Date: 3月 6th, 2021
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ECHOES(その4)

黒田先生がジャクリーヌ・デュ=プレが亡くなって、
ほぼ一年後に書かれた文章から引用したいことがある。
     *
 死ぬのは、誰だって、こわい。友だちに会えなくなる。好きな音楽がきけなくなる。そういえば、毎日、あれやこれや、辛いこともあるけれど、いろいろ楽しいこともあるではないか。死ぬこわさは、ぼくにも人なみにわかる。しかし、歌のうたえた鴬が歌を奪われるこわさになると、ぼくにはわからない。悲しいとか、こわいとか、そういうありきたりのことばでいいえただけでは、おそらく充分ではない。もう少し別の、考えただけで血が逆流しそうな恐怖があににちがいない。
 しかし、ジャクリーヌ・デュ・プレは歌を奪われてから十五年をすごした。デュ・プレのひくバッハのBWV564のアダージョの、限りなく静かで、切々と胸に迫る美しさをもった演奏にじっと耳をすましながら、デュ・プレの十五年を考えた。きっと、このような歌のうたえる人だからこそまっとうできた、彼女の十五年だった、と思った。デュ・プレの歌のきこえるはずもない十五年に目をこらせば、おのずと、ジャクリーヌ・デュ・プレという稀有な音楽家の重さと輝きが見えてくる。その重さと輝きは、たとえ天才だけに可能なものであったとしても、せめて、ぼくも、その重さと輝きを正確に感じとれる人間でありたい、と願わずにいられない。
(「ぼくだけの音楽」より)
     *
もうひとつ、デュ=プレに関して引用したいのは
中野英男氏の「音楽・オーディオ・人びと」に、書いてあることだ。
     *
 つい先頃、私はかねがね愛してやまない若き女流チェリスト——ジャクリーヌ・デュ・プレのベートーヴェンのチェロ・ソナタ全曲演奏のレコードを手に入れた。それは一九七〇年八月、彼女が夫君のダニエル・バレンボイムとエジンバラ音楽祭で共演したライヴ・レコーディングである。エジンバラは私にとって、想い出深い土地でもあった。一九六三年の夏、その地の音楽祭で私は当時彗星の如く楽壇に登場した白面の指揮者イストヴァン・ケルテスのドヴォルザークを聴き、胸の奥に劫火の燃え上るほどの興奮を覚え、何年か後、イスラエルの海岸での不運な死を知って、天を仰いで泪した記憶がある。しかし、デュ・プレのエジンバラ・コンサートの演奏を収めた日本プレスのレコードは私を失望させた。演奏の良否を論ずる前に、デュ・プレのチェロの音が荒寥たる乾き切った音だったからである。私は第三番の冒頭、十数小節を聴いただけで針を上げ、アルバムを閉じた。
 数日後、役員のひとりがEMIの輸入盤で同じレコードを持参した。彼の目を見た途端、私は「彼はこのレコードにいかれているな」と直感した。そして私自身もこのレコードに陶酔し一気に全曲を聴き通してしまった。同じ演奏のレコードである。年甲斐もなく、私は先に手に入れたアルバムを二階の窓から庭に投げ捨てた。私はジャクリーヌ・デュ・プレ——カザルス、フルニエを継ぐべき才能を持ちながら、不治の病に冒され、永遠に引退せざるをえなくなった少女デュ・プレが可哀そうでならなかった。緑の芝生に散らばったレコードを見ながら、私は胸が張り裂ける思いであった。こんなレコードを作ってはいけない。何故デュ・プレのチェロをこんな音にしてしまったのか。日本の愛好家は、九九%までこの国内盤を通して彼女の音楽を聴くだろう。バレンボイムのピアノも——。
 レコードにも、それを再生する装置にも、その装置を使って鳴らす音にも、怖ろしいほどその人の人柄があらわれる。美しい音を作る手段は、自分を不断に磨き上げることしかない。それが私の結論である。
     *
音の美、音楽の美を守っていくということは、こういうことであるはずだ。

1 Comment

  1. Hiroshi NoguchiHiroshi Noguchi  
    3月 9th, 2021
    REPLY))

  2. 学生の頃フルニエセルやロストロポーヴィチカラヤンでドボルザークのチェロ協奏曲を聴いていて、60ぐらいになってデュプレの同曲とハイドンの協奏曲を聴いて、宇野先生が激賞しているのはこういう歌い回しなのかと得心しました。それ以来機会があって鳴らすときには、よく聞くようになりました。
    初めて買ったスピーカーはクライスラーで、その後初ボーナスでスペンドールのBCIIを購入して、しかしその後置いておいた実家を離れ、5年前定年を迎え20年以上たってから最近漸く時折再び鳴らしてみています。官舎ではadsの10cmぐらいの小さいのを鳴らしていました。
    小生はオーディオファンとは申せないでしょうが、仰っていることひとつづつ心持ち良く、こういうことを仰ってくださる方のあることに嬉しく思い、筆を執りました。今後もご教示の程を。

    1F

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