Archive for 7月, 2018

Date: 7月 28th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(その11)

負荷側のインピーダンスが高域においてどんどん上昇していく。
信号源(アンプ)の出力インピーダンスよりもはるかに高い値になれば、
ロー送りハイ受けで、特に問題はないように考えがちだが、
負荷側の高域でのそうとうなインピーダンスの上昇は、
アンプ側からみれば、のれんに腕押し状態なのかもしれない。

可聴帯域ではしっかりと手応えがあるのに、
高域、それも可聴帯域をはるかに超えたところではまったく手応えがないのれんに腕押し、
つまり無負荷に近い状態になる──。

実際にスピーカーを最低でもMHZの領域まで測定してみないと、正確なところはいえない。
それでも可聴帯域よりも上、それもそうとうに上の帯域では、
可聴帯域とはずいぶん様相が違っているのは当然だろう。

それに対してアンプは、どう動作しているのか。
周波数特性的にはそこまでのびていない、というか、保証されていない
数kHzぐらいまでの周波数特性は測定されている。

MHzも、そうとうに上の周波数となると、いったいどういう挙動を見せるのか。
そんな上の方まで信号に含まれていない──、
確かにそうだが、ノイズはそうではない。

スピーカーユニットの端子に、できるかぎり最短距離でCRの直列回路を取り付ける。
特にコンデンサー側のリード線は短くしたい。

ここを安直に、スピーカーユニットではなく、
スピーカーシステムの端子に取り付けても意味はない。

CR直列回路によって超高域においてのインピーダンスは補正されているはず。
超高域においての無負荷状態は防いでいるはずだ。

ステレオ・ギャラリーQの出力トランスの16Ω端子に取り付けられているのは、
20Ωと0.05μFの直列回路である。

真空管アンプの出力トランスの二次側の直流抵抗は、20Ω程度ではなく、一桁低い。
だからCR方法の算出では、抵抗は数Ωであり、コンデンサーは数pFとなる。

ここまで低くすると、聴感上わからなくなるのでは? と思われるかもしれないが、
おそらく音の違いははっきりとあらわれると予想している。

Date: 7月 28th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その7)

ステレオサウンド 207号の試聴記を見て(読んで、ではなく)、
twitter的といったのは、つまみ食いならぬつまみ読みができるからでもある。

このスピーカーの試聴記のを頭から終りまで通して読むのではなく、
オーディオ評論家の○○さんの、この機種の、このディスクのところだけ、
といった読み方ができるからである。

このことに関連して思い出すのは、
私がステレオサウンドにいたころ、原田勲氏がいわれたことである。

雑誌は幕の内弁当でなければならない、とはっきりといわれたことがある。
私がいたころだから、もう30年も前のことであり、
いまではどう雑誌を捉えているのかは、なんともいえなかったけれど、
207号の試聴記を見るにつれ、いまもまだその考えは変っていない、と確信した。

幕の内弁当は、たとえばとんかつ弁当とは大きく違う。
とんかつ弁当(焼き魚弁当でもいいけれど、別項でとんかつを書いているので)は、
メインとなるおかずは、文字通りとんかつだけである。

とんかつ以外にはキャベツの千切りとちょっとしたサラダ、つけものぐらいか。
どんなに美味しいとんかつであっても、その日、とんかつを食べたくない人、
肉が嫌いな人にとっては、他に食べるものがなくなるのが、とんかつ弁当である。

どんな人であっても、まんべんなくおかずが食べられるのが幕の内弁当であって、
そういうつくりの雑誌にすれば、特集の企画によって売行きが変動することを抑えられるからである。

その幕の内弁当思想が、特集の試聴記にまで及んでいる。
さしずめtwitter的試聴記は、弁当でいえば、
一口サイズにおかずもご飯も区切られているマス目弁当である。

幕の内弁当は、さらに進歩した、といえる。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(その10)

その1)で書いているように、
CR方法は電源トランスに対して行われていたものだ。
それを私が「五味オーディオ教室」でのテレフンケンのS8のスピーカーでの記述。
そこに《配線図にはない豆粒ほどのチョークやコンデンサー》が、とあった。

このふたつのことを当時中学生だった私は、勝手に結びつけたわけだ。
だから本来は電源トランスであり、それを私はスピーカーユニットにも有効のはずだと考えた。
実際に有効である。

ならば次に考えるのは信号系のトランスである。
入力トランス、段間トランス、出力トランスなどがある。
いずれ試してみようと考えていたところに、Oさんから興味深い記事のコピーが届いた。

ラジオ技術(1968年10月号)掲載の300Bシングルアンプの製作記事である。
筆者は葉山滋氏(ラックスの上原晋氏のペンネーム)で、
記事を見ればわかるように当時話題になっていたステレオ・ギャラリーQのアンプそのものである。

一見すると見逃しやすいが、このアンプの出力トランスの16Ω端子には、
20Ωと0.05μFの直列回路が並列に接続されている。

これについて上原晋氏は、《段間に使われる積分形補正素子とは少し違う狙い》とされている。
スピーカーを接続しない状態でも、
超高域で出力トランスが無負荷になることを防止するもの、とのこと。

高域でインピーダンスの上昇するスピーカーは多く、
これらが接続された場合の20kHz以上の帯域で常に負荷がかかるようにするためである。

参考例としてラックスの出力トランスの、16Ω負荷時と開放時の周波数特性が載っている。
二次側が開放になっていると、20kHz以上で大きな差となる。
周波数特性のグラフは500kHzまで測定されているが、
500kHzでは15dBほどの違いであり、開放になっていると高域は確かにあばれている。

こういう現象が起るのは、
出力トランスの分割巻きれた各セクションの持つリーケージインダクタンス、
線間容量、対アース容量、各セクション間の結合容量の影響が、
適正な負荷がかかっていればバランスが保たれるのが、
無負荷ではバランスが崩れるために生じてしまう、とある。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その18)

その10)で引用した
青山ホールの《響きをとったわけじゃない》という菅野先生の発言。

ホールの響きをとらないのに、スタジオではなくホールなのか。
ステレオサウンド 49号で、そのことについて語られている。
     *
菅野 ただね、エコーがなくても、空間感というのは、必要なんですよ。よくジャズだから、エコーいらないのだから、そんな広いホールでやる必要ないという人がいますが、実はそうではないのてす。やはり、ホールの持っている容積は、そこで出る音を決定的に左右するわけなんです。必ずしもエコーだけのためでなく、ある空間の中でのびのびした音というようなことから使うわけです。
保柳 のびのびというのかな。
菅野 要するに、音の抜けがよくなる。そんな意味からも使う。デッドであっても、容積の大きなホールは、音が抜けるということもあるし、逆に小さなところであれば、抜けが悪く飽和して、モヤモヤになってしまう。まあ、音楽の性格を考えたとき、必ずしもエコーを必要としなくても、ある容積を持ったホールを使うことになります。
保柳 よくいうんですけれど、アコースティック楽器というのは、ある空間を初めから、計算に入れて作られていますね。
菅野 そうそう、だから大きすぎるのも困る。
保柳 ヴァイオリン一つにしても、スタジオでとると、これはという音がなかなかとれない。確かにある水準はとれる、いいスタジオであれば。しかし、どこか違う。抜けというか、ほんとうのヴァイオリンの音になってこない。その同じヴァイオリンがホールへ持っていくと不思議とヴァイオリンの音になってくるんですね。
     *
ここでのエコーは、その前の発言で、
保柳健氏がいわゆるエコーをつけることを語られているため、
電気的なエコーと録音空間の残響とが一緒くたになっているようだ。

空間の大きさと空気の硬さとの関係は、何も録音の現場だけでの話ではなく、
再生の場、つまり家庭での空間についても、ひとしく同じことがあてはまる。

昔から、小さな空間は空気が硬い、といわれていた。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: ディスク/ブック

CHARLES MUNCH/THE COMPLETE RECORDINGS ON WANER CLASSICS(その1)

五味先生が、「ラヴェル《ダフニスとクローエ》第二組曲」で、
シャルル・ミュンシュについて書かれていたのを読んだは、もうずっと昔のこと。
     *
 この七月、ヨーロッパへ小旅行したおり、パリのサントノレ通りからホテルへの帰路——マドレーヌ寺院の前あたりだったと思う——で、品のいいレコード店のショーウインドにミュンシュのパリ管弦楽団を指揮した《ダフニスとクローエ》第二組曲を見つけた。
 いうまでもなくシャルル・ミュンシュは六十三年ごろまでボストン交響楽団の常任指揮者で、ボストンを振った《ダフニスとクローエ》ならモノーラル時代に聴いている。しかしボストン・シンフォニーでこちらの期待するラヴェルが鳴るとは思えなかったし、案のじょう、味気のないものだったから聴いてすぐこのレコードは追放した。
 ミュンシュは、ボストンへ行く前にパリ・コンセルヴァトワールの常任指揮者だったのは大方の愛好家なら知っていることで、古くはコルトーのピアノでラヴェルの《左手のための協奏曲》をコンセルヴァトワールを振って入れている。だが私の知るかぎり、パリ・コンセルヴァトワールを振ってのラヴェルは《ボレロ》のほかになかった。もちろんモノーラル時代の話である。
 それが、パテ(フランスEMI)盤でステレオ。おまけに《逝ける王女のためのパバーヌ》もA面に入っている。いいものを見つけたと、当方フランス語は話せないが購めに店に入った。そうして他のレコードを見て、感心した。
(中略)
 シャルル・ミュンシュの《ダフニスとクローエ》そのものは、パリのオケだけにやはりボストンには望めぬ香気と、滋味を感じとれた。いいレコードである。
 他に《スペイン狂詩曲》と《ボレロ》が入っている(レコード番号=二C〇六九=一〇二三九)。もちろんモノを人工的にステレオにしたものゆえ優秀録音とは今では申せない。だが拙宅で聴いたかぎり、十分鑑賞に耐えるものだったし、アンセルメやピエール・モントゥとはまた違った味わいがあった。クリュイタンス盤より、そして私には好ましかったことを付記しておく。
     *
これを読んだ時から、ミュンシュのこのレコードを買おう、と決めていた。
けれど、当時なかったように記憶している。
私の探し方が足りなかったのか、廃盤になっていたのか、
そのへんはさだかではないが、聴くことはできなかった。

かといってミュンシュ/ボストン交響楽団のレコードを買う気にはなれなかった。

ミュンシュ/パリ管弦楽団のレコードは、ラヴェル以外にも優れた演奏が残されていることも、
すこし経ったころに知る。
ブラームスの交響曲第一番であったり、ベルリオーズの幻想交響曲などである。

結局、これらのミュンシュ/パリ管弦楽団の演奏を聴いたのはCDになってからだった。

9月にワーナー・クラシックスから、
CHARLES MUNCH/THE COMPLETE RECORDINGS ON WANER CLASSICSが出る。
EMIとエラートに残された録音が、13枚組のCDボックスで出る。

パリ管弦楽団だけでなく、
ラムルー管弦楽団、フランス国立管弦楽団、パリ音楽院管弦楽団との演奏も含まれている。
コルトーとの《左手のための協奏曲》も、もちろんだ。

この手のボックスものの例にもれず、この13枚組も安価だ。
五味先生が書かれているような、旅先で偶然、こういうレコード店に出会して、
存在を知らなかった、いいレコードに巡り合うという楽しみは、CDボックスにはない。

けれど、ありがたいことではある。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(ふたつのEL34プッシュプル・その3)

ダイナコとマランツの真空管アンプでは、
Mark IVとModel 5の対比も好き、というコメントがfacebookにあった。

Mark IVとModel 5の対比もありだな、と思っていたが、
実はMark IVは実機を見たことがない。
Model 5に関しても、みたことはあるけれど音は聴いたことはない。

とはいえ回路図、外観、内部を含めてインターネット上にはけっこうな数あるから、
特に音について書くわけではないから、
Mark IVとModel 5の対比でもなんら問題ないけれど、
Stereo 70とModel 8Bのほうが、私には身近な存在だけに、選んでいる。

ついでに書いておくと、ダイナコにはMark VIというモノーラルアンプもある。
ステレオサウンド 42号(1977年)の新製品紹介で登場している。

出力管に8417を四本使ったパラレルプッシュプルで、出力は120W。
ダイナコの真空管アンプとして初めての19インチラックサイズのフロントパネルをもち、
バイアスチェックをかねたパワーメーター、ラックハンドルがついている。

マランツのModel 9のプロ用機器版9Rを強く意識したような造りのアンプである。
Model 9は1960年に登場しているから、約20年経っての新製品Mark VIである。

ダイナコは真空管アンプにおいては、マランツの真空管アンプを、
どこか意識していたように感じる。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 純度

純度と熟度(と未熟)

未熟なものを新鮮と感じるほど、バカではない。
オーディオマニアとして熟度が足りない人を、
オーディオマニアとして純度が高い人と勘違いしたりもしない。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その6)

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その47)』へのfacebookでのコメント。

ひとりの方は、
オーディオ機器選びもSNSの「いいね!」の数を見て選ぶような時代であって、
ステレオサウンドの試聴記のように長いものを読んで、
自分に合ったモノを選ぶという手間のかかることは、
今の若い人たちはやらなくなっている、と。

別の方は、オーディオ機器は、良いモノを長く使いたいと考える人が多いから、
SNSのその場限りに対して、オーディオ雑誌は内容に責任を負っているから、
現在で存在価値を認める、と。

ひとり目の方は、オーディオ雑誌に存在価値を認めているいないではなく、
若い人のモノ選びについて書かれている。
ふたり目の方は、自身のオーディオ機器選びについて書かれている。

若い人のすべてがSNSの「いいね!」の数を見て選ぶわけではないだろうが、
その傾向はあるような気はする。
それに長い文章はSNSでは避けられがちである。

SNSで見かけがちなのが「長くてすみません」ということわり、である。
私の感覚では、特に長くない、と感じるのだが、SNSではそうではないようだ。
長い文章はことわらなければならないのか。

ステレオサウンド 207号の試聴記も、文字数だけでいえば、
SNSでは「長くてすみません」とことわらなければならない。

そういう視点から207号の試聴記をみると、
鉤括弧でディスク名をあげ、その後に続く文章をひとつとして捉えれば、
100文字程度の短文のいくつかが合体しただけ、とも読める。

twitter的でもある。
ディスクごとの印象は、ツイートそのものではないか。

ステレオサウンドの試聴記においても、
さほど長くない試聴記を読ませるための工夫がなされている──、
そんなふうに受けとることもできる。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(ふたつのEL34プッシュプル・その2)

その1)で、EL34のプッシュプルアンプとして、
マランツのアンプを真っ先に思い出す人は多い、とした。

マランツのアンプは、どれもEL34のプッシュプルだ(Model 9はパラレルプッシュプル)。
Model 2、5、8(B)、9。
ここで取り上げるのは唯一のステレオモデルであるModel 8(B)。

出力35W+35W。
アメリカには、もう一機種、出力35W+35WのEL34のプッシュプルのステレオアンプがある。
ダイナコのStereo 70である。

外形寸法はModel 8がW34.3×H18.4×D26.7cm、Stereo 70がW33.0×H16.5×D24.0cm、
そう大きくは違わない。

全体のレイアウトもシャーシー後方に三つのトランス、前方に真空管。
その真空管のレイアウトも、電圧増幅管を左右に二本ずつ配置した出力管で取り囲む。

とはいえ、細部を比較していくと、Model 8とStereo 70はずいぶん違うアンプだ。
まずStereo 70はキットでも販売していた。

Model 8もマランツのラインナップでは普及クラスとはいえなくもないが、
市場全体からみれば、そうではないのに対し、Stereo 70はダイナコの製品である以上、
はっきりと普及クラスのEL34のプッシュプルアンプである。

キットも出ていたStereo 70は、高価な測定器を必要としなくても、
ハンダ付けがきちんとなされていて、テスターが一台あれば完成できなければならない。
ちなみに1977年当時の完成品のStereo 70は89,000円、
キットのStereo 70は69,000円だった。

Model 8Bにもキットはあった。
1978年にModel 7とModel 9のキットが、日本マランツから出て好評だったため、
翌年にModel 8BKが出ている。

同じキットとはいえ、ダイナコとマランツとでは、意味あいが違う。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(ゲーテ格言集より)

《才能は静けさの中で作られ、性格は世の激流の中で作られる。》

ゲーテ格言集(新潮文庫)に、そう書いてある。
別項をほぼ毎日書いていて、このことを実感しているのは、
書くことによって、私のなかにバイアスが形成されているからなのか、
それともゲーテの言葉が真実だからなのか、
どちらにしても才能も性格も、そうやって作られるのだろう。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: High Fidelity

原音に……(その3)

ミロのヴィーナスは大理石に彫られている。
失われている腕も大理石である。

木でも金属でも、その他の材質ではないことは、はっきりしている。

「原音を目指す」と「原音に還る」。
そのことを(その1)で少しだけ書いた。

うまく考えはまとまっていないところもあが、
ミロのヴィーナスの腕が大理石であることと、
「原音を目指す」のではなく「原音に還る」ことが、私にとってのハイ・フィデリティであることは、
無関係ではない、とはっきりといえる。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(ステレオサウンド 208号でできること・その2)

沈黙を続けていれば、自然と方が付くのだろうか。
人の噂も七十五日という。
二ヵ月半だから、6月の207号のことだから、
三ヵ月後の208号のころには忘れ去られているのか。

二年前に「オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その4)」を書いた。
あるオーディオ関係者の沈黙が生んだ結果に触れた。

そのオーディオ関係者は、沈黙を後悔されていた。
そのオーディオ関係者と染谷一編集長は、仕事上でもよく会っている人のはず。

私が聞いている話なのだから、染谷一編集長も、その話を本人から聞いている可能性はある。
ずっと以前なら、日本では沈黙はひとつの対処の仕方といえただろうが、
いまの時代、どうだろうか。

少なくとも染谷一氏は、ステレオサウンドの編集長である。
一編集者ではないのだ。

謝罪、釈明はしたくないのかもしれない。
ならば(その1)に書いたように、積極的に今回の謝罪の件を利用すればいい。

仮に私が編集長で、こんな不用意な謝罪をしてしまったら、
鼎談、往復書簡を含めて、第二特集として記事とする。
16ページくらいはつくれる。

今回の件は、染谷一氏ひとりの問題ではないし、いろいろなことに関係してくる。
だからこそ、他のオーディオ評論家も無関係ではないどころか、
今回の件に沈黙しているオーディオ評論家は、
私からみればオーディオ評論家(商売屋)と自ら認めたようなものだ。

今回の件に関して、きちんと意見を述べたいオーディオ評論家はいるはずだ。
けれど、沈黙していては同じ穴の狢でしかない。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(ステレオサウンド 208号でできること・その1)

ステレオサウンド 207号の柳沢功力氏の試聴記に端を発する今回の、
ステレオサウンド編集長の染谷一氏の読者であるavcat氏への、不要で不用意な謝罪。

このことにどう対処するのか。
沈黙を貫くようにも思えるが、
ひとつの手として、9月発売の208号で、
「オーディオ評論、編集のあり方を問う」といった記事をつくるという手もある。

柳沢功力氏、avcat氏、染谷一氏で鼎談をやる。
本音での鼎談をやってもらいたい。

それぞれの立場があっての鼎談には、司会が必要となるかもしれない。
司会がいたほうが、より面白くなる可能性はある。
でも、誰が、この鼎談の司会をやるだろうか。

染谷一氏以外の編集部の誰かなのか、
やはり、ここは原田勲氏に登場願うのか。

ステレオサウンドの書き手のなかからの誰かなのか。
となるとオーディオ評論家のなかからよりも、高橋健太郎氏の司会がいいように思ったりする。

おそらく、こんな鼎談は208号には載らないだろう。
ならば柳沢功力氏とavcat氏の往復書簡というかたちでやってほしい。
それを読んでの染谷一氏のおもいも、ぜひ載せてほしい。

起きてしまった(起してしまった)ことに沈黙だけが対処の仕方ではない。
ためらわず積極的に利用することで、
誌面がおもしろくなり、今後に結びついてくることを選択した方がいいのではないか。

Date: 7月 26th, 2018
Cate: オーディオマニア

All Day I Dream About Sound

昨晩、近所を歩いていてすれ違った人のTシャツに、
All
Day
I
Dream
About
Sport
とあった。

adidasのTシャツだった。
adidasの社名の由来は違うのだから、
後付けで、別の意味をもたせたのだろうが、
オーディオマニアも、adidasだな、と思っていた。

All Day I Dream About Soundだから。

Date: 7月 26th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その5)

1966年に創刊されたステレオサウンドが、他とは違っていた点はいくつもあるが、
そのうちで見落されがちな点がひとつある。

それは筆者名を、他の雑誌よりも大きくし、
顔写真も大きく載せるようにしたことである。

それぞれの書き手を読み手に強くアピールすることで認知度を高めるだけではない。
もうひとつ、別の意図の方が大きかった。

それは書き手の責任をはっきりとさせるためである。
このことを私は原田勲氏の口から直接聞いているだけでなく、
その十年後くらいに、間接的にも聞いている。

私が聞いたことと同じことを、あるオーディオ関係者にも話されていて、
その人から聞いているので、そういう意図があったのは確実だろう。

とはいえ、私が聞いたことをそのままここで書くのは控えておこう。
ビジネスとして割り切っている面があったのだ、とだけ書いておく。

オーディオマニア、編集長という面だけでは、
ステレオサウンドは成功しなかったのかもしれない。
原田勲氏の、そういう面があったからこそ、ここまで続いているのだと思う。

そう思って207号を見ると、特集の書き手である
柳沢功力、小野寺弘滋、傅信幸、三浦孝仁、和田博巳、山本浩司の六氏の写真は、
みな斜め後からだけで、はっきりと顔が見えているわけではないことに気づく。

これが意図的なのか、たまたまそうなっただけなのか。
旧来のオーディオ評論(私が読んできたオーディオ評論でもあるし、読みたいオーディオ評論でもある)、
もうそこから試聴記の書き方を含めて、変化している。

それを望ましいと思う人とそう思わない人、
いつの時代でもそうであるように、両者がいる。