムである。
菅野先生の録音である。
オーディオ・ラボのタイトルは、他にもあった。
「SIDE by SIDE」もあった。
まだありそうだ。
クリストフ・エッシェンバッハの「バイエル」や「ツェルニー」のことを書いた。
他のピアニストも録音しているだろうな、と思ってTIDALで検索していて、ちょっと驚いた。
宮沢明子の、これらの録音が表示されたからだ。
オーディオ・ラボから出ていたアルバムである。
菅野先生の録音である。
オーディオ・ラボのタイトルは、他にもあった。
「SIDE by SIDE」もあった。
まだありそうだ。
2020年12月18日、
映画「ワンダーウーマン1984」を公開初日に観た。
パッケージメディアの発売は4月だが、デジタル配信はすでに始まっている。
レンタルで、さきほど観ていた。
「ワンダーウーマン1984」の二回目を観て、やはりおもっていたのは、
願いと祈りのことである。
願いをかける、
願いをこめる、
願いがかなう、
願いの場合、こんな使われ方だ。
願いをかける。
願いをかけた人は代償を払うことで、願いがかなう。
「ワンダーウーマン1984」では、だから「猿の手」というキーワードが出てくる。
祈りの場合、祈りをささげる、である。
願いと祈りを曖昧にしてきたことに気づく。
そして五味先生のことを、やはりおもってしまう。
二年前の(その6)で、
オーディオ評論家(職能家)の書く文章を読むことは、
そのオーディオ評論家(職能家)の聴き方を知り、学ぶ行為である、と書いた。
いま書店にステレオサウンド 218号が並んでいる。
特集は「リファレンスディスクから紐解く評論家の音の聴き方」である。
まだ読んでいない。手にもとっていなので、
どういうレベルの内容にしあがっているのかは、まったく知らない。
それでも、こういう企画をやるようになったのか、と思っている。
出来のいい記事であってほしいと思っているが、
出来のいい記事であったとして、
(その6)で書いている「オーディオ評論から何も学ぶものはない」と豪語する人は、
そのままなのだろう。
豪語することが自慢なのだろうから。
自分の耳、聴き方が絶対なのだと思い込める人なのだから。
記事のタイトルには紐解くとある。
繙くではなく、紐解く、である。
解く、である。
それは解答へとつながっている「紐解く」であってほしい。
こういうことを書いていると、
お前はオーディオ評論家(職能家)の聴き方を知り……、といってるじゃないか。
そんな声がきこえてきそうである。
何度も書いているように、
いまのステレオサウンドにオーディオ評論家(職能家)はいないが、
私の捉え方・考え方である。
それは変らない。
そうであっても今回の特集では、
オーディオ機器はあまり登場しないのではないだろうか。
おそらくだが試聴を行っていないはすである。
今回の特集は、緊急事態宣言ということもあっての試聴なしの企画なのだろう。
だとしたらオーディオ評論家(職能家)でなくとも、
商売屋のところが抑えられているのではないだろうか。
これが11,062本目である。
11,111本まであと少し。
4月1日までには、余裕で書くことができる。
そして4月1日に、このブログをお仕舞にするつもりでいた。
このブログを始めたころは、
わからないという人がいれば、わかってもらえるまで書こう、と思っていた。
2008年9月から書き始めて、12年以上。
わからない人には、どれほど言葉を費やしてもわかってもらえないことが、
少なからずある、と感じていた。
一方で、わかってくれる人は、言葉足らずでも伝わる。
おまえの文章力が不足しているだけ、といわれれば、そのとおりであって、
それでも私など足もとに及ばない人の文章であっても、
誤読・曲解されることがあるのを知っているし、わからない人がいるのもまた知っている。
このブログを終りにすれば、ステレオサウンドのバックナンバーも処分できる。
少しはスペースが空く。
もういいかな……、とさっきまでおもっていた。
別項「ECHOES(その4)」にコメントがあった。
facebookへにではなく、このブログに直接あったので、ぜひ読んでいただきたい。
Hiroshi Noguchiさんからのコメントを読んで、
これまで続けて書いてきてよかった、とおもっている。
だから、4月1日以降も書きつづる。
メールアドレスを登録しておけば、タワーレコード、HMVから新譜情報が届く。
今日も届いた。
きちんと読む時もあれば、ぱっと眺めてゴミ箱行きということもけっこうある。
今日は、とりあえず眺めていた。
そこにリーズ・ドゥ・ラ・サール(Lise de la Salle)の新譜があった。
「いつ踊ればいいの?(WHEN DO WE DANCE?」だ。
クラシックの新譜案内で、一風変ったアルバムタイトル。
これに惹かれてクリックした。
ちょっと聴いてみたい、と思い、TIDALで検索。
まだなかった。
他にどんなアルバムがあるのかと眺めていて、“BACH UNLIMITED”がまず目に入ってきた。
とりあえず聴いてみよう。
そんな軽い感じで聴き始めた。
新譜ではない。
数年前に発売になっている。
出ているのを知らなかった。
リーズ・ドゥ・ラ・サールというピアニストのことも知らなかった。
まじめにタワーレコード、HMVからの新譜案内のメールに目を通していれば、
とっくに気づいていただろうに、ただ眺めているだけだったから、
いまごろになって、このフランスのピアニストの存在を知ったばかりだ。
“BACH UNLIMITED”の一曲目は、イタリア協奏曲である。
最初の音が鳴ってきた瞬間、グールドか? と思った。
軽やかで、もったいぶったところが一切ない。
何事も深刻ぶるのが好きな人が、世の中にはけっこういる。
そんな人には、このイタリア協奏曲は好みにあわないかもしれない。
けれど深刻ぶるのと、真剣であるということは、
まったく違うことだ。
そんなあたりまえのことを、
深刻ぶるのがかっこいいとでも思っている人に指摘したくもなるが、
本人がいい気分でいるのをぶちこわすのはトラブルの元だから、やったりはしない。
そんな人のことはどうでもよくて、
音楽を聴くということは、そんなことと無縁のことであることを、
グールドの演奏は教えてくれるし、
リーズ・ドゥ・ラ・サールのバッハもまたそうである。
聴いていてわくわくしてきた。
TIDALには、他のアルバムもある。
それらもこれから聴くところだが、
とにかくイタリア協奏曲を聴いたばかりの昂奮を書いておきたかった。
広告も一切なし、
試聴機器もすべて購入してのオーディオ雑誌は、資金が潤沢であれば無理ではない。
総テストのような特集はやらずに、注目の機種を徹底的に取り上げるという内容であれば、
毎号あたりの機器の購入費用も、ある程度は抑えられよう。
そうやって工夫しながら、広告なし、すべて購入のオーディオ雑誌ができあがったとする。
一冊いくらになるのか。
きちんと計算したことはないが、一万円は軽くこえるであろう。
もっと高くなるとも思っている。
それでも、そういうオーディオ雑誌ならば読みたい、という人はきっといる。
そういう人だけを相手にして出版するのであれば、持続可能になるかもしれない。
でも、そんなオーディオ雑誌が実現したとして、
私が真っ先に思うのは、中学生、高校生の私は買えない、ということだ。
小遣いをやりくりして、レコードを買ったり、
ステレオサウンドを始めとするオーディオ雑誌を、あのころは買っていた。
それはまだステレオサウンドが一冊1,600円、
ほかのオーディオ雑誌が、500〜700円程度だったからである。
それでも毎号、すべてのオーディオ雑誌、聴きたいレコードが買えたわけではない。
ほんとうの意味での広告なしのオーディオ雑誌、
それは広告の入っているオーディオ雑誌なんて──、という人にとっては、
理想の、理想に近いオーディオ雑誌といえるかもしれないが、
オーディオに関心・興味を持ち始めばかりの若い人にとって、
そういえるだろうか。
一見、理想におもえるオーディオ雑誌があったとして、
オーディオの世界は発展していくだろうか。
暮しの手帖のオーディオ版をやりたい、と考えた人はこれまでにもいる。
私も知っている。
そういうのをやりたいから一緒にやりましょう、と誘われたことがある。
けれど話をきいてみると、都合のいい話だった。
メーカーや輸入元から製品を借りて、暮しの手帖のオーディオ版をやる、というものだった。
暮しの手帖のオーディオ版をやりたいのであれば、
試聴器材はすべて購入する、ということである。
それがどれだけ大変なことは、すぐにわかる。
掃除機や洗濯機を購入してテストするのとでは予算の桁が違ってくる。
ステレオサウンドの最新号でも古い号でもいい。
その号の誌面に登場するオーディオ機器の定価をすべて足してみる。
アンプやスピーカーの総テストともなると、その額はさらに大きくなる。
それに購入したオーディオ機器を保管するためには、それだけのスペースが必要になる。
しかも暮しの手帖のオーディオ版では広告なしなのだから、
これらの経費はすべて本の売上げでまかなうことになるし、
本の価格にも直接に関係してくる。
それこそ特集の内容次第で、定価が変ることだろう。
総テストの号は高くなって、試聴を必要としない特集の号は安くなる、というようにだ。
「オーディオ大全2021」は広告一切なしを謳っているが、
「オーディオ大全2021」の価格で、
誌面に登場しているオーディオ機器を購入しているとは考えられない。
メーカーや輸入元から試聴記を借りているはずである。
このことは間接的な広告といえる。
「オーディオ大全2021」は、いわば入門書である。
だから、「オーディオ大全2021」を買おうかな、と考える人は、
オーディオに興味を持ち始めたばかりの人なのだから、
「広告一切なし」という謳い文句に騙されるかもしれない。
広告は「オーディオ大全2021」にはない。
けれど、目に見える広告がないだけであって、目に見えない「広告」がないわけではない。
黒田先生がジャクリーヌ・デュ=プレが亡くなって、
ほぼ一年後に書かれた文章から引用したいことがある。
*
死ぬのは、誰だって、こわい。友だちに会えなくなる。好きな音楽がきけなくなる。そういえば、毎日、あれやこれや、辛いこともあるけれど、いろいろ楽しいこともあるではないか。死ぬこわさは、ぼくにも人なみにわかる。しかし、歌のうたえた鴬が歌を奪われるこわさになると、ぼくにはわからない。悲しいとか、こわいとか、そういうありきたりのことばでいいえただけでは、おそらく充分ではない。もう少し別の、考えただけで血が逆流しそうな恐怖があににちがいない。
しかし、ジャクリーヌ・デュ・プレは歌を奪われてから十五年をすごした。デュ・プレのひくバッハのBWV564のアダージョの、限りなく静かで、切々と胸に迫る美しさをもった演奏にじっと耳をすましながら、デュ・プレの十五年を考えた。きっと、このような歌のうたえる人だからこそまっとうできた、彼女の十五年だった、と思った。デュ・プレの歌のきこえるはずもない十五年に目をこらせば、おのずと、ジャクリーヌ・デュ・プレという稀有な音楽家の重さと輝きが見えてくる。その重さと輝きは、たとえ天才だけに可能なものであったとしても、せめて、ぼくも、その重さと輝きを正確に感じとれる人間でありたい、と願わずにいられない。
(「ぼくだけの音楽」より)
*
もうひとつ、デュ=プレに関して引用したいのは
中野英男氏の「音楽・オーディオ・人びと」に、書いてあることだ。
*
つい先頃、私はかねがね愛してやまない若き女流チェリスト——ジャクリーヌ・デュ・プレのベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲演奏のレコードを手に入れた。それは一九七〇年八月、彼女が夫君のダニエル・バレンボイムとエジンバラ音楽祭で共演したライヴ・レコーディングである。エジンバラは私にとって、想い出深い土地でもあった。一九六三年の夏、その地の音楽祭で私は当時彗星の如く楽壇に登場した白面の指揮者イストヴァン・ケルテスのドヴォルザークを聴き、胸の奥に劫火の燃え上るほどの興奮を覚え、何年か後、イスラエルの海岸での不運な死を知って、天を仰いで泪した記憶がある。しかし、デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
レコードにも、それを再生する装置にも、その装置を使って鳴らす音にも、怖ろしいほどその人の人柄があらわれる。美しい音を作る手段は、自分を不断に磨き上げることしかない。それが私の結論である。
*
音の美、音楽の美を守っていくということは、こういうことであるはずだ。
「五味オーディオ教室」にこう書いてあった。
*
くり返して言うが、ステレオ感やスケールそのものは、〈デコラ〉もわが家のマッキントッシュで鳴らすオーグラフにかなわない。クォードで鳴らしたときの音質に及ばない。しかし、三十畳のわがリスニング・ルームで味わう臨場感なんぞ、フェスティバル・ホールの広さに較べれば箱庭みたいなものだろう。どれほど超大型のコンクリート・ホーンを羅列したって、家庭でコンサート・ホールのスケールのあの広がりはひき出せるものではない。
──なら、私たちは何に満足すればいいのか。
音のまとまりだと、私は思う。ハーモニィである。低音が伸びているとか、ハイが抜けているなどと言ったところで、実演のスケールにはかないっこない。音量は、比較になるまい。ましてレンジは。
したがって、メーカーが腐心するのはしょせん音質と調和だろう。その音づくりだ。私がFMを楽しんだテレフンケンS8型も、コンソールだが、キャビネットの底に、下向けに右へウーファー一つをはめ、左に小さな孔九つと大穴ひとつだけが開けてあった。それでコンクリート・ホーン(ジムランのウーファー二個使用)などクソ喰えという低音が鳴った。キャビネットの共振を利用した低音にきまっているが、そういう共振を響かせるようテレフンケン技術陣はアンプをつくり、スピーカーの配置を考えたわけだ。しかも、スピーカーへのソケットに、またコードに、配線図にはない豆粒ほどのチョークやコンデンサーが幾つかつけてあった。音づくりとはそんなものだろうと思う。
*
「五味オーディオ教室」を読んだのは中学二年の時。
いまから四十年以上前である。
これを読んでいなければ、電波科学の記事のことも忘れてしまっていただろう。
テレフンケンのS8のスピーカーへのソケットやコードにつけてある、
《配線図にはない豆粒ほどのチョークやコンデンサー》の正体ははっきりとはわからないが、
小山式CZ回路と同じだった可能性もある。
世界には同じことを考えついている人間が三人はいる、とのこと。
そうだとおもうことは、私にもいくつかあった。
よく知られる発明のいくつかの歴史を繙いてもそうである。
ならばテレフンケンのS8についている豆粒ほどのチョークやコンデンサーと、
小山式CZ回路が同じである可能性は、意外にも高いように感じてもいる。
そうだとすれば、そうとうに古くからある技術(テクニック)の一つということになる。
CR方法の試してみたいところは、まだまだある。
たとえばCDプレーヤーのピックアップ周りがある。
モーターがあり、ピックアップがあり、それを移動させるためのコイルがある。
これはちょっと面倒だから、やるかどうかはなんともいえないが、
他にも試したいところで、割とすぐにできるところはある。
まだまだ楽しめそうである。
(その10)へのfacebookでのコメントに、
日本オーディオ協会の存在意義があるのか、とあった。
OTOTENが二年続けて中止ということになると、
日本オーディオ協会の存在意義は? ということに疑問をもつ人も増えてくるだろう。
インターナショナルオーディオ協議会に関しても、そうなるであろう。
日本オーディオ協会は、
OTOTENというオーディオショウを主催している。
オーディオマニアにとっては、これがいちばん目に入る活動である。
それからJASジャーナルを発行している。
以前は毎月発行されていたと記憶している。
それがいつのまにか隔月刊になっていた。
今年になって季刊になった。
一年間に12冊出ていたのが、いまでは4冊になってしまった。
日本オーディオ協会はfacebookをやっている。
といっても、日本オーディオ協会の投稿は、
その大半がオーディオ関係の記事へのリンクである。
こんなふうに書き連ねていくと、
日本オーディオ協会の存在意義はないのでは? と思われる人もいるだろうが、
その人たちに向って、そうじゃないです、と何かいえるかというと、
私も日本オーディオ協会の活動について、いまどうなんだろう……、という程度のことしか知らない。
なので何もいえない。
日本オーディオ協会のウェブサイトをみれば、
活動の詳細はある程度わかる。
個人会員になるメリットも公開されている。
でも、そこに書いてあるのを読んで、個人会員になろう、と思う人はどのくらいいるのか。
昔、山手線で原宿駅に到着すると、日本オーディオ協会の入っているビルが見えた。
いまはそこにはいない。
オーディオマニアといっても、
世代によって聴きふけった音は違う。
世代が同じであっても、人によっても、
聴きふけった音は、また違っている。
それぞれに聴きふけった音があるはずだ。
そんなものない、というオーディオマニアもいるかもしれないが、
そういう人はオーディオマニアなのだろうか、と思う。
聴きふけった音に、その時その時で美を感じていたはずである。
少なくとも私はそうである。
多くのオーディオマニアでそうである、と信じたい。
その時その時に感じた美を、すっかり忘れてしまっている人もいれば、
そうでない人もいる。
どちらがいいなどとはいいたくない。
ただ、オーディオマニアとはいい音で音楽を聴く人のことではない、
と最近強く思うようになった。
その時その時に感じた音の美を、いまも忘れずに、
それだけでなく守っていける人がオーディオマニアなのだ、と思うようになったからだ。
バブルのころのステレオサウンドで試したことがある。
広告ページをすべて取りのぞいた状態のステレオサウンドにしたことがある。
広告が──、という人もふくめて、これは一度やってみたらいい。
広告が、その雑誌を華やかにしてくれていることを実感するであろうから。
もちろん、そうでない広告も多い。
そういう広告を省くことですっきりする、ということもわかる。
雑誌を華やかにしてくれる広告だけを残して、
ごちゃごちゃした印象の広告をすべて省けたら──、
そう思わないこともないが、どちらもあっての雑誌とも思っている。
日本で、広告が載っている雑誌なんて──、という風潮があるのは、
暮しの手帖の影響もあってのことだろう。
暮しの手帖のオーディオ版を、
広告が──、という人たちは望んでいることだろう。
暮しの手帖のオーディオ版は可能なのだろうか。
「広告一切なし」と掲げている「オーディオ大全2021」は、
暮しの手帖のオーディオ版といえるのだろうか。
「オーディオ大全2021」には広告は載っていないが、
だからといって、メーカー、輸入元の協力がなかったわけではない。
暮しの手帖と同じやり方をオーディオ雑誌で貫くならば、
誌上に登場するオーディオ機器をすべて購入することから始めなくてはならない。
意外にも、このことを、広告が──、とすぐに口にする人たちは忘れているのか、
試聴をするには何が必要なのかを、まったく考えていないのか、と問いたくなる。
「オーディオ大全2021」が、
誌面に登場しているオーディオ機器をすべて購入しての記事づくりであったならば、
表紙の「広告一切なし」が光り輝くことだろう。
けれど現実には、断言してもいいが、購入しての記事ではない。
(その1)へのfacebookでのコメントにあったし、
私もそう思っているのは、広告がある、ないだけで判断するのであれば、
テレビだとNHK以外はすべて信用できない、ということになるし、
NHKだけは信用できる、ということでもある。
新聞は、というと、広告が載っているから信用できない、となる。
広告が載っている雑誌に書いてあることなんて、
まったく信用できない──、と一刀両断する人は、NHKの報道のみを信じて、
ほかのテレビ、ラジオ、新聞の報道はまったく信用していないのか。
おそらくそうではないだろう。
なぜ、雑誌のみ、広告が──、となるのだろうか。
オーディオ雑誌で広告なしは無理なのか、ときかれることがある。
無理ではない。
けれどステレオサウンドから広告ページを省いて、
残りの編集ページがどれだけあるのか。
それをいまのステレオサウンドと同じカラーページの割合、
紙質などを維持したままで出版したとしたら、
一冊あたりいくらになるだろうか、と考えてみてほしい。
広告の分、ページが減るとはいえ、いまの価格と同じとはいかなくなる。
書籍は広告なしだろう、という人がいるが、
書籍と雑誌のつくりを比較してみてほしい。
ここでいうつくりとは、本そのものつくりだけでなく、
そこに携わっている人の多さも含めて、である。
広告があるから、いまの価格で出せる、ということを忘れないでほしい。
そういうと、いくら高くなっても、広告なしの雑誌ならば買う、と、
広告が──、という人は、そういう。
いうのは簡単だ。
誰にでもできる。
ほんとうにステレオサウンドが広告なしで出版されて、
価格がそうとうに高くなったら、今度は高い、というのではないだろうか。
そして広告の分ページ数は減るのだから、
こんなに薄くなったのだから、なぜ値上げするのか、というかもしれない。
書店をのぞいたら、「オーディオ大全2021」というムックがあった。
手に取るつもりはなかったけれど、
表紙のひとことが目に入った。
「広告一切なし」とあった。
こんなふうにあると、つい手に取った。
表紙から予想される内容だったので、そこには触れない。
それでもこうやって取り上げているのは、やはり「広告一切なし」が気になっているからだ。
帰宅して、「オーディオ大全」の以前の号の表紙をチェックしたところ、
「広告一切なし」の文言はなかった。
2021年度版からのようだ。
確かに広告は載ってなかった。
世の中には、広告が載っている雑誌に書いてあることなんて、
まったく信用できない──、と一刀両断する人がけっこういる。
こういう人は、オーディオ雑誌を読まない人なのだろうか。
信頼できない、と文句をいいつも毎号読む人なのだろうか。
こういう人は、「オーディオ大全2021」を信用できる、というのか。
「オーディオ大全2021」の表紙には、
「一生楽しめる本格オーディオ入門」ともある。
つまり入門書である。
広告が一切ないオーディオの入門書である(謳い文句通りならば)。
太い音、という表現は褒め言葉である、と、
このことに首を傾げる人もいよう。
オーディオマニア的に、太い音といわれて喜ぶ人はあまりいないと思う。
太い音の表現には、どこかネガティヴなニュアンスを感じさせる。
特に線の太い音となると、そこにいい印象は抱きにくい。
けれどオーディオマニアではない、ほんとうの音楽好きの人は、
太い音を褒め言葉として使うことが多いように感じている。
2月28日、赤塚りえ子さんのところのスピーカーにCR方法をやって出てきた音を聴いて、
赤塚さんは「太い音になった」と喜んでいた。
同じ経験はけっこう前にもある。
その人も音楽好きなのだが、オーディオマニアではない人だった。
その人も、太い音が出るようになったと喜んでいた。
ここでいうところの「太い音」が出るか出ないかで、
音楽の表情の豊かさは大きく変化する。
これまでの経験からいえば、聴感上のS/N比をよくしていくと、
音楽好きの人はたいてい「太い音が出るようになった」という傾向がある。
ナロウレンジでS/N比の悪い音が、太い音なのではない。
むしろ逆なのである。