Archive for 9月, 2018

Date: 9月 11th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その15)

9月5日のaudio wednesdayでは、
メリディアンのCDプレーヤー、206と508も聴いている。

時代が違っていても、メリディアンの音といえるものがどちらにも感じられた。
私だけが、そう感じていたのではなく、聴いていた人みなそうだった(ようだ)。

ULTRA DACの音も、そうだった。
けれど、私の耳にはULTRA DACといっしょに聴いた206、508の音よりも、

記憶のなかにあるM20の音が、ULTRA DACの音へと結びついていく。
M20はパワーアンプ内蔵とはいえ、スピーカー(変換器)である。
ULTRA DACはD/Aコンバーター。
デジタル信号をアナログへと変換するわけだから、
どちらも変換器といえば、そうなのだが、
電気信号を機械的振動へと変換するトランスデューサーとコンバーターは、
決して同一視できないのはわかっている。

それでもULTRA DACの音はM20の音をしっかり受け継いでいた。
少なくとも、私の耳にそう聴こえた。

しかもM20に、こうあってほしい、と思いつづけていたところがすべて満たされている。

M20はスピーカーシステムとして大型だったわけではない。むしろ小型に属する。
ULTRA DACは、D/Aコンバーターとして、かなり大型である。

800シリーズから大型になったメリディアンを知っていても、
ULTRA DACを目の前にして、「やっぱり大きいですね」といってしまった。

audio wednesdayに来た人も、「うっ、大きい……」と言っていた。

無駄に大きいわけではない。
内部をみることはできなかったが、電源部がかなりのスペースを占めている、とのこと。
試作機の段階ではスイッチング電源も試してみたけれど、
音の点で、従来通りの電源になった、という話だった。

M20とULTRA DACの、このサイズの違いは、そのまま、というより、
それ以上に音にあらわれている。

Date: 9月 11th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その14)

もうひとつ思い出していた音(音触)がある。
30年ほど前に聴いているメリディアンのM20の音である。

M20はパワーアンプ内蔵のスピーカーシステム。
スタンド込み(一体型)のフロアー型となるけれど、
エンクロージュアのサイズ自体は大きくはない。

ウーファーは10cm口径を二発、ソフトドーム型トゥイーターを、
いわゆる仮想同軸配置している。

これまでに何度か書いているようにM20の音は、魅力的だった。
買おうと、かなり本気で考えていた。

プリアンプの機能をもつメリディアンのCDプレーヤー207との組合せは、
私にとっては、メリディアンの数々のモデルの中で、いまも欲しい(聴きたい)と思う。

M20と207だけでシステムが成り立つ。
魅力的なのは、その簡潔さよりも、やはり音である。

ひとりぽつねんとしている夜に、M20と207のシステム、
それに女性ヴォーカルの愛聴盤があれば、ひとりでいることを忘れさせてくれるだけでなく、
ひとりでいることを堪能できよう。
聴きふけることができるからだ。

満たされるはずだ。
それでも、これだけでは、すまないところがオーディオマニアなのであって、
満足できる、といいながらも、あと少しばかりスケール感があれば……、とか、
あれこれこまかな注文をつけたくなってくる。

そんなことを求めなければ、幸せな音楽のある生活を送れるのに──、とわかっていても、
どうしようもなく求めてしまう。

Date: 9月 10th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その13)

私としては、このままグラシェラ・スサーナの歌だけを聴ければそれで充分という気持もあった。
けれど聴いているのは私だけではないし、
私だって、グラシェラ・スサーナ以外がどう鳴ってくれるのかを確認したい気持はある。

ユニバーサルミュージックのクラシックのサンプラーを聴いてみた。
まずは通常のCDで、
カラヤン/ウィーンフィルハーモニーによるR.シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」。
1959年のデッカ録音。
冒頭のノイズ。この鳴り方が通常のCDとMQAとでは大きく違う。
もうここだけでMQAの優位性が感じられる。

「ツァラトゥストラはかく語りき」はあまり聴きたくない曲だし、
サンプラーということもあって、収録時間は短い。それでも違いは誰の耳にもはっきりとわかるはずだ。

続いて2トラック目のカルロス・クライバー/ウィーンフィルハーモニーによるベートーヴェンの五番。
通常のCDの音も優れている。
それでもMQAでの音を聴いてしまうと、その違いははっきりと耳に残る。

ここでアップサンプリングのフィルターを切り替えてみた。
それまではshortで聴いていた。
ちなみにMQAディスク再生時には、フィルターは関係なくなる。

shortの音、mediumの音、longの音。
グラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」では、圧倒的にshortの音だったが、
ここでは圧倒的にlongの音をとる。

longでのフィルターで再生したCDの音は、
クライバーの五番を最初に聴いた時の感触を思い出させた。
LPで聴いている。

クライバーのディスクは、この日、「椿姫」もかけた。
ここでもクライバーの「椿姫」をLPで聴いていたころの感触を思い出していた。

艶のある黒い円盤の感触が、ULTRA DACの音を聴いていると思い出させられる。
これも音触なのか、と思いながら聴いていた。

Date: 9月 10th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その12)

「雪が降る」もそうなのだが、
「希望」の三番目に《寒い夜更けに》と歌詞がある。

ここのところは、「アドロ・サバの女王」での、私にとって重要な試聴ポイントである。
言葉だけの、表面的な《寒い夜更けに》であっては、情景はまったく浮ばない。
この短い《寒い夜更けに》でのグラシェラ・スサーナの歌い方は、
どうしてこう歌えるのだろうか、と最初に聴いた時からの疑問でもある。

「アドロ・サバの女王」は1973年7月に発売になっている。
グラシェラ・スサーナは1953年1月生れ。
このころの録音からレコード発売までの期間からすれば、
「アドロ・サバの女王」に収められている曲のほとんどはハタチになる前の録音のはずだ。
「サバの女王」に関しては、もう一年早い録音である。

アルゼンチンで生まれ育って、録音のために日本に来たグラシェラ・スサーナが、
どうしてこうも日本語の歌を情感豊かに歌えるのか、
「希望」の《寒い夜更けに》を、まさにそう感じさせる歌い方ができるのか。
それが不思議である。

才能といってしまえば、それまでだが、
才能だとしたら、その才能ゆえの表現で《寒い夜更けに》が鳴ってくれないと、
LPから、ずっとグラシェラ・スサーナを聴いていた聴き手は困るわけだ。

何の気負いもなく、自然な感じで、しかもこちらの望むように《寒い夜更けに》は鳴ってくれた。
「雪が降る」も、こんなに暑い季節に聴く曲なのか、と思われるだろう。
けれど、「雪が降る」にしても、《寒い夜更けに》と同じで、
グラシェラ・スサーナによって歌われたとき、その場は、その季節になっている。

もちろんいつもそうだとはいわない。
どうしようもない音だと、そんなふうにはまず感じない。
情報量が多くて、世評の高いD/Aコンバーターたから、そんなふうに感じるわけではない。

明らかに情景を描けるオーディオ機器とそうでないオーディオ機器とがある。

Date: 9月 10th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その11)

「アドロ・サバの女王」の一曲目は「アドロ」。
「サバの女王」はLPならばA面の最後、CDならば7トラック目である。

まず「アドロ」を聴いた。
「アドロ」もよく知られている曲だ。
私より若い人にはそうでないかもしれないが、私よりも上の世代には懐しい曲のはずだ。
通常のCDと比較するまでもなく、かなり違うのがわかる。
それでも比較試聴はやっている。

特にグラシェラ・スサーナの歌が違うだけでなく、
その肉体を感じられるような錯覚すらある。

歌手や演奏者の肉体が感じられるかどうか。
「五味オーディオ教室」からオーディオの世界に足を踏み入れた私にとって、
重要なことであり、それは「五味オーディオ教室」にあった
《いま、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす。 これこそは真にレコード音楽というものであろう》
この一節こそ、私のオーディオの始まりでもある。

五味先生も書かれているように、
録音の過程、再生の過程に、肉体の入りこむ隙間はない。
けれど聴き手は、歌い手の肉体を、ピアニストの肉体を、そこで鳴っている音に感じることがある。

メリディアンのULTRA DACは、いままで喫茶茶会記で聴いた、どのCDプレーヤー、D/Aコンバーターよりも、
肉体の復活を感じられた。
望む形で、とまではいわないが、それでも肉体の復活が感じられた。

もうこれ以上を肉体の復活を求めるのならば、細かく丹念に鳴らし込んでいくしかないだろう。
肉体の復活の気配を感じとれる音とそうでない音とがある。

私が聴きたいと望むのは、感じとれる音である。
それが錯覚であるとわかっていても、である。

「アドロ」を聴いた、次に「雪が降る」、「サバの女王」を聴いて、
最後の曲「希望」、それからひとつ戻って「爪」を聴いた。

聴いていて、こんなにあっさりと求めていた音が鳴ってくるのか、と思っていた。
というより、この音を無意識に求めていたことに気づかされた。

Date: 9月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック

JUSTICE LEAGUE(その1)

サウンドトラックはあまり買わない、というか、ほとんど買わない。
これまでに買ったサウンドトラック盤は十枚に満たない。

映画はよく観ていると思うし、
いまよりもずっと観ていた時期もあった。

それでもサウンドトラックを買うことは、ほぼなかった。
その頃渋谷にはサウンドトラック専門のレコード店があった。
何度か行った。
それでも買うことは稀だった。

自分でも不思議に思う。
なぜ、買わないのか、と。

JUSTICE LEAGUE(ジャスティス・リーグ)は、2017年11月に公開された映画であり、
今回久しぶりに買ったサウンドトラックである。

映画「ジャスティス・リーグ」は、
前作「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」の数ヵ月後を描いている。

スーパーマンに少年たちがスマートフォンでインタヴューするシーンから始まる。
この直後に流れたのが、“EVERYBODY KNOWS”だった。
歌っているのはレナード・コーエンではなく、女性だった。
SIGRIDというノルウェー出身の歌手だ、ということを映画が終ってから知る。

エンディングでかかるのは、“COME TOGETHER”である。
こちらもビートルズではなく、歌っているのは、Gary Clark Jr. and Junkie XLである。

どちらも、いい。
もう一度聴きたい、と思った。
だから、ひさしぶりにJUSTICE LEAGUEのサウンドトラック盤を買ってしまった。

Date: 9月 10th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その10)

「アドロ・サバの女王」は、百万枚をこえたグラシェラ・スサーナのアルバム。
グラシェラ・スサーナの名前を知らない人でも、
私よりも上の世代の人ならば、どこかで耳にされているかと思う。

熊本のオーディオ店に定期的に来られていた瀬川先生も、
一度「アドロ・サバの女王」のLPを持ってこられた。

「サバの女王」の試聴のポイントについても話された。
グラシェラ・スサーナの歌が、どれだけ情感豊かに鳴ってくれるか、
左チャンネルで、チッチッとリズムをきざむ音がどれだけ明瞭に聴きとれるか、
かといって耳障りに聴こえてはダメだ、とか。そんなことを話された。

そういうふうに、既に聴いていただけに嬉しかったこと思い出す。

私にとってグラシェラ・スサーナの歌は、LPで聴いてきた音でもある。
これまで、さまざなCDプレーヤー、D/Aコンバーターで、グラシェラ・スサーナの歌を聴いている。
いいなぁ、と思うこともあったが、
アナログディスクで聴いていた質感を思い出させてくれるモノ(音)は、なかった。

私は、アナログディスクの音こそが最高だとは思っていない。
アナログディスクには特有の欠点があるし、
CDも同じである。
それぞれに良さもあれば悪さもある。

私がメリディアンのULTRA DACについて、ここまで書いているのは、
初めて、デジタルで聴くグラシェラ・スサーナの歌の質感が、
LPで熱心に聴いていたころの質感を思い出させてくれた。

まったく同じとはいわない。
けれど同質である、と感じていた。

何がそう感じさせるのかは、いまのところははっきりと掴めていないが、
とにかくグラシェラ・スサーナの歌声がよみがえった、といえる。

CDで聴いても、MQAディスクで聴いても、
ULTRA DACが再生する声は、実に見事だ。
歌が好きな人ならば、愛聴盤をもってULTRA DACを聴いてほしい、と思うほどだ。

Date: 9月 9th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その9)

ULTRA DACと組み合わせるトランスポートについて書き始めると、
それだけでけっこうな文量になるし、なかなか先に進めなくなるので、このへんにしておく。

書きたいのは、CDトランスポートでかかるということは、
MQAディスクそのものは、CDと同じ規格だということである。

今回のaudio wednesdayでは、
ハイレス・ミュージックの鈴木秀一郎さんが持ってきてくださったMQAディスクには、
すでに市販されているディスクだけでなく、9月19日発売のディスクもあった。
グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」も、そうである。

鈴木秀一郎さんがユニバーサルミュージックの担当の方に、
こういうことだから、と話をしてくださって、今回発売前のMQAディスクを聴くことができた。
感謝しかない。

しかもグラシェラ・スサーナだけでなく、同時発売の他のMQAディスク、
小椋佳、テレサ・テン、高中正義のディスクもあった。

これらのディスクは、プレスされたものではなく、CD-Rに焼かれたものだった。
このことも私には、ちょっとした驚きだった。

これに、DSDマスターを352.8kHz、24ビットのPCM信号に変換してのMQAディスクである。
それだけの情報量が、DVDやSACDではなく、CDそのものに収まっている。

9月19日に市販される邦楽30タイトルは、UHQCDでのプレスであるから、
今回聴いた音とはまったく同じとはいえないが、
それでもMQA方式のもつ良さは、感じとれた。

それにすでに市販されているMQAディスクは、当然ながらUHQCDだし、
それらのディスクのなかには、サンプラーも含まれていた。

このサンプラー(クラシックジャズポップス)も市販されている。
もちろん邦楽のサンプラーも発売される。

通常のCDとMQAディスクの二枚組にもかかわらず、価格は1,080円(税込)である。
こういうサンプラーを、この価格で発売したくなる気持は、MQA再生をいちど聴けば理解できる。
一人でも多くの人に聴いてもらいたい、という気持の表れのはすだ。

Date: 9月 9th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その8)

グラシェラ・スサーナのベスト盤は、他の曲も聴きたかったが、
時間は限られているし、MQAでの音も早く聴いてみたい気持は高まってくる。

ここでMQAディスクを聴くことにするわけだが、
だからといってなにかシステムの一部を変更する必要があったわけではない。
そのままMQAディスクを、メリディアンのCDプレーヤー508にセットし、PLAYボタンを押すだけである。

トランスポートに関しては、従来のモノでいい。
つまりSPDIF出力を持っていればいい。

SACDのように対応トランスポートが必要になるわけではない。
必要なのはMQA対応のD/Aコンバーターであり、今回はそれがULTRA DACである。

このことは文字情報で知ってはいた。
それでもほんとうにそれだけでいいのか、とも思っていた。
MQAディスクとMQA対応D/Aコンバーターがあれば、MQAの再生はできる──、
というのは、実際に体験してみるまでは、なかなか信じにくいかもしれない。

頭でわかっていても半信半疑のまま、508のトレイに、
グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」のMQAディスクをセットする。
再生すれば、ULTRA DACのディスプレイに、MQAと表示される。

確かに、拍子抜けするほどあっけなくMQAディスクの再生である。
MQAのメリットのひとつは、トランスポートの選択肢が増える、というか、
圧倒的に多い、ということが挙げられる。
SPDIF出力をもっているCDプレーヤー、CDトランスポートであればいい。

だからこそ508という、1990年代のCDプレーヤーであっても、すんなりMQAディスクがかかる。
508をトランスポートした音に、特に不満があったわけでない。
それでもオーディオマニアは欲深いところがある。
私もそうだ。

508で、これだけの音が鳴るのならば、
例えはスチューダーのA730だったら、どんな音がしてくるのか、と思ったし、
メトロノームのKalistaならば(高価すぎるトランスポートだけど)、
いったいどういう音が鳴ってくるのか、想像をこえた音がしてくるのかもしれない。

私がULTRA DACと、最も組み合わせたいトランスポートは、
47研究所の4704/04 “PiTracer”である。

Date: 9月 9th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その59)

ステレオサウンド 208号では柳沢功力氏の「オーディオファイル訪問記」が始まっている。
柳沢功力氏には、すでに「ぼくのオーディオ回想」という連載がある。
そこに今号からもう一本連載が加わるわけだ。

一人の筆者が二本の連載は、あまりなかった、と記憶している。
しかもどちらもカラーページである。異例といえる。

和田博巳氏。
「続・ニアフィールドリスニングの快楽」と、
音楽欄の「SS NEW MUSIC GUIDE & ESSAY for audiophiles」とで、
二本の連載といえば確かにそうなのだが、
「SS NEW MUSIC GUIDE & ESSAY for audiophiles」はご存知のように五人の筆者による連載でもある。

ステレオサウンドの読み手は、ステレオサウンドが面白ければそれでいい──、
そのことはわかっているけれど、どうしても勘ぐりたくなる、というか、
勘ぐらせようと編集部がしているのか、(その58で書いたことを含めて)何も隠そうしていないのか、
何かの伏線のように感じてしまう。

もしかすると次号(209号)の「オーディオファイル訪問記」に登場するのは、
avcat氏なのではないか、と思ってしまう。
avcat氏はYGアコースティクスのスピーカーを鳴らされているはずだ。

だからこそ一回目の「オーディオファイル訪問記」には、
柳沢功力氏にとって対照的なスピーカーの鳴らし手の訪問だったのか。
そんな見方もできなくはない。

そうだとしたら、209号は期待できる。
209号は冬号だから、毎年恒例の企画で、私にとっては一年四冊のなかで、
もっともつまらなく感じる号だけれども、avcat氏が「オーディオファイル訪問記」に登場するのであれば、
全体のページ数からすればわずかであっても、ぴりっとさせる存在になる可能性もある。

209号の「オーディオファイル訪問記」、どんな人が登場するのか。

Date: 9月 8th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その7)

中学生のころは、あれだけ鮮明に、その歌が示すところの情景が、
グラシェラ・スサーナの日本語の歌を聴けば浮んできていたのに、
いつしかぼやけてきていた。

あのころはラジカセの貧弱な音であり、
ステレオサウンドで働くようになってから鳴らすようになった音とは比較しようのない音でも、
情景は鮮明だった。

あのころから四十年ちょっと経っている。
浮ばなくなったのも老化なのか、と思いはじめてもいた。

十代のころと、五十代では同じに聴けるはずがない──、
といってしまえば、少しは楽になるのかもしれないが、
そんなふうには思いたくないという気持も残っている。

あのころはカセットテープにLPだった。
アナログ録音されたものを、アナログのパッケージメディアで聴いていた。
いまはデジタル(CD)である。

その違いもあるのか。
実際に聴いて確かめればいいのに、やってこなかった。
LPで聴いて、情景が何も浮んでこなかったら……、
そういう怖れがなかった、とはいえないからだ。

音を聴きすぎているのかもしれない、とも思う。
音を聴く術を、ステレオサウンドにいたころに学び鍛えられた。
それはいいことでもあるが、そうでないことでもある。

メリディアンのULTRA DACでグラシェラ・スサーナの日本語の歌を聴いた。
アップサンプリングのフィルターを変えることによる音の変化が、
ふたつの「情景」を浮ばせたことは(その6)に書いたとおり。

浮ぶ、そうおもえて安堵した。

Date: 9月 8th, 2018
Cate: 「ネットワーク」

ネットワークの試み(その15)

毎月第一水曜日に四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記で行っているaudio wednesdayでは、
ネットワークは、私が作った直列型6dBスロープである。
この日以外は、コイズミ無線製の12dBスロープ(並列型)で鳴っている。

ここ数回、この自作ネットワークで鳴らしてきて、いい感じだと思っている。
それでも、9月のaudio wednesdayは、まったく不安がないわけでもなかった。

メリディアンのULTRA DACを持ってきたら、どうなるのか。
たぶん、自作ネットワークがいいとは思っていても、
音ばかりは実際に聴いてみないことにはわからないところがある。

ULTRA DACを組み込んだシステムは、一点豪華主義となる。
ULTRA DACの価格と、喫茶茶会記のシステムのトータル価格は、前者の方が高い。

いわゆる情報量において、ULTRA DACは優れている。
メリディアンはDSP内蔵のアクティヴ型スピーカーシステムの開発にも積極的である。

そこにホーン型、直列型ネットワークといった組合せのスピーカーである。
予測できないことが起きても不思議ではない。

こればかりは、最初の音が鳴ってくるまで、内心ドキドキしている。
結果は別項「メリディアン ULTRA DACを聴いた」で書いている。
(その13)で書いているように、一部を銀線にしていることもよかったのかもしれない。
少なくとも、入力機器を最新のモノとしても、直列型ネットワークの良さは活きている。

むしろULTRA DACの前に、直列型にしておいてよかった、とさえ思いはじめている。

Date: 9月 8th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その58)

ステレオサウンド 208号は、まだ読んでいない。
書店で手にとって、サッと眺めただけだ。

表紙は、オーディオリサーチの新製品、Reference 160Mである。
208号から始まった「オーディオファイル訪問記」に登場する酒井敏行氏のスピーカー、
特集記事のあとだったか、アナログディスクのテストレコードの広告がある。
読んだ人のなかには、記事だと勘違いしている人もいるようだが、
ノンブルの位置にPRとあるから、広告である。

これらに共通していることに気づいている人は、どれだけいるだろうか。
すべて同じ輸入元である(あえてどこかは書かない)。

Date: 9月 8th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その6)

グラシェラ・スサーナは、中学二年のころから聴いている。
グラシェラ・スサーナの日本語の歌を聴いてきたのは、
そのころの私にとって、情景が浮んでくる、唯一人の歌い手だったからである。

日本語の歌なら、日本人の歌い手ではないか、という意見がある。
グラシェラ・スサーナの日本語は完璧といえないところがあるのはわかっている。

うまい日本人の歌い手がいるのはわかっている。
それでも、中学二年のころまで、その歌を聴いて情景が浮ぶということはまったくなかった。
グラシェラ・スサーナの日本語の歌を聴いて、初めて、その歌で歌われている情景が浮んだ。

だから夢中になって聴いてきた。
なにも立派なシステムで聴いていたわけではない。
ラジカセで聴いていた。

メリディアンのULTRA DACでのグラシェラ・スサーナの情景は、
ふたつの意味をもつ。

shortでの音は、まさに録音している、その場の情景が浮ぶ。
ULTRA DACのフィルターをmedium、longにすると、
録音の場に居合わせたかのような雰囲気は薄れるが、
今度は、中学のころに浮んだ情景があらわれる。

他の人がどうなのかはわからない。
少なくとも私には、ULTRA DACのフィルターの違いは、
グラシェラ・スサーナの歌においては、そう聴こえた。

medium、longにすると、グラシェラ・スサーナが歌っている歌が表現している情景が浮ぶ。
これも私がグラシェラ・スサーナの歌に求めている、大事なところであるし、
大切にしているところである。

その意味で、私にとってULTRA DACは、「情景」を表現してくれるD/Aコンバーターである。

Date: 9月 8th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その5)

グラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」の前に聴いた松田聖子の「ボン・ボヤージュ」でも、
松田聖子の歌を録るためのマイクロフォンのクォリティが、
それまで喫茶茶会記で聴いてきたCDプレーヤー(ラックス、パイオニア、マッキントッシュ)よりも、
一段上であるように感じていた。

もっといえばクォリティの高いコンデンサー型マイクロフォンのようにも思えた。
実際のところ、どのマイクロフォンなのかは知らないが、
少なくともそれまでの再生では、そんなふうに感じたことは一度もなかった。

このときもULTRA DACのフィルターはshortである。
グラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」の音は、
録音の現場に居合わせたかのような鳴り方だった。

モニタースピーカーというモノがあるが、
メリディアンのULTRA DACはモニターD/Aコンバーターといえる性能を持っている、ともいえる。

けれど、一般的なモニタースピーカーに対する印象で鳴ってくるわけではない。
即物的な鳴り方、アラ探し的な鳴り方ではない。

「仕方ないわ」で、フィルターをmediumにしてみる。
この音も魅力的ではあったが、私にはshortの印象のほうが強かっただけに、
mediumの音を聴きながらも、shortの音の印象を思い出してもいた。

longでも、さらに音は変る。

short、medium、long、
三つのフィルターのどれがいいか、といえば、
グラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」に関するかぎり、私はshortだと言い切る。

けれど一緒に聴いていた人は、mediumの音も捨て難い、とのこと。
それもわかる。

ここでのフィルターによる音の違いは、絶対的ではない。
かけるディスクが変れば、評価は違ってくる。

shortがもっともよかったのは、グラシェラ・スサーナの「仕方ないわ」においてである。
ただし、それも別の聴き方、別の面を求めれば、また変ってくる。